【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年3月19日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。そして、その後、改版されたトラベルMOOK 新しい東急電鉄の世界」が2018年に出ていますが、これについての論評は「トラベルMOOK 新しい東急電鉄の世界」の誤り・問題点を列挙するに掲載済み。

 

前回の続きです。

96ページ「大崎広小路」

「広小路」とは、江戸時代大火による延焼を食い止めるために、特に広く作られた道路を指す。東京ではこの大崎広小路とともに、上野広小路が有名だ。

広小路の説明として誤りではないが、ここで江戸時代の由来を語っても仕方があるまい。大崎広小路の広小路は、単に広い道路という意味だけに過ぎない。この広い道路は関東大震災後の都市計画に基づく環状6号線であり、当該地が区画整理(耕地整理)を行った際、併せて道路用地を確保したために生まれた広小路である。言うまでもなく、語源そのものから逸脱して利用される語に古い理由を付すという、歴史音痴がここでも顔を出している。加えて、大崎広小路と上野広小路と駅名に採用されているものだけを有名というのも、視野の狭いマニヤ的な印象しかない。(もちろん、都市計画道路の幅員が広いのは防火帯・緩衝帯という意味はある。)

97ページ「戸越銀座」

東京都中央区の旧町名尾張町(現・銀座四丁目交差点付近)にある「銀座」にちなみ、全国にはその土地その土地の華やかな商業地域に「○○銀座」という名をつけることがあるが、戸越銀座は全国に300近くある、「ご当地銀座」の中でも最古のものであるという。

著者は銀座という町名が明治初期から存在していることを知らないのだろうか、としか思えない歴史音痴ぶり。当blog記事「東京都中央区における「銀座」の拡大」でふれたように、銀座の拡大は尾張町と称するエリアも併呑するが、服部時計店に象徴される銀座四丁目交差点は、明治初期から銀座四丁目(四町目)と称していた。だからこそ、東京市電の停留所等も銀座四丁目を名乗っていたのだ。単に古地図を眺めた感覚(印象)でこのような表記としたなら、地図の読み方はもちろん、歴史的文脈の中での位置づけすらかなわない愚かなものとなるだろう。

97ページ「荏原中延」

駅名は駅の所在地が、当時荏原郡中延町にあることから。ただし、当初は「中延」という駅名での開業が予定されていたところ、これよりもひと足早く開業した現在の大井町線(当時は目黒蒲田電気鉄道の路線であり、池上線を所有する池上電気鉄道とは別会社)に荏原町駅と中延駅ができたことから、これに対抗して現行の名前がつけられたという説もある。

これもひどい。今日に言う地方自治体(市町村)の名と地方自治体に属する町(大字など)の名を、「町」という字が同じであることから混同したとしか読めない致命的な誤りである。似たような例は他文献でも見たことがあるので、無批判引用かあるいは単に無知であるのだろう。まず、駅の所在地は開業時は東京府荏原郡荏原町大字中延であって、中延町ではない。昭和7年(1932年)、この地が東京市に編入された際には東京市荏原区中延町となるので、これと混同したとしてもひどすぎる。また、細かいが目黒蒲田電気鉄道とあるのは間違いで、正しくは目黒蒲田電鉄。電鉄は略称であるだろうが、正式社名がこの略称を採用しているので目黒蒲田電気鉄道とはならない。一方、池上電気鉄道はこれが正式名称であるので、池上電鉄とするのは正式名称の略称なので問題とはいえない。目黒蒲田電気鉄道という表現は文字どおり「蛇足」である。

98ページ「旗の台」

ただし、乗り換えの方面によっては階段を上下しなければならない手間は解消されていない。

地元の方ぁ~。今もそうですかぁ~? はい、そうではありませんね。かつては池上線の下りホーム(蒲田方面)から大井町線の下りホーム(二子玉川方面)へ行くのに、階段を登って大井町線の上りホームに出た後、そこから反対側の下りホームに向かうため、階段を降りた後もう一度登らなければならなかった。しかし、現在ではこのようになっている。歴史ではなく、鉄道・駅設備に関する項目での誤りは避けてほしかった…。

98ページ「長原」

駅周辺には長閑な農地が広がっていたが、戦後になると、住宅地として急速な発展を遂げることになる。

また歴史音痴の妄想が始まりました。戦前を何だと思っているのでしょうか。戦前生まれではない私でも、調べればわかることはたくさんある。以下に、昭和19年(1944年)に撮影された長原駅周辺の航空写真をあげておこう。馬鹿も休み休み言えとしかならない…。

 

©国土地理院

 

ご覧のとおり市街地化しており、空地に見えるところも配水場などがあるところであって、空地率は現在とほとんど変わらない。このあたりの市街地化は、昭和10年(1935年)頃には完了していたのである。

99ページ「洗足池」

駅は池の南側、徒歩5分の場所に建設され、構内踏切を備えた相対式ホームを設置。

今日の中原街道の道路幅員と、歩道橋を渡らなければ池までたどり着けない状況からは徒歩5分という表現はわからないでもない(実際、著しく足が衰えているのでなければそんなにはかからない)。しかし、文脈から昭和2年(1927年)に開設された当初の話をしていることから、徒歩5分という表現は明らかにおかしなものとなる。というのは、当時の中原街道の幅員は約6メートルほどしかなく、当然歩道橋などありはしないので、立体構造となっていない駅から池までは直線で50メートルもない……ということは、かかっても1分弱。走って行けば10秒もかからない距離といえよう。現在の状況からしか想像できない、稚拙なレベルの文だとなるのである。

99ページ「石川台」

駅の近くを流れる呑川(のみがわ)が、昔は石川と呼ばれていたことが地名となり、そのまま駅名にも採用されている。

せっかく呑川に「のみがわ」とカナを振ってくれているが、正しくは「のみかわ」

100ページ「雪が谷大塚」

1923(大正12)年5月4日に開業した「雪ヶ谷」駅と、1927(昭和2)年8月19日に開業した「調布大塚」駅が至近の距離にあったため、両駅を統合する形で1933(昭和8)年6月1日に現在地に開業。当時の駅名は「雪ヶ谷大塚」で、1966(昭和41)年1月20日に、現行の駅名に改められた。

誤りの定番。東急電鉄さん、早く公式で誤りを正してくださいね。さて、ここの説明は基本「東京急行電鉄50年史」からのまんま引用であり、著者も無批判に掲載しているだけと見られるが、実は雪ヶ谷駅(二代目)と調布大塚駅の距離を改札口ベースで比較すると、調布大塚駅と御嶽山前駅との距離とほとんど変わらない。つまり、雪ヶ谷駅と御嶽山前駅の中間にできた調布大塚駅であるが、利用客にとっての実距離は雪ヶ谷駅からも御嶽山駅からもほとんど変わらないため、一方的に雪ヶ谷~調布大塚間が至近だと決めつけられないのである。そして、合併云々の経緯は当blog記事「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編]」をはじめとして、数多書いているので参考にしていただきたい。

 

