企画展「新選組と新徴組の兄弟」と謎の川辺堀之内城跡 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 昨日は、日野市の新選組ふるさと歴史館へ企画展「新選組と新徴組の兄弟」を見学して参りました。そのついでに、謎の遺跡「川辺堀之内城跡」も見てきた次第です。

 

↑新選組のふるさと歴史館

↑冬期企画展「新選組と新徴組の兄弟」ポスター

 

 この企画展は、新選組の沖田総司と新徴組の沖田林太郎兄弟が主となる展示です。林太郎は総司が沖田家の家督を継がなかったために井上家からの養子で入った人で、総司とは義理の兄という立ち位置となります。幕府浪士組結成時は、兄弟揃って浪士組に参加したものの、総司の方は近藤勇や土方歳三と共に京都に残留、林太郎は江戸帰り組として江戸へ戻り、新徴組を経て庄内藩へ帰属、戊辰戦争は庄内藩と共に戦っています。

 沖田家中心の企画展だったわけですが、この沖田総司という人物は坂本竜馬と並んで私がいつも避けて通ろうと思っている人物だったりします(苦笑)。何故かと言えば、とにかく史実と創作の判別がメンドイ。坂本竜馬に関しては多くの史料があるためにその真偽の精査検証にやたら時間を食われる上に、多くの人が研究考察をされていることで、ある意味で”場荒れ”しとるんですな。何か調べて発表しようとすれば、そこら中から横やりが入ってくる。それが嫌なので避けて通れるなら避けて通りたいという感じ。ついで沖田総司は逆に異常に史料が少なく、土方歳三以上に”何を考えていたのかわからん”人物なのです。でも、小説や創作からイメージや人物像が作られちゃっているため、史実と確認できない裏付けがないという理由で通説を破棄しようとしても、通説に変わる新説(仮説)を史料が少なすぎて作れない。このままだと「では、本当はどうたったの?」という素朴な疑問に答えられないのですな。こうした横やりが入れば、研究途上なのに横やりの処理に忙殺されて労力をどんどん削られていく。それは嫌なので避けて通りたいと思っている人物だったりします(苦笑)。

 で、まぁせっかく日野市の新選組のふるさと歴史館がその避けて通りたい沖田総司の史実の歴史に関する展示をするということで、ぜひ見ておかねばと思ったわけです。

 

 まー、そんなわけで近藤勇や土方歳三に関しては自分でも調べていたので予備知識があるのに対し、沖田総司や林太郎に関しては予備知識がなんにもないので、改めて正確性の高い学術的な沖田総司の歴史が示されたことは大きいのかなと思いつつ見学させて頂きました。

 なかでも「病気故、何分心底ニ不叶候、乍併当節ハ日増快方ニ趣、此分ニてハ最早大丈夫ニ可相成候間……」とある慶応三年11月12日付の沖田総司書簡を見れたのは良かったなぁと。さすがにこの時期だと自分の病気が何で有るのか知らないわけではなかっただろうから、「快方に向かっており、もう大丈夫」と書いてるのは日野の人々を気遣ってのことだろうと思いますしねぇ。まー、近藤や土方が沖田に病名を黙っていて知らせていない可能性もなくはないけど、いっくらなんでもそれはないかー。

 ともかく、沖田総司自身が自分の病気に関して書いているという点は大きいかなと思います。

 

 ともあれ、そもそも沖田総司の書簡や史料が少ないので、総司の思想や考え、政治的姿勢に関しては何もわかりません。土方は少なくとも「尽忠報国」ぐらいは言うんですが、総司はそれすらしないので~。なので、政治的抗争が多い幕末史のなかで総司はほとんど扱われないですし、歴史学的にも剣の腕が立つぐらいの評価しか出せない。そんななかで今回の企画展は一種の挑戦だったろうと思うのですね。まー、近藤勇や土方歳三の企画展が多い中で、沖田総司を中心に置く企画展が一回もないというのも問題なんだろうしなぁと(汗)。

 

 さて、そんな感じで歴史館の企画展示を見学してきたわけですが、それだけでは食い足りないし時間もまだある。ということで、日野市にあるという謎の城跡「川辺堀之内城跡」にも行ってきました。

↑土塁(もしくは古墳)跡

 

