【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年6月17日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

久々の一枚の写真のコーナー。今回はこれ。

 

 

「東京横浜電鉄沿革史」に掲載されている写真で、現在の田園調布(東京都大田区)。具体的な場所はどこかと特定困難だが、井戸があること、田んぼではなく畑系の土地であること、一軒の家とそれに隣接するそれなりの幅員の道路があること、写真やや右側が下っていること、水の流れから手前側に下っていること、家の影の付き方から見て手前側が南で写真奥が北方向であること。以上の条件から、大正時代の2万5千分の1地形図で示すと、

 

©国土地理院

 

このあたりではないか、と予想する。あくまで予想なので、外れていてもご容赦と言いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年8月13日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回、前々回と「東京23区の地名の由来」(著者:金子 勤、発行:幻冬舎ルネッサンス)の誤り等を指摘してきたが、今回はその3回目。最初に示したように品川区、目黒区、大田区のみとしてきたので、残る大田区について見ていこう。

 

 

まずは、本書176ページの南千束について。

南千束 由来は千束分の稲束の免税による。そこに千束池があり。弘安五年(一二八二年)、日蓮が身延山を下り当地の池のそばで、六十一歳で入寂したので洗足池と改称された。現在、南千束一~三丁目、北千束一~三丁目まである。

日蓮上人に明るい方は私が指摘するまでもないだろうし、地元大田区の千束地域の方も同様だと思うが、無批判にこの文を読むと「日蓮上人は千束池近くで入寂したので洗足池と改称した」としかならず、誤りだとすぐにわかるだろう。日蓮上人が身延山をおりたのは、病気療養のため、常陸国へと湯治に行くためであった。途中、武蔵国に入り、池上郷の池上右衛門大夫宗仲の館を宿とした時には病状は悪化し、これ以上、旅を続けることができなくなったと察した日蓮上人は、館の裏山にあった一宇を開堂供養し、長栄山本門寺と命名。ここを最後の居地と定めた。そして、10月13日に61歳で入寂されると、池上右衛門大夫宗仲は69,348坪を本門寺寺領として寄進したのである。

 

池上本門寺と千束池(洗足池)の距離は、直線でもおおよそ2km程度はある。この距離をもって「近く」というのは、感覚の違いもあるだろうが、なかなか「近く」だとは言い難い。そもそも、千束池→洗足池への字の書き換えは、江戸後期の日蓮上人袈裟掛けの松伝説とセットで用意された「袈裟をかけた際、池の水で足を洗った」という話を「せんぞく」の読みに合わせて「洗足」とした「かけことば」である。つまり、日蓮上人の入寂も池上(長栄山)本門寺とも直接の関係はないのだ。

 

推測だが、著者は無分別に現地を訪れなくとも手に入る、適当に仕入れた情報を思いついたまま並べただけの知識しか持たない故に、このようないい加減な記載になるのではないだろうか。他項目を見ても、勘違いというにはあまりにレベルの低いものが多く見られることから、その思いを強く感ずるものである。

 

続いて、本書176ページの雪谷について。

雪谷 戦前までこの地は氷室といって氷をつくっており、夏にその室から出して来て売っていたという。鎌倉雪ノ下も氷をつくった所。現在、雪谷大塚町と東雪谷一~五丁目、南雪谷一~五丁目まである。

何度も言うが、著者は自然地形から地名はあるべきとの持論を捨てたかのような記載である。雪谷(ユキガヤ)の「ユキ」は崩壊地形を指すものであり、実際、日下山(髭山)という小名もあって(バス停名にも残る)髭状の崩壊地形を指す地名も雪谷内にあることからも、自然地形説をあげてほしかった。なお、氷屋があったのは事実だが、雪谷(雪ヶ谷)の地名は戦国時代以前に遡ることから、いかにこの氷室説がいまいちだと言うことは著者には言わずもがなだと思うのだが…。

 

続いて、本書177ページの田園調布について。

田園調布 大正七年以降、渋沢栄一らによって都市開発されたので「田園調布」と名付けられた。それ以前は「調布村」といい、自生する麻(春分に種を蒔き秋分に刈る)や苧の皮を玉川で晒し、砧で打って布を作り府中に献上した。現在、田園調布一~五丁目、田園調布本町、田園調布南がある。

「大正七年以降、渋沢栄一らによって都市開発されたので「田園調布」と名付けられた」という記載で、なぜ田園調布となったのかわかりますか? 続く文に調布村とあるので、調布はわかるにしても「田園」と付いた理由はさっぱりわからないのが普通だろう。田園都市株式会社の存在と、調布田園都市という呼称の説明無しに語るのは困難というか無理があろう。その後に続く、「~府中に献上した」とあるのは蛇足で、こんな記述をするくらいならもう少しでも田園調布の説明に費やすべきだ。ちなみに調布村となったのは明治22年(1889年)からと、けっして古い地名などではない

 

続いて、本書177ページの久が原について。

久が原 一般的には平安時代、空閑地として朝廷に物納した所という。当区では陸地が呑川に呑み込まれて行った所と考えられる。現在、久が原一~六丁目まであり。

また平安時代まで遡っている(笑)。「クガ」という名前からの崩壊(自然)地形説はここでも見えない。さらに、呑川についての記載はあるが、当地域において呑川と呼称されるようになるのは、どんなに早くても明治時代以降で、それ以前はやや上流から石川と呼ばれていた。呑川は蒲田方面から糀谷方面(海側)にかけての名前であり、久が原という地名の説明に使うのは誤り。現在の地図からのみ判定している著者の浅はかな考えがここでも伺える。そして、南久が原一~二丁目を記述漏れ。

 

続いて、本書178ページの池上について。

池上 由来は洗足池の池周辺に位置するのでそういう(新編武蔵風土記稿)。現在、池上一~八丁目まである。一丁目に日蓮宗大本山という池上本門寺があり、毎年盛大なお会式が行われる。

池上とは、今では池上駅や池上本門寺の存在から住居表示において東京都大田区池上一~八丁目あたりのこととされてしまっているが、本来の池上は現在の町名でいうと概ね上池台や仲池上あたりを指す。池上本門寺あたりは下池上だっだのだ。よって、著者の説明にある「由来は洗足池の池周辺に位置する」という新編武蔵風土記稿からの引用は正しい(引用元が正しいのだが、著者は引用そのものを誤っているものがあるので、いちいちこう書かねばならないのが辛いところ)。ここで指摘するのは、仲池上一~二丁目を漏らしているという指摘のみにとどめる。

 