また、同時代資料として東京市大森区(現在の大田区を構成する部分)が編纂した「大森区史」によれば、昭和11年(1936年)の乗降客数一覧に雪ヶ谷駅と調布大塚駅のそれぞれが記載されていること。さらに799ページの「雪ヶ谷駅──田園調布駅」間のバス路線について言及した箇所には、「最初は調布大塚駅を起点としていたが、同駅廃止後現在の雪ヶ谷駅に移ったものである」とあることから、調布大塚駅の廃止はどんなに早くても昭和11年(1936年)以降であり、かつ雪ヶ谷駅と合併して雪ヶ谷大塚駅などに改名してもいないことがわかる。

100ページ「雪ヶ谷~国分寺間新線計画の迷走」

この間、すでに当初の資金は尽きているはずなのに、多くの路線免許を申請し、その中に、雪ヶ谷~国分寺間21kmの計画が、1927(昭和2)年12月6日に免許が交付されていた。距離の長さもびっくりするが、このコースも頭をかしげるもので、私鉄新線が放射状に開通する中、各線を斜めに串刺しするように設定されていた。当初、第一期を雪ヶ谷~調布間で申請、調布の位置は目蒲の開発した田園調布駅の北東200m程の所に割り込むように予定されていた。(中略) 開通間もなく、将来を見越した複線も早期に単線化した。計画性のなさが結果的に池上電鉄の寿命を縮めることになった。

このコラムは関田克孝氏によるもので、駅プロフィールと異なりよくできているのだが、いかんせん東急至上主義というか東急史観と呼ぶべきものに立脚しており(東急OBだから当然だが)、誤りとは言えないが別の視点として指摘したい。

 

まず、「すでに当初の資金は尽きているはずなのに」というが、高柳体制から川崎財閥資本をバックにした体制変化を考慮に入れているのか疑問である。そして「距離の長さもびっくりするが」というが、これとて池上電気鉄道の目的(=田園調布付近への接続と二子玉川線への牽制)を慮れば、字面からだけの問題ではないことは自明であるだろう。さらに「このコースも頭をかしげるもので、私鉄新線が放射状に開通する中、各線を斜めに串刺しするように設定されていた」というが、成業の成否はあるものの、放射状の鉄道網が飽和状態にあった昭和初期において環状方向の鉄道敷設計画は当然のものであり、池上電気鉄道以外にも山手急行電鉄など数多くの計画があった。それどころか目黒蒲田電鉄自身、成城学園前までの計画を持っていたのである。

 

最後の「計画性のなさが結果的に池上電鉄の寿命を縮めることになった」というのは言いがかりも甚だしく、五島慶太による株式買収の結果で敵対的に吸収合併したに過ぎず、それさえなければ陸上交通事業統制の時代に入るまで生きながらえていただろう。

 

端的に言えば、池上電気鉄道を敵対的買収した後ろめたさが、このようなマイナス要因をあげつらう=合併してやったことで助けてやった的な善意の行動として表現されるのが「東京急行電鉄50年史」が執筆された昭和40年代の空気であり、まだ合併して数年の「東京横浜電鉄沿革史」には生々しい表現が一切出てこないのとは対照的である。著者の関田克孝氏も、またそういう時代の人なのだ、と言えるだろう。

102ページ「千鳥町」

開業時の駅名は「慶大グランド前」。1936(昭和11)年1月1日に、現行の駅名に改称された。現在の駅名となった「千鳥町」の名は、この町が1932(昭和7)年に旧来の東調布町から分かれた時に、初めて生まれた名前といわれている。なお、開業時の駅名は『池上町史』では「光明寺」とされている。「光明寺」駅は、この近くに1923(大正12)年に開業したものの「慶大グランド前」駅の開業に伴って廃止になったとされ、「光明寺」と「慶大グランド前」のどちらを当駅のルーツとするかは、解釈次第といえよう。

これも歴史音痴炸裂もの。だが、その前にまずは定番の訂正から。慶大グランド前は、慶大グラウンド前が正しい。そして光明寺駅は池上町史のみならず、基本史料ともいえる東京横浜電鉄沿革史にもしっかり記載されており、誤りの巣窟「東京急行電鉄50年史」の悪影響が表れた結果だと言える。光明寺駅は初代慶大グラウンド前駅と併存しており、移設して二代目慶大グラウンド前駅となった際に廃止されたことから、千鳥町駅のルーツは当然慶大グラウンド前駅となる(二代目慶大グラウンド前駅がかつての光明寺駅のあった場所に移設して千鳥町駅となった)。解釈次第という、でたらめで決まるものではない。

 

では、歴史音痴に起因する致命的な誤りを指摘しよう。それは、「現在の駅名となった「千鳥町」の名は、この町が1932(昭和7)年に旧来の東調布町から分かれた時に、初めて生まれた名前といわれている」とあるところで、荏原中延駅の誤りでも指摘したように「今日に言う地方自治体(市町村)の名と地方自治体に属する町(大字など)の名を、「町」という字が同じであることから混同したとしか読めない致命的な誤り」がここにも見えるのである。つまり、東調布町は地方自治体としての町名(市町村の名)であり、千鳥町(正確には調布千鳥町)は東京市大森区の町名(市町村に属する町の名)であることから、分離して(分かれて)云々というように並列で扱う名ではないのである。また、千鳥という名については、千鳥窪(あるいは千鳥久保)という字名から採用されているので初めて生まれた名前でもない。とんでも本を参照したのかは不明だが、短い文によくぞこれだけでたらめを入れたものだと感心する。こんな文だから、説明タイトルにも「駅名は東調布町からの分離に際して採用」という馬鹿げたものになってしまい、恥の上塗り状態だ。

 

なお、千鳥町は改名当初から「ちどりちょう」と読むが、これは目黒蒲田電鉄の誤りに起因する。理由は、調布千鳥町の読みは「ちょうふちどりまち」であり、これを知っていればわざわざ独自の読みを採用するとは考えにくいからである。

102ページ「池上」

その後、池上電鉄の線路は五反田方面に延伸されて線路も複線化され、これに併せてホームを雪が谷大塚方向に移設。広い駅前広場も誕生している。

複線化工事は池上電気鉄道が昭和2年(1927年)に行ったものだが、駅の移設は東京横浜電鉄時代の曲線改良工事にあわせて施工されたもので、その間、15年近い歳月が流れている。わかっているのかな、著者は。

103ページ「蓮沼」

元々蓮沼村を名乗っていた地域であるが、明治末期からは多摩川沿岸の干拓が行なわれ、広大な平坦地が生まれたという。

何を以て「明治末期からは多摩川沿岸の干拓が行なわれ、広大な平坦地が生まれた」としたのかわからないが、明治40年(1907年)及び明治43年(1910年)の多摩川の氾濫によって治水事業は進んだが、干拓事業が行われたという話は聞かない。しかも大字蓮沼(旧 蓮沼村)あたりであれば、大正期以降の耕地整理事業による土地改良が大きいが、時期も名前も一致しない。何を言いたいのだろうか(苦笑。まさかと思うが、明治期まで蓮が浮かぶような所だと思っているの? 享保以降の新田開発を知らないのだろうか)。

