【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年9月4日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

こうも暑さが続くと「涼」を求めたくなるが、冷房の効いた中だけでは健康によくないということで、簡単な散歩がてらにこんなところに。

 

 

看板には「東京の名湧水57選」とあって、このちょろちょろ流れている水が湧水というわけである。場所は、東京都大田区田園調布本町39番。旧六郷用水がバブル時代にカネをかけて散策道として整備された中にある。

 

看板は古くなさそうなので、この中途半端な57選はいかなるものなのか、Google検索で調べてみると、「東京の名湧水57選」一覧表という東京都環境局が提供するページがあり、どうやら平成15年(2003年)あたりに選定したものらしいことがわかった。

 

57選あるが、東京23区内には16しかなく、ここがかなり貴重な湧水ポイントであることがわかった。また、ここは国分寺崖線にあたるところであるが、57選中には多摩地域を含めればこの崖線に該当するところが多いこともわかる。

 

たとえわずかな流れでも、湧水を眺めてみると「涼」を感ずることができる。が、しかし、ここに行き着くまでには暑いわけで、まぁ何というか草臥れ儲けっぽいのだが、貴重な名湧水を見ることができたことでよしとしよう。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年9月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

街歩きをしていると、何気ない風景でありながら突然と気になってしまうものがある。おそらく地元の方は当たり前すぎて気にも留めていないかもしれないが、そうでない人にとっては気になってしまうようなものだろうか。

 

 

ご覧のとおり、T字路が短い距離の間に3つもあるのである。場所は、東京都目黒区のうち、中央町一丁目と鷹番一丁目の境界あたり。ゼンリンの電子地図で示すとここになる。この電子地図を見ると、T字路が3つ続くようには見えないが、一つは明らかに鷹番小学校の出入り口にあたることから、自動車の通行には気を遣う場所かと思われる。

 

それにしても、このような道路パターンはいかにして作られたのだろうか。写真右側から写真奥に進む道路は、かつての目黒通り(旧道)であることから、区画整理(耕地整理)されたにしてもこのメイン道路(当時にとっての)を勝手にどうにかすることはできなかったと思われる。だから道路のかみ合わせが悪いのか、を確認するために大正初期の1万分の1地形図を見てみよう。

 

©国土地理院

 

ちょっと局部すぎるか? 先にリンク先で示した地図でいうと、鷹番小学校南側にある逆三角形の街区は、この大正初期の地図に見える逆三角形の街区と同じ場所である。地図(部分)左下端から右上を貫く道路は旧目黒通りで薄青色でを付けたところが写真撮影地点を示す。見れば、T字路は一つしかなく(地番660の南側に見えるT字路は写真でも見えるが3連続T字路のやや先にある、あえていえば4つめのT字路)、その後に追加されたT字路と理解できる。

 

というわけで、このような道路パターンは昔からあったわけではなく、住宅地化が進行する過程で生まれたものであることが確認できた。確かに現在の地図を見れば、このあたりだけが耕地整理(区画整理)が実施されていないように見える。やはり、都市基盤の整備は重要なのだと認識しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年9月8日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

昨日、京都に到着し、今巷で流行の大河ドラマ「龍馬伝」の影響をモロ受けで、京都駅についた途端、近鉄南大阪線に乗車し、寺田屋まで行った。その後、いつものようにふらふら歩き回っていたところ、夕方あたりから雲行きが怪しくなり、降り出したところで雨宿り。しかし、やみそうになかった&交通機関今一つだった場所(旅館までの)のため、私用では珍しくタクシーを利用。雨の降る京都を車窓が眺めながら、なじみの旅館でくつろいだ。

 

そして今朝。台風が通過中ということで朝から雨。旅館は東山なので、緑多い中の雨は外に出歩かないのであれば、それはそれでいいものである。猛暑、という感じでもなくなりそうなので、今日は今日でどこにでかけようかと思案中、の朝。

 

そんな思案中の中、昨日撮影した写真を整理しつつ、気になったものをご紹介しよう。

 

 

綾小路通りに面した、とある所。「右側駐車」にアクセント。左側駐車は常態化し、右側もピンチだというのだろうか?

