日本全国には色んな地名があります。古いもの、新しいもの、同じ名称や字でも地域ごとに由来が違うなど当たり前かと思うのですが、そう思わない人もそれなりに多いようです(特に地名本を書かれるような方。地名の付け方に理論というか原則なるものがあると勘違いしている傾向が高い)。
例えば、自由が丘(自由ヶ丘、自由ケ丘)なる地名があります。これはおそらく今の東京都目黒区にある自由が丘(自由ヶ丘)が最初だと思いますが、今では全国にいくつか見られる地名です(きちんと数えたわけではないですが、目黒区以外に帯広市をはじめとして22ほどある)。では、最初の東京都目黒区にある自由が丘は、どういう由来を持つのでしょうか。

これは、地名として見るなら、駅名から採用となります。1932(昭和7)年、この地域が東京市に合併される直前、東京府荏原郡碑衾町大字自由ヶ丘として成立しましたが、その3年前、目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄の乗換駅が衾駅という予定だったものを地元住民の声を受けて自由ヶ丘駅として誕生していたので、これに由来するとなるわけです。
こう書くと、いや、そうではなくて東京横浜電鉄の九品仏駅が自由ヶ丘駅と改称されたのでは? と仰る方もあるでしょう。それは正式な駅名としてはその通りなのですが、実は現在の東急大井町線(当時の二子玉川線と大井(大井町)線)のうち、二子玉川線(二子玉川から現在の自由が丘)から東京横浜電鉄に接続する際、当時の九品仏駅(紛らわしいが、今の大井町線の駅ではなく、自由が丘駅の北側にあった東京横浜電鉄=今の東横線の駅)の位置では接続に難があったため、位置を南側に移設し、その際、九品仏(浄真寺)の最寄り駅が二子玉川線の駅(現在の九品仏駅で、予定駅名は九品仏前駅)になることから、駅名変更を計画し、それが衾駅だったのです。
つまり、東京横浜電鉄(東急東横線)と目黒蒲田電鉄二子玉川線(東急大井町線)の乗換駅名として、当時の九品仏駅を南側に移転することと同時に衾駅に改名する計画が、地元住民たちの運動によって、衾駅から自由ヶ丘駅に変わったのです。よって、正式名称では九品仏駅から自由ヶ丘駅なのですが、間に衾駅という予定駅名があって、そこから自由ヶ丘駅となったのです。仮に、現在の九品仏駅の場所に駅が設けられなかったとして(当時でもあり得ない話ですが)、乗換駅名が九品仏駅のままだったとしたら、そもそも改名するというキッカケがなかったので、自由ヶ丘駅という名称は誕生しなかったかもしれません。なので、上記のような書き方としたのです。
それでは、なぜ地元住民は、当時の大字名だった衾ではダメだったのでしょうか。碑衾町は、元々、碑文谷村と衾村が合併して成立し、一文字ずつをとって村名(のちに町制施行)としましたが、その大字は旧村名をそのまま継承し、最も新しく見積もっても江戸期からの歴史ある地名だったのです。
それを自由ヶ丘という駅名に変える住民運動を起こしたのは、多くが新興住民でした。衾村の時代など知らない、住宅地として分譲されたばかりのこの地域に住み始めたばかりの人たちが衾という田舎臭い名前に反対したのです。結果、この自由ヶ丘という名称は学校の名称からの拝借となったのです。大正期になって自由を標榜する教育者が増えた時代にあって、自由と名のつく学校が増えたのです。自由学園や自由ヶ丘学園などなど、いくつも数えることができるでしょう。
こうして、駅名が自由ヶ丘になると、次は新興住民の自宅の住所が問題となります。自由ヶ丘駅周辺の分譲地は、正式には東京府荏原郡碑衾町大字衾(さらに小字まで入れれば字権現台とか田舎臭いのがぶら下がる)◯◯番地としていたものを勝手に「碑衾町自由ヶ丘駅前◯◯番地」として手紙の差出人住所として記載するようになり、これが一人歩きして通用するというのは、他の分譲地でも似たような状況だったのです。
そして、正式に自由ヶ丘となり、東京市合併の際には、晴れて、東京市目黒区自由ヶ丘となったのです。こういう経緯を踏まえると、まず学校名として自由ヶ丘があり、それが駅名に採用され、さらには地名となっていく流れとなります。
これが後付けの解釈になると、自由を謳歌した人たちが多く住んでいたためとか、銃ヶ岡だったものが転じてとか、わけわかなものが出てきて、本来の流れが失われてしまう格好となるのです。
さらに、目黒区以外の自由が丘(自由ヶ丘)については、由来は異なるものと思われます。このように、同じ地名であったとしても、地域が異なる場合、すべてが同じ由来とするのが無謀とも思えますし、さらに古い地名というのは、その当時、何と呼ばれていたかというところと、それが文字情報として記録されたところと、さらにそれがどのように継承されたかなど、同じとは考えにくいものも多いかと思うのです。
そんなことを多忙な朝に考えつつ、今回はここまで。