 

というわけで、池上線部分はかなり長くなってしまった。残りは後編ということで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年3月18日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。そして、その後、改版されたトラベルMOOK 新しい東急電鉄の世界」が2018年に出ていますが、これについての論評は「トラベルMOOK 新しい東急電鉄の世界」の誤り・問題点を列挙するに掲載済み。

 

さて、前回予告どおり、一昨日(16日)購入した「トラベルMOOK 東急電鉄の世界」の誤り・問題点を列挙し、それを糺していくことにしたい。なお、お断りとして本書の半分程度を占める鉄道車両等に関する点については、完全なる門外漢なのでいっさい指摘していない(というか、できるレベルにない)。指摘するのは専ら、駅のプロフィールにかかわる部分で歴史などにふれている点である。

 

 

なお、本書の著者は引用文献を示していないので、いかなる文献を参考にしたか不明だが、かなりの歴史音痴だと感ずる。誤った文献からの無批判引用ばかりか、おそらく正しい文献からの引用であっても的確に理解できず、無知による誤謬が散見される。それは、史料批判を行っていない云々ではなく、史料(資料)を読むための前提知識が欠如しているため、勘違いというより根本的に誤ってしまうとしか思えない表現が多々見られることからも伺うことができる。私の承知している知識は限定的なものでしかないので、おそらく以下にあげた以外でも多数誤りはあるに違いない。

 

能書きはこのくらいにして、本書62ページから展開する“全駅プロフィール「駅のツボ」”というコーナーについて見ていこう。

68ページ「自由が丘」

多くの人から憧れられている華やかな名前は、昭和初期に活躍した舞踏家、石井漠(いしいばく 1886-1962)が、この地に自由ヶ丘舞踏研究所を開設し、さらにその後、手塚岸衛が自由ヶ丘学園を創設したことに由来する。

これを読むと、まず自由ヶ丘舞踏研究所があって自由ヶ丘学園がそれに続くと読めるが、地元の方がご覧になったらひっくり返ることだろう(苦笑)。事実はまったく逆で、自由ヶ丘学園が先であり自由ヶ丘舞踏研究所が後である。また、正式には自由ヶ丘舞踏研究所という名称ではなく、石井漠舞踏研究所の通称名が自由ヶ丘舞踏研究所である。

 

学校(学園)名に自由という語を採用したのは、当時流行していた「自由主義教育」という概念・考え方を採用したもので、手塚岸衛のみならず、他でも自由学園という名が採用された学校がある。つまり、自由主義教育の自由から学校(学園)名が採用され、それが駅名に転じ、地名(大字名、町名)となっていったのである。とはいえ、石井漠が自由ヶ丘という駅名にまったく関与していなかったわけではなく、衾と予定されていた駅名を自由ヶ丘に改称させた運動の先鋒であったことは疑いない事実である。

 

著者は何を以て石井漠舞踏研究所が自由ヶ丘の元祖と思ったのだろう。引用文献が誤っていたのか、それとも資料解釈を誤ったのか。

68ページ「田園調布」

「調」とは税を意味し、税として収められる布が作られていたというのが地名の由来。さらに大正から昭和初期にかけて渋沢栄一が提唱した田園都市構想に沿った町づくり推進に合わせて「田園」の名が冠せられるようになった。

「調布」の説明であるが、調布村という名称が明治中期に誕生し、それ以前ではまったく地名として採用されてこなかった歴史を踏まえれば、ここで「調布」という語の意味をあげることは無価値である。なぜ、いきなり明治中期になって調布という語が村名に採用されたかが、その語自体の意味より価値があるだろう。あるいは、他の項目(例えば日吉駅の項)のように、駅名は駅所在地の調布村の名前に由来する。でいいのではないか。

 

そして調布に田園が冠せられるようになったのは、駅名が先ではなく調布村の区名として田園調布が採用されたものが先行する。調布村が区制を敷いた際、他の区名は大字名をそのまま区名としたが、田園都市分譲地のエリアは新興住民エリアとして他地区とは区別され、この時、田園都市の調布ということで田園調布としたのである。

69ページ「新丸子」

開業時の駅所在地の地名は上丸子であったが、目蒲線の丸子駅との混同を避けるために、新丸子を名乗って開業した駅。

東京横浜電鉄の新丸子駅開業は大正15年(1926年)で、既に目黒蒲田電鉄線の武蔵丸子駅は沼部駅と改称。健在だったのは下丸子駅のみである。よって、丸子駅との混同とはいいにくい、というかならない。

75ページ「横浜」

横浜という地名は、すでに江戸時代の文献には現れているというが、明治の開港以前は、寒々とした一漁村に過ぎなかったという。

横浜港は、安政5年(1858)年の日米修好通商条約によって開港したので、明治の開港以前という表現は不適切。実際、山下町付近は明治より以前に外国人居留地として成立しており、一寒村という状況では既になかった

76ページ「池尻大橋」

新玉川線は渋谷と二子玉川を連絡することで都心と田園都市線を直結するバイパスとして建設された、比較的新しい路線である。現在は全線が地下を走るが、かつて存在していた東急玉川線の代替路線という意味合いもある。

これは誤りではないが、今日的視点からの見方が強い印象を受ける。というのは「都心と田園都市線を直結するバイパス」というのは結果論であって、本来的意義は「東急玉川線の代替路線」あるいは銀座線の延長線といった方が適切。

76ページ「三軒茶屋」

この街道の上に三軒の茶屋があったということが、地名の由来。

かなり細かいが、街道の上に、という表現はいまいち。街道に面するなど他の表現があるだろう。あまりに地下鉄視点という印象を受ける。

89ページ「武蔵小山」

駅のある一帯は高台となっており、遠い昔には江戸湾まで見渡すこともできたという。

実際に武蔵小山駅付近をご存じの方であれば、ここを高台だとはとても思えないだろう。確かに武蔵国風土記等には「江戸湾まで見渡す」という表現もあるのだが、いうまでもなくこれは小山八幡の高台を指す。つまり、小山村の説明を武蔵小山駅付近も同様だという錯覚からの勘違いで、武蔵小山駅は小山村の端っこにあり、このあたりは今も変わらず平坦地形である。とてもではないが崖地で高台でもない限り、見通しの利いた江戸期においてもここから江戸湾を見通せたとは考えにくい。

 

90ページ「謎の大踏切(環状8号線)複線分用地」

奥沢を発車した下り電車が左へ大きくカーブして、奥沢2号踏切を越えた地点より、進行左手に複線分位の空地が通称大踏切まで並行する。(中略) 現場が消えたいまでも不思議に思う。

これは誤りなどではなく、私も解決できていない問題なのであえてあげてみた次第。航空(空中)写真には、昭和8年(1933年)撮影のもの、都市計画図においては昭和4年(1929年)時点から、その存在は確認されている。単なる空き用地に過ぎないのか、重要な意味を持つものかはわからないが、長年東急電鉄にお勤めだった方にもわからないというが…。