続いて、本書178ページの大森について。

大森 大きな森があったからそういう(新編武蔵風土記稿)。「大杜」とも書いた。明治十年、アメリカから来日した動物学者エドワード・モースが大森貝塚を発見したのは有名な話である。現在、大森北一~六丁目をはじめ、東西南北と大森本町あり。

ここは一言だけ。大森中(一~三丁目)を書き漏れ。

 

続いて、本書179ページの羽田について。

羽田 由来は「埴田」で、関東ローム層の赤土から来ている。赤羽と同じことがいえる。〔類例〕1栃木県大田原市羽田/2茨城県桜川市羽田/3大分県大分市羽田/4大分県日田市羽田 羽田飛行場の飛行機と羽とは関係なく、本羽田一~三丁目の羽田をいう。現在、本羽田の他、羽田一~六丁目、羽田旭町がある。

「埴田」説は通説であって、特に疑義を持つものではないが、関東ローム層の赤土がこの羽田地域の地名の由来であるのかというと、疑問符が付く。地質学等の不勉強のため、まったくの素人考えとは思うが、多摩川下流域の氾濫原であって、地下30~40メートルほどは堆積された氾濫原の地層が形成されているような場所が、台地の切片等で見られる赤土が出る(見える)のだろうか。で、本論に戻り、ここで指摘したいのは「本羽田一~三丁目の羽田をいう」の箇所で、この地域に属した羽田村(羽田猟師町が分村する母胎となった村。羽田村→羽田村(町)大字羽田→蒲田区(大田区)羽田本町→大田区本羽田と変遷)が「羽田」の由来だと言いたいのだろうが、言葉足らず。なお、羽田の付く現行町名に羽田空港一~三丁目が含まれていないが、これは別項で採り上げられているからであろう。

 

続いて、本書181ページの南六郷について。

南六郷 六郷とは、六つの郷から成っているのでそういう。古川町、高畑町、町屋町、八幡塚、雑色、出雲町などがある。現在、仲六郷一~四丁目、西六郷一~四丁目、南六郷・東六郷一~三丁目まである。

六つの郷から六郷はいい。だが、これを「古川町、高畑町、町屋町、八幡塚、雑色、出雲町など」と、などと付けるのも変だが、荏原郡六郷町が東京市蒲田区の一部となった際の町名を六つの郷(村)と掲げるのはおかしい。また、蒲田区の町名とするなら八幡塚ではなく六郷町(八幡塚の名は東京市蒲田区誕生時に消滅)、雑色ではなく雑色町が正しい。六郷とは、この辺りの多摩川を六郷川としたのがそもそもの由来で、古川村、高畑村、町屋村、八幡塚村、雑色村と八幡塚村の飛地扱いであった出村が六郷である。これら6村は、江戸期には飛地が細かく散在・入り交じっており、六郷と呼ばれるに相応しい村域だった。それから、六郷川そのものの由来については、中世あたりまでは遡れるということなので、上にあげた6つの近世以降の各村(飛地含)ではなく、武蔵国の国衙領としての八幡塚、永富、大森、蒲田、堤方、原の6つの郷(六郷保)を指すものと考えてもいい。

 

続いて、本書181ページの平和島について。

平和島 工業用地として埋め立てられた人工島。昭和四十二年、日本が平和であるようにと名付けられた。現在、平和島一~六丁目まである。

戦後、我が国でいわゆる「平和」を冠する通り名や町名、地域名、他にも企業名等に次々と採用された時期があったが、それは昭和20年代から30年代(西暦で言うと1950年代前後)であって、いささか昭和42年(1967年)に命名とは役所仕事といえど遅きに失した感がある。実際そのとおりで、町名として公式に住居表示として平和島一~六丁目が成立したのは昭和42年(1967年)で正しいのだが、平和島という名前自体は昭和20年代から存在した(一例として、平和島競艇場が平和島と冠したのは1957年(昭和32年)のこと)。現在の東京都大田区平和島一丁目あたりは、戦前から一部の埋立地として完成しており、戦前は捕虜収容所として、戦後は逆に戦犯の収容施設として活用された。その後、通称として「平和島」という名称が定着し、昭和30年代には先にふれた競艇場のほか平和島海水浴場等と平和島を冠した所が登場するに至る。つまり、歴史的経緯からすれば、著者の説明に難があることは確かであるとなる。

 

続いて、本書181ページの城南島について。

城南島 江戸城の一番南の方に大田区があるのでそういう。城南信用金庫もこの辺から神奈川県などをテリトリーとしている。現在、城南島一~七丁目まである。

由来は「城南」地区としての通称でいい(城東、城西、城北のいずれもある)が、城南信用金庫を引き合いに出すところが著者がよくわかっていないと痛感する箇所である。城南信用金庫は、昭和20年(1945年)太平洋戦争最末期に誕生したが、もとは入新井信用組合、品川信用組合、碑衾信用組合等といった荏原郡時代(東京市合併前)に各町村にあった信用組合が統合してできたもので、城南地域の各町村の信用組合を統合したという総称として「城南」が命名されたものである(よって、当初は城南信用組合といい、昭和26年(1951年)に城南信用金庫となる)。これと並列に城南島の由来を記すのは、命名理由が違うのだからいかがなものかとなるのだ。

 

続いて、本書181ページの京浜島について。

京浜島 東京の浜という意味。現在、京浜島一~三丁目まである。

「京浜」が「東京の浜」という説は滅多に聞かない説で、一般的には「京浜」とは「東京と横浜」を意味するだろう。ここでは京浜工業地帯の京浜に由来する。京浜島(京浜六区)となったのは、ここが東京都大田区内の中小町工場の移転先となったからで、いわゆる住工混在地域において「公害」という名目で町工場が追い出されるような時代に生まれた徒花でもある。だからこそ、島に追い出されたのではなく、京浜工業地帯の一翼を担うという強い自負によって命名されたわけである(その名も京浜工業団地)。それにしても「京浜は東京の浜」という説は、著者自身がまえがきで宣言した“「地名の由来創作厳禁」という思い” をかなぐり捨てたかのような印象を強く持つ。

 

続いて、本書182ページの羽田空港について。

羽田空港 昔は貝の養殖などが行われていた漁師町は昭和二十六年、羽田空港となった。当初、二十五ヘクタールにすぎなかったのが国際線となり、年々拡大して行った。平成十二年には、二期、三期工事で拡張され、一二七一ヘクタールとなった。現在、羽田空港一~三丁目まである。

