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福祉と祈り

動物の福祉と言うのがあるそうです。


動物園での飼育環境が劣悪な場合、福祉に反します。


そして高齢化して激しく老化した動物を介護しながら飼うのも、虐待に当たると言います。


安楽死こそ福祉なんだとか。


恐ろしいのはこれだけでなく、この動物の福祉をルール化し、従わない飼い方をする人は排除される方向に進められようとしています。


一体、多様性を何だと思っているのでしょうか。


福祉を進める人にはこれこそが正義であり、絶対に譲れないという強い気持ちがあるのでしょう。


しかしそこには何かを命令する、判断する、決めつけるという危うさが潜んでいます。


戦争に協力しなければ非国民だと言われた、その狂気と同じだと言えばいいでしょうか。


キリスト教の聖書の教えに、裁くな、と言うのがあります。


正しいか、正しくないか、それを簡単に決めてはいけない、という事だと思います。


祈り。


これは願いとは少し違います。


具体的に 〇〇になりたい、なって欲しい、と言うのは願いで、祈りと言うのは、御心のままに、つまり、決めるのは神であって人ではない、と言うのが祈りです。


ところが地上で生きる人間には現実的な願い事があふれ、ついついそれを頼んでしまう。


動物の幸せを願うなら、ルールを作るのもいいけれど、祈りです。


人の幸せを願うなら、法律や約束事もいいけれど、祈りです。


排除こそ、虐待ではないでしょうか。

 

 

文明人

先住民族の対義語は移民でしょうか、もし文明人なら先住民は文明がない事になり差別になりそうです。


そして反対に文明の対義語は未開、野蛮。


先住民は未開で野蛮だとの考えはやはり差別でしょう。


先住民の特徴の一つはアニミズム、多神教です。


自然のすべてに神、宗教性を感じます。


これに対して一神教は自然を支配の対象としますので、そこに魂を認める事はない。


最近は先進国で環境問題への関心が高まり、原始的な生活の価値が認識されるようになってきました。


しかしこれを運動として他者に強制しようとする点で、私は野蛮な活動だと思います。


本当に地球にやさしいやり方は、ただ祈りをささげる事です。


何かを強要する時点で傲慢です。


私は天皇の役割の最重要な一つはこの祈りだと考えており、象徴、または権威であれば大丈夫でも政治的な権力を行使すれば、欧米的になってしまうと思います。


自然と一体である、一体になる、というのは特に災害の多い日本では避けられず、支配しようとしても跳ね返されるので仕方ないにしても、先住民的であり、それは天皇制に残っている気がします。

 

 

和の文化

日本の文化は最古の木造建築など木の文化ですが、また和とも言います。


では和とは何かといえば、ひとつには平和の和だと思います。


日本は平和の文化を持っている。


では反対に戦争とは何でしょう。


これは人類の最大の暴力。


なぜこのような巨大な暴力を使うかと言えば、主張の実現です。


強い意志と言っても良いでしょう。


頑張れば人間は何でもできる、と言う自信には、神に似せて作られたという背景があります。


しかし日本の文化では人間は自然の中の一部でしかなく、それほどエラクありません。


ですので自信満々に自己主張する欧米の強い意志によって、勿論絶対に闘わない、と言う方向に行けばいいですが、何としても譲れない、と言う方向に行けば戦争になります。


日本では、長い物には巻かれろ、という、相手に合わせてしまう優柔不断さ、いい加減さがありそうです。


戦うより、従う。


欧米ではこれは評価されず、戦ってこそ立派だと認められる。


和は平和の和でもあるようです。

 

搾取

さまざな生きづらさ、いじめ等の問題の原因の一つは、奪い合いにあるのではないかと感じています。


自己主張することが求められる日本以外の社会ではそれが可能であっても、反論の不得手な日本の文化では少し違う気がします。


災害の多い日本では自然に逆らえませんが、万物の霊長として自然を支配するという欧米の人間観では、自然は利用するものでしょう。


香港の民主派のように抵抗する事よりも、日本では我慢して諦める方を選びがちです。


なのに競争しなければならない。


経済成長していませんのでパイが増えない中ですから、これは奪い合いをしている事になりそうです。


そして問題は労働分配率。


つまりは富裕層による搾取が、この状況において増大しているというのですから呆れます。


効率を上げるために頑張っているのに、分配されなければ成長するはずがありません。


どうやって消費を増やすか。


労働分配率を下げては消費は冷え込まざるを得ませんし、しかも消費税の増税ですので、これはますますキツイ。


正規雇用と非正規の二極化も、非正規によって正社員の給与が賄われているという構造を作り、搾取への批判の抑制になってしまっています。


つまり、組合員は正社員だから恵まれている方になって労働層が分断化され、懐柔されている。


賃金を上げ、中間層を厚くして消費を増やすのが少子化を含む社会問題解決の道です。

 

 

神話は宗教?