92ページ「沼部」

沼部とは調布村の字名であるという。

正確に言えば、調布村の大字名に上沼部、下沼部があった。

93ページ「下丸子」

1938(昭和13)年からは蒲田発の区間列車が設定され、当駅で折り返し運転が実施されていたというが、戦前は、まだ人口が都市部にのみ集中していたことを示すエピソードといえそうだ。

下丸子駅までの区間列車は、東京市蒲田区下丸子町に進出した三菱重工、東京無線、北辰電気、富士航空、白洋舎、日本精工などの大工場が次々建設される中、通勤客の輸送需要に応えるためである。著者の歴史音痴(無知)もここまでひどいかと驚かされる表現だ。

95ページ「蒲田」

池上電鉄の駅は国鉄線にほぼ直角の角度でホームを設け、これに遅れた目蒲電鉄は、線路を迂回させる形で、国鉄線と池上電鉄の間にホームを設けている。

表現に問題はないが、そもそも蒲田駅への接続は池上電鉄よりも目蒲電鉄の方が先願権を有していた。つまり、武蔵電気鉄道の免許を譲渡された目蒲電鉄の方が先だったため、池上電鉄は蒲田駅に直接接続できなかったのである。このため、目蒲電鉄は池上電鉄と省線蒲田駅との間に入り込むことができた(直接接続できた)のだった。

 

だいぶ長くなってきた。お楽しみの池上線などを含め、次回に続く。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年3月16日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

いよいよ本日(16日)、東急東横線と東京メトロ副都心線との相互直通運転がスタートした。単に相直運転であれば「ふ~ん、それで?」レベルなのだが、今回は東横線の渋谷駅が移転したという事実が大きい。東横線の渋谷駅開業は昭和2年(1927年)なので、かれこれ86年間、存在していたものがなくなるという大きな変化なのである。もちろん、すぐさま駅施設がなくなるわけではないので、構造物としてはしばらくの間は存在し続ける。とはいえ、駅の利用客はなくなり電車も頻繁に発着しなくなるので、大きな変化であるのは確かだろう。

 

さて、そんな大きな変化となった東急東横線と東京メトロ副都心線相直運転開始を勝手に記念して、私的な東横線の歴史をあれこれ語っていきたい。無論、私は古老というレベルには遙かに遠く、東横線を利用している期間もおおよそ30年程度でしかないので、86年に及ぶ東横線の歴史から見れば大したことは書けない。だが、書こうと思うことは容易くても書くことまでは難しいという行動学の理念から、まずは書いてみようということである。

 

東横線の歴史は、どこまで遡ることができるだろうか。私が思うに、それは1908年(明治41年)5月8日の武蔵電気鉄道株式会社に対する私設鉄道株式会社仮免許状交付がスタートと考える。

 

明治41年5月11日付け官報を見れば、

  1. 東京府豊多摩郡渋谷村 ~ 平沼停車場
  2. 東京府荏原郡調布村 ~ 蒲田停車場

の2路線の免許が借り交付されたことがわかる。このうち一番目の「東京府豊多摩郡渋谷村 ~ 平沼停車場」が現在の東急東横線の原型と言える路線となる(ちなみに二番目のものは東急多摩川線の原型)。無論、現在とは経由地などが大きく異なる点も少なくないが、原型であることに疑いはない。そして、本免許は、

 

 

明治44年(1911年)1月17日付け官報に見えるように、仮免許時とは若干路線が異なっている。

  1. 東京府豊多摩郡渋谷町字広尾町天現寺橋 ~ 神奈川県横浜市平沼町
  2. 同府荏原郡調布村字下沼部 ~ 蒲田停車場

東横線の原型である一番目は、仮免許時よりも起点・終点がより正確に書かれたというのみならず、位置も若干変更となった。当時、まだ平沼駅(停車場)はあったが駅の設置場所が今一つであり、1915年(大正4年)に廃止となる流れの中にあったので、平沼停車場から平沼町と表現が変わっている。なお、ここにいう「字」(あざ)とは大字を指す。

 

こうして本免許を得た武蔵電気鉄道だが、なかなか思ったようには事業は進捗しない。

 

 

1917年(大正6年)5月14日付け官報で確認できるように、武蔵電気鉄道は指定工事期限内に工事竣工がならず、なんと5月10日に私設鉄道免許を失効してしまう。だが、条件の緩い軽便鉄道法に基づく申請を即日行い、1917年(大正6年)10月30日になって再び、形の上で免許を事実上再取得するに至るのである。

 

 

大正6年11月2日付け官報の記事を掲載したが、ここに見えるように10月(去月)30日に武蔵電気鉄道に対し、3路線(幹線、第一支線、第二支線)の免許が交付された。いずれも私設鉄道法による免許失効したものの再取得となるが、武蔵電気鉄道にとっては事業の本体といえる鉄道免許を失効したままでは事業の基盤そのものを失ったも同然であり、格の落ちる軽便鉄道法の免許(特許)を取得しなければ存在意義を問われかねない。だが、何とか免許を再取得したことで、武蔵電気鉄道は大きな賭に出る。何と、軽便鉄道敷設から広軌鉄道敷設へと社の定款を変更したのであった。

 

しかし、武蔵電気鉄道の業績…いや資本力は増強されるどころか却って弱くなる一方であり、さらに第一次世界大戦後の不景気によって、ますます鉄道敷設どころではなくなってくる。そして、ついに大正8年(1919年)12月21日には定款変更し、経営陣を一新。郷誠之助男爵をはじめとするメンバーに交代した。さらにその翌年、大正9年(1920年)5月26日に鉄道院を退職して、かの五島慶太が常務取締役として就任する。これだけ見れば、いよいよ武蔵電気鉄道も上り調子になってきたかといえば、さにあらず。経済不況はますます厳しくなり、鉄道工事を始めることすらできずに会社そのものの命運が尽きようとしていたのであった。

 

ここで助け船が出されることになる。それは田園都市株式会社であった。当blogでも田園都市株式会社のことは地域歴史研究でそれなりに書いているので、Google検索等で探していただきたいが、田園都市株式会社の分譲地を通る鉄道計画を推進させるために非常勤取締役として籍を置いていた小林一三の推挙によって、武蔵電気鉄道常務取締役 五島慶太の引き抜きが画策されたのである。無論、傾いている会社よりも資本のしっかりしている会社の方が事業を進めやすいのは当然で、五島慶太はその申し出を受けることになる。ただし、それには条件があり、武蔵電気鉄道が免許を持つ「第一支線」こと「蒲田支線」(調布村~蒲田停車場)を田園都市株式会社に譲渡することが求められた。田園都市株式会社の分譲地は調布村付近に大きく確保されていたため、蒲田停車場までの鉄道は欠くことのできないものだからである。五島慶太は、このスカウトしてもらう条件を呑み、その真意を武蔵電気鉄道には伏せ、別の理由で蒲田支線の譲渡を決定する。時は、大正11年(1922年)7月10日。目黒蒲田電鉄設立、つまり五島慶太が目黒蒲田電鉄の常務取締役に就任する2か月ほど前のことであった。

