今日は、本当は午前に眼科と皮膚科で健康診断の再検査と持病の薬を貰ったら、午後に新しい眼鏡を作るという雑務をこなす日だったのです。が、ネットのニュースに「板橋で渋沢栄一像ストラップが売られている」という情報を見つけ、なんというか物欲に駆られて渋沢栄一ストラップをゲットすべく板橋に行くことに(苦笑)。眼鏡屋は夜に行ってもいいわけだから午前は病院を巡り、午後は板橋へ、帰りに眼鏡屋に寄るという予定でプチ史跡巡りしてきました。
↑旧養育院長渋沢栄一銅像
まず、何を置いても渋沢栄一像を見に行きます。渋沢栄一は明治七年から養育院の運営に関わるようになり、以後死ぬまで支援し続けました。福祉家としての渋沢栄一の根幹ともいえる事業です。これは大河ドラマ『青天を衝け』でもたびたび描かれましたので、くどい説明は必要ないでしょう。
この像は、その渋沢栄一の偉業を称えようと大正十四年に像が建てられました。
↑養育院本院の碑
↑養育院本院の碑に刻まれている説明
現在、養育院は東京都健康長寿医療センターという病院として継続されております。この碑は、健康長寿医療センターの横の公園敷地に渋沢栄一像と共に設置されています。
で、欲しかった渋沢栄一像ストラップは、こんな感じです。
↑渋沢栄一像ストラップ
以外のいい出来ちゃうかな。ぶっちゃけ、使うアテもないのだけれど、なんか無性に欲しくなったのですヨ。販売所は板橋の観光センターなので、そちらに向かって購入しました。
渋沢栄一に関して、やれ子供を妾に産ませまくったとか朝鮮半島で経済的搾取者だったと書き立てる歴史系ウェブライターもいるわけですが、何を言おうと近代経済の先駆者に渋沢栄一という「江戸時代商人の拝金主義を廃し、儒学的道徳主義による経営商売を提唱」した人物がいたことは日本の経済活動の上での功績は莫大でした。欧米でさえ「アヘンを売りまくって儲けてた」時代ですからね。「商売は悪しきモノ・卑しき行為ではない」という思想を生み出し、日本のなかで普及させて旧来の商売は卑しいとする朱子学道徳を突破、日本型経営という経済活動方式を作り上げ、かつ現代に通じるコンプライアンス思想を創始したことは革命的に大きいのです。
まー、日本型経営の悪いトコ”家庭を顧みることなく社会と会社のために働け”ということはあるんだけども。それは渋沢栄一の会社はいいけど、自身の家はゴタゴタしていたという渋沢自身にも跳ね返ってきてはいるから(苦笑)。これも大河ドラマでしっかりやってたとこかなと。
↑板橋
ということで、板橋宿まで来てしまったので板橋宿の史跡をちょっとだけ巡ってきました。上記写真が板橋です。地名ではなく橋の名前ね。
↑橋の欄干にある橋の名前「板橋」
板橋宿の名は、この橋の名前から取られ地名になりました。
↑いたばし観光センターにある板橋宿のミニチュア
「いたばし観光センター」には、上記のミニチュアの他にも宿場に関係する遺物の展示は説明パネルがあり、ちょっとした郷土資料館もでありました。板橋宿の史跡ガイド地図やおみやげなども売られておりますので、史跡巡りの際に立ち寄ると便利です。
そして板橋宿は、江戸日本橋から中山道で一番目の宿場となります。板橋宿は上宿、仲宿、平尾宿の三つからなる大きな宿場でした。
↑仲宿
現在一番賑わっているのは仲宿ですかね。いつも人出が多いです。板橋宿の本陣も仲宿にあり宿場の中心地でした。
↑板橋宿本陣跡
↑板橋宿本陣跡の案内板
本陣からほど近い場所に脇本陣もあります。戊辰戦争(と新選組)に関係するのはこちらかな。
↑仲宿脇本陣跡
↑仲宿脇本陣跡の案内板
仲宿脇本陣は、戊辰戦争の際は新政府東山道軍の本営になっています。そして、流山にいた近藤勇はこの東山道軍へ出頭したところを正体がバレて捕縛されました。
↑高野長英ゆかりの地
↑高野長英ゆかりの地の案内板
歩いていると、高野長英絡みの史跡が……。脱走した高野長英が逃亡中に立ち寄った場所だそうです。
↑板橋宿
上記場所から平尾宿になるのかな。もちろんこの道は旧中山道です。幕府浪士組が京都へ向けて歩いた道でもあります。
↑平尾宿脇本陣跡
↑平尾宿脇本陣跡の案内板
捕らえられた近藤勇が処刑されるまでの間、この平尾宿脇本陣に幽閉されていました。まー、この宿場は三地区あるだけに大きいですわなぁ。現在は普通に商店街になっていて人出も多いですが、歩いていると宿場っぽくもあります。いろいろと見てまわると江戸らしい食材や食べ物も売られていましたが、今日は時間もないのであまり見てまわってもいなかったりします。ストラップ買いに来ただけやしね。
今回ご紹介した本陣や脇本陣以外にも、歴史あるお寺や神社などもありましたが、今回は寺社史跡は見学せずに帰宅の途に付きました。眼鏡屋にも行かねばなりませんでしたので。
以上、板橋宿プチ史跡巡りでした。