”神話” と言う言葉の使われ方が、これを宗教のように感じさせている気がします。


たとえば、不敗神話は、勝つこともあれば負ける場合もあるのに絶対に負けないと勝手に思い込んでいる様子、安全神話も同じでリスクがあるのに丸でないかのように言いくるめる事、最後は神風が吹いて助けられるというのも不敗神話や安全神話と同じ構造でしょう。


これらの”神話”の元になる神をよく見てみると、それを達成するのは完全無欠な、全知全能の神にしかできません。


そういう神は欧米の神です。


日本の神は、ドジで滑稽です。


ですので不敗神話や安全神話などに使われている神や神話は、日本の神とは違う事が分かります。


ここが誤解の原因だと思います。


日本の神話や神はそういう絶対的なものでなく、もっと自然な、間違ったりうまくいかなかったりします。


イザナギとイザナミが2回も流産して神に相談しますが、その神はさらにその上の神に尋ねます。


ではその上の方の神はと言うと、決めたり判断したりできません。


つまり、そんなエライ神も絶対でない、という事です。


ですので日本の神話で語られる神は、不敗神話、安全神話、神風、などの神とは全然違います。


欧米の神は不自然で、日本の神は自然、真逆ではないでしょうか。


宗教が不自然なモノだとすれば、日本の神話は宗教に利用されることはあるかも知れませんが、神話そのものは宗教以前のモノという気がするのです。

 

 

反捕鯨

欧米の反捕鯨の押し付けにはうんざりしますが、なぜこれほどに反対するのでしょうか。


様々な理由があるのでしょうけれども、その一つには、理性への信頼の強さがある気がします。


人間の優れた点は何と言っても理性がある事であり、クジラにもこれがあるのが特徴。


理性を軽視することは人間を否定することになるから、許せない、抵抗するしかない。


神のごとき人間、それくらい人はエライのだ、完全で完璧であるという認識であり、捕鯨は家族を傷つけられ殺される感覚だと言えます。


同じクジラを見ても方や動物、方や人間に見えるのですから説得は難しい。


神への冒涜同様どころか、神は宗教ですが理性は現実です。


欧米は多様性を認める重要性を説くのに、その多様性は実は真の多様性でない事がこの反捕鯨においても証明されています。


つまりは自分の信じる価値観以外の価値観を認めないだけでなく、他に強要するのですからそれは多様性とは真逆の画一性、同化の強制であって多様性の否定です。


正しい、正義だ、と考える自由があるのは当然としても、その尺度は常に変化します。


他人の尺度を認めず自分に従え、ではこれは多様性の否定なのです。


これまでも尺度は変化してきたのですから、互いに認め合う姿勢、敬意を持つことを知ってほしい気がします。

 

 

ボード・ゲーム

日本では幕府の保護などで囲碁は発展し、発祥の中国は最近になって逆輸入のような形で復活したのだと思います。


チェスと将棋は似ていますが同じ古代インドのゲームが伝わって変化したようで、今日まで残っているのは何かの魅力があるからでしょう。


ではそれは何か。


私は 言葉から離れる 事も理由の一つかなと思います。


人は様々な活動の中で、言葉を駆使して生きているように感じます。


その時、無意識のうちにその言葉の意味を考えている。


例えば言葉を離れるモノは他には、絵画や音楽があるでしょう。


歌を聞くのにも歌詞を無視してメロデイーに身を委ねる時があったり、安らぎや心地良さの演出にBGMを流したりします。


確かに手を読みますので、考えずに盤上を眺めるのではありませんが、それは言葉を使う活動とは少し違う気がします。


様々な人生の中の困難は、自然災害なら言葉を離れた世界ですし、社会的な問題ならたいていは人との関係、言葉の世界ではないでしょうか。


ネット上で人気があるのも画像のコンテンツで、言葉から離れたいという願望が裏にありそうです。


報道も言葉より写真のインパクトは大きい。


外国人の自己主張の強さは、これは言葉の強さです。


では言葉とは何か。


これは理性です。


人間は理性を持つことで動物とは違っていますが、これを最もよく使える者が、つまりは自己主張の強くできる人となれます。


言葉を離れる座禅。


瞑想は欧米でもブームになってきたようですが、何と英語ではこれをマインド・フルネス 最大限の意識 と言うのですから日本の無の世界とは真逆。


自然の支配者たる人と、自然の一部としてしか生きられない災害国日本。


文化の根本のところで差があるように思います。


剣術で言えば 気配を消す。


欧米式なら、最大の気迫で押しまくる。


相撲なら、われ未だ木鶏(もっけい)たりえず。


やる気をみなぎらせる生きた鶏(闘鶏)より、気から離れた木の鶏こそ理想のようです。

 