 

 

大正11年(1922年)9月20日付け官報には、この権利譲渡が9月(本月)19日に許可されたことが確認でき、創立されたばかりの目黒蒲田電鉄に対して、田園都市株式会社の2線(大井町停車場 ~ 調布村間、目黒停車場 ~ 碑衾村間)と武蔵電気鉄道の蒲田支線(調布村 ~ 蒲田停車場間)の免許が異動したのである。そして目黒蒲田電鉄は、この3線を部分結合して目黒停車場 ~ 洗足分譲地 ~ 多摩川台分譲地 ~ 蒲田停車場という、かつての目蒲線(現在の東急目黒線の一部と東急多摩川線の全部)として、わずか2年程度で全通させてしまうのであった。

 

こうして資本力のある田園都市株式会社と、武蔵電気鉄道を裏切った五島慶太が推進する目黒蒲田電鉄の2社が分譲地からの多額の利益を生み出すようになるが、それにはもう一つきっかけが必要だった。それは関東大震災である。

 

関東大震災によって東京市中は壊滅的な打撃を受け、住居の郊外移転が進む端緒となる。これにより、開業間もない目黒蒲田電鉄の運輸や田園都市株式会社の分譲地は多額の利益を生み出すようになり、さらに大きなものとして東京蔵前の罹災した東京高等工業学校の敷地と大岡山分譲地の等価交換によって、莫大な利益を手にした。これによって、目黒蒲田電鉄の資本金を事実上の親会社である田園都市株式会社の資本金と同じ500万円に増資し、さらに低迷していた武蔵電気鉄道の株式を買収して経営権を握り、五島慶太にとって恩人というべき郷誠之助男爵以下経営陣を追放。そして、大正13年(1924年)10月25日、臨時株主総会において社名を武蔵電気鉄道から東京横浜電鉄へと改称したのである。ここに強力な資本力と次々と利益を生み出す分譲地を背景に、武蔵電気鉄道の幹線だった「渋谷町 ~ 横浜市」間の鉄道建設がついに現実味を帯びてくるのであった。

 

といったところで、今回はここまで。続きはまた暫くしてからの予定。

(転載時追記:こんなことを書いておきながら、続きはわすれてしまったようです。)

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年4月3日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

大江戸鳥瞰図といえば、江戸後期の鍬形蕙林のものが著名だが、今回ご紹介するのは先日発売されたばかりの書籍である。

 

 

この手のものは、たいてい朱引内あたりまでしか描かれていないことが多いが、本作は異なる。何と、東京23区にあたる部分はもちろん、横浜市の一部まで含まれる。まさに労作であり、作者の立川博章氏に対しては敬服する以外にない。立川博章氏の鳥瞰図は、こちらで紹介されているが、いやはや作成過程も含めて芸術品、工業製品、何と形容していいかも…。ま、芸術センスのない私が形容したところで、伝わるはずもないのだが(苦笑)。

 

 

ちょっとボケ気味になったが、意図的なのでご容赦を。現在の東京都大田区ほか、洗足池付近の図。ベースとなった地図は、明治前期のフランス式彩色地図だと思われる。なので、上にあげたような江戸の区域でない部分については正確でない可能性がある。もっともそれは江戸市中の武家屋敷も想像で描かれたとあり、そもそもこの芸術作品にそんなつまらない意見をぶつける方がナンセンスというものだろう。

 

 

本書が素晴らしいのは上に示したページで、トレーシングペーパー(薄紙)を上に被せるように見えるが、実際は別ページとして用意されている。薄紙を被せるというパターンはよく見られる技法であるが、実はこれが制作者が考えるほど便利とは言えない。それは薄紙が破れやすく劣化しやすいほかに、比較してみる場合でも結局は別ページを繰るようになるので、このように完全に別ページ建てしてくれる方がありがたいのだ。

 

というわけで、本書は素晴らしいの一語に尽きる。これまでも江戸中心部について鳥瞰図が出されていたが、東京23区の全範囲に加え、横浜市中心部まで包括した鳥瞰図は類を見ない。しかも価格は3,000円しない。細かい点で気になるところはあるが、先にふれたように芸術作品に対して言うことではない。そんな感動を覚えつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年4月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は久々に一枚の古写真のコーナー。何はともあれ、まずはこれをご覧いただこう。

 

 

舗装されていない6~8メートルほどの幅員の道路の上を人力車、そしてその前を一人の男が歩く。左手側には海が見え、その先の海岸線は大きく左に曲がっている。海上には杭のようなものが打たれ、やや沖合まで広がっている(おそらく海苔養殖の篊だろう)。道路脇には電柱らしきもの?と見事な松の木が見えている。さて、いったいいつ頃でどのあたりの写真だろうか── としたところで、既に答えはタイトルに記したように、明治中期の東海道。場所は現在の東京都品川区にあたる鈴ヶ森付近である。

 

©国土地理院

 

ほぼ同時代の地図(10年程度地図の方が新しい)に撮影地点を赤色で落としてみた。実際のポイント(カメラマンの位置)はもうちょっと北(上側)にあたるが、だいたいの位置ということでご容赦願いたい。このあたりから南側(下側)に向かって撮影したものが上写真、というわけだ。

 

といったところで、多忙の新年度のため、あっさりとここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年2月27日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

JTBパブリッシングさんのキャンブックスシリーズは鉄道関連の書籍として素晴らしい作品が数多あることで知られ、私もいくつか持っているが、中にはかなりひどいものがある。当blogでも、書籍について様々な誤りなどを指摘しているものがあるが、その大半は購入してから行っている。それは著者に敬意を表し、著した苦労を慮れば、単に批判だけを行うのはいかがなものかと感じているからだ。

 

しかし、中には例外もある。あまりにひどい、根本的なところに錯誤があり、それが単なる誤植ではなく、明らかに著者の薄っぺらい知識から派生した「短絡思考」から出てきたとしか思えないものは、購入する価値を見出すことができないからだ。

 

 

残念ながら、キャンブックスシリーズの汚点となりそうな「東急電鉄まるごと探見」(著者:宮田道一、広岡友紀)だが、著者の一人、宮田道一氏は元東急電鉄の社員で、積極的に東急電鉄系の書籍を著している方である。こういう方を著者として迎えているのに、大変申し訳ないが本書には致命的な誤りが多数ある。また、誤りに加えて、歴史認識もどうしても東急電鉄を悪者にしたくないという独特な解釈(いわゆる歴史修正主義)も見られ、言い方は悪いが、「老いたな…」という印象が拭えない。

 

まず、最たるものは最初の方に書かれている東急電鉄の歴史である。黎明期から現在まで、20ページほどによくまとめられているが、中身がひどい。私の勝手な予想だが、おそらくほとんどを広岡友紀氏が執筆し、それを宮田道一氏が監修する(もう少し深く関わっているかもしれないが、主従でいえば広岡氏が主で宮田氏が従だろう)という形だろうと見る。というのは、鉄道史料をよく見ている(調べている、ではない)のはわかるのだが、まったく上滑りで、喩えは悪いが、できの悪い学生のインターネット情報を継ぎ接ぎした論文もどきを読んでいるような印象なのだ。これまでの宮田氏の著書を見る限り、ここまで底の浅いものではなかったので、もし宮田氏がメインで書かれていたとするなら、先にふれたように「老いたな…」となるのだが、そこまでひどくはならないだろう。なので、著者の役割分担について、そう思ったのである。

 

そうしたことを踏まえて、致命的な誤りを指摘しよう。それは東急電鉄の源泉である目黒蒲田電鉄の開業路線に関する記述で、本書によれば次のようになっている。

 

目黒~丸子多摩川 ←誤り!