 

 

そして島原。どうやらここは整備中のようで、道路工事が色んな所で行われている模様。

 

 

そして六角堂。敷地内の池には白鳥がいるが、噛みつくらしい危険動物ということのようだ(笑)。

と書いているうちに雨が上がってきた。といったところで今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年3月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

東京急行電鉄池上線は、五反田駅~蒲田駅間を走る路線だが、その中心駅はといわれれば、やはり路線名にも採用されている池上駅だろう(目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道を合併した当初は、五反田線と称そうとしていたがすぐに池上線と戻したもの、池上の影響力が強かったと思われる)。その池上駅。顔とも言える駅の名前が、今、長年の風雪に耐えた結果か、こんなになっている。

 

 

だいぶ錆び付いている?ように見える。アップにすると、

 

 

だいぶくたびれてきているなぁという印象。池上駅を初めて利用してかれこれ20年以上は経っているが、記憶違いでなければほとんど変わっていないように見えるので、その程度は手入れされていないのかもしれない。東急電鉄は、どんどん色んな所が新しくなっているが、例外は池上線(あと東急多摩川線?)のような気がする。

 

ま、これはこれで味があるとも思えるので、支えが落ちなければいいなと心配しつつ今回はここまで。

 

転載時追記:池上駅は駅ビル化し、今ではこの風景を見ることができなくなっている。池上線は、一時期(といっても40年ほど)まったく更新されそうな雰囲気すらなかったが、年月を経て東急電鉄ファミリーの仲間になった感があるからか、結構更新工事がされるようになってきている。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年6月14日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回に引き続き、今回も住居表示板の話。今回はこれ。

 

 

ここは、東京都目黒区自由が丘三丁目6番。しかし、住居表示板には「自由が丘」ではなく「自由ケ丘」と書かれている。住居表示前は、確かに自由ヶ丘(丁目はなし)であったのだが、住居表示実施時に「自由が丘」となった。つまり、一言で言えば公式なのに誤りなのである。

 

しかも、6番の6もシールが貼られた形跡があり、さすがにこれをはがして元は何だったかの確認はしていないが、気になる点である。仮に、6という数字が何らかの理由で表示が薄くなるなどして補強したならともかく…とまぁそんなことはどうでもいい…。(なお、こちらはどうでもいいわけではないので記しておくと、公共物というべき住居表示板に企業の宣伝を貼っている不心得者が確認できるが、こういうところとは絶対に取引しないよう勧めている。まだまだ取り組みとしては狭い領域だが、当社以外にも何社かあることは記しておこう。)

 

というわけで、目黒区はこのような状況を早急に改善した方が良いのではと思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年10月14日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

 

ここは、東京都世田谷区奥沢二丁目26番。このような住居表示板は、珍しいものでも何でもないが(住居表示未実施地域ではそうではないが)面白いのはその隣に住居表示前の町名番地が記載されているプレートがそのまま残されていることにある。しかもこのプレート、奥沢交和会と記されているように町会(町内会、自治会)がかかわっていると思われる点も注目である。

 

玉川奥沢町一丁目から奥沢二丁目へと町名変更した程度の変更(奥沢が残っている)ならまだしも、都心部では町名ジェノサイドというような住居表示がなされ、今更のように旧町名案内図を掲示する本末転倒的な例も見られる。それを思い起こすと、このようなささやかなものかもしれないが、現旧の町名が並んでいる街角が素晴らしいものだと感じた次第。

 

そんなことを考えつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年11月21日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

地元の方々にとっては数か月前から明らかだったようだが、そうでない人にとっては情報化社会の今日においても、必要な情報というものは必ずしも手に入るものではない。池上電気鉄道奥沢線(新奥沢線)の歴史が書きかけではあるが、その後には我が国田園都市の元祖、洗足田園都市を採り上げる(予定)ため、最新の現地情報を見てこようとしたその日。

 

 

洗足会館の前にはこのような案内が。そこには洗足会館の取り壊しと、その後に建設される建築計画お知らせ看板があった

 

 

ここは、第一種住居専用地域にあたるので、10メートルを超える建築物は原則建てることができないので、中高層建築物とは10メートル未満であっても一定の高さを擁すれば、このようなお知らせ看板を出さなければならない。結果的にこのことによって、この計画を知ることができたのだから、まぁありがたいと言った感じになるだろうか。

 

それにしても、私は運がよかったとなるのだろうか。取り壊しの工期が「平成22年11月12日から平成22年12月16日まで」とあるので、今日は11月21日ということから、工期が順調なら既に洗足会館は取り壊されていたかもしれない。だが、幸いにして

 

 