これもひどすぎる。まず貝の養殖などとあるが、明治以降は海苔の養殖がメインであるはずで、貝については養殖というよりは好漁場と表現した方が適切だろう。まったく貝の養殖がなかったわけではないが、現在の羽田沖の潮干狩りからの著者の想像(妄想)という印象が拭えない。しっかり当地の歴史を確認すれば、羽田沖は海苔の養殖と書くべきだ。また、羽田空港とは通称で、戦前は東京飛行場(通称、羽田飛行場または羽田国際飛行場)、戦後の米軍接収中はハネダ・エアベース(ハネダ・アーミー・エアベース)となるが、あくまで形式上は東京飛行場であって、返還後に東京国際空港を名乗る。よって、著者のいう「漁師町は昭和二十六年、羽田空港となった」は、字が違うだけでなくまったく意味不明なのである。昭和26年(1951年)という年は、まだサンフランシスコ平和条約は発効しておらず(発効は翌昭和27年)、管轄が我が国(運輸省(現、国土交通省))に復帰したのは、昭和27年(1952年)7月だった。何か、昭和26年という年が羽田空港にとって特筆すべきことでもあるのだろうか。単に、昭和6年(開港の年)を昭和26年と混同していたなら、開いた口がふさがらない

 

また、羽田猟師町は海老取川西側に位置し、昭和初期の東京飛行場以来の空港の位置は海老取川東側である(できた当時の住所は、東京府荏原郡羽田町大字鈴木新田字江戸見崎北ノ方といった)。米軍接収時点で言うなら、東京市蒲田区羽田穴守町、同市同区羽田江戸見町、同市同区羽田鈴木町(他に御台場等を含む)であり、羽田猟師町とは関係がない(東京市合併時点で羽田猟師町は蒲田区羽田二丁目等となった)。あえて江戸期以来の名称で言うなら羽田猟師町ではなく、鈴木新田と言うべきだろう。著者は、基本的部分での理解が欠けているような印象をここでも強く受けるのである。

 

さらに「当初、二十五ヘクタールにすぎなかった」とあるが、昭和6年(1931年)に開港した当初から52.8haあったので、これもでたらめである(まさか、5と2をひっくり返したという理由ではないだろうが…)。「平成十二年には、二期、三期工事で拡張され」についても省略しすぎて間違い。どうしてこうなった?というほどだが、何か悪書からでも引用したのだろうか?

 

以上、長くなったが、このような中身がないだけでなくいい加減な記述の多い、つまらない書籍の話題を続けるのも面白くないとしつつ、何とか大田区の項まで書き進めた。これまで採り上げてきた品川区、目黒区、大田区以外の20区についても、詳しくないので言及しないが、明らかに違うだろ!と気付く箇所は多いので、詳しい方がご覧になれば、本書は誤りだらけだと思われるに違いない。私の採り上げた3区以外は、まったくこのような状態にないと思う方が厳しいだろう。

 

さて、本書についてはこの話題の最初で書いたように、当Blogをご覧いただいている方から「あまりにひどい内容なので取り上げてほしい」的なお話しを頂戴し、図書館で借りて見た結果が情報提供どおり(というかそれ以上にひどかった)ことから書き進めた。これまで当Blogでは、Wikipediaの記載誤りや鉄道ファン向けの書籍にある地域歴史等に関する誤り等を指摘してきているが、この書籍と比べてしまうと、他書は誤りですらないような印象を覚えた。それほどまでに本書はダメなものと感じたのである。とはいえ、著者に同情の念を感じないわけではない。書籍とは、著者だけですべてが決まるものではなく、編集者という存在を無視するわけにはいかない。勝手な想像だが、著者の書いた内容は面白くない(売れない)ので、編集レベルで著者の意図とはかけ離れた形で出版されてしまう可能性だってある。ここまで取り上げてきたように、根源的部分から本書はいい加減な記載が多いので、編集レベルで大きく悪い方に振れたとは考えにくいが、可能性としてはかなり低いと思われるがあげてはおこう。

 

といったところで、思いがけず長くなった。もし、この書籍がコンビニ等で売られている、いわゆる500円本の類であって著者も誰だかわからず、地名の由来を面白可笑しく語るだけであれば、このような取り上げ方はしない。だが、著者がまえがきでふれている内容(他書には誤りが多いのでただす的な物言いや、地名捏造を批判するようなこと)や、実際にその場所を訪れ、地形に基づいた地名由来について記載しているようなことを喧伝しているのを見ると、この書籍はあぶないのでは?という危惧を抱かないわけにはいかない。羊頭狗肉。この言葉が相応しいと感ずるのは、まさにこの点からであるのだ。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年8月10日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回も引き続き「東京23区の地名の由来」(著者:金子 勤、発行:幻冬舎ルネッサンス)の誤り等を指摘していこう。積み残した目黒区から見ていくこととする。

 

 

まずは、本書169ページの三田について。

三田 由来は朝廷の米倉から来ている。三田=御田=屯倉。平安時代の『和名類聚抄』に御田郷とあり、広範囲で現在の目黒区、港区、品川区に及んでいる。現在、三田一~二丁目まである。二丁目に慶応大学三田キャンパス。

おわかりですね。慶應義塾大学三田キャンパスは三田二丁目は三田二丁目でも、目黒区のそれではなく、東京都港区三田二丁目である。目黒区の三田はJR山手線の目黒駅~恵比寿駅間にあり、港区の三田はJR山手線(京浜線)でいえば田町駅が最寄り駅で、どこをどう勘違いすればこのような過ちを犯すのか見当が付かない。絶対に著者は現場などに行っていないだろうし、神奈川県がホームグラウンドであったとしても知らなすぎる。奥付によれば著者は早稲田大学卒とのことなので、よほど慶應義塾大学が気に入らないのだろうかと邪推すらしてしまう、あまりに致命的な誤りだと言えよう。

 

次は、本書170ページの祐天寺について。

祐天寺 由来は芝の増上寺の第三十六代法主を開基とする浄土宗・祐天寺の名前による。享保七年(一七二二年)、八代将軍吉宗から、明顕山祐天寺の号が与えられた、浄土宗屈指の名刹。現在、祐天寺は一~二丁目まであるが、そこには由来となった寺はなく、隣の中目黒五丁目にある。

祐天寺の説明だが、正確には祐天上人の開基ではなく高弟の祐海上人が創建し、祐海上人が祐天上人を開山と仰いだため、祐天寺の名がある。よって誤り。また、町名の祐天寺は寺である「祐天寺」に由来するのでなく、東急東横線の「祐天寺」駅に由来する。無論、祐天寺駅は最寄り駅として祐天寺に因むので、まったくの誤りではないが「そこには由来となった寺はなく、隣の中目黒五丁目にある」と蛇足を記してしまっている。地名と由来物が一致していないことを主張したかったのだろうが、そんなものはごまんとあるのだ。