 

大事なことなので、もう一度書こう。

 

1923年3月11日 目黒~丸子多摩川間 開業 ←誤り!

 

他にあったらご教示いただきたいが、このような誤りは初めて見た。正しくは、

 

目黒~丸子 ←正しい!

 

である。おそらく著者の頭の中には、現在の目黒線と東急多摩川線が多摩川駅で乗り換えているというイメージが色濃く焼き付いているのだろう。だから、部分開業の結節点が多摩川駅の旧称である丸子多摩川駅だと勘違いしていると見る(あるいは田園都市株式会社由来の免許と武蔵電気鉄道から譲渡された免許の結節点で一期・二期となったと勘違いか)。だが、正しくは開業当初は、目黒~丸子(現 沼部)間であり、わざわざ多摩川駅から丸子駅まで開業線を一駅分延ばしたのである。

 

なぜ丸子(沼部)駅まで当初開業路線を延ばしたのか。答えは簡単で、中原街道、そして丸子の渡しという当時の交通の要衝と結びつけるためである。開業当初は、洗足田園都市(当時、洗足住宅地)の分譲が行われているだけで、調布田園都市(当時、多摩川台住宅地)の分譲は行われておらず、鉄道利用者をあてにするには人々が行き交う丸子まで敷く必要があったからだ。

 

こういう歴史を承知していれば(この程度であれば、誤りが多いが基本史料「東京急行電鉄50年史」の当該数ページを読めばわかること)、丸子多摩川と丸子を混同するはずがない。そもそも開業当初は丸子多摩川駅ではなく、現在と同じ多摩川駅だったのだから(駅位置は異なる)。

 

そして歴史認識(歴史修正主義)については、池上電気鉄道の合併は敵対的(強引な)合併ではなく、当事者間で穏便に行われたとするような記述を強調しており、それに加えて、やったのは会社ではなく五島慶太だとしてすべての責任を押しつけている記述である。歴史認識は立場によって異なるが、事実や当時の認識を歪曲するのは褒められたことではない。

 

池上電気鉄道の合併については、池上電気鉄道の経営陣が誰一人として知らないまま(ということは株式買収を公にもしていない)、大株主から取引所を介さずに株式の過半を買収し、一方的に臨時株主総会を提起し、経営陣を刷新するという行為そのものが「敵対的でない」とするようなもので、著者はそういう簡単な理屈すら知らないのかと驚愕する。仮に大株主と五島慶太の仲が大変よかったとして、好意をもって譲渡したとしても、会社からすれば敵対的買収以外の何物でもないのだ。実際、当時のマスメディアは敵対的買収と報じているし、当の五島慶太も「小田急とは穏便に合併した」と言っているように、それ以外は穏便でなかったことを告白している。にもかかわらず、敵対的買収という見解を少数的な意見とし、そうではなかったとするのは歴史修正主義以外、何と表現していいのだろう。

 

また、別の例として「田園調布」の命名由来についても東急電鉄(目黒蒲田電鉄、東京横浜電鉄)が命名したように記しているが、盗人猛猛しいとはこのことだ。当時は調布田園都市と分譲地を自称しており、分譲地の住民たちが荏原郡調布村の中で独立したエリア(行政区的なもの)を構成するにあたって(調布村が区制施行するにあたって)、その名称を「田園調布」としたのが初めで、単にそれを駅名として拝借したに過ぎないのである。しかも改名理由は、鉄道省から同駅名変更通知を受けてのことであり、調布→田園調布、多摩川→丸子多摩川としただけで、積極的に改名したわけではない。にもかかわらず、あたかも「田園調布と命名したのは東急だ」的な物言いはいかがなものかとなるのである。

 

あげていけばきりがないが、本書は単に誤植の山とか言うのではなく、誤りの根っこが薄っぺらい知識に基づく寄せ集めと著者の妄想(会社勤めの長かった宮田氏ではなく広岡氏の可能性が高いと見る)が跋扈しており、とてもではないが購入する価値はないと断定した。その上で、このようなことを書くのはいかがなものかと自問するが、とりあえず記しておこうと思った次第。

 

2014年4月19日午前追記

当記事のコメント欄で頂戴した情報によれば、歴史に関する記述は宮田氏ではなく広岡氏のようである。やっぱりだめな著者は書く内容もだめかと改めて納得。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年2月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

これまで直近6回にわたって、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍をネタに池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄(東京横浜電鉄含む)、玉川電気鉄道、小田原急行鉄道、京王電気軌道(玉南電気鉄道を含む)の各社を眺めてきた。今回は、これまで省略してきた大正11年(1922年)上期より昭和2年(1927年)上期までの11期にわたる一日平均乗客数と一日平均賃金(運賃)収入を6社横並びで比較し、考察していく。では、早速、一日平均乗客数の表とグラフを示そう。なお、上期とは前年12月1日から当年5月末日まで、下期とは当年6月1日から当年11月末までを指す。また、★の付いた昭和2年上期は、小田原急行鉄道のみ昭和2年4月のみの一日平均となっている。

 

 

圧倒的なのは、関東最古の郊外私鉄であり、東京(品川)~横浜(神奈川)を東海道とほぼ平行して走る京浜電気鉄道である。この間、路線延長のあったのは大正14年上期にあたる品川(北品川)~高輪間のみで、品川駅前まで乗り入れたにもかかわらず、乗客の伸びには大きな影響を及ぼしていない。むしろ、前年の大正13年上期の伸びが大きいが、同年下期の関東大震災の被害によって頭打ちの傾向が続いているといえる。

 

軌道線の玉川電気鉄道と京王電気軌道は、どちらも似たような伸びとなっているが、甲州街道と大山街道の繁華の差が表れているか。興味深いのは、京王電気軌道は新宿から都心方向よりも八王子・高尾方面への進出に力を注いだのに対し、玉川電気鉄道は南武鉄道の溝ノ口までは延伸させたものの、都心方向へ渋谷から天現寺橋まで延伸させたり、三軒茶屋から下高井戸、玉川から砧、さらには渋谷橋から中目黒(目黒町役場前)へと線から面への指向を見せる。しかし、巨大な新興繁華街新宿を抱える京王にはわずかに及ばなかった。

 

