東京地方、今日は雨です。そして寒いです。

こう寒いとちょっと前ならテレワークという選択肢もありましたが、現在は原則出社。出かける準備を始めなければなりません。

 

 

しかも今日は週中の水曜日。憂鬱ですね。でもやることがあるので出かけます。新型 iPad Proの発売初日ですしね。予約はしていませんが、Appleストアで気分で購入するかもしれません。いや、こんなことを考えているということは、購入してしまうのでしょう(苦笑)。でも M5搭載以外に大きな違いはなく、どうなんだろな〜とは思っています。まぁ、出かけるというモチベーションくらいにはなるのかな。

 

というわけで、出社とは別にイベントもあるので出かけようかと思いつつ、短いですが今回はここまで。

そもそも政治とは、というところで各人の認識が異なっていることが多いので、この手の議論は政治家同士であってもかみ合わないことがよくあります。字面では、政(まつりごと)を治(おさめる)ということで、主権者が民・領土を統治する、安定した状態にすることとなりますが、果たして現状はどうかと言えば、我田引水ばかりが目立ち、タテマエが抛擲されていることが多いように見えます。

 

厄介なことに、我田引水政治は、局所的なものに映りがちということもあり、最近ではワンフレーズ政治というバカでも分かるというようなものも人気があるようで、ますますそのことに興味がなければ、政治そのものに興味を持たない(失う)ということにつながります。

 

 

身の回りのこと、といえば聞こえは良いですが、為政者はどのようにすれば自身の身分を保障し続けることができるか、という一点に力が入っているので、民全体とは無縁のものを煽り(分断し)支持を得ることで、多数を握ろうと考えているので、なぜこんなことを主張しているのかという読みを働かせずに、それこそ言葉だけで煽られて支持をする。これではいいように煽動されているだけ、となります。

 

その結果として、最近では首長の暴走が目立ちます。いや、暴走というよりまるでわかっていないという首長が多いというべきでしょうか。そういう首長にありがちなのがタテマエを抛擲し、ホンネ丸出しの人たちです。顕著な行動としてみられるのは、自分に甘く他人に厳しいことから、不具合を指摘されると開き直り、居直り居座るという行動を示すようになります。恥を知らない、と最初は見ていましたが、実際はそうではなく、端から「私は悪くない」という絶対的な思考で動いている(あるいは思い込むようにしている)のではないか、と見るように変わってきました。

 

ですが、こういうものは政治ではありません。単なる無知による不法行為、スキャンダルに過ぎません。これによって政治に興味、関心を抱くのは悪いこととはいいませんが、そういうものだけでは選択が適切とはならないですし、騒ぎが終われば興味を失うだけでしょう。とどのつまり、身の回りのことだけを考えていては、政治について語ることすらできないし、興味があるともいえない。とはいいつつも、政治家が我田引水政治ばかりを行っていれば、有権者だってそういうふうにしかならない。そんなことを考えつつ、今回はここまで。

月曜の朝です。おはようございます。

東京地方は、雨交じりの朝ですが、先々週あたりと比べてかなり涼しくなってきました。暦の上では、10月も下旬。そろそろ涼しくなってきてほしい時期になってきて、漸くといったところでしょうか。

 

ところで、月曜は憂鬱だといいますが、土日休みの方(基本私もそうです)にとっては休み明けとなり、どうしても倦怠感というか、出勤か〜という気持ちが前面にでてきます(全面という日もある)。今日はそこまで酷くはないですが、これを克服するのは大抵、習慣となった行動に基づいてというのが私のパターンなので、この習慣が崩れた時はさらに辛いと見込まれます。

 

 

例えば、長期入院(30日以上)。幸いにして、私はこれまで一度の経験で済んでいますが、退院後の体力快復はもちろんのこと、習慣を元に戻す行為がなかなかに時間がかかりました。入院中は、基本安静にしていることが求められるので(安静にせざるを得ない)、寝ていることが習慣となり、これを起きて行動することが習慣にするまでに膨大な時間がかかるわけです。

 

