岸田総理のしぶとさ 次期総理の難しさ | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

岸田総理のしぶとさ


姓の法則から見える「イキシチニ・・・姓」の持つ特色
今や自民党、いや日本政治の危機ともいうべき危急存亡の時、岸田総理大臣の粘りとその危機感欠如の権力固執頑張りは何処からくるのだろう。


 キの姓は、天慶の乱より

先ず、この民族のルーツは縄文日本人(原住民)である。しかし仁徳王朝の時代、体制側は原住民狩りをし、食料供給の稲作をする奴隷を強制的に集めた。
しかし、奴隷を潔しとしない人間は多く、家族と共に海辺、川辺、山中に逃れ逃亡生活を送った。抵抗して殺された者も多かったが、「百姓は狡猾だ」と言われながらも、
奴隷化されても逞しく生き残る道を選び、後年の「百姓」として生き残ったのがイキシチニ姓列の特色なのである。
 

岸田、岸、北村、木澤、鬼頭、木村、木下、桐山、喜多村といった姓の知人を思い出してみるがよい。当りが柔かで、如才がなく、学校でも劣等生はいなくて頭の良いのが多い。
それに容貌もいい。会社でもこの姓の社員で「嫌われ者」はまず聞かないだろう。

 日本でこの姓が生れたのは十世紀で、天慶の乱とよばれる東国の将門、西国の純友の革命騒ぎの時からである。つまり大陸で唐が滅び日本でもトウと名のっていた藤原氏の体制が弱わまり、梁の太祖が九○七年に即位。
やがて唐の残存勢力が、又も帝座を奪い返したものの、日本では宋とよぶようになる国家が、次第に中国を支配する時期に当たる。日本年号では承平五年の九三五年だが、やがて宋(契丹)は日本海まで版図を広げ、その二月二日に将門は国香を倒し、やがて藤原体制下の関東各地の官府を占領し独立する。
 
一方、瀬戸内海の後の伊予海賊衆の四国海軍を率いた純友は、その二年前から京へ進入して荒していた。
 これまでの日本史では、関東の将門が許嫁の娘や父の遺領を奪われ憤激。坂東八ヶ国の者が同情し、その結果が大反乱になったとするが、純友側から投降した者らを収容した土地を、喜夷(紀伊)の国としたり、
キの発音の地名や人名が、文徳天皇実録日本三大実録あたりに急にやたら出てくる。
 
 天慶の乱は、唐を滅した新興勢力の契丹系(宋)の、武器援助によっての煽動によるものと想われる。又は、その反対に落ち目の藤原氏が、これではならじと新しい血を入れるように、契丹の力を借りるため、
契丹人を移民させて、東西の乱を防いだかのどちらかであろう。
 
さて、明治までの帝への御名は、その洽世によってつけられていた。たとえば秀吉によって廃位されかけた方へは、藤原基経によって追われたもうた陽成さまの名をとり後陽成帝と申しあげる。
 のち足利新田を操り北条を討たれ、また双方を戦わせた後醍醐帝の名の先代ともいうべき醍醐帝が、藤原忠平によって朱雀帝に換えられたのが、中国の長興元年ゆえ、唐勢力と契丹勢力を天びんにかけられ
ていたとも〈真福寺将門記〉では読める。こうした謎に包まれた歴史をもつだけに、キの発音をもつ人には頭が良く美男美女型が多いのである。


イ姓列の姓の特徴はなにか

 石川五右衛門、釜ゆでの真相

 続いて、イキシチニミヰのイニシアルを頭につける姓の歴史的展開をしてゆくのには、どうしてもすぐ念頭に浮ぶのは、「イガ者」として知られた、伊賀がまっ先にひっかかる。これは、
<古事記伝><地誌提要>によれば、
 「この国は、伊賀津姫の有たり。孝霊帝のとき、伊賀国をたて、のち国府を阿拝(あわ)に置く」とある。
 さて伊賀者といえば、すぐ忍術を連想するが、もちろんああした荒唐無稽なものは、はっきりとフィクションである。なにもこの地方に製鉄業が盛んであったわけではなく、映画やテレビで見せるように、
鉄製の撒きびしといった武器を、あんなにパッパと投げたら大変なことである。今でさえ日本には鉄鉱脈がなく外国から原鉱や屑鉄を輸入して製鉄しているくらいだから、その当時の鉄製の穴あきビタ銭を一文、または一銭というが、
これとて、<安斎随筆>によると、天正十七年の豊臣秀吉の発令にも、「乱妨狼藉の輩、盗みは一銭以上斬罪」とあるし、のち江戸期の<髪結職由緒書>では、
 