驚異的な発展を見せるのは目黒蒲田電鉄で、大正13年下期、つまり関東大震災を契機として一気に3倍近い伸びを見せた後、昭和2年上期には軌道線の京王電気軌道と玉川電気鉄道を追い抜き、京浜電気鉄道に次ぐ乗客数となった。この頃は、実質、目黒~蒲田間のみであったものの、その区間だけで達成しており、沿線人口の爆発がいかにすさまじいものだったかがうかがえよう。その後も大井町線、東京横浜電鉄線が順次開業し、京浜電気鉄道をも抜き去っていく。

 

そして我らが(苦笑)池上電気鉄道。思いっきり0に近い、x軸にへばりつくような展開となっている。大正11年下期は事実上、1か月半ちょっとで907人、続く大正12年上期で1,078人と、いくら蒲田~蓮沼~池上と3駅しかなかったとはいえ、この数字は寂しすぎる。大正12年上期の最後の一か月(大正12年5月)からは、雪ヶ谷まで延長されたが、それでも2,000人に届かず。関東大震災による郊外移転の影響も微々たるもので、ようやく3,000人台に乗せるのが精一杯。大正15年下期においては、慶大グラウンド前駅の開業と大学野球の宣伝効果があったからか、3,952人と過去最高の数字をたたき出すが、オフシーズンになればまた減少してしまうという残念な結果に。だが、グラフで見ればはっきりわかるが、他社と比較すればこの程度の増減は誤差の範囲でしかない。開業間もない小田原急行鉄道に、最初から抜かれてしまうのも止むを得ないといったところか。

 

続いては、一日平均運賃収入の表とグラフを示そう。

 

 

 

まず、注意点から。京浜電気鉄道の大正11年上期の運賃収入は、不明のため未記載となっている。さて、運賃収入はだいたい乗客数と同じような傾向を示すが、目黒蒲田電鉄は運賃レベルでは京王電気軌道と玉川電気鉄道を追い抜いていないことがわかる。これは、目黒蒲田電鉄の短距離の利用が多いという証左で、実際、多くの乗客は目黒~洗足に集中していた。昭和3年(1928年)に、武蔵小山駅と洗足駅の中間に西小山駅が開設されるのも、この一帯まで人口稠密地帯だったからである。

 

そして、小田原急行鉄道がいきなり京浜電気鉄道の次に位置するのは、新宿~小田原という長距離を一気に開業したことから、一人あたりの運賃が高額だった(他社線よりも長距離乗車する=運賃が高額)ことによるが、以前ふれたように固定資産の負担は大きく、この程度の収入ではまったくお話しにならなかった。もっとお話しにならないのは池上電気鉄道で、乗客数以上に低空飛行の運賃収入は、雪ヶ谷~蒲田というまったく都心と接続していない盲腸線というだけでなく、営業に力を入れていたとはとても思えない惨憺たる結果となるだろう。池上電気鉄道が面目を一新するのは翌昭和3年(1928年)、五反田駅へ接続してからだが、エリアを広げる目黒蒲田電鉄に対抗するにはあまりにも貧弱であり、頼みとしていた京浜電気鉄道もこのような営業成績では見限られるのも当然だといわれても仕方がない。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年2月4日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

ここ数回は、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍をネタに、池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄(と東京横浜電鉄)、玉川電気鉄道と今日の東京急行電鉄を形作った鉄道会社を取上げ、続いて大東急を形成した際に合併した京浜電気鉄道、小田原急行鉄道を取上げた。この流れからお察しのように、今回は京王電気軌道である。

 

京王電気軌道は、いわゆる大東急に最後に合併された鉄道会社だが、その合併は昭和19年(1944年)と戦局も押し迫った時期で、陸上交通事業調整法の趣旨というよりは交通事業の整理・統合であった。京王電気軌道は鉄道よりも電力供給事業に多くの営業利益を得ており、その事業が国策化されることでほとんど死に体に近い状況で東京急行電鉄に合併された。とはいえ、京浜電気鉄道や小田原急行鉄道の合併以上に根強い反対があって、戦後の分離・独立も当然大きな声が上がったが、電力供給事業が二度と戻らぬ状況でもあったことから、旧京王電気軌道の路線だけでは独立採算が危ぶまれたため、窮余の策として小田原急行鉄道(旧帝都電鉄)の井の頭線を京王傘下に組み入れ、京王帝都電鉄として独立した。現在は社名変更して京王電鉄となったが、「帝都」を社名から外すのであれば、旧帝都電鉄の井の頭線は小田急電鉄に返せばいいと思うのは私だけか…(苦笑)。

 

さて、それはともかく、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」105~106ページの「京王電気軌道株式会社線」と冠された文章を以下に引用する。なお、漢字は常用漢字に置き換え、仮名づかいも現在のものに置き換えている。

創立………………明治四十三年九月

開業………………大正二年四月

資本金(公称)…一千二百九十万円

資本金(払込)…八百二十二万九千八百十七円五十銭

営業線亘長………二十四哩四十鎖

軌間………………四呎六吋及び三呎六吋

車輌ボギー車……五十八輌

車輌 単車………二輌

運輸従業員………二百五十名

兼業………………電気供給

(昭和二年五月末日現在)

 当社は明治四十三年九月の創立で、大正二年四月笹塚、調布間を先ず開業し、次て大正四年五月笹塚、新宿間を完成せしめ、更に同年六月には支線調布、多摩川原間、九月には調布、飛田給間、十月には飛田給、府中間と順次に竣工開通したのである。斯くて大正十五年度末(十一月三十日)の営業線は本線、支線を併せ十四哩三十二鎖を算したが、同年十二月一日に姉妹会社たる玉南電気鉄道株式会社(注)を合併し其の営業線府中、八王子間十哩八鎖を新たに増加し、初めて東京、八王子間を連絡する京王電車の実を備うるに至った。尚当社は創業の当初、軌道工事未成区間に於て其の竣工に至る迄一時の代用機関として調布、府中間及新宿、笹塚間に於て乗合自動車運輸を行ったことがあった。

(注)玉南電気鉄道株式会社は大正十一年七月資本金百五十万円を以て創立し、大正十四年三月京王電気軌道の終点府中駅構内から発して一直線に東八王子に至る十哩八鎖(軌間三呎六吋)を開業した。同線は京王線を通じて東京から八王子、高尾山方面に至る近道であって、八王子市街自動車及高尾自動車両社と連絡して一般乗客及遊覧客を吸収していた。

 当社営業線の詳細は次表の通りであるが、左記の中東京都市計画区域内に属する線路亘長は新宿起点七哩三十二鎖である。

京王電気軌道営業路線(昭和二年七月一日現在)