 

続けて、本書171ページの柿の木坂について。

柿の木坂 急坂の途中に柿の木があったので付けられた。特に秋から初冬にかけての柿の木は趣のある風情さで人の足を止める。明治期には衾村の柿木坂下といったが、衾の字と意味が難解のため、柿の木坂が浮上してきた(目黒五十年史)。現在、柿の木坂一~三丁目まである。

もしもし、自然地形説はどうしました? 柿の木坂は坂名に由来はするが、坂の途中に柿の木があったとする通説よりも「カキノキ」と読みから自然地形を出してもよかったのでは? また、目黒五十年史からの引用としている「明治期には衾村の柿木坂下といったが、衾の字と意味が難解のため、柿の木坂が浮上してきた」と意味不明なことをいっている。村名と小字名は違うだろうに、一緒にまとめてどうしようというのだろうか。言葉足らずだけと思いたい。

 

同じく、本書171ページの洗足について。

洗足 稲たば千束という意味から来ている地名。「足洗い」の洗足は伝説から来ている。伝説は日蓮上人の足洗い説や、キリストの弟子が足を洗った故事から付けられた(洗足学園入学案内)。現在、洗足一~二丁目まである。

由来は洗足池畔(の分譲地)から来ているので千束の説明は妥当だが、続く「足洗い」の説は勇み足。洗足学園の由来を洗足のそれにひっかけているのが著者の無知を露わにしている。

 

さらに、本書172ページの緑が丘について。

緑が丘 この地が緑の多い丘陵地・畑であることにちなむ。かつては碑衾町大字・谷畑といった。昭和七年、緑が丘となる。その頃は一面の麦畑だったと古老は回想する。現在、緑が丘一~三丁目まである。

誤りの連鎖。緑が丘の説明には「大字谷畑」とある文献が大変多いが、碑衾町(及びその前の碑衾村)に大字谷畑などない。大字は碑文谷と衾の二つしかなく、東京市に合併される直前になって大字衾から大字自由ヶ丘が分離して3大字となったが、大字自由ヶ丘であって大字谷畑ではないのだ。おそらく、衾村時代の4つの地域の一つに「谷畑」があったという話が混同して伝わるうちに、有力な書籍が誤って「大字谷畑」としたのだろう。だが、これ以外にも著者の誤りはあり、昭和七年には「緑が丘」ではなく「緑ヶ丘」が正しく、一面麦畑だったとする話も当時の地形図を確認すればわかるように、半分以上は水田だったのだ。古老の印象を記すのはいいのだが、その適否について是非現地に足を運んで確認していただきたいものである。

 

同じく、本書172ページの自由が丘について。

自由が丘 由来は、この地にある自由ヶ丘学園という学園名から来ている。昭和二年、東横線開通。現在の自由が丘駅がある地は九品佛といい、九体の阿弥陀如来が安置されている寺だった。九品佛は駅名変えを迫られ、「自由が丘」と改称した。奥沢七丁目にある九品仏浄真寺は寺の正面の方に駅を移動した。現在、自由が丘一~三丁目まである。

著者の錯乱はここでも見られる。由来は自由ヶ丘学園はいいとして、東横線開通もまぁいいだろう。しかし「自由が丘駅がある地は九品佛といい」、とは何だろうか。九品佛は地域名ではなく、自由ヶ丘駅の前駅名というべきだろう。続く「寺だった」…ってところまで読み進めると文法すらおかしく見える。しかも、九品佛が駅名変更を迫られとするが、これは二子線(大井町線)の新駅が九品佛近くにできるのでここに駅名を譲り、九品佛駅からの改名候補だった「衾」駅について駅名変更を迫られたとなる。著者は単に端折って書いたわけではなく、続けて「奥沢七丁目にある九品仏浄真寺は寺の正面の方に駅を移動した」と意味不明なことを書いていることからも何もわかっておらず、でたらめを書いていることが確認できよう。

 

以上、目黒区の採り上げられている17の地名のうち、6つを採り上げたが、これ以外にもあからさまな嘘ではないが、この記載はいかがなものか?と思うものも加えると半数以上おかしな説明ばかりである。またまた長くなったので、残る大田区についてはまた次回以降としよう。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年8月8日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今から半年ほど前の2月、書店で「東京23区の地名の由来」(著者:金子 勤、発行:幻冬舎ルネッサンス)という書籍を見つけ、数多ある地名本の一つかと思い、ざっと見たところ、あまりのレベルの低さに辟易してすぐに書棚に戻した。あれから、半年。意外に…といっては失礼だが、現時点で数版を重ねているようで、書店によっては平積みされているところもあったりして、嗚呼、市場ではこういう低レベルの本でも入門書と言おうか、簡単に読める本の方がいいのだな、くらいに思い、やはりそれ以上気にすることはなかった。

 

 

だが、当Blogのコメント欄を通じて(非公開要請につき皆様からは見えません)、とある情報をいただき、本書について簡単に「ここがダメ」的な記事を書こうと思い、昨日近所の図書館で本書を借り、腰を落ち着けて高校野球観戦の合間に読了した。というわけで、私が書籍「東京23区の地名の由来」のここがダメだと感ずる点を書いていこう。

 

まず、本書の特長を一言で言うなら「東京23区の一部地名について著者の100文字弱程度のコメントを書き殴ったもの」となる。新書版サイズかつ正味220ページ程度の分量で東京23区の地名を解説することは、どう考えてもまともな方法は無理なので、私が感じた本書特長に示した方法を採るしかないのかもしれない。なので、著者都合の地名取捨選択と一貫性のない思いつきを書き連ねるしかないのもわからないではない。

 

ただ、その割には「まえがき」に

 地名の由来は、多くの人にとって関心の高いテーマだと思われます。これまでも、地理学者のみならず、歴史学や民俗学の研究者など様々な立場の方が、諸説あげています。その中には、誤った説も見受けられました。そこで私は、「地名の由来創作厳禁」という思いのもと、研究を始めました。

 地名の由来とは在名や自然地形名に基づいた説であるべきです。自然地形をもとにしているからこそ、関東圏内だけでなく、日本各地に似たような地名があることも明らかになっています。しかし、江戸・東京には武士領主の専横で、そうした説が陰をひそめてしまいました。本書は、それらを掘り起こし、各地に足を運び、研究した記録です。

