【番外編】江戸時代武士道の基礎知識 | 幕末ヤ撃団

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それを正していくのが歴史学の使命ですから。

 「武士道」という精神について、昔からずーっと議論され続けているのだが、これがなかなか難しくて現在もまだ武士道を定義する定説はない。かろうじて通説はあるのだが、その通説が非常に大雑把なために混乱や拡大解釈まで起こっている。なので、一旦ここで私の理解している範疇で簡単にまとめておこうと思う。

 というのも、私の書いている同人誌や記事などを読んでいる人ならもう知っていることだとは思うが、当ブログしか読んでいない人のことを考えた時に、私の認識と食い違っているために混乱や誤解が生じかねないと思うからだ。

 ただし、最初に書いた通り、武士道という思想精神に定説はなく、今現在も研究者の間で武士道の定義についてはそれぞれ違っていて論争中である。なので、私の言っていることが絶対に正しいとも言い切れない面がある点はご承知置きを。が、おおよそこの理解で間違いとも言えないだろうと個人的には考えている。

 

まず「武士道」に関する簡単な模式図を書いたので、それを見て頂きたいと思う。

 

↑武士道の模式図

 

 上記模式図の説明をすると、明治維新以降に「武士道」と言った時、この単語に含まれていると思われる思想精神を図にしたものである。江戸時代に武士道という場合は、赤い部分「軍人精神」を除いた「狭義の武士道」と「士道」の二つだけと考えて頂ければ良いかなと思う。

 

●「広義の武士道」

 さて単に「武士道」と言う場合、一般的には「広義の武士道」を指す。広義の武士道とは武士の精神全般のことで、武士たる者が持つ精神はすべて含まれている。つまり、武士道も士道も区別せずに含むため、何でもかんでも武士道になってしまう。これが武士道精神を解りにくいものにしてしまっており、混乱や誤解の元にもなっている。

 簡単に例を示せば、「幕府を倒すことこそが討幕派志士の武士道のあらわれであった」とか「忠義のために徹底抗戦することこそが、旧幕府脱走軍の武士道であった」、さらには「官軍に対しては恭順して戦わない。これが譜代大名たちの武士道であった」と三つの例を考えたとき、これらは広義の武士道と考えれば全部正解となる。武士道として正しいのだ。と、言うと変に思う人も多いかと思う。なぜなら、この三つの例は全部行動としては矛盾しているからだ。

 これらは矛盾しているのに、なぜ全部武士道として正しいのかと言えば、単に武士道という場合は広い意味で「武士の思想精神(広義の武士道)」と解釈されるので、武士のとった行動は全部「武士道」として正解になってしまうからである。つまり、立場の違う武士が相手の武士に「それがお前の武士道か!」と抗議しても、「そうだ」と答えられてしまえばそれまでという話し。なので、歴史ライターとして困ったときは「武士道だ」と書いておけば”なんとなく結論が付いた”ような感じの記事になる。が、実際は何の結論にもなっていないというトリック的手法にもなっていたりする。

 で、まぁこれだと困るので思想史の世界では「武士道」と「士道」の二つに別けて考えるのが普通だ。注意して欲しいのは、江戸時代の本職武士たちも「武士道」や「士道」は同義語として使用しており、彼らもまた「広義の武士道」の認識に立っている。このため、史料でも士道や武士道という単語が出てくるが、上記模式図では全部「広義の武士道」に当てはまる考えて欲しい。

 武士道と士道とをわけて考えるのは、便宜上そうするしかなかったということである。

 

 広義の武士道の中身を見ていくと、大きく「士道」と「狭義の武士道」の二つがある。これに明治維新以降は「軍人精神」が加わる。明治時代は武士に変わって軍人が登場し、その課程で軍人精神も武士道とされるようになっていったからだ。

 

