『大坂城の慶喜』 | 幕末ヤ撃団

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勝者に都合の良い歴史を作ることは許さないが、敗者に都合良い歴史を作ることも許しません!。
勝者だろうが敗者だろうが”歴史を作ったら、単なる捏造”。
それを正していくのが歴史学の使命ですから。

2022年冬のコミックマーケットで発行した同人誌『大坂城の慶喜』の通信販売開始のおしらせです。

 本書は、2022年の冬コミックマーケットで頒布した突発本です。本当は『戊辰の武士道 土方歳三編』を予定していたのですが、時間的に完成が難しかったために急遽本書の頒布へ切り替えました。

 本書では、大政奉還(と討幕の密勅)が行われた慶応三年十月十四日から王政復古を経て、鳥羽伏見の戦いで慶喜が大坂城を脱出する慶応四年一月六日までを時系列に沿って、日々起こった事件や薩長等討幕派や尾張・越前福井・土佐・芸州広島・伊予宇和島の各藩の動き、岩倉具視等との交渉や政治的駆け引きを解説しているだけの本となります。

 慶喜の考察だけではなく、薩摩藩や江戸薩摩藩邸浪士の動きとも連動し、鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)がどのように起きたのか、そしてなぜ慶喜は旧幕府兵を放って大坂城を脱出してしまったのかを史料に基づいて考察しています。

 

 本書を書いた動機は、とにかく大政奉還から王政復古、王政復古から鳥羽伏見の戦いに至るまでの経緯について、ウェブマガジンが書いた解説やユーチューブなどの解説動画が酷すぎるということがあります。慶喜の行動や人物評について、昔から賛否両論あるわけですが、近年のウェブマガジンやネット動画の解説が賛否を問う前に史実に関して間違いだらけで救いがたい。そもそも、一般常識だけのウェブ専門(三文)ライターがネット検索だけで調べているため、ネット情報が間違っているとそれをそのまま解説しているから間違うのですね。では、一般書の歴史本はどうかというと、テーマでまとめられているためこの時期の全体像が解りにくい。例えば、徳川慶喜の本ならば慶喜に関係する部分の解説はしますが、土佐藩や尾張藩は詳しく解説しません。逆に土佐藩の本ならば、後藤象二郎や坂本竜馬が関係する部分の説明はしますが、徳川家の動きや慶喜の考えなどは言及しない。テーマごとに細分化しているので、大政奉還から鳥羽伏見の戦いに至るまでに何が起こっていたのか全体的には解りにくくなってしまています。

 そのため、そうした事柄を簡単に短く説明しようとするウェブライターが史実上の出来事を単純化して説明するため、結果的に史実とかけ離れた説明になっているのだろうなと想像しています。酷い記事になると、「討幕の密勅が出されて徳川家は朝敵になり、鳥羽伏見が起こった」などと堂々と書いているウェブマガジンもあります。記事を書いたライターも「歴史ライター」と名乗って、原稿料まで貰っている始末。何のために大政奉還があったんだと問いたくなるほど酷い。また、一昔までは、鳥羽伏見の戦いでの旧幕府軍の敗因は武器性能の差だったされていましたが、近年では旧幕府軍も薩長軍と同じレベルの兵器を持っていた事が知られるようになり、鳥羽伏見の戦いの敗因については別に原因を求められるようになったまでは良かったのですが、その結果安易に「慶喜が弱きだったから」とか「慶喜が愚かだから」といった部分に敗因を求めるようになってしまったことは頂けない。ハッキリ言いますが、鳥羽伏見の戦い直前において、薩長両藩が求めた「辞官納地」は骨抜きになってます。徳川家が受け入れられるところまで無効化され、あげくに徳川慶喜は新政府の議定職になる予定まで新政府と約束が出来ていました。もちろん、西郷隆盛や大久保利通は大いに不満でしたが、岩倉具視はそれを了承しています。また、旧幕府軍が京都へ進撃をはじめた直後でも、岩倉は徳川家との戦争を避けようとしており、鳥羽伏見の戦いを止めようとしており薩摩藩を官軍にはしていません。なので、大久保利通が大激怒して岩倉をなじったりしています。つまり、鳥羽伏見の戦い直前の政治状況は、ほぼほぼ徳川慶喜が優勢で、武力討幕派の方が負けてます。だからこそ、薩摩藩邸浪士に江戸で暴れさせたとも説明されているわけですが、それも嘘で大政奉還のあとと王政復古のあと数回にわたって薩摩藩は江戸の薩摩藩邸に「鎮静にしているように」と指示を出しており、江戸でのゲリラ活動停止命令を出しています。その根拠となる書簡内容など紹介しつつ、実際に何があったのかを説明しているのが本書となります。

