ADV君と行くダークツーリズム:八王子市・鑓水(道了堂編) | ゑびすたろうのブログ

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さてと本日は、時間が経っちゃいましたが2023年7月30日(日曜日)に実施した『ADV君と行くダークツーリズム:八王子市鑓水』の第一訪問場所である『道了堂跡』へ行ったお話。

まぁ、本当は書くのやめようと思っていたのですが、今年の4月から週末は忙しくて時間がない事はADV君も知っているはずなのですが、GW明け辺りに行けなかった八王子市鑓水地区の他の場所に行きましょうという話に押され、仕方なく行くことになった事もあり、前述したように書くことを予定していなかったこのブログを書く羽目になる事になるとは・・・


残念なくらい美味しくないラーメンをお見舞いされた私ではありますが、まぁ何故かADV君と行く中華料理屋はパッとしない店舗が多いのも事実で、さすがダークツーリズム当該地区というのが本当のところ・・・

ちょいと長時間放置していて二人のスクーターのシートはかなり加熱されており、かなりの低温やけどの危険性があったのですが、そこは気合いで何とかするのが一流ライダーの資質 (๑˃̵ᴗ˂̵)


てな感じでクソ暑いシートと格闘しつつ残念だった中華料理屋から10分弱で到着したのが、今回の八王子市鑓水で戦後有名になった殺人事件の現場そばにバイクで行ける場所に到着‼️

その場所は『北野台緑地公園』と呼ばれる場所で、その公園の中にあるのが今回我々が向かう『道了堂』という神社があった場所・・・


我々がバイクを停めた場所からはその昔、西武が開発した『北野台住宅団地』が見下すことができるのですが、この土地も丘を削って作られた典型的な場所で、残念な事にこれだけ広いのにコンビニが一軒もない不毛の土地・・・

我々がバイクを停めた周りには笹がわんさか茂っていて、樹木らしいものが一切ないのもちょっと不思議な感じが否めないのですが、

その先には『東京都水道局・鑓水給水所』という施設があり、周りに広がる丘を削って造られた住宅地にさらに高台から水を給水することが目的の施設だということがすぐに分かるような施設・・・

その脇には今回の目的地である『道了堂跡』に通ずるこんな感じの路地があり、

この路地をしばらく進むと出てくるのが、こちらの風景・・・

恐ろしく年季の入った石段の横には『日本遺産』&『構成遺産』の標識があり、『絹の道』の俗称の下には『浜街道』の文字が・・・

その横には明治12年8月にこの鑓水の有志によって建てられた石碑があり、この『浜街道(神奈川往還)』が鑓水の生糸商にはなくてはならない場所だったことがよくわかります・・・

そしてこの階段の上には・・・

既に限界を留めていない灯籠と、

子供を抱く亀甲縛りの状態の地蔵があり、

その地蔵は亀の上に座っているのですがその亀も首も見事に折られ、セメント等で養生はされたようですが、現在ではこれまたみるも無惨な状態 ┐(´∀`)┌

こちらは芸能界の大御所怪談師となったある稲川淳二氏により語られた『首なし地蔵』のベースとなった地蔵のようで、よくみると・・・

確かに首の部分から上はオリジナルではなさそうですが、何でこんなことをするのまるで理解できないのは間違いなく、最近の餓鬼のモラル、いゃっ、親の教育がなってないとマジで思うんだよなぁ〜っ‼️

まぁ、ウマシカな親の家庭からはウマシカな子供しか出てこないのは昔から同じですが、今の餓鬼は本当に始末が悪い ┐(´∀`)┌


幸運にも私の知り合いにはウマシカな野郎や子供を持つ奴はいないので良かったですが、前述したこの地蔵とこの辺りの実話怪談の祖先稲川淳二氏のお話を聞いてみたい方は以下の動画をご視聴したみてください ┐(´∀`)┌

ちょいと残念な地蔵を見て気が滅入りましたが、今回訪れた目的が此方の『道了堂跡』でございます・・・

基礎の大きさは私が思ったほど広くはなくて5㎡くらいしかなく、既に上部構造物はとある事件がきっかけとなり荒廃しその後ボヤ騒ぎが起こったりした事もあり、1986年に八王子市が持ち主である人物からこの建屋の敷地を買取り、荒廃した周辺を整理して1990年(平成2年)に『大塚山公園』として整備開放した場所だったりします・・・


実際にこの現場に来て私が感じた事は、『まるで手入れがされていない公園』という事で、

『道了堂跡』を囲うように建てられた柵は簡単に跨げる50cmくらいの木造の杭に荒縄張られているだけで、入ろうと思えば入る事もできるし焚き火やBBQも可能 ┐(´∀`)┌

この施設の周りにあるベンチも苔むし、腐食も進んでいて座ったら怪我をしそうなくらい・・・


その中でも一番驚いたのが、そもそもこの敷地の中にいるのは私とADV君の二人だけで40分近く滞在しましたが誰一人やってこない寂しい場所ということで、八王子市民を含め観光ポイントではないのは明白‼️


という事で、そろそろこの『道了堂』で何が起こったのかのお話していきましょう・・・


まずはこちらが取り壊される前の貴重な『道了堂』の写真で屋根は瓦だと思われますが既に苔むし、お堂の扉は既になくかなり荒れた状態なのは明白で、このお堂の堂守である『浅井シズ(ヲ)』(当時83歳)が殺害されたのが1963年(昭和38年)。

