修学院離宮に遊ぶ【壱】 | やまちゃん1のブログ

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緊急事態宣言前夜の昨今、いにしえの燦爛文化に思いを馳せるのも一興。


往来自粛前に訪ねた、修学院離宮は現在も参観見合せが続いているようです。

修学院山荘(離宮)がほぼ完成した寛文年間(1661〜73)には、現在と同じように、町人を含めた団体の見学が行われていたそうです。
(面白い事に当時も現在の許可書と同じように「見物之割符」なるものが発行されています)

公家・町人社会が未だ隔絶していなかった寛永文化の名残りのようです。

このように公家・町人そして武家が融通無碍に交流して、京都に花開いた寛永文化は、その後の日本文化に決定的な影響を与えました。


寛永文化を象徴する、小堀遠州や本阿弥光悦の業績を観ながらたどってみます。

長年、本阿弥光悦や俵屋宗達が安土桃山文化に括られきたことに違和感を持ってきましたので、整理する意味でも一度整理したかったのです。


まずは、修学院山荘(離宮)

修学院山荘は、比叡山の麓、東山連峰の上・中・下の御茶屋を持つ広大な山荘です。
作庭、造作は小堀遠州好みといわれますが、
「御亭をはじめ、御庭の一草一木至るまで、尽く御水尾院の御製なり」と後水尾院のプロデュース、デレクションであったといわれています。




山荘の白眉は上の御茶屋。

谷川をせき止めた人工の浴龍池を中心とした庭園です。
後水尾院は、客人と池に舟を浮かべ、茶室へ向かい茶を喫し、そののち酒宴をおこなっていたらしいです。

上層町衆、武家の茶道と公家の舟遊びが融合していますね。


浴龍池に流れる谷川


浴龍池




浴龍池

浴龍池から望む田畑


これも修学院山荘です

上・中・下の山荘は松並木で繋がっています




御亭、御茶室



中離宮 霞棚 天下の三棚



中離宮 客殿 杉戸 祇園祭



中離宮 客殿 鯉




上離宮 窮邃亭



寛永文化が集積された修学院山荘は、後水尾院を中心とした、公家、上層町衆、武家の寛永サロンが産み出したものとも言える。


後水尾院   尾形光琳


【弐】につづく