「藤七郎が徳川家康の髪を結っていたから、慶長八年に家康が江戸入府すると、呼ばれて開業せしも料金一銭なるをもって、世に一銭職とこれをいう」とあるほどである。
 いまの時価に換算すれば、小さな鉄銭一つが慶長期で三百円、天正期では五百円にも当たる。これでは、忍びの者が懐から出してパッパと敵に投げつける物は、大きさからみて銭の四倍はあるから、
一個二千円。五十も投げたら十万円の浪費となる。
 
 だから、もし忍びの者の彼らが存在していたにしても、そんなに気前よく放れるわけはない。
 では本当のところはなにかというと、丹波と並んで名産だった伊賀の山栗の皮をまいたのである。
 素足や藁のわらじしかはいていなかった当時の敵は、梨の外殻の棘に剌されて苦しめられたのが実状で、現代のベトコン兵が竹串を地面に植えつけ、米兵が靴の下敷にスチール板を入れて防ぐのと同じであろう。
 では何故、「忍び」というかとなると、イキシチニ系の住民には、現代でもミスユニバースになった伊東絹子とか伊東ゆかり、北川景子といったような美女が現われるように、昔も、美少女や美少年が多いので、
狙われ拐され、諸国に売りとばされる者が多く、「忍ぶ草、伊賀の山河を恋しがり」の名句があるごとく、薄倖の彼らが忍び堪えたことからでているのである。
そこでイキシチニのつく姓が、全国に散らばっているのも、この理由によるものであるという説もある。
 

 さて、イ列のつく姓をもつ者は、我慢強くて仕事の相棒によし結婚の伴侶によし、おまけに美貌だという反面、非常に神経質で頑固だともいえる。
 豊臣政権の時に、大泥棒として扱われ六条河原で釜ゆでにされたイガの国の石川五右衛門にしろ、真相は宗教問題ではなかったかと想える。
転向すればもちろん助命されたであろう。
 なにしろ千鳥の香炉を盗んだくらいで、公開処刑というのはあまりに大げさすぎると思うし、「忍術などというものは荒唐無稽」にすぎないから、時の国家権力者秀吉の寝所へ忍びこんで、
殺そうとしたというのも眉唾ものだからである

 桜田門事件は食いものの恨み


 石川五右衛門よりは後世だが、同様にこれまた頑固で殺された有名人がいる。NHK大河ドラマ「花の生涯」というので、脚光を浴びた井伊大老である。
 イのつくこの人の最期は、まだ百余年しかたっていないのに、まるっきり作り変えられてしまい、「水戸派は尊王攘夷のため、井伊の方は新日本開国のため、ともに愛国精神の衝突で、桜田門外で白雪を紅く染めた」と、今の時点ではもっともらしく説明されている。
 
 しかしこれは『侍ニッポン』を書いた群司次郎正や舟橋聖一が悪いのではなく、クーデターの仲間に薩人有村治左衛門が入っていたせいであろう。
 明治七年一月十五日に鍛冶橋御門に東京警視庁が創立され、有村の幼友達の川路正之進が、警察権力を握った途端、(亡友有村のために、遺族への下賜金とか故人への贈位問題もあったろうか)
 「喰いものの怨みおそろし桜田門」
 「もう御免、牛と梅との、食当り」
 「大老の首を、すき焼うまかろう」