●「士道」

 士道とは、儒学の影響を強く受けた武士精神のことをいう。江戸時代初期の儒学者にして兵学者の山鹿素行が示した武士精神が代表的な例だ。すでに時代は天下太平の世で合戦はない。戦国時代ならば、戦闘者として武士の存在理由があったのだが、太平の世では戦闘者たる武士が果たすべき役目もない。武士が自分の存在理由を見失ったところから、新しい天下太平の世での武士の存在理由や使命を見出す課程で生み出されたものが「士道」である。山鹿素行は『山鹿語類』のなかで、武士の使命は政治行政を掌り、庶民に対して模範となる倫理道徳を示す存在であること。また天下太平の世の守り手であり、庶民の安寧を脅かす者が現れたらそれらを討伐し、人倫道徳を正す職分と規定する。

 山鹿素行の他にも多くの儒学者が、天下太平の世における武士の存在理由を示そうとしており、同時代の儒学者熊沢蕃山は、武士は義理を守り通すものとする。そこには儒学道徳からのフィードバックがあり、「忠義」や「孝行」など「忠孝の道」が重視され、政治行政という職務においては不正を正す使命が武士にあるとされた。これによって武士には高い倫理道徳と礼儀作法が求められるようになり、こうしたものも士道に含まれていく。したがって、儒学の徳目でもある仁義礼知信や誠(至誠)といったものも士道に含まれ、武士が身に付けるべき徳目となっている。士道が武士の精神であると同時に官僚の精神でも言われるのは、儒教朱子学が中国における科挙試験として採用されており、合格したものは官僚となって政治行政に携わるからだ。日本の武士もまた天下太平の世では藩や幕府の役人官僚であるため、武士道であると同時に官僚(国家公務員)の思想精神でもあった。

 特に儒教朱子学では、武力で相手を屈服させればいいという「覇道」を廃し、「王道」こそが正しい道とされることから、戦国時代にあったような”立身出世のための武力行使”や下克上、他人の領地を武力で奪う行為は忌避される。これは儒教朱子学が中国の春秋戦国時代に生まれた政治論として、武力による支配(覇道)を否定して「徳による教化(徳治)」こそが正しいという考えに基づくからだ。また王道を重視したことで自然と日本国王たる天皇の地位も向上し、幕末期に至る頃には尊王思想を生み出すことにもつながっている。こうした儒学から士道が生み出されたため、士道は儒学道徳からの影響を強く受けており、天下太平の世で武士に新しい使命を与えた。これが広く受け入れられて江戸時代中期から後期にかけて普及し、一般的となっている。

 なお士道においては、これまで説明してきた通り天下国家を強く意識し、不正を正して公明正大、公人としての武士の姿が意識された。それは私情と公務をはっきり別ける考え方であり、常に「公」を重視する精神が士道であるといえよう。このように士道は政治行政に関わる官僚として公を重視し、王道を正道とすることからも「公権力」を主軸とする思想精神である。このあたりが「自力救済」を基本の考え方とする狭義の武士道と考え方が大きく違う部分だ。

 士道精神は、主として江戸時代の軍学『山鹿流兵法』や『長沼流兵法』、山鹿素行や熊沢蕃山その他の儒学者が書いたの儒学書などによって普及していく。また『四書五経』など儒学書による倫理道徳の普及一般化によっても広まり、江戸時代の一般常識として庶民にも伝播している。武士の教科書として有名な『武道初心集』などは一部で狭義の武士道と共存する形で士道を説く一般書として読まれている。

 

●狭義の武士道

 「公」を意識する士道に対し、「私(私情)」を重視するのが狭義の武士道で、戦国時代以前からの戦闘者としての武士精神を色濃く持っており、その伝統的思想精神を受け継いでいる。このため、武士個人のプライドや意地、武士としての名”武名”が強く意識され、武士として強さを求める精神といえよう。「命を惜しむな。名こそ惜しめ」といった精神が狭義の武士道である。こうした精神は、士道の隆盛と共に徐々に後退していくが、それでも否定をされずに残っていった。

 特に「恥」に対して敏感に反応し、恥をかかされたらこれを放置せず、「武士の一分が立たない」として報復する精神は、典型的な狭義の武士道精神と言えよう。したがって、相手から罵声や悪口を言われたら、かならずやり返すのが狭義の武士道であり、自分が弱いからと言い返すのをやめたり、争いを避ける態度は狭義の武士道では批判の対象となる。朱子学では、小さな争いや私情に元づく争いは天下太平の世を乱すことから否定され、恥をかいてでも争いを避ける思想があるのだが、狭義の武士道では「喧嘩すらできない武士は武士として役には立たない(合戦で命のやり取りができない者)」と判断されるため、江戸時代初期においては喧嘩をしなかったという理由だけで藩から追放されるといったこともあった。