これがフィジカルでなくメンタルだった場合、さらに辛いことは想像できます。私の場合はフィジカルだったので、頭は真っ当だが、身体がついてこない状態でした。よって、頭のコントロール下で身体を動かす=習慣づけるということができたわけですが、メンタルの場合、頭でコントロールできないため、身体を習慣化させた行動にさせたくともできないので、負のスパイラルに堕ちてしまいます。気持ちの問題、と簡単に片付けたくはないですが(特にメンタルが弱っている場合など)、結局のところ、そこに行き着きます。辛いですが、そこを乗り越えるしかなく、乗り越えられれば何とかなるものです。このキッカケは、自明ですが生育歴など人それぞれなので、いいアドバイスがあってもその人が受け容れられるかどうか。タイミングの問題もあって、常に効果のあるベストアンサーなどないこともわかります。

 

とどのつまり、気持ちの問題なので、さあ出勤する準備を始めようとしつつ、今回はここまで。

タイパとか、時間を大事にするというのが行き過ぎると、僅かな時間で最大の効果をということで「効率」を重視しているつもりが、表面上の請け売りだけを真に受けるようになり、自分自身で考えることをしなくなった結果、時間を失っているという哀れな人々をよく見ることができます。これは今に始まった話ではなく、私が若い頃は勿論、さらに前の世代の方々から連綿と続いているように思います。

 

というのも、何時の時代も目先のことではなく古典を学習するという行為が続けられていること(支配体制を盤石にするという行為の副作用でもある)が少なくありません。一例として、孫子の兵法、孫子といっても様々な孫子がいるわけですが、今でも書店等に行けば孫子の兵法を現代解釈してビジネスに、とかいうものも見受けられますし、2000年以上前の中国は戦国楚の遺跡から孫子に学べみたいな竹簡が出てきたりとか、1000年どころか2000年以上参考にされている知識があるわけです。

 

 

では、これを学ぶことに意義はあるのでしょうか。無論、ありますが、全てにおいてそうかと問われれば、今の時代であればそれだけを参照するのではなく、諸子百家の時代に出てきた(普及した)前提を踏まえるならば、他の考え方も学んだ上で絶対視するのではなく相対視することが重要だとなるでしょう。つまり、ケースバイケースで使うべきであって、もっというなら適材適所という普遍的な考え方に行き着きます。

 

要は長く普遍的な知識(考え方)というのは、好悪の問題ではなく、主観から客観への転換だといえます。そしてそれをなかなか克服できないから、長く普及し続けるという見方ができるでしょう。あっという間に皆ができてしまえば、それを克服する必要がなくなるわけですから、その手法は価値がなくなります(幼児の知育のようにいずれ克服されるものでも、新しい人、生まれてくる人たちに随時適用すべきものは生き残ります)。

 

そう考えていくと、長年生き続けている知識(教訓)というのは、当然に学習する価値はあって、しかも継続的に理解を深めていかないとうまく行かなくなることが多いとなります。そんなことを日曜の朝、パンをかじりながらぼや〜んと思いつつ、今回はここまで。

子どもの味覚が大人の味覚に変わる、苦いものや辛いものが食べられるようになる。こういう時には、明らかに好みが変わったなと思うわけですが、それ以外にも様々なところで自分自身が気付かないうちに、好みが変わっていることがあるなと、撮影していた写真を整理していて気付きました。

 

これも様々な理由で食事(食べ物)の写真を撮っていますが、定期的に習慣的に行うようになったのは、治療で食事制限を受けた時に、どういうものを食べたかというのがいちいち記録するのが面倒なので、写真を撮影してしまおうと考えたのがきっかけです。その頃は、いわゆる「映え」とかはなく、SNSも普及していたとは言えない時期だったので、本当に記録行為として写真撮影を行っていたのです。

 

 

こういう写真(デジタルデータ)が20年ほど溜まっているので、改めて見てみると、いわゆるマイブームによって偏りが目立ったりするわけですが、さらに長いスパンで見ると洋食から和食に移ってきてるとか、ファストフードにほぼ縁がなくなってきているとか、あとは収入によって購買力が変わり、その影響を受けているなとか。

 

そうやって見ていくと、結局自分の好みというのは、単に「好き」というだけでなく、様々なものに影響を受けていることがわかります。そして、その変化するきっかけを思い起こすと、だいたい自身の健康状態に行き着きます。高血圧気味だから減塩しようとか、ありがちなものではありますが、とどのつまり、自分の身体からのサイン(気付き)によって変わっているのだなと。

 