 本書をとおして、日本各地の地名や地形にも興味をもっていただけたら幸いです。

二〇一〇年一月吉日 金子 勤

 

と、なかなかに理想を語っているのである。中でも「それらを掘り起こし、各地に足を運び、研究した記録」という点は、机上の空論ではないと言わんばかりなのだが、残念ながら本書の内容からは短すぎるためか、表現下手だからなのかはわからないが、私の読解力不足の可能性も高いが、まったく見えない点は残念である。もちろんそれ以外にも、明らかに著者が「受け売り」だろうとしか思えない箇所も多く感じた。要は、まえがきの理想と肝心の本文のレベル差が著しく、羊頭狗肉だと思うのだ。最初から本書は分量が少ないので書き足りないことも多い、等としていればまだしも、である

 

では、私がこう感じた理由について、具体的に本書の内容を確認しながら論じていこう。とはいえ、私も東京23区の地名に明るいわけではないので、地域歴史研究の、特に池上電気鉄道等の歴史を調べていく過程である程度詳しくなった、品川区、目黒区、大田区の3区についてのみ示すこととする。

 

まずは品川区。本書123ページの平塚について以下に引用する。

平塚 当町は平塚街道沿いで道標となる町。「塚」には物見塚と街道の道標塚がある。道標塚は二つあるのが通例。現在、平塚一~三丁目まである。

たったこれだけか、と思うかも知れないが、本書はこの程度の説明しかない。で、この著者は神奈川県の地名研究をホームグラウンドとしている方のようで、本書にもいたるところに神奈川県下での地名由来知識を援用しているが、所詮そのレベルの知識しかないので勘違いと言おうか、誤りの連発となっている。平塚の由来を平塚街道(中原街道、相州街道等、地域によって様々な呼ばれ方をする)から採っているが、「平塚」という字面の意味だけでなく、歴史的にどのようにして「平塚」が当地域に当てられたかという視点がまったく見られない。平塚に限らず、このような傾向は他にも見えるので、これが本書の著者の致命的欠陥と考えていいだろう。とても「各地に足を運」んだとは思えないのである。

 

まず、平塚について。平塚という地名は、江戸期には小山村及び戸越村の小名であって、明治初期の地租改正では小名がそのまま字名として採用された(ただし、戸越村の平塚は中延村の平塚として継承)。明治22年(1889年)に戸越村、中延村、小山村、上蛇窪村、下蛇窪村の5村を合併して平塚村が成立した際には、平塚村の大字となった小山及び中延の小字として平塚は残った。この時点で平塚は、当時としては広域地名としての平塚と、大字小山及び中延に所属する小字の平塚と、二つ(三つ)が併存することになった。5村合併時に平塚村としたのは、5村のいずれもが傑出した存在でなかったので、そのいずれの名前も採用しないこととし、行政の中心地として村役場の置かれる場所を村名としたのだった。

 

そして、平塚村は町制施行時に平塚町とするが、これは神奈川県に同じ町名がある(現 平塚市)と紛らわしいとの指導で、わずか一年程度で平塚町を荏原町と改称。ここで平塚は、広域地名から再び大字小山及び中延の小字名のみに戻った。だが、昭和7年(1932年)に東京市に合併されると荏原町は荏原区になり、荏原町下の各大字はそのまま「町」を付け、荏原区の町となった。大字がそのまま町となったことで、例えば大字小山は小山町となった。では、大字に属した小字はどうなったのか。小字は平塚も含めて公式地名としては完全消滅したのである。

 

だが、人口爆発によって一つの町をそのまま区に昇格させた荏原区をそのまま5つの大字単位のまま町としたのは失敗だった。結果、荏原区の町は再編され、その一部は平塚一丁目~八丁目となり、従来の小字平塚の区域も含めて復活した。それが戦後の住居表示で、現在の平塚一丁目~三丁目となったのだ(荏原区が品川区と合併し、荏原の名が区名として失われたことで、住居表示の際、平塚だった町域の多くが荏原になった。戦前の平塚の復活に通ずるものがある)。だが、江戸期よりの小名 平塚の領域は、現在の平塚一丁目~三丁目の町域から外れてしまっている。

 

というわけで、長々と平塚の変遷を辿ったが、平塚の原点は江戸期よりの小名 平塚にあることがわかるだろう。この平塚とは、もちろん平塚街道の平塚などではない。もちろん道標などでもない。では、何に由来するのか。著者がまえがきでいう「地名の由来とは在名や自然地形名に基づいた説であるべきです」となろう。だいたい、このあたりで平塚街道などとは言わず、平塚郊外の中原の地にかつてあった中原御殿に由来する「中原街道」あるいは「相州街道」(相州道)であり、著者の神奈川県かぶれが痛々しい。

 

一つ目から長くなったが、要は二~三行で地名の由来を語ろうなどということがいかに無理かを示すためでもある。もちろん、中身が正確あるいは正論であるのなら、いやせめてまえがきに示したスタンスであればいいのだが、そんなことはお構いなしだとわかるだろう。では、続く問題点を指摘する。本書123ページの戸越について、以下に引用する。

戸越 江戸名所図会に「とごえ」と仮名がふってある。江戸を越えた所(南浦地名考)。江古田の谷戸を越えた所。現在、戸越一~六丁目まである。

平塚の説明で、著者の採り上げ方に難があることを示したので、以下では簡潔に指摘していく。まず、戸越の定番説である「江戸を越えた所」はいいとして、それに続く「江古田の谷戸を越えた所」とは、何を意味しているのだろうか。もちろん、江古田(東京都練馬区・中野区境辺り)や荏子田(横浜市青葉区)などの個別地名を指すわけではないはずだが、説明不足のように思う。

 

続いて、本書124ページの小山について。

小山 由来は、八幡神社付近が小高い山のような形であることによる。小山村の初見は寛永二年(一六二五年)である(東京府村誌)。現在、小山町一~七丁目まである。

一言。小山町一~七丁目は誤りで、正しくは小山一~七丁目

 

続いて、本書124ページの二葉について。

二葉 昭和十六年、東京市提案の「双葉」を区は「二葉」にして採用したという。二枚の葉から、すくすく伸び成長していくという意味だという。板橋区の「ふたば町」は「双葉町」となっている。力士・双葉山全盛時代だったためか。現在、二葉一~四丁目まである。