 
といった江戸中の絵草紙類を邏卒に集めさせ、すっかり焼き払って根絶させてしまったからである。
 そして同年夏に『桜田門壮挙録』が出版され、いかに井伊大老が悪党であったかを強調し、安政の大獄に憤激した志士が明治維新のために蹶起した趣旨が宣伝された。
 そこで水戸人も廃藩置県後で、もはや殿様への忠義も失せかけていたし、当時としては勤皇説の方がカッコウがいいから同調したまでのことにすぎない。

権力の圧迫により、歴史があっさりと歪曲されてしまって伝わった一つの事例と言えよう。ではその真相たるや、
 「老公牛肉を好み給いければ、年々寒中に彦根より献ずる事なりしに、直弼家督後は、こわを献げず。老公が何卒贈られるべしと再三催促するも、彦根侯きかず。老公は江州の近江牛は格別なれば、
我等が為にのみにてもと懇願されるも、牛を殺し肉を送る事を国禁になしたればと、お頼みごと相成り申さず。其後もたって何度も御頼みあり、されど更に承知せざりしかば老公極めて憎み給い」


 まるで近江牛の宣伝みたいだが、殿中で直接に頼んで、断わられて老公は恥までかかされたゆえという。もともと天保から弘化までの水戸藩の、
<那珂湊出入帖>には[彦根献上牛肉入荷、小梅樽百荷出荷]といった記載があり、井伊から牛肉を送って貰った返礼に、その舟に水戸名産の小梅を出していたのが、これでも判る。
 さて、この水戸老公の牛肉好きは、
 「女色のため、すき者として補精に喰べた」という説もある。が、実際は若年の肺結核から薬喰いに始めたものらしい。さて、
 
「君、恥かしめられれば、臣これに死す」というモラルが水戸学であるから、水戸斉昭の薬であるところの牛肉をとめられ、その上侮辱を与えてよこすとは、何事かということに家来にはなったのであろう。
 まだ万延元年の頃は勤王などといったところで、天朝さまからは一文も貰っていないが、水戸の殿様には親代々その家臣は扶持を貰っている。そこで現実問題として、殿さまの憎んでいる相手を倒せば、

今でいえばサラリーマンとしての出世の機会である。だからこのとき桜田門へ押しかけた連中は、最高二百石止りで、あとは同心見習や手代、それに、郷士といった軽輩の連中ばかりである。
 さて井伊大老の方は、何故、そんなに強硬に断わったかというと、掃部頭(御所の清掃人夫頭)と名のる点でも明白な原住民の家系で、出身の遠州井伊谷は、

<熊野速玉社文書>によれば、造営料所になるまでその一帯は、特殊区域の原住系の別所である。さて当時水戸城三の丸の弘道館で、水戸光圀以来すすめられてきた水戸学派の内の結城党の面々は、
 「別所に隔離されし者は鳥獣の皮はぎなどなすゆえ屠殺をなし獣血によって穢れているものである」
 といった説を立てていたから、これに反感をもち、埋れ木の小宅から、本家の兄の跡をつぎ江彦根藩主になると、井伊大老はそのお返しに牛肉輸出を禁じ、「喰い物の恨みおそろし桜田門」と
なったようである。

 つまりイキシチニのつく姓は直情径行型であり、信念をもった者がその血統だから、当時としては、「御三家」とよばれた水戸斉昭に対しても、敢然として刃向って押しこめにし、
やがては自分が暗殺されてしまうのだが、それまでは、「敏腕家」として認められる才人型である。
 もちろん現代では暗殺など滅多にないから、この型の人はなんといってもいわゆる立身出世のタイプの雄たるものであろう。

これで判るように、岸田総理は一見優男でひ弱そうに見えるが、直情径行型、才人型で狡猾でもある。
自民党の派閥は解消され、「肉を切らせて骨を断つ」戦法で安部派、二階派も壊滅した。
政倫審には自ら出席するという奇策も打ち出し、今国会を乗り切る気でいる。
次期総理候補には、女で高市、川上の名も出ているが、石破だけは絶対に避けるべき。
何と言っても彼は人間として一番の禁じ手「裏切り(自民党が落ち目の時党を出ている)」を行っている。
内外情勢多難なこんな時、平気で組織を裏切り、何の政策もなくただ国民人気だけのこの男だけは選ばれないことを祈る。
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