当時の警察からの発表をもとに書かれたこちらの書籍である『呪われたシルク・ロード』によると、


殺害時刻はありがちな深夜ではなくまだお日様上空にある15時過ぎ、犯人は山梨県出身の流れの土木作業員で、物取りに入った際に老婆に暴れられので包丁で滅多刺し、頭に座布団が置かれた状態で娘に発見されたという内容となっているが、

実はこれは大きな間違いで、殺害された『浅井シズ(ヲ)』は未婚で子供も居らず(結果的に?)、事件を通報した娘も当時のメディアで紹介されたような関係(実子)ではなく、実は『浅井シズ(ヲ)』の出生地である静岡県に住む親戚の娘だったというのが事実である事が分かったのは事件後、しばらく経ってから・・・


そもそも現在では周りに住む住人すらすら寄り付かない場所にこんな御堂を建てた経緯など近くの巨大な住宅団地内に住む方が知ってるわけもなく、私たちがこの場所に行った時ですら人っこ一人居らず、八王子市もこの『道了堂』跡を含む『北野台緑地』を市民に推奨しているかと言えばそれもない・・・


まぁ、現に殺人事件が起きた場所でもある訳だし綺麗さっぱり壊して何かを建てれば良かったと思う訳ですが、前述した『絹街道(神奈川往還)』を語る上でこの『道了堂』はやはり無くてはならない存在のため現在の状態になったとは思うのですが、それにしてもこの跡地にまるで人が皆無なのはやはり八王子市政のいい加減さに起因すると思われる・・・


今回、この『道了堂』を1stターゲットにしたツーリングプランはやはり今回のツーリングテーマである『八王子市鑓水地区』が大きく関与していて、その理由は江戸時代末期より『鑓水地区』で商いとして成立した『八王子織物』であり、当時の江戸からの主街道の一つである『甲州街道(江戸↔︎甲府)』の八王子宿から現在のJR東日本・横浜線の経路を使い開港前の『横浜村』まで生糸を運ぶために作られたのが『絹街道(神奈川往還)』。


当時は現在の様に山が削られて平野部となっている様な場所はなく、谷戸を登り山頂に上がりまた谷戸で谷に降りる様な道中、


休憩所と旅人の道中の安全を祈願する場所として建てられたのが今回紹介した『道了堂』であり、建立は鑓水地区の絹で大金を得た絹商人(別名・鑓水商人)の『大塚忢郎吉(おおつかごろきち)』が中心となり、八王子から現在の横浜市の保土ヶ谷区の天王町までを結ぶ

神奈川往還

JR東日本『横浜線』や国道16号に類似した往還道で、その往還道のお陰で繁栄したのが現在の『町田』辺りだという事は、しっかりと調べればわかる事なのですが、まっ、ほとんど知らないんでしょうねぇ〜っ┐(´∀`)┌


まぁ、江戸時代末期の安政6年(1859年)し暫くは往還道周辺も反映したものの1903年(明治41年)に『横浜鉄道(現・JR横浜線)』が開通すると状況が一変し、あっという間に輸送が鉄道に変わったのは言うまでもありません。


ちょいと話が鑓水地区の俯瞰的な事象となってしまいましたが、神奈川往還が衰退していくと問題なるのが『道了堂』そのもので、所有者であった鑓水地区より返還をされるも二代目の堂守である『浅井シズ(ヲ)』は返還を拒否し、最終的には裁判となるのですが『浅井シズ(ヲ)』側が裁判に勝利したことにより鑓水地区との交流は一切なくなり、人の往来もなくなった『道了堂』で生活苦となった『浅井シズ(ヲ)』は鑓水地区の男性を相手にするようになり、二人の子供(男の子、女の子)を授かるものの二人とも死産・・・。


この事が公となりさらに一層の『道了堂』と『浅井シズ(ヲ)』への差別化が進み、やがて歳をとった『浅井シズ(ヲ)』の面倒を見る為にやはり静岡から親戚の姪を呼び、前述した昭和38年に発生した殺人事件が発生するのですが、ここで問題となるのが昭和40年代に流行った心霊ブームの影響もあり、廃墟と化した『道了堂』やその近隣で目撃される老婆の姿・・・


おまけに老婆以外にも若い女性の姿も出るような話も加わり、上部に掲載した『稲川淳二』氏の『首なし地蔵』の話も加わり、当時は今でいう『心霊スポット探索』が流行り始めたきっかけともなった訳でございます。

まぁ、老婆のモノノ怪ならいざ知らず、なぜ若い女性のモノノ怪が現れるのかというと、実は今回調査している鑓水地区で『道了堂』で起こった老婆殺人事件から10年後に起こった殺人事件に起因しているモノだと知ることになるのですが、今回はここで終わりたいと思います。


おまけ

現在の東京都八王子市鑓水中で江戸末期〜昭和初期まで勢力を伸ばした前述した『鑓水商人』の『大塚忢郎吉(おおつかごろきち)』の一族である『大塚姓』を持つ方が、現在はどのようになっているかという事を調べてみると

このような形で現在もしっかりと鑓水地区にお住まいのようで、面白いのは新興住宅地にはほとんど住まわれていないところというお話でした‼️