著者まえがきでは「そこで私は、「地名の由来創作厳禁」という思いのもと、研究を始めました」としているが、この二葉の項の後段にある「力士・双葉山全盛時代だったためか」とは何だろう? 本書中に数多ある著者錯乱の一つに過ぎないが、東京市提案の「双葉町」は「豊町」同様、いわゆる嘉語を採用したに過ぎない。これを「二葉町」と変えた理由を語ってほしいところだが、著者が「掘り起こし、各地に足を運び、研究」してもわからず、双葉山に因んだ的な戯れ言を短い文中で書くとはレベルが知れる。なお、昭和16年(1941年)に成立したのは二葉でなく二葉町(一~六丁目)である。

 

また唐突に板橋区の双葉町についてふれているが、これは昭和31年(1956年)に誕生した新町名であり、何をもって比較対象としているのか意味不明である。戦前(戦時体制)と戦後では採用した意味合いも違うだろうに。

 

続いて、本書125ページの旗の台について。

旗の台 八本の白い旗を八幡神社に奉納したといわれる源氏の必勝祈願が「旗」の由来である。関東地方には源氏の白旗にちなんだ「白幡」地名が多い。源頼朝を祭神とする神社が鎌倉府内に創られ、源頼義、元八幡創建(神社辞典)。現在、旗の台一~六丁目まである。

さすがに「しかし、江戸・東京には武士領主の専横で、そうした説が陰をひそめてしまいました」とする著者も、旗の台の説明ではこれを採用している(まぁ著者錯乱気味なのでいちいちまえがきについて語るのもやめよう)。だが、神社辞典の引用の仕方が今一つで著者が何を言わんとしているのかさっぱり見えない。さらに、ここで源氏関連の説明をするなら、先の平塚の項でも源氏関連の「平塚」(ひらづか)説もあげてしかるべきだろう。平塚の由来は、新羅三郎義光が後三年の役鎮圧の帰途、この付近で野営していた際、夜盗の襲撃を受け多くの兵を失い、ここで死亡した兵を地元民が哀れんで葬ったのが平塚と称される塚だったとする。現地を調査したとする著者なら「平塚之碑」の存在を知っていそうなものだが…。

 

続いて、本書126ページの八潮について。

八潮 昭和十四年、埋め立て地に付けられた地名。未来への発展。八の字を横にすると「∞」無限大の発展となる(広報しながわ)。現在、八潮一~五丁目まである。

ちょっとこれはひどい。今まで取り上げた中で最もひどいものの一つに数えていい。まず、昭和十四年とあるのは、東京市がこの地の埋立事業を開始した年であって八潮が多くを占める大井埠頭は、まだほとんど造成すらできていない。無論、地名なども京浜○区という形式番号的なものしかないが、同年「八潮」という名前は、地名ではなく大井埠頭の埋立対岸にある府立第八高等女学校で生まれていた。それは同校の短歌部及び会誌の名前として、である。「八潮」の由来は学校名から推察できるように「府立第八」の「八」と品川湾を望み見る環境から「八重の潮路」という古語から「八潮」としたのだった。この名称はさすが短歌部というべきか、語感の響きもいいことから同校の同窓会名にまで格上げされ、ついには学制改革で高等学校となる際、校名変更を実施し、東京都立八潮高等学校としたのである。

 

そして、大井埠頭内の町名の八潮は、これよりずっと後年となる昭和55年(1980年)2月に住居表示実施された際、八潮一~四丁目が成立して(五丁目は当初なかった)採用されたのだった。無論、公募前にいわゆる大井埠頭その1を八潮などと通称されてもいなかった。また、八潮と付く町名はほかに東八潮がある。なお、八潮となった理由は公募の結果である(応募総数たったの511件。ただ、対岸の八潮高校の影響はゼロではないだろう)。

 

さらに広報しながわの引用だと主張しているが、無限大の話は町名採用時には見えないものである。広報が何でもかんでも正しいものではないことは、著者もいい年だろうから言わずもがなだろうが(奥付によれば1929年生まれ)、由来を書くなら「八重の潮路」くらいは書いてほしいものだ。以上、いかに八潮の説明がむちゃくちゃかを示すのは、これで十分だろう。

 

というわけで、最初の予定では品川区、目黒区、大田区を採り上げるつもりでいたが、あまりの誤りの多さとレベルの低さで、品川区だけで紹介されている14の地名のうち、6つを指摘してしまった。よって、残りの2区は機会を改めておおくりする予定とする。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年9月24日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

渋谷に出かけるときは、東急東横線を使うことが多い私だが、たまたま最後尾車輌に乗車したところ、ふと渋谷駅に到着する前に「そういえば、このあたりがかつてあった並木橋駅跡があるのでは?」と思い、慌ててシャッターを切ったのがこれ。

 

 

う~ん。ちょっと代官山駅寄りすぎたか。というのが撮影後の実感。並木橋駅跡は、東横線が並木橋を越えた先(渋谷駅寄り)にあるのだが、乗車中に、そしていきなり思いついたタイミングでは難しかった。まだしばらく東横線の地下化までは時間があるが、そのうちにと思っているうちに歳月が経るのはいつものこと。近いうちにリトライしようと思いつつ、今回はここまで。

 

再掲時追記:東横線の地下化まで時間があるとほざいているうちに、もはやこのアングル、というか鉄道線路自体も撮影できない。時間は限りが有って、やろうと思わないと後悔だけが募ると過去記事を見る度に思いますね(苦笑)。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年10月2日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

ここは、東京都品川区中延五丁目11番16号。かつての平間道と中延中通りの分岐点に位置する場所で、天明三年(1783年。浅間山大噴火があった年でもある)に建てられたであろう石造道標が残されている場所である。

 

 

ここは品川区指定史跡にも指定されているので、きちんとした説明板がある。これを見ると、

 

 

説明文は以下のとおり。

品川区指定史跡

天明三年銘 石造道標

所在 品川区中延五丁目十一番十六号

指定 昭和六十一年三月十四日(第二十二号)

この道標は、旧中延村を横断する中通り(中原街道と池上道を結ぶ)と、平間道(上池上・久ヶ原を経て下丸子で池上道と合流し、平間に至る)との分岐点にある。高さが一・一五メートルで、右うの木(鵜ノ木)光明寺道、左池かみ道(池上道)と刻まれている。造立者は不明である。

鵜ノ木光明寺は浄土宗の古刹で、江戸からの日帰り行程の大寺として、近世には多くの参詣客が来寺した。

昭和六十二年三月三十一日建設

品川区教育委員会

ということで、肝心の道標だが、(再掲時注:写真が移行時に欠落してしまいました)こんな感じで、説明板にあるように「右うの木光明寺道」「左池かみ道」とある。では、近代的測量がされた明治14年(1881年)頃に作図された2万分の1地形図を見てみよう。