好みは主観だと思っていましたが、客観でもあるのだなと思いつつ、今回はここまで。

今年(2025年)は、幼い頃から応援している(洗脳されている)阪神タイガースが優勝し、クライマックスシリーズ(CS)が始まってTV観戦していますが、どう考えてもおかしな制度だと思っている。アメリカメジャーリーグ(大リーグ)でも同じような制度はあるが、そもそもチーム数が異なるし、たったの12チームしかないのにその半数の6チームが出場できるという、ゆるゆる加減。そこにリーグの成績は加味されず(1ゲーム差だろうが12ゲーム差だろうが、勝率や勝利数などは無視)、3位のチームから見ても「6勝するだけ」で(大変には違いないが、リーグ優勝する大変さと比べればどうという問題ではない)、日本シリーズに出場できるという旨みしかない制度。今は改善されたが、当初はリーグ優勝すら奪われるというものだった。

 

 

とはいえ、消化試合を減らすという効果や、上位チームには営業利益(ホーム開催なので)もあり、なかなかにこれをやめるのは難しい事情もある(わかる)。だったら、クライマックスシリーズへの参加チームを増やすというのもあるんじゃないかと考える。いわゆる2軍や社会人野球とか大学野球とか、昔と比べればプロアマの関係ははるかに良くなっているので、そういうチームも含めてクライマックスシリーズをやったらどうだろうか。

 

この時期になると、いつももやもやするクライマックスシリーズ。幸いにして、今年はリーグ優勝したチームが優勢なので、もやもや感は薄いが、サッカー等の天皇杯よろしくプロアマでやったらどうだろう。そして日本シリーズも、アマが出たっていいじゃないかと割り切る。いや、プロの意地を見ることができる。そんな妄想を金曜の朝に抱きつつ、今回はここまで。

増えましたね〜。

何が?

生成AIでドキュメントを作っている人が。

少しくらいは自分で見直した方がいいのでは、と思うものも増えてきました。

 

個別具体的に挙げてもいいのですが、特に顕著なものがプレゼン資料、予算要求(新規事業)資料、そして国などの説明(解説)資料。支援を受けるのは大いに結構なのですが、明らかにツールに使われている人たちが増えました。無論、生成AIに限った話ではなく、昔から普通にあったことですが。

 

 

生成AIが厄介なのは、もっともらしい回答を用意してくることです。引用元は示しつつも、プロンプタの意向を(下手に)汲んでしまうので、微妙に改変されている。特に日本語は、文末の「〜できます」と「〜できません」で意味は正反対になるし、引用元が「〜そうであると見込まれるものの疑わしい部分はあり、可能性としては認められつつ、蓋然性としてみれば限りなく低い」みたいな、ありがちな下手な論文系のものから引っ張ってくると、意向汲みとの合わせ技でとんでも理屈が罷り通り、プロンプタはそれを鵜呑みしてしまうので、なんじゃこれというドキュメントができあがるわけです。

 

これがイラストなど、一覧性(パッと見でわかる)があるようなものなら間違いに気付きやすいですが、ドキュメントはなかなかそうはいかないですし、そもそもベース知識が曖昧だったり、下手すればほぼなかったりという状況では判定のしようがないので、悲惨な結果を生むことになるわけです。

 

さらに酷いのが、これは生成AIで作成されたものです、というようなものを出力された状態でのこしてしまっているドキュメント。何を利用したかの明示は当然に必要ですが、構造タグの中がそのままだったり、酷いものは引用画像にもそのまま無批判に汚いものを表示させるようになっていたり(マウスオーバーで浮いてくるヤツなど)、「おいこいつ、絶対分かってないか、丸投げだろ」としか思えない、どうしようもないものも多いです。

 

哀れなのが、これで自分は使いこなしていると思い込んでいる人たちだけなく、こんなものを見させられている人たちです。かつてワープロが普及し始めた頃、やたらと飾り文字を使ったり、表題を見にくく(醜く)加工したり(WordArtを覚えていますか)などなど、これ以外にも色々ありましたが(ExcelにおけるクソVBA作成物とか)、普及期には仕方のないことかもしれませんが、どうしようもないドキュメントや情報が悪意なく流布される現状を見て、勘弁してくれよと思いつつ、今回はここまで。

いやだって、前半で0−2ですよ。しかもいいところなしで。サッカー親善試合の対ブラジル戦。もちろん、TV中継で鑑賞していましたが、あっという間に0−2となったら・・・見ててもしようがないじゃないですか、後半にも点を取られて0−5になるかもしれない。

 