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 徳川慶喜という人物を評価することは非常に難しい。英雄だったという人もいれば、愚将と酷評して憚らない人もいる。1998年の大河ドラマ主人公になっている程だから、日本の歴史に大きな影響を及ぼした人物であったことは間違いない。
 私個人としては、やはり慶応三年十月十四日の大政奉還を重視する。理由がどうであれ、強大な軍事力と権力を持っていたのに武力に訴えることなく、平和裏に政権交代を行った点に高い評価を与えざるを得ないからだ。
 江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は、少なくとも大政奉還時は完全に無血で、武力的な争いをすることなく政権を天皇へ譲った。もちろん、そこに色々な思惑があるのだが、それでも権力者自らが率先して平和裏に政権交代したという点は日本史上でも珍しく、徳川慶喜でなければ成し得ない快挙であったろう。
 そんな彼が、鳥羽伏見の戦いの際には薩長両軍を圧倒する大兵力を持っていながら、大坂城を密かに脱出してしまったのだ。その結果、天下分け目の戦だった鳥羽伏見の戦いに敗れ、徳川家は朝敵となる。この不可解な行動のため、慶喜の評価は愚将と英明の二つに割れた。なぜ慶喜はこのような行動に出たのか。王政復古から鳥羽伏見の戦いの間、徳川慶喜のまわりで何が起こったのかを見て行きたいと思う。

大政奉還と王政復古

 まず、慶応三年十月の政局の動きに関して年表から見ていこう。

慶応三年十月
 十四日、大政奉還の上書を朝廷に提
     出。討幕の密勅下る。
 十五日、大政奉還を勅許。
 十八日、慶喜、十万石以上の大名に
     上洛を要請。また一万石以
     上の大名も京都へ招集する。
 二一日、討幕の実行延期の沙汰書が
     出され、討幕の密勅は取り
     消された。
 二二日、尾張藩徳川慶勝、会津藩松
     平容保に勇退を勧める。
 二四日、将軍職の辞職を願い出る
     (朝廷、有力諸侯の上洛ま
     で保留)。
 二五日、薩摩藩京都留守居役の吉井
     幸輔(友実)、江戸薩邸浪
          士に江戸攪乱の見合を指示。
 二七日、尾張藩徳川慶勝京都着。
 
 慶応三年十月十四日の大政奉還についてだが、慶喜の本意に関しては諸説ある。なかでも有名な説として、政権を天皇に返したとしても朝廷に日本を治めるノウハウがなく、結局は徳川家に政権は返されると見越した上で、大政奉還に踏み切ったとする説だ。
 しかし、この説は『人物叢書 徳川慶喜』の著者家近良樹氏によって明確に否定されている。家近氏によれば、土佐藩による大政奉還建白書の提出は、徳川慶喜の要請と催促によるものだ。さらに二条城で各藩重臣を集めて大政奉還に関する意見を聞いた際、薩摩藩小松帯刀と土佐藩後藤象二郎が大政奉還の必要性を強く説いている。これに関しても、事前に慶喜側から根回しがされていた。大政奉還反対の声が出た時、それを阻止して大政奉還実現へ誘導する者として、薩摩藩小松帯刀と土佐藩後藤象二郎が選ばれていたということである。そして、大政奉還に踏み切った際、朝廷側がこれを拒否しないよう小松帯刀と後藤象二郎に要請したのも慶喜で、これを受けた小松帯刀と後藤象二郎が大政奉還を即時に受理するよう、朝廷側の二条摂政を強く説得している。
 このような慶喜側の動きから、大政奉還を成功させること、再び幕府に大政再委任ということにならないようにするというのが、慶喜の本心だったことが理解できよう。
 慶喜が大政奉還を決意するまでは、慶喜の心中も揺れている。だが、幕府の権威失墜は目を覆うばかりで、慶喜の力でもどうしようもなかった。薩長両藩がすでに朝廷内の一部の公家と結びつき、武力討幕を企てていることも慶喜は把握している。もちろん、薩長相手だけなら、徳川軍が最終的には勝つと慶喜も思っていただろう。だが薩長に勝ったとしても、その後どうなるか。もはや幕府だけでは日本の国政が立ち行かない。天皇や朝廷、諸藩の力と協力なくして国の安寧は守れないということは、慶喜自身が良くわかっていたことだったのである。
 ともかく、前述した手配りの上で大政奉還を願い出た。事前に根回しされていたこともあり、翌日の十五日に大政奉還は朝廷に受理され、ここに徳川幕府は終焉を迎える。
 大政奉還と同じ十四日、討幕派たる薩長両藩には「討幕の密勅」が下されていたが、大政奉還によって幕府が倒れてしまった以上、討つべき幕府がもうない。岩倉らはひとまず形勢の成り行きを見定めようと、討幕実行中止の沙汰書を薩長両藩に下した。