 

 

分岐点部分は、やや薄めの灰色ので囲った。北に八幡社や法蓮寺があり、南には東西を通る道路もあるので、現在との対比がしやすい場所でもある。こういう何気ないものが、地域の歴史を語るものなのだな、と認識しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年10月19日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回も一枚の写真のコーナー。戦前の写真でなく戦後、昭和32年(1957年)頃のものだが、それでも今から53年前。半世紀以上の前のものとなる。

 

 

この写真に写る入口は、現在では銀座駅C2出入口にあたり(ちなみに西銀座駅は地下鉄日比谷線の銀座駅が開業した際、地下鉄銀座線の銀座駅と接続されたことで銀座駅と改名)。

 

現在は首都高速によって景観が阻害されている場所だが、当時は写真に見られるように見通しはいい。後ろに見えるのは「日劇」とあるように日本劇場(旧)。この写真からは見えないが、日劇の手前には数寄屋橋があり、まさに西銀座の好適地に駅ができたことがわかる。なお、この写真に写る二人の女性はモデルさんだが、和装と洋装という組み合わせが、まだまだ和服がお出かけの衣装として一般的なものであることも伺えよう。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年10月18日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

タイトルには付さなかったが、久々の古い一枚の写真のコーナー。今回はこれ。

 

 

この写真は、東京高速鉄道株式会社が今日の地下鉄銀座線を建設中のもので、昭和13年(1938年)頃の渋谷駅付近の様子を概観できる貴重な写真である。方位的には、渋谷駅東側から西側(道玄坂上方面)を眺め見たもので、写真上側の左側より地下鉄線車庫(ご存じの方はご存じのように渋谷は谷底なので、地下鉄といえど地上に存在)があり、3編成が並んでいるほか、手前にも2編成が高架線上に待機しているのが見える。その右側には玉川電気鉄道線(山の上から続く線路が見える)、さらにその右側には神泉トンネルから出てくる帝都電鉄線(今日の京王井の頭線)、その手前の三角屋根は帝都電鉄線渋谷駅、さらにその手前には駅ビル的な二幸が確認できる。

 

写真手前側には、高架線建設中の地下鉄線が今よりもはるかに狭い渋谷駅西側駅前広場を越えようとしているところ。山手線はこの写真の手前側にあり(よって写っていない)、撮影場所が東横百貨店(現在の東急百貨店東横店)であることも予想できる。東京市電もまだまだ現役であり、今日とは違う渋谷駅の活気ある状況が伺える。

 

まだまだ注目すべき点はあるが、出勤時間が近づいていることもあって今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年10月20日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回も回顧もの。で、採り上げるのは戦後10年経った東京都目黒区にある自由ヶ丘商店街の地図である。個々の商店は掲載されていないが、商店街を構成する個別の商店会の区域が示されおり、なかなかに興味深い資料と言える。

 

 

現在の自由が丘は、婦女子(古くさい言い方だが)に人気の高い商店街であり、マリ・クレール通りであるとか、花々の名前を通り名に採用するなど小洒落た感じの雰囲気を醸し出しているが、さすがに50年以上前はそうはなっていない。弁天通り、広小路通り、白山通り、自由ヶ丘本通りなどといった名称が見える。

 

だが、しかし。面白いことに商店街を構成する個々の商店会は、今もその名称を引き継いでいるものが多いのだ。旭会、南口商店街、美観街、中央会、銀座会、駅前中央会、広小路会などは、この地図にも商店会名が掲載されているが、すべて現在に継承されている名称である。通り名は洒落たものに変更しているが、自分たちのアイデンティティである商店会名はそのまま残しているとなるのだろう。

 

そんなことを感慨深く思いながら、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年10月31日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「一週間のご無沙汰でした。司会の玉…」なんていうことはどうでもよく、この一週間は仕事の多忙モード全開につき、blogどころではなかったというのが実際でした。とはいいながら、数分程度の時間すら取れないというわけではなく、やろうと思えばできたblog更新を行わなかった(行えなかった)理由はただ一つ。前回の続きを中断したままにしておくと、きっとそのまま忘却の彼方へと消し飛んでしまうおそれが見られたからである(苦笑)。ただの文章だけであれば何とかなったのだが、今回は図が必要だろうと判断し、作図に時間を要したことが大きい。プロのイラストレータであればともかくドのつく素人であるので、いかんせん、どうしても作図に一定の時間を要してしまうのだ。と言い訳を述べておいて、続きを始めるにしよう。なお、この話は今回で完結させるつもりである。

 

場所は、現在でいうと東京都世田谷区奥沢二丁目にあたるが、昭和7年(1932年)10月より以前は東京府荏原郡玉川村大字奥沢のうち、字沖ノ谷の地であり、この沖ノ谷と呼ばれる地は明治22年(1889年)4月より以前は、奥沢村に属していたのではなく下沼部村に属していた。それが明治22年(1889年)4月の市制町村制による大規模な統合によって、飛地である沖ノ谷は本来属する下沼部ではなく、隣接する奥沢に所管変更となったのである。つまり、沖ノ谷は長年にわたって下沼部に属しており、奥沢になったからといってすぐに馴染めるものではなかった。そもそも、土地の所有形態によって領地が定められていた時代のものをほとんどそのまま継承していた字界(地租改正時に字界を設定していたことから自明)を所管替えすることは、現在のそれと比べても簡単に馴染めるものではない。つまり、沖ノ谷は大字奥沢において、さらには荏原郡玉川村内において「他者」であったことを理解しておくことが重要である。

 

そして、荏原郡玉川村すべての地域を耕地整理しようと目論む玉川全円耕地整理組合との関係と、目黒蒲田電鉄とのかかわりを示せば、次のようになる。

  • 明治初年、地租改正により荏原郡下沼部村字沖ノ谷が起立。
  • 明治22年、市制町村制により、字沖ノ谷は下沼部村が属した荏原郡調布村ではなく、荏原郡玉川村に合併。
  • 大正12年、目黒蒲田電鉄開通し、奥沢駅が開業。
  • 大正12年、関東大震災。
  • 大正13年、目黒蒲田電鉄、奥沢駅~瀬田河原間、鉄道敷設免許申請。
  • 大正13年、通称奥沢海軍村、土地賃貸借契約始まる。
  • 大正14年、玉川全円耕地整理組合、組合設立認可。
  • 大正15年、玉川全円耕地整理組合、組合設立総会。
  • 昭和2年、玉川全円耕地整理組合、組合長、組合副長選任認可。
  • 昭和2年、目黒蒲田電鉄、奥沢駅~瀬田河原間、鉄道敷設許可。
  • 昭和3年、玉川全円耕地整理組合内の奥沢東区、役員選挙。耕地整理工事開始。