しかし、やってくれました。後半に3点取って3−2と逆転勝ち。歴史的勝利といわれていますが、私もそう思います。思いますが、嗚呼、なんてこと。そのシーンをTV中継ではなく報道等で知ることになろうとは・・・。あのまま見続けていれば良かった。後悔先に立たず、です。

 

 

これ自体は、能動的というより受動的なものなので、そこまでの悔いはあるかと問われれば、さすがにそこまではありません(あるけど)。しかし、これが我が事であったとしたら、悔いを残すのはその比ではないほど悔やむことでしょう。負けるリスクはあっても、勝てるチャンスを逃すというのは大きなものです。そう思うと、やるだけやってその結果を待つというのもあり、というよりそういう結果を望むのであれば、やりきるということが大事だと思うわけです。

 

まぁあれですね、結局のところ、見逃したのが(見るのをやめたのが)失敗だということです。対ブラジル戦初勝利を祝いつつ、悔いを残すという微妙なバランスの朝を迎えながら、今回はここまで。

私は、今に言う IT業界に長く身を置いていますが、この業界はキャッチフレーズで妄信的にユーザを動かす(危機意識を植え付けてというものが多い)という癖があり、古くはOA化から始まり、本当に有象無象のキャッチフレーズが作られ、そして「更新」されてきました。わかりますよね、新規ではなく更新です。つまり、中身はほぼ変わらずにラッピングだけ変える、プログラミング的に言うと「古いAPI(関数等)をモダンなAPIでラッピングする、ラッパーAPIのようなもの」なのです。

 

無論、上記は正確な定義とは異なりますが、これが営業方面に行くと都合良く翻訳(解釈)されて、既存のものとほぼ変わらないのに新しく見せる手法に置き換わってしまうのが、ほぼほぼで、真っ当な形で進化したものを見たことがありません。

 

 

昨今のDXもそうです。経産省が作成した危機を煽る白書的なものは、一部に疑問符を打つものがありますが、かなりの部分はDXとして問題のない素直なものです。それが浸透するに従って、いつの間にやら「これってOA化に置き換えても同じじゃね?」みたいなものまでがDXとうたわれるなど、明らかになんじゃこれ的なものが多いのが現状です。

 

悪貨は良貨を駆逐する、との言葉通り、DXも悪いDX(もどき)が真似をし易いので普及してしまう傾向が高く、厄介なことに素人向けの本などはこれらを吹聴することが大半(書くのも簡単ですから。それこそ生成AI任せでOK)ということもあり、これで満足する輩が多いという話も聞こえてきます。

 

結局、掛け声だけでどうにかなるかと言えばどうにもならず、やった(達成)感だけが残り、これでうまく回ればまだしもそんなに単純なものでなし。言い方を換えれば、余裕のあるところは生き残り、そうでないところは潰れていく(あるいはゾンビ化する)。それだけのことです。

 

DXの後、どんなキャッチフレーズが出てくるのか。そんなことを3連休明けに思いつつ、今回はここまで。

寝て起きるという行為。

意識を失っているので、無事に起きる(目が覚める)ことで生きていると確認できる。こんなことを普段考えもしないが、事故に遭遇しそうになったなど、危なかったと思う時にはこういうことを思うこともある。死ぬ瞬間というのは寝る瞬間に近い。直前に危機的状況があったかどうかを問わず(苦しみたくないというのはありますが)、次に起きる(目が覚める)ことがないのが死ぬことなのかなと。

 

そう考えると、表題にあげたように考えようによっては、毎日死んで毎日生き返るようなものといえるのかなと。毎日寝て毎日起きる行為。人生で2〜3万回程度(当然に個人差あり)行っていますが、老衰というのはこのサイクルが途切れるようなもので、朝起きてこないから見に行ってみたら亡くなってた(医師がいなければ警察関係の手間を踏むことあり)というパターン。無論、生物学的な死を迎えなくても意識が戻らないということも、同じような部類に入るのかもしれません。

 

 

人生も折り返しを過ぎている(世界最高齢から見ればまだですが)ので、死を意識したくなくても、ふと思うようになる。病気や事故、あるいは災害など様々なものがありますが、当たり前のこととして毎日寝て毎日起きるという行為自体も、考えようによってはなかなかに難しいことをしているのだなと思ったり。

 

10月3連休の最後の朝に、こんなことを書くのもなんですが、今日を大事にと思うキッカケになればなぁとしつつ、今回はここまで。