このように最後の雄姿というか、洗足会館の最後の姿を見ることができたからだ。洗足会館については、竣功当時の写真を当blog記事「洗足会館、竣功時の写真」に採り上げたように、竣功は昭和6年(1931年)で今年で80年目の建物で、太平洋戦争の空襲にも生き残った(洗足田園都市は駅周辺を含め、半分程度焼けてしまっている)。その希少性だけではない。洗足会館は、単なる町会会館のようなものではなく、洗足田園都市の発展過程において果たした役割等も考え合わせれば、歴史的にも重要な建物であり、文化遺産と言うべきものとも思える。

 

 

だが、現実は甘くはない。そもそも、洗足田園都市誕生時からの致命的問題であった行政区域が3つに分かれている(誕生時は、荏原郡碑衾村、荏原郡平塚村、荏原郡馬込村。現在も東京都目黒区、東京都品川区、東京都大田区。なお、洗足田園都市に関する文献には洗足村だとするものが多いが、そのような町村は存在しない)ことで、洗足会館が社団法人洗足会の持ち物であっても、町会(自治会)としての機能を持たない洗足会には、洗足会館を維持することも難しいばかりか、建替えとなればそれこそ莫大な資金を必要とするが、その上で建物を保存するというのは困難以外の何物でもないだろう。

 

とはいえ、関係者でないので現実がどう推移しているかはわかりようがない私なので、建築計画のお知らせ看板からのみで判断すると、この建替え計画における相当な資金は、共同住宅化することで捻出するのかと見込まれる。洗足会館が単なる共同住宅(会館機能はどうなる?)になってしまうのは何とも残念であり、また、そもそも洗足会館は田園都市株式会社が目黒蒲田電鉄に合併される際の手切れ金のような性格の寄付金をもとに建設された経緯を考えれば、洗足会を適切に継承したかどうかが社団法人洗足会に問われたであろう。また、他にも様々な問題があったからこそ、ここまで再建計画が遅れたと見ることもできるだろうか。

 

まぁ、当事者の問題は置いておいて、洗足会館を見ることができるのは、解体工事計画が順調に進捗すればあと一か月もないことになる。約70年近く洗足田園都市の顔として存在した洗足会館が消えることで、ほぼ完全に洗足田園都市を記憶にとどめるものは失われるだろう。そんなことを思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年5月7日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

現在、誰もがデジタルカメラあるいはデジタルビデオカメラを持つ時代になったといっていいように感ずるが、ポラロイドカメラや写るんです等のインスタントカメラを含むフィルムカメラ時代を知る者にとっては、当時と比べれば無限といっていいほどの写真撮影枚数を見て愕然とされたことはないだろうか。

 

最近、VAIO Zの調子が悪いので(ソニータイマー発動?)この際だからとバックアップを取る前提で、デジカメ写真を整理しようかと数えてみたら約10万枚(ファイル数)もあってびっくり。こりゃ整理するどころか、単にバックアップコピーを取るしかないかと思いつつも、光学ディスクメディアへの書き込みはやってられないほど遅いので、結局はメモリカードへの複数バックアップを試みた。結局、時間というコストを考慮に入れればこれが一番だという結論(同一データを3枚のメモリカードにバックアップ)になるが、いやはやUSB 3.0等の高速インタフェースがほしくなるのも当然か。

 

今回は、写真を整理する中で何となく目にとまったものをご紹介していこう。中にはどこで何を撮影したのかさっぱりなものもある(苦笑)。

 

これはパリですな。エッフェル塔がなければあれ?というところだが。

 

これはどこでやってたものだったかなぁ…。今風に言えば、ルイ16世の生首フィギュアみたいな感じか。

 

これは、東京都品川区にある桐ヶ谷葬祭場そばのバス停。桐ヶ谷寺の「禅」の字だけ手書きっぽくなっているのが気になる

 

これは、東京都大田区にある東急池上線は、二代目雪ヶ谷駅跡地。

 

これもパリ、セーヌ河畔の風景。

 

パリのパンテオンはこちら的な標識が出ているので、そのあたり。

 

さすがにこれだけではどこか思い出せないが、間違いなく欧州の都市だと思う。日本の夜はまだまだ明るすぎるね。

 

とうきやう、です。でも、撮影場所は埼玉県さいたま市です。

 

確かこれは「一一町会」という名前が面白いというので撮影した記憶が

と、こんな感じで続けていくといくら時間があっても足りないので、今回はここまで。

 

転載時追記:デジタル写真の整理。結局のところ、整理するというのは諦め、クラウドにデータを放り投げつつ、アプリによるお任せ整理を行っている。10万枚を超えているので、最早人手で管理すること自体が厳しい(苦笑)。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年5月24日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