このように耕地整理組合創立までもそれなりの時間がかかっただけでなく、組合設立以降も村を二分する賛成反対の中、遅々として進まなかった。そして、奥沢駅東側にあたる奥沢東区が起工式を行ったのは、昭和3年(1928年)も終わる頃であった。つまり、まともな耕地整理土木工事は昭和4年(1929年)に入ってから施工されたのである。よって、

 

©国土地理院

 

この昭和3年(1928年)の1万分の1地形図に描かれた沖ノ谷とある通称奥沢海軍村は、玉川全円耕地整理組合の奥沢東区が施工した耕地整理事業とはまったく無関係であることがわかるだろう。このようないわば自分勝手な耕地整理(区画整理)を行わざるを得なかった理由は、玉川全円耕地整理組合の耕地整理事業がまったく進んでいなかった、いや進むかどうかもわからなかった状況の中、関東大震災を起爆剤とした郊外移転の風潮により、奥沢駅至近の地であるこの場所に住宅地としての欲求があったからである。無論、地主側だけでなく土地を借りる側も含めた双方の欲求である。

 

では、地主側と土地を借りる側とどちらが先に動いた(接触があった)のだろうか。ここは私の方でも調べがついていないので何とも言いようがないのだが、間違いなく言えることは「関東大震災」を契機として、海軍省が首都東京の脆弱性と郊外の安全性を確認した点にある。いくら最新鋭の兵器を擁したとしても、それを統率すべき者がいなければ意味がない。つまり、将官が自然災害に脆弱なところに生活の場があるということは、それだけで国防上の危険が高いことが明らかとなったのだ。

 

当時、この東京府荏原郡一帯は、ごく一部を除けば都市化の波はまだまだ遠く、先に大正4年(1915年)当時の地図で示したように近郊農村であり、目黒蒲田電鉄開通以降もしばらくの間は、乗客は数名という状況が続いていた。既に田園都市株式会社によって、田園都市洗足の分譲は開始されていたが、いくら割賦販売で安価だと言っても高給の恩給受給者等が購買層の中心だったことからわかるように、青年将校クラスの給与では手が届くものではなかった(別に資産があればともかく)。このような鉄道が開通したばかりの土地は、十分に彼らの住居として相応しい地と目されたに違いない。そこに地主の思惑が働いたとしても不思議でも何でもないというわけである。地主側でもいつ始まるか見通しの立たない耕地整理事業を待つよりも、既に需要があり、それが海軍省(あるいはその関連組織)の意向となれば、これに与しないわけにもいかないという大義名分も立つ。こうして、奥沢海軍村の借地経営が始まったと見る。

 

しかし、現地を確認するとわかるように、地主が耕地整理事業とは無関係に始めたために、道路は狭く、周辺道路との連絡もほとんど考慮されるものではなかった。同時期には北側で、衾東部耕地整理組合が耕地整理事業を設計・施工中であったにもかかわらず、ほとんど道路接続がかみ合っていないのは、地主単独で施工したマイナス面と言える。さらに、この地が玉川全円耕地整理組合の奥沢東区に含まれて以降も、既に家屋が建ってしまったところは道路は狭いまま残されてしまい(一部は拡幅工事が成されたが)、結果として自動車通行を排除できたという恩恵はあったが、緑が多いと主張する割には、他の良好な住宅地とはインフラ面で今一つである点は否めない。

 

こうして、大正末期から昭和初期に成立した奥沢海軍村(通称)だが、当地域に20~30戸ほどの住宅が建った頃に持ち上がったのが二子玉川線計画変更の話であった。

 

 

上図は、昭和3年(1928年)頃の奥沢海軍村周辺の様子を1万分の1地形図等を参考に作成し、強ピンク色で塗った住宅が海軍士官が建てたもの(土地は賃借し建物は所有)として色分けした(この他にもあるかもしれないが)。このほぼ中心地域を貫く形で計画されたのが、奥沢駅を分岐駅としていた計画から大岡山駅へと分岐駅が変更された当初の二子玉川線の計画線である。直接、海軍士官の住宅が鉄道用地となるのは5~6戸程度に過ぎないが、住宅が鉄道に隣接するというのはいかがなものかとなるだろう。また、鉄道によって「海軍村」自体も南北に分断されることとなってしまう。いくら当時は1両ないし2両編成であったとしても、コミュニティとしては由々しき問題であるだろう。当然、この計画には「その筋」からの横やりが入るのは自明だったのである。

 

 

これが実際に敷設されたルートを見れば、「海軍村」を分断するようなことはなくなるのはもちろんだが、施工上、斜面に土盛りするなど工費が余計にかかるのみならず、以前の当blog記事で池上電鉄奥沢線の歴史でもふれたように、九品仏川北側の衾東部耕地整理組合との新たな紛争の火種を生むことになるなど、多くの別の問題を発生させた。そうまでして、二子玉川線のルート変更を行わしめたのは、やはり奥沢海軍村の存在があったからではないかと考えるのである。

 

無論、計画変更による迷惑を蒙った衾東部耕地整理組合も黙ってはいない。だが、この措置に対する代替は、これも当初計画にはなかった大岡山駅~九品仏駅(現 自由が丘駅)間に新駅を設置することで妥協が謀られる。衾東部耕地整理組合地に隣接する、荏原郡碑衾町大字衾字谷畑下の地に「中丸山」駅(現 緑が丘駅)を設置が約され、大岡山駅~自由ヶ丘駅間開業時に唯一の中間駅として中丸山駅が開業した。つまり、玉突き的に様々な状況が複雑に絡み合い、妥協の産物として建設されたのが東急大井町線というわけである。

 

以上、東急大井町線のルート変更に奥沢海軍村の存在があったのではないかとの推論から、前回と今回の二回にわたって話を進めてきたが、海軍と目黒蒲田電鉄(及び田園都市株式会社)との関係の深さは、最初の田園都市である洗足を分譲するにあたり、購入者に対する親睦会(自治会)的な役割として洗足会を立ち上げるに際し、水交会会館が会場として使われたことがあるなど、それなりの関係はあったと思われる。よって、まだまだ分析不足というのは理解しつつも、とりあえず今回はここまでとしたい。