 また士道における忠義に対し、狭義の武士道は主君と家臣の間の情義を重視する。ことさら忠義を叫ばなくても、この主君のためなら死ねると思う精神が狭義の武士道で、それは江戸時代初期の殉死の精神に見ることができる。

 狭義の武士道でもっとも象徴的な行為は「仇討ち」だ。仇討ちは、恨みを晴らすという情義の精神と共に、武士にとって最大の恥は”敵に首を取られること”であるため、首を取られた側の家(武家)は相手から恥を受けた形になっている。これを放置すれば、「あの武士の家は、当主が殺されたのに復讐すらできないほど弱い」と言われ、武家としても武名を落とす。弱い武士など武士とは言えず、合戦でも役に立たないからと武士身分すら失いかねない。したがって、仇討ちを成し遂げて「強い武士」として武名を回復させなければならなかった。武士の子ならば、殺された父の敵討ちはするのが当然という意識は、武名を落とさずに家名を保ち、自らも武士として生きていくために成し遂げなければならないものとされたわけである。これが狭義の武士道の考え方だ。天下国家を意識する士道精神から見れば、仇討ちをしようとしまいと天下国家には余り関係がない上、仇討ちは公ではなく私情で行われることからあまり重視しない。せいぜい「孝の道」として称賛するぐらいだが、狭義の武士道では家の武名(家名)を守り、武士としてプライドや意地、恥をそそぐという意味から絶対視される。

 このような戦国以前からある武士精神が生まれた理由は、武士が世に生まれてきた理由の一つでもある「自力救済」に求められよう。自力救済とは、領地争いなど利権に問題やトラブルが発生した場合に公権力に頼らず、自らの力のみで解決させるということ。自分の力が強くなければ他人に奪われたものを奪い返したり、守るべきものも守れない。だからこそ強くなくてはならない。武士が武名を大切にするのも、強い武士を攻撃しようとする者が少ないからだ。これが強さへの信仰となり、家の名や武名を落とす恥を徹底的に嫌う価値観となって武士の精神に根付いていった。

 狭義の武士道に関する教書は少ない。よく言われるのは武士道書『葉隠』が代表書とされている。『葉隠』では、士道を「上方武士道」と呼び、やたら学問的で理屈っぽい士道を批判し、古来からの戦う武士精神を強く説く武士道書となっている。しかし、『葉隠』は佐賀藩門外不出の書として一般的に読まれた本ではなかった。したがって、狭義の武士道は子々孫々武士とはそういうものだとして、武士(武家)の子が親から躾けられる一方、浄瑠璃や芝居などで演じられる「武士モノ」劇、軍記物といった書物を読むことで、武士とはそういう考え方をするものだという形で伝えられてきたと思われる。

 

●軍人精神

 江戸時代の武士道は、「士道」と「狭義の武士道」の二つだが、明治維新以降の徴兵制で庶民も兵士になる時代となると、軍人精神が生まれてきた。軍人精神は、武士に変わって庶民が戦うことから戦闘者としての庶民精神でもある。徴兵された庶民兵は、新しい明治時代の武士と定義されて天皇を主君と見立てた。それは明治政府が天皇と国民とを「一君万民」思想に基づいて、天皇は日本国民の主君であり父である。日本国民は皆、天皇の家臣であり赤子であるとし、天皇と国民の関係を武士の主従関係に置き抱えて位置づけたことから始まったと言えよう。そう定義することで、国民は天皇の家臣であるから国民の忠義は天皇へ、天皇は国民の父であるから、国民の孝行も天皇へ結実し、「忠孝の道」はすべて天皇へと帰する。