業務多忙につき、そして別件でなかなかBlogを書いている時間もとれないと言いつつ、あまり間を開けると書くのも億劫になりそうな予感もするので、先日家人に付き合って出かけたJR山手線 新大久保駅まで出かけたこと(驚き)を書いていこう。

 

新大久保駅、といえば私が若い頃(新宿付近で遊び歩いていた頃)は、都立大久保病院(今はない)の向こう側で何となくぱっとしない場末の呑み屋が多いくらいな認識で、その後はオリエンタルな、東アジアなというか、日本でないような街並みが続くところ程度の認識だった。そもそも新大久保駅を目的地として出かけたことはなく、町歩きの一環として戸山方面や職安通りの拡幅状況などを見に行った際、たまたまそこが新大久保駅あたりだったにすぎないものだった。しかし──

 

 

ただでさえ狭い駅だが、そこに溢れんばかりの人、人、人。それもおばちゃんや若い婦女子が多いのだ。この狭い駅前に集っている理由は、単に待ち合わせ場所としているだけでと思えるが、駅前広場を持たない狭い新大久保駅なので駅利用者には迷惑千万といったところだ。

 

 

ただし、この混雑する人々が向かうところは限られており、韓流芸能人関連商品を扱うショップにのみ長蛇の列。

 

 

たぶん、以前はパチンコ店かゲームセンターだったと思われる店舗には韓流百貨店。ここもすごい人だった。ただ、この手の店以外はまったく人は寄り集まっておらず、本当にここだけ人が集まっているという印象。店の外には、付き合わされたとおぼしきパパ(笑)や子供たちが路上を占拠し、これまた迷惑千万である。(転載時注:現在はこの場所から移転されています。)

 

まぁここまですごいのは、地元の方曰く土日の日中のみという。夜はまた違う雰囲気のようなので、これはこれでいいのかもしれないと思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年6月10日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

タイトルは大きく出ているが、中身は矮小で、単に行き先表示の話。

 

 

ここは東京都世田谷区。環八通りにある案内板。右下に世田谷区マークがあるので世田谷区が設置(あるいは管理)しているものと思われるが、ここには「自由ケ丘」そして「雪ケ谷」と、いわゆる「ケ」表記として地名が書かれている。

 

しかし、住居表示的には「自由ケ丘」でなく「自由が丘」であり、東急電鉄の駅としても「自由が丘」となっているので、地名としては「自由ケ丘」という表記は存在しない。同じように「雪ケ谷」も住居表示的には「東雪谷」と「南雪谷」そして「雪谷大塚町」とあるように「雪谷」であり、東急電鉄の駅及び東急バスのバス停としては「雪が谷」表記なので、こちらも「雪ケ谷」という表記はない。

 

もちろん、マンション名や金融機関の支店名などには「自由ケ丘」や「雪ケ谷」表記はあるので、まったく使われていないわけではない(ただし、大半が住居表示前の旧町名や東急電鉄の駅名表記ルールの変更前に命名されている。つまり当時としては正当だった)。そして「柿ノ木坂陸橋」のように、それ自体が一つの固有名詞化したものであれば、たとえ現行町名が「柿の木坂」であっても「柿ノ木坂陸橋」で問題はない。だが、単独使用での行政地名や公共的な地名ではないことは確かだろう。

 

そうなると、この案内板は今から40年近く前(まだ「自由ケ丘」や「雪ケ谷」表記が有効だった昔)に設置されたものなのだろうか? そうではない。仮にそうだったとしても、この手の案内板(標識類)は塗り替えられる際、あるいは強制的に新しい名前(地名)に書き換えられるものである。さすがに40年も放置するなどあり得ないと考える。

 

では、なぜこのような表記がまかり通っているのか。まず、もっともありがちなのが、この案内板を設置しているのが世田谷区であるから、というものである。自由が丘は目黒区の町名等であり、雪谷(雪が谷)は大田区の町名等であるので、どちらも世田谷区でないことからどうでもいいとされているパターン。おそらくこの案内板は当初は東京都が設置したもので、東京都はあまり地名表記にこだわりはなく、結構いい加減な表記が多かったので、これもそれに類するパターンだった。その後、世田谷区に管理が移管されたが、自由ケ丘も雪ケ谷も世田谷区の地名ではないので、特にどこからもクレームは入らないなどの理由からそのまま放置されている、という予想である。

 

続いて考えられるのは……う~ん、思いつかん(笑)。ま、そんなこんなで今回はここまで。