徳川家康と築山御前 | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。

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従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

哀れなり築山御前

以下がウエキペディアに書かれている、築山御前の記事で、現在、通説になっている。

徳川家康の正室。名は未詳。一般的には築山殿、築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)ともいわれる。「築山」の由来は岡崎市の地名である。
父は関口親永(氏純とも)。母は今川義元の伯母とも妹ともいわれ、もし妹ならば築山殿は義元の姪に当たる。夫の徳川家康と同じ歳とする説、2歳年上とする説、12歳近く年上の1廻り歳上だったとする説がある。
『井伊年譜』や『系図纂要』『井家粗覧』の系図によると井伊直平の孫娘で、先に今川義元の側室となり、後にその養妹として親永に嫁したという。
その場合だと井伊直盛とはいとこ、井伊直虎は従姪に当たる。近年では、関口親永と今川氏との婚姻関係を否定する説(親永の実兄である瀬名氏俊が義元の姉を妻にしたのを誤認したとする)もあるが、
そもそも関口氏自体が御一家衆と呼ばれる今川氏一門と位置づけられる家柄であり、家康(当時は松平元信・元康)がその娘婿になるということはその今川氏一門に准じる地位が与えられたことを意味していた。


さて、徳川家康の正妻築山御前が、

「岡崎三郎信康は吾がうみし子なれば、わがいいつけ通り致すべく。よって事が成就せし時には、家康の押さえている三河は、そっくり信康に戻してやって頂きたく。また私には、そちらさま御家中の内にて、しかるべき人を世話して下さり、その御方の妻にしてほしく。この条件さえ守って下さるものなら、これから信康にもきっと申しつけお味方するよう手筈をととのえましょう」と、武田勝頼に出した手紙に、
「ご子息の三郎どのが当方の味方となり、家康を挟み討ちするものなら、三河だけでなく別に一国をつけて参らせ候。そして築山御前には、幸い甲府郡内で五万石を食む小山田兵衛という侍が、去年妻を失ってやもめでござれば、打ってつけと存じ、彼のにお世話致し申し候。天正六年十一月十六日    武田勝頼」
                                

 といった手紙の往復があった由が、『三河後風土記』にある。
 築山御前がいくら滅ぼされた今川義元一族瀬名氏の姫であったとしても、松平元康との間に、お亀、おあい、三郎と三人も子がある。
「女は七人の子をなすも心を許すな」と、昔からいいはするが、なぜ武田方へ男の世話など頼んだのだろうか。唐人医者減敬とも怪しかったというが、今でいう「よろめき夫人」だったのだろうか。

「女は、それを我慢できない」とはいうが、いくら女盛りの三十八歳の有夫の女性が、別の男の妻になりたいとは、今でいう重婚罪にあたるが、築山御前はそんなにまでもの狂おしい女性だったのか‥‥どうも、これは首を傾げたくもなる。
 さて、それともう一つ関連して可笑しいことは、その夫とされる家康が彼女より遥かに年下だった事である。なにしろ、もし二人でそれまでに子をなしたものなら、長女お亀ごときは十三歳の子だから、
受胎させたのは家康が十二歳という時点である。

 戦国時代はなんといっても戦をするのに人手が入用だったから、女子のそのあかしがみえると、赤飯をたき、早速そこの組頭が、子をはらめるようになったものを、空(あき)っ腹にしておく事やあると、
女性を子作りの器械のごとくに扱ったから、十四、五歳の幼な妻も当時は珍しくなかったが、だからといって形式的だけならいざ知らず、実質的に男も幼な夫や幼い父になれたものかどうか疑問に想える。
 現代と違って粗食だった頃の十二歳である。精神的に早熟であったとしても肉体的にまで、一人前の生殖機能がもう働いていたなどとは、これは常識的にも考えられぬ処である。

 つまり築山御前がよろめいたとかよろめかぬといった詮索よりも、彼が彼女をどうして小学校の五年生位の年頃で受胎させられたかといった不思議さの方に引っ掛かるものがある。
 しかもお亀のみだけでなく、翌年は年子で、おあい、その二年後に、のちの岡崎三郎信康と、十五歳のときの徳川家康が、既に三人の子持ちという方が変ではなかろうか。
 これに対し、いくら今川一族の女であれ、夫が余りにも若すぎるからとはいえ、一人のみならず連続三人も子を他から仕込み、それをもって----というのは余りにも詭弁すぎなかろうか。

 常識としてはやはり夫と築山御前の子、とみるが妥当であろう。
 となると怪しむべきは彼女ではなくして、その夫の方になるのだが、なにしろ八代将軍吉宗の時の大岡忠相によって、徳川家のそうした事柄は一切秘密にされてしまっている。
そこで、今でも松平蔵人元康と名のっていた、彼女の夫が家康と改名し彼女を殺したのだ、という男女の生理をまるで無視し切ったものが堂々と出版され読まれているのである。

 まず『三河後風土記』というのは、多くの歴史家が史料として扱い、文政、天保と、読み本として何度も版行された物が多く出廻っているので、小説家まで種本にするが、
これは明治四十四年に非売品として出された『史籍雑纂』第三巻に収録されているところの、
「大系図抄」に、はっきりと、「江戸の元禄時代まで生きていた近江の百姓沢田源内、という贋系図屋が、その余暇に書き上げた贋造史料本の一つで、内容が面白いのは、興味本位に書かれてあるせいだ」と、すっぱぬかれているものだ。
 だから、築山御前が、悶々の情に堪えかねているから、なんとか男を世話して頂戴。そうすれば伜の三郎信康にいいつけ裏切らせまする、という手紙や、それに対し鹿爪らしく、