 したがって天皇のために戦い死ぬことを名誉とし、死を恐れずに戦うのが日本軍人とされた。武士が兵士へと置き換えたことで、武士道や士道もまた軍人精神とされたわけだが、軍人はあくまでも国家公務員で武士(武家)ではない。武士道や士道から利用できるものだけを利用し、利用できないものは破棄して作りだしたものが軍人精神における武士道や士道であったろう。また本来は武士のための精神であるはずの士道や武士道が、庶民出身の兵士たちにも利用できるように作り替えられていったのだが、私は仮にこうした明治時代の新しい武士道を「明治武士道」と呼んで江戸時代の武士道や士道とは区別している。明治武士道の特徴は、武士の思想精神である士道や武士道を庶民に利用できるように改変や再編を行った明治時代の新しい庶民思想精神という点にある。庶民とは日本国民のことであり、つまり日本国民全体の精神となっていったわけだ。いわゆる「大和魂」といった日本人独自の精神が明治武士道であり、軍人精神はこの明治武士道の範疇に入る。

 明治武士道の代表書と言えば、新渡戸稲造の『武士道』となる。

 

 以上、ザックリではあるが簡単に広義の武士道の中身を説明した。ここで注意しなければならない点は、一人の武士が上記の士道や狭義の武士道のどちらか一つを持っていたのではなく、士道も狭義の武士道も両方とも持っていたことだ。明治時代となると、そこに軍人精神(明治武士道)が入ってくる。そして、これらを均等にバランス良く持っていたわけではなく、士道に寄っていたり狭義の武士道に寄っていたりと個人個人でバラバラだった。だから武士道といっても個人差があり、それぞれがみんな個性豊かに違う武士道を持っている。

 また、図にあるように武士道と士道とか重なっていない部分があることも重要だ。これは武士道と士道とで対立する部分となる。たとえば世の安寧を守る士道ではむやみに戦うことは乱の元とされて否定されるが、武士道では戦いから逃げると批判される。このように士道と武士道では考え方が違うために矛盾を起こす。

 戊辰戦争においては、日本人どうして戦う愚を犯さないために徳川家は恭順の道を選んだが、戦わずして膝を屈することは恥であるとして旧幕臣達は江戸を脱走して会津や函館で戦った。この差違は士道と狭義の武士道の差異であり、どちらが正しくどちらが間違っているという議論は妥当ではない。なぜなら、江戸時代の武士は士道も武士道も両方とも心に宿しており、その違いはどちらを重視したかという個人の判断によるというだけなのだから。

 また、模式図を見て貰えば解るが、士道の円と狭義の武士道の円の重なっている部分が、士道と狭義の武士道の両方を満たしていることを意味しており、武士はみなそこを目指して精神を鍛えた。しかし、それを成し遂げた武士は非常に少ない。それは士道と狭義の武士道が重ならない部分が多いからである。それだけに真の武士道を身に付けたパーフェクトな武士などは実際にはいなかったろう。それだけ、士道と武士道は矛盾しているということであり、さらにそこに軍人精神を加わってくれば、さらに難しくなる。つまり、広義の武士道で見ればすべてを包括しているために武士道は万能の倫理道徳に見えるが、実際には矛盾だらけで欠点も多く、決して万能な倫理道徳精神ではないということ。そして、もし仮にこの矛盾故に責任を追及されたとき、武士はどうするのかといえば自決する。或いは藩や主君の命令で詰め腹を切らされたりしている。死ぬほどの罪はないのに矛盾を解消するために死ななければならないこともあるのが武士だったことは広く知っておくべきことだと思う。

 

 以上、江戸時代の武士道を論ずる上での基礎知識を説明してきた。よく「武士道は素晴らしいものだ」として武士道を啓蒙する本などが本屋さんでも多く売られているのだが、それらの多くが皆「広義の武士道」で武士道の素晴らしさを解説しており、広義の武士道の不完全さ(士道と武士道、軍人精神の間にある矛盾)に付いては説明しない。当然ながら、こうした広義の武士道で特定の武士個人の批評やその武士の武士道や士道の批評など行えないので、この点は注意しなければならないところだ。

 したがって、本などで武士道といういう言葉が出てきたとき、その武士道の中身は具体的に何であるのか、儒学道徳の士道なのか武士の意地や恥といった私情に基づく狭義の武士道なのか見極めることが重要だと私は思う。

 

 当記事で語られる武士道が、私の勝手な思いつきや想像の産物ではないことは、下記のリンク先で書いています。