【洗礼者ヨハネの斬首からファム・ファタル=サロメに隠された欲望】
隠された㊙️欲望か🤔💦
ビザンチン、ゴシック期から現代に至るまで『サロメ』の変容を見てきたが、サロメの物語は19世紀末のキワモノではなく、ゴシック期から、極めて重要なモチーフだった。サロメとサロメを描いた画家の関連する絵画を見て、隠された欲望を検証する。
ゴシック期の「洗礼者ヨハネの斬首」は、残酷で、恐怖と嘔吐感をもたらす供犠としての宗教的プロパガンダ(ローマカトリックの布教)であろう。



初期ネーデルランド絵画、ルーカス・クラーナハの「サロメ」1530年代は、「女のちから」「女のたくらみ」に対する、警告と誘惑が隠されている。江戸時代の狂歌『世の中に酒と女は敵なりどうぞ敵に巡り合いたい』の世界がある。


バロック期のカラヴァッジョの「ダヴィデとゴリアテ」1609―10
ダヴィデに切られたゴリアテの首はカラヴァッジョの自画像、ダヴィデはカラヴァッジョの若い愛人又は若かりし自画像である。
この絵から、愛する者に首を切られる(去勢恐怖)隠された陶酔(ナルシシズムとマゾヒズム)を表している。カラヴァッジョの自己処罰、自己破壊願望が表れている。
●ギュスターヴ・モロー

19世紀末、ギュスターヴ・モローの「出現」1867 は、マラルメの詩「エロディアード(ヘロディア)―舞台」に倣ったか、サロメ=ヘロディア(サロメは無垢な処女として語られているが、母親のヘロディア的なものを無自覚に持っている)と考え、サロメ=ファム・ファタルとして描いた。
官能的な白い裸身をくねらせながらの踊るサロメ。洗礼者ヨハネがそうであったように、「女という不気味なるもの」を前にして、恐怖と誘惑を感じ、最後には「知のファロス=首」が彼女の手で切断されてしまう瞬間、自分に訪れるはずの激甚な快楽を密かに期待している。それは、意識の上では決して認め難い、無意識の奥底にあるマゾヒスティックな期待であり、不能者と化してしまいたいという期待でもある。そこに、フロイトの精神分析をみることは容易である。



オスカー・ワイルドの『サロメ』では、サロメは義父のヘロデ王をはじめあらゆる男たちから欲望のまなざしを向けられる。しかしサロメが憧れるのは聖人ヨカナーン(ヨハネ)だけだ。サロメはあどけなくヨカナーンに話しかけるが、キスしたいという性的な欲望が現れると、ヨカナーンは厳しくサロメをなじり拒絶する。サロメは、ヘロデ王にヨカナーンの首を要求し、生首に口づけする。
ここでは、ギリシャ神話のオルフェウスが言い寄るバッカスの巫女を無視して怒りを買い首を切られ、八つ裂きにされ、川に捨てられる、というモチーフも影響しているだろ。

三島由紀夫はオスカー・ワイルドの『サロメ』を演出しているが、その死に様を見ると極めて象徴的である。
三島由紀夫の弟子で女優の村松英子は自叙伝『三島由紀夫追想のうた』2007 を書いた。
彼女は「ニュース番組BSフジ プライムニュース 〈シリーズ"昭和90年"の肖像① 三島由紀夫のペンと剣〉(平成27年5月4日 )に出演し、下述のように語っている。

『村松: 薔薇と海賊は三島の心の青春のドラマ。サロメは官能のドラマ。その2本の間に三島の自決があった。これは三島の演出だ。「私は決して夢なんぞ見たことはありません」(薔薇と海賊)と言って幕を下ろした2日後に自決をした。明くる年がサロメだ。ヨカナーンの首が出てくる。三島の完璧な演出だ。』と語った。
「薔薇と海賊」三島由紀夫/劇団浪曼劇場 1970.11.23最終公演
《三島由紀夫自決》1970.11.25
「サロメ」オスカー・ワイルド/劇団浪曼劇場1971.2.15
三島由紀夫は生前に自分の死後に
上演する作品も決めていた
サロメをめぐる長い道のりでした
😮💨💨🤔💦
お付き合いいただき
ありがとうございます🙇
ブログサークルの『古今東西のアートのお話をしよう』の掲示板に、より詳しいサロメの変容1・2を掲載しています。ぜひご参加いただき読んでくださいね👍🙂
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