 この「川辺堀之内城」という城はまったくの謎です。最近になって”城跡ではないのか?”という話しが持ち上がったというだけで、ここに城があったという言い伝えもなく、文献や史料もない。城マニアの間でまことしやかに語られてきた城跡地形となります。当然、私が持っている『日本城郭大系』にも書かれては居ませんが、グーグルマップの日野市の所にはキチンと「川辺堀之内城跡」として登録されているという……(汗)。

 ともかく、行ってみなければよくわからない城跡なのですな。しかも、新選組のふるさと歴史館からは徒歩で15分程度の近場にあるのですよ。企画展見ただけで帰るのももったいないので城跡に行ってみました。

 

 で、上記の写真にある通り土塁らしき遺構は確かにあるのですね。ただ、この付近に古墳があったらしいので、古墳の大半を削り取った地形とも考えられ、土塁と確定するのはなかなか難しいところです。しかし、ここ以外にも土塁跡があるので、人為的に土塁的なものが作られていたのは間違いなさそうなんですが……。

 

↑土塁と土塁の間を切通している部分。

 

 上記写真はゴルフ場と城跡の間を通る道脇にある土塁を切り、主廓への入り口部。ここは防禦のための遺構というよりは後世の人が竹藪に入るための道として作ったっぽいかな。

 

↑城跡とゴルフ場を隔てる部分にある土塁。土塁左側が堀跡。

↑道の右側が土塁(道が途中で屈折しているが、堀跡はまっすぐなので道が堀跡からはずれていく感じ)

 

 上記ははっきりと土塁跡とわかる土盛です。道沿いに細長く続いています。ここの地形はいわゆる「舌状台地」の戦端になる場所で、よく城郭や武家屋敷が作られる地形です。南側が突出した高台になっています。

↑グーグルマップ(城跡を上空から見ている。舌状台地地形が良くわかる)

 

 上記のグーグルマップ上で、森になっている部分が城跡。北側にゴルフ場がありますが、そちらとつながった台地で、南側は断崖となっており低地です。北側にあるゴルフ場と城跡の間に道が通っており、道沿いに土塁も続いていることから、この道は本来は堀であり、ゴルフ場側の台地と城とを隔てるための堀なのだろうなと想像できます。

↑堀切(下から見る)

↑堀切(上から見る)

 

 城跡西側にある堀切。防御構造の一つなのか後世に道として作られたのかは不明です。

 

↑城跡南側を取り巻く水路

↑水路にいた鯉

 

 さきほどの堀切を下ると南側の低地へ行けます。城の南側は上記のような農業用の水路が取り巻いています。

 

↑城跡全景(南側の低地より見上げる)

 

↑城跡東側にある稲荷神社

↑稲荷神社

 

 城跡を北側からぐるりを廻っていた途中に稲荷神社があったのでお参りしたところ、社殿の側面に説明パネルが!?。そこに城跡に関する説明もありました。

↑「神の坂」と言われる上り道。現在は工事中で通行不可。

↑「神の坂」案内板

 

↑桑田村と増田紋之助の説明パネル1

↑桑田村と増田紋之助の説明パネル2

 

 この地域が桑田村と呼ばれており、増田紋之助という人物が郷土名士として自治に活躍したらしいです。城跡も増田家の敷地だったらしい。また、この増田紋之助は近くにあった天然理心流佐藤道場で剣術修行をしたらしく、日野宿名主にして天然理心流師範佐藤彦五郎から剣を習っていたらしいです。文字が読みにくいのはご容赦ください。こんな説明パネルがあるとは思っていなかったので、コンパクトカメラしか持ってこなかったのです。解像度の高い一眼レフカメラの方を持ってくれば良かったなぁと後悔します。

 

 

↑「稲荷の経歴」案内板

 

 上記の稲荷神社の説明の冒頭で、川辺堀之内城の説明があります。昔から言い伝えられていたということではなく、近年になって広まった城跡ではという話しを肯定的に受け止め書かれたものとを推測します。

 

↑「神の坂とゴミ捨て場」の案内板

 

 先に紹介した「神の坂」の由来説明と、開発と共に発掘された現代のゴミの他、江戸時代のゴミも見つかったことから、江戸の昔からゴミ捨て場であったらしいことが書かれています。

 

↑稲荷と無患子の木の説明

↑「一円の差で競り落とした用水の橋」の説明

 

 開発に伴って用水の橋が撤去され、競売に掛けられたものを皆でお金を出し合って買い戻したといったことが書かれています。

↑用水の橋

 