日本昔話

以前に日本昔話と言う番組がありましたが、桃太郎や浦島太郎などの物語は勿論創作です。


ですので神話、日本書紀や古事記に書いてある日本神話も創作だと考えて楽しめばどうでしょうか。


ところがこれをまるで宗教のようなイメージで感じてしまい、単なる昔話と同じだと気づきにくい。


これは恐らく戦争の影響で、例えば神風が吹くから日本は負けない、などの話とともに洗脳や動員に利用されました。


また宗教に使われたからと言って神話そのものまで否定するのは、桃太郎や浦島太郎を否定するのと同じで、元々創作なのですからまさに滑稽です。


話の中にある示唆や教えを宗教や学問、哲学のような形でなく誰にでも吸収できる昔話にして伝えています。


ですので経典、または教典ではないと思います。


教義でもないですし、教祖もいません、戒律や掟もありません。


教団などの組織もなさそう。


ヒーローや高僧などの偉い人がいず、人じゃなく自然。


では神社と言う建物はと言えば、最も古い神社の一つ、大神(おおみわ)神社には本殿がなく、拝殿から山を見て拝む。


ご神体は自然そのものですので十字架や仏像のようなものもない。


すると宗教とは少し違うのかなとも思えてきます。


有名なお寺では拝観料をとられますが、神社はとりません。


この伝統を宗教のように利用する人もあるかも知れませんが、昔話だと思えば、拒否感も薄れる気がします。

 

 

ワン・チーム

ラグビーW杯の日本大会については、予想以上の大成功だったと報じられています。


他の競技、野球やサッカーなどは深く根付いているがラグビーはマイナーで、そして試合では波乱が起こりにくいため、日本で開催しても負けて盛り上がらないと思われました。


これを覆して勝ったことが大きかったとは感じますが、しかし ラグビー精神 と言われるものが非常にマッチした気がします。


日本の国の最大の特徴は災害が多い事。


これを乗り越えるために昔から私たちは、ワンチーム で立ち向かうしかありませんでした。


そのためには、対立を避ける、自己主張を控える、と言うような国民性が育まれました。


すると、ノーサイド、つまり敵味方がともに敬意を払い合う、という事に繋がります。


海外では フルタイム と言われるようですが、しかし例えば観戦も観客はエリアを分けずに同じ席で楽しむのが文化。


他にもあります。


体が大きく力は強いけれども動くスピードが遅い、逆に小さいけれど速い、そういう選手が組み合わさってチーム力が増し、個性のない集団よりも強くなるという、団結力が重要。


これは個々の体力で劣る日本には最適と言えないでしょうか。


私は若いころ取り組んでいる友人から、試合後には交流の会合を持つ、と聞きましたが、当時はそれが特別だとは気づきませんでした。


しかし今考えれば、どのスポーツより合っているかもしれないという気さえしてくるのです。

 

 

先祖と治水

3年ほど前のマンションが傾いた事件の時、くい打ちの話を書きました。


→こちら


https://ameblo.jp/xyav/entry-12089815022.html


要は、私の先祖がくい打ちで失敗し、夜逃げしなければならなかった、と言う内容です。


この時はマンションが話題になっていたため、単に くい と書いたのですが、実はこのくいは、川べり に打ったものでした。


ムラから集落に対し、くい を打つよう指示があり、一本だけどうしても岩盤が硬くて最後まで打ち込められず、仕方なく 上に突き出たところを切って誤魔化した。


それがばれて逃げた。


川べり ですのでこれは治水です。


別に土木工事の業者でなくただの百姓だったのに、命に代えても くい を打たねばならなかった。


それくらいに 治水 が重要でした。


ムラを守るのは治水だ、という事だったのでしょう。


この度の水害を見て、昔から治水の重要性を知っていた、いま、それを思い出させられているんだな、と感じました。


私の先祖も治水で苦労したのでした。


災害が多い国ならではの治水。


国民が対立し分断していてはこれに立ち向かえません。


誰が、という、個人の責任を問いにくい国柄がこうして醸成されました。


私のトラブル、裁判は先祖から引き継いだモノにも関係しているのですが、なぜか日本では、裁判官の判断、とは言わずに、裁判所の判断と言う表現をします。


和解の話し合いのテーブルの表記も、裁判官、でなく裁判所。


裁判官個人を表面に出さず、組織として行っていると言いたいようです。