 去十四日申達候絛々、其後彼家祖巳來候國政を返上し、深以悔悟、恐懼之趣申立候に付、十四日の絛々暫見合、実行否可勘考。諒闇中、且生民之患に関係するに依り、深慮之思召を以て、再被仰出候事。
  十月廿一日
                  忠能
                  実愛
                  經之  
  (『近世日本国民史 64巻』)

 この沙汰書により、討幕の密勅は完全に無効となる。しかし、この沙汰書は薩長本国にすぐに伝えられることはなく、薩長両藩兵が上洛した時点で両藩に知らされた。軍兵を上洛させる理由に利用したのである。

(『大坂城の慶喜』本文より抜粋)

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 本書では、大政奉還から鳥羽伏見までの間で、時系列でその日に何が起こったのか解説しているだけの簡単な構成になっており、薩長両藩の動きや王政復古へ至るまでの経緯、親幕派となって「徳川家の辞官納地」を骨抜きにしていく尾張、越前福井、土佐、芸州広島、伊予宇和島の各藩の交渉、岩倉具視の動きなどにも言及します。なので、慶応三年十二月に至っては、一日単位でその日になにが起こっていたかを説明しています。

 とにかく、この期間は幕末時代・明治維新の最も重要な部分であるため、複雑難解ではありますが複雑だからと単純化して解りやすい「佐幕主戦派VS尊王倒幕派」という二極論で解説するのは間違いの元です。徳川慶喜は京都で将軍となり、江戸で政務を執ることなく将軍職を返上した徳川幕府最後の将軍なので、江戸の幕臣達とは関係が薄い。つまり、京都の慶喜と江戸の主戦派幕臣の考えは全く違います。また、王政復古を起こした五藩の内、武力討幕派なのは薩摩藩だけで、残りの藩はぜんぶ親幕府派です。尾張藩はそれこそ徳川御三家ですし、会津藩松平容保や桑名藩松平定敬の実兄たる徳川慶勝が藩主です。親藩の福井藩は松平春嶽が主導し、土佐藩は土佐勤王党を粛清した山内容堂が明治新政府内で議定職に就いています。長州藩は王政復古直前まで朝敵のままで入京は許されていません。王政復古の際に許されましたが、それは長州藩の言う「朝敵の汚名は冤罪だ」という主張は認められず、あくまでも「朝敵だったが許された」だけなので、明治新政府入りはさせて貰えません。だから、長州藩は常に薩摩藩の風下に立ち続けています。つまり、王政復古は武力倒幕派が仕組んだクーデターと言われますが、徳川御三家尾張藩が武力倒幕派のわけがないんです。では、尾張徳川家はなぜ王政復古に協力したのか?。それは、王政復古後の尾張藩の動きでわかるわけです。そして、慶喜はなぜ大坂城であのような行動を起こしたのか?。鳥羽伏見の戦いはなぜ起こってしまったのか?。時系列に沿って全体を見ていけば、その答えはわかるのです。

 本書では、そうした間違いの多い大政奉還から王政復古、鳥羽伏見の戦いを政局の面から見直し、整理をした本となります。

 

 

↑特にこのようなウェブ記事を読んで歴史知識を得ている人に超お勧めします。読み比べて頂けたら幸いです。

 

タイトル:『大坂城の慶喜』

発行日:2022年12月31日

価格:200円

体裁:32ページの手作りコピー本(私がコピーセンターでコピーし、折ってホッチキスで留めました)

 

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