 買い戻した用水の橋は稲荷の階段として仮設置されており、何時の日か元の橋になることを願っているとのこと。この稲荷社は小さいながらも、地元の人々に愛され続けているのがよくわかるパネル展示でした。また、郷土史についても増田紋之助の顕彰を兼ねており、重要な情報が多く書かれています。必見の価値ありだと思われ。

 

↑「神の坂」を登り切った所

 

 城跡の廻りを一周まわってきました。なので再び城跡入り口に戻ってきた感じです。丁度その位置に「神の坂」の頂上があったのですね。

↑城跡主廓

 

 では、いよいよ城跡主廓部分に足を踏み入れていきましょう。

 

↑主廓南側の段差部。

 

 南側先端部に段差が続いており、一段低い平場があります。曲輪でしょうか?。

↑主廓西側の段差。(倒れている竹沿いに段差がある。右が主廓側)

 

↑主廓西側にある段差。(左側が主廓。右側が一段高い)

 

 上記は、主廓内部にある段差です。なんだろう??。堀ではないだろうし、主廓のなかで区画別けしていたのかもしれない。

 

↑主廓(段差の高い側)

 

 上記写真は主廓のなかに謎の段差があり高い方を撮影しています。

 

↑主廓を分断する段差。

 

 上記の謎の段差は、完全に主廓を横断して存在しています。

 

↑主廓(段差の低い側)

 

 主廓のなかに段差がありましたが、低い方が広く高い方はさほど広くありませんでした。後世の人が田畑や屋敷を作るために区画を別けていた可能性も否定できず、城の防禦遺構とは確定できません。

 

↑城跡北西方向から眺める。中央の土盛が土塁跡。

 

↑最初に紹介した土塁跡。手前にお墓があります。

 

↑土塁跡。手前のお墓が増田紋之助一族のお墓となります。

 

 稲荷神社の説明パネルによれば、「神の坂」を登ったところに古墳があり、増田紋之助一族の墓もあるとありましたので、土塁跡かもしれませんが古墳の跡とも考えられ、さてどうしたものかと……(汗)。むしろ、城郭の一部とするなら古墳を土塁としても利用したのかもしれません。

 

 ということで、一通り「川辺堀之内城跡」を見て廻ってきたのですが、城跡と確定しているわけでもないですし、中世武家館跡だったとも言われており、ともかく城規模がまったくわからないので小規模な砦跡であったのかもしれないとも考えられ、謎だらけです。とにかく伝承すらないのですから史料も当然ないわけで、何か発掘されて出てこない限り良くわからないというのが実態かなと。ただ、確かに土塁跡や堀跡らしきものはありますので、何かしろ人の手が加えられていることは確かなようでした。

 

↑城跡から高幡不動方面を遠望する。中央左寄りにある山が高幡不動の裏山(つまり、土方歳三の像がある場所、そして高幡城跡です。幕末ファンにはあまり知られていないのかもしれませんが、高幡不動尊にある裏山”山内八十八箇所巡り”のある場所は、戦国時代に高幡城があった山城の跡なのですヨ)

↓高幡城や平山城の詳細は下記を御覧下さい。

 

 

 この川辺堀之内城は、舌状台地という立地に加え、稲荷社のパネル説明にある通り高幡城や平山城が一望できる場所に位置しており、これらの城の出城あるいは付城と考えると最適の立地なのですな。なので、土塁や堀跡といった遺構を見てしまうと「城跡だ」という主張もあながち的外れとも言いがたく……とはいえ、史料的な裏付けも発掘物もないので裏付けが取れない。まったくの謎の遺構としか言いようがないのが現状です(汗)。

 

 そんなかんじで、それなりに楽しんで来ちゃった感じです。ということで日も傾いてきたところで帰宅の途に付きました。

 

↑今日の戦果

 

 上記写真は、この日に手に入れたものです。♪。新選組のふるさと歴史館で、企画展のパンフレットと買い忘れていた叢書十九輯 『日野の剣士たち -浪士組と農兵隊-』を購入。さらに「新選組六番隊ぶれんどコーヒー」を大人買いしました。これ好きなんっすわ♪。あとはお昼に食べたCoCo壱番屋カレーでゲットしたレトルト「野菜カレー」3つですね。

 まぁ、このような史跡登録されていないような城跡は、夏場は草ぼーぼーの藪と化して蚊や蜂、蜘蛛の巣だらけの上にマムシまで出かねない訳で、春から秋はあぶなくてねぇ(苦笑)。行くなら寒い冬が一番です。