「小山田備中守兵衛というのが妻を去年なくして空いている。穴埋めに用いられるのに、それでは如何でござろうや」
 まるで結婚相談所長のように、武田勝頼が返事をだしているのも、共に沢田源内のフィクションという事になる。詰らないが事実ではないので、これはしようがない。

 しかし天正七年八月二十九日夕、
「こないな所へまで連れてきやって‥‥なんと」いぶかしそうに、輿から降ろされた築山御前が、浜名湖の水面を渡ってくる風にそよぐ葦草の茂みの中で振りむいたところ、
「主命なれば、御免なされましょう」
 供してきた野中三五郎は、己が従者に持たせてきた槍の鞘を払いざま、しごくと見せかけて、そのまま躍りこんでの一と突き。
「あッ」と乳房の下にくいこんだ槍の穂先を抜こうと身悶えし、築山御前は、苦しい息の下から搾り出すようにして、

「‥‥主命といやるは家康どのがことか」
「はあッ、仰せの通り」と槍の穂先を抉るがごとく捻じあげれば、
「信康が成人するまで後見人をなし、自分は遠江だけでよいから浜松城を守り、岡崎の城はそっくり戻すといいおったは嘘なりしか」
 麻の葉打ち抜き柄の白地上布の胸許を、まるで山つつじのように、真紅に染めつつ築山御前は、

「ひとに怨みつらみが有るものか、ないものか、よお覚えておきや‥‥」というも、もはや喘ぎながらの有様。
 それでも気強く、葦草の株を掴んで倒れまいとしつつ、
「この身をここまで誘き出して仕止めるからには‥‥気になるは伜三郎信康のこと‥‥どないしやると‥‥言え。さあぬかせ」
 青白い月の光りに照らされ、もの凄い形相で、はったと睨みつけられては、野中三五郎も膝頭にがくがく震えがきてしまい、
「早うに止めを‥‥」「お、おん首討ち奉れや」と、己れは槍をつけたまま、まるで棒押しの格好で、従えてきた野郎共に吃りながら命じた。という事になっている。

 

 さて現在、浜松市広沢町にある西来院には、「清池院殿潭月秋天(大禅尼法尼)淑霊」と彫られた石塔と、
「奉献、亨保八年八月二十九日、野中三五郎重政の曾孫、野中三五郎源友重同、敬白」と文字の入っている古い石灯篭が二つある。
 もし築山御前が、よろめいたり裏切って武田方に加担しようとして、殺されたものならこれは仕方のないことで、なにも三五郎の曾孫が、お詫びに石灯篭を納めることはない。
 これは無実の者に濡衣をきせての殺害ゆえ、野中の家では代々、「築山御前さまの祟りではないか」というようなことが相ついで起き、そこでやむなく曾孫の代になってから、祥月命日(しょうつきめいにち)に無理して灯篭を寄進、
「これでひとつ、迷わず御成仏なされませ」と三拝九拝して、泉下の霊を慰めたのだろう。

 しかし戒名がついているだけでも、まだ築山御前は増しである。
『次郎長外伝』の「秋葉の火祭り」で名高い、山へ登る参拝道の入口になっている遠州二股の、清竜寺にある、岡崎三郎信康廟はもっとひどい。
 古びた扉に小さな葵紋がついているが、これは明治になって付けられた扉で、その以前は土をかためた築地塀だけだったという。そして、中央に石を五個、どうにか落ちないように、重ねて立てられているのが、岡崎三郎の墓だというのだが、文字などは一つも彫られていない。

 恐らく徳川十五代の間は、ここは、
「お止め墓」として、何人も参拝を許されなかったものではあるまいか。某作家の、『徳川家康』の本の中では、
「なにッ信長公が、妻の築山と、吾が子の信康を成敗せいと仰せられるのか‥‥むごやそないに酷い話があるものか‥‥」
「はあッ、御気持の程は、われら家人も、よおわきまえおりまするが、いま信長公の御下知にそむくはかなわぬこと」
「そうか、この家康は、徳川の家のため、いとしき妻や、最愛の子まで、信長公の命令とあれば、失わねばならぬのか‥‥」
 と悲歎にくれる名場面として描かれているが、それにしては、戒名さえ刻むのを許されなかった墓とは、くい違いがありすぎる。


 さて、前に新田義貞の個所で、「世良田系として出ている家康の系図」を平凡社『大百科事典』から引用して置いたが、
「世良田系の家康そのひと」と、「松平元康改姓名と伝わる家康」とは、まったく別人らしい。これは尾張七代目当主の宗春が、その家康の玄孫に当たる関係上、奥州梁川三万石の城主から兄継友の跡をついで尾張へ戻ってきて後、
今でいう郷土史家を動員し、尾張における家康の事跡を、六十二万石の力で調べ直してみた。すると、

「松平元康の家康と、世良田の家康が、石が瀬と和田山で、二度までも正面衝突して戦をした」という事実が見つけだされた。しかも、
「松平方の三河兵はプロの武士なのに、東照権現さまの方は、伊勢の薬売り上りの榊原小平太、遠州井伊谷の神官くずれの井伊党。渥美半島の木こり大久保党、駿府の修験上りの酒井党といった寄せ集めのアマばかりゆえ、
いつも戦ってはころ負けしていた」というのである。これを発表したばかりに宗春は、「不行届なり」と六十二万石をくびにされその後、尾張は御三家であるのに一人も将軍になれず、それ処か田安家から養子を取らされた。

このことは『草春院目録』によっても明らかで、築山御前は家康と枕は共にさせられたかも知れないが、正式には松平元康未亡人であって、家康夫人ではない。
 だから「後釜の男に小山田備中守はどうだろうか」などと贋作では書かれたりもするが、単身であるならば、それでもよろめきとはいえない。