笹塚-調布………… 七哩四八鎖   大正 二、 四、一五

新宿-笹塚………… 二哩三三鎖   同  四、 五、 三

調布-多摩川原…… 〇哩五二鎖   同  五、 六、 一

調布-飛田給……… 一哩一一鎖   同  五、 九、 一

飛田給-府中……… 二哩四八鎖   同  五、一〇、三一

府中-八王子………一〇哩〇八鎖   同 一四、 三、二四

 尚当社の資本金は創立当初は百二十五万円に過ぎなかったが、爾来数次の増資を行った外最近には玉南電気鉄道との合併に依り現在では一千二百九十万円を擁するに至った。

 次に当社の計画線に就ては新宿追分起点を現在の箇所より一、二町都心寄りに移し其の路線を専用軌道とし、併せて新宿駅舎を新築する計画があり、予て工事中であったが此の程竣工した。此の外出願線としては当社の幹線笹塚より新宿に至る二哩半の地下鉄道がある。

 当社の運輸成績は次表の通りで逐年逓増の趨勢にあるが、大正十五年度の業況は一日平均乗客は五万五千四百五人、賃金は三千四百七十二円八十八銭である。

(次表略。)

京王電気軌道は、その名が表すように東京と八王子を結ぶことを目指したが、上記から確認できるように府中~八王子(東八王子)間は玉南電気鉄道が開業した。これは、地方鉄道法に基づく補助金を得るために、軌道法所管の京王電気軌道ではなく地方鉄道法所管となる新会社を設立したからである。それが玉南電気鉄道で、軌間も京王電気軌道のそれではなく、地方鉄道主流の1067mm(=3呎3吋)軌間で施工した。しかし、結果は中央線と並行区間だと認定され補助金は得られず、それなら別会社である意味はないとばかりに両社は合併し、合併の翌年には改軌工事が竣工し、全線軌道法による1372mm軌間となった

 

また、多くを甲州街道と平行した軌道電車として運行していたため、一定の乗客・運輸収入はあったものの、平行する省線中央線との競争は避けられず、同じく省線東海道線と平行していた京浜電気鉄道のように東京(品川)~横浜の両端と比べると、新宿はまだしも一方の終端が八王子では旗色が悪い。さらに京浜工業地帯となっていく産業の成長著しい京浜電気鉄道沿線と比較するには、京王電気軌道は相当に厳しいとなるだろう。東京市の記述には好悪のいずれもが書かれておらず、実現の可否は別として計画路線もぱっとしない。これでは電力供給事業が失われれば、早晩立ち行かなくなるのは自明であるし、戦後になって独立する際に小田急から井の頭線の譲渡を受けるのも当然かもしれない。

 

では、以前と同様、最後に本書掲載の「京王電気軌道営業路線図(昭和二年七月一日現在)」を掲げて、今回はここまで。

 

 

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年2月3日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

直近四回は、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍をネタに、池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄(と東京横浜電鉄)、玉川電気鉄道と今日の東京急行電鉄を形作った鉄道会社を取上げ、続いて大東急を形成した際に合併した京浜電気鉄道を取上げた。この流れからお察しのように、今回は小田原急行鉄道である。小田原急行鉄道は、鬼怒川水力電気という強大な資本によって設立したこともあって、これまで4回にわたって取上げてきた路面電車上がり、土地開発会社上がりの会社とは異なり、資本金の巨大さと原野レベルの土地に一気呵成で鉄道網を作り上げるという、当時の鉄道会社の「常識」とはかけ離れた格好であった。しかし、いくら巨大な資本があっても延々と赤字を垂れ流しつつ、固定資産がまともに使われないまま償却していく過程では維持していくのも困難であり、電力業が国策によって官営化されていく中、維持もままならなくなり、ついに東京横浜電鉄に合併されることとなる。とはいえ、資本レベルでは平和的な合併劇も従業員レベルではそうではなかったので、戦後になって大東急分離闘争の尖兵となるのは仕方のない、時代の流れというべきか。

 

では早速、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」109ページの「小田原急行鉄道株式会社線」と冠された文章を以下に引用する。なお、漢字は常用漢字に置き換え、仮名づかいも現在のものに置き換えている。

創立………………大正十二年五月

開業………………昭和二年四月

資本金(公称)…三千万円

資本金(払込)…七百五十万円

営業線亘長………五十一哩三十四鎖

軌間………………三呎六吋

車輌ボギー車……四十一輌

蒸気機関車………二輌

車輌 貨車………八十四輌

運輸従業員………四百九十七名

兼業………………土地、遊園地経営

(昭和二年四月末日現在)

 当社は新宿、小田原間に高速鉄道を運転する目的を以て大正十二年五月設立せられ、当初の資本金は一千三百万円であったが、昭和二年一月三千万円に増資した。創立後間も無く大震災に遭い一時進退両難の窮地に陥ったが、やがて善後策を確立し大正十四年十一月から一斉に全千五十一哩余の工事に着手し昭和二年四月一日落成を告げ即日開業したのである。

 当社線は省線新宿駅を発して千駄ヶ谷町、代々幡町、世田谷町等の殷賑なる東京市郊外接続町村を貫通し、武蔵、相模の大平野を縫って遠く小田原に達するものであるが、新宿より多摩川辺に至る約十哩の間は急速なる発展を遂げつつある地域で開通匇々の乗客は主として此の区間の者が大部分を占めると聞く。但し開業以来日尚浅き為未だ詳細なる数字を得ないが、昭和二年四月中の旅客運輸業績は乗客三十七万六千二百三人、賃金は十六万一千九百七十円三十六銭にして一日平均は乗客一万二千五百四十人、賃金五千三百九十九円一銭である。

 次に当社の計画線としては、本線の原町田駅から分れて東海道線の藤沢駅に至る十三哩七十鎖の江の島線あり、昭和三年三月頃に開通の予定であると云う。

開業が昭和2年(1927年)4月、そして(おそらく)原稿の締切りが同年4月末現在では大したことが書けないのは仕方のないところ。しかし、開業1か月の営業成績として、

  • 乗客……………376,203人
  • 同一日平均…… 12,540人
  • 賃金……………161,970.36円
  • 同一日平均……  5,399.01円

とあって、どちらも池上電気鉄道を大きく上回り、目黒蒲田電鉄と比べても運賃(賃金)は多くなっている。とはいえ、営業路線の長大さを思えば、運賃については高額となるのは自明であるし、一方で乗客数が目黒蒲田電鉄の約4分の1でしかないことで、大変効率の悪い営業成績であることもまた明らかである。

 

では、以前と同様、最後に本書掲載の「小田原急行鉄道営業路線図(昭和二年七月一日現在)」を掲げて、今回はここまで。

 

 

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年2月2日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

直近三回は、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍をネタに、池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄(と東京横浜電鉄)、玉川電気鉄道と今日の東京急行電鉄を形作った鉄道会社を取上げてきたが、今回は引き続き、いわゆる大東急を形成した鉄道会社の一つである京浜電気鉄道を取上げる。京浜電気鉄道は、五島慶太が地下鉄戦争(東京高速鉄道と東京地下鉄道との争い)における兵糧攻めで、東京地下鉄道が合同しようと目論んだ京浜電気鉄道を先に自社(東京横浜電鉄)に合併させてしまおうという強引な手段で消滅した。京浜電気鉄道としては、品川から都心方向への進出に東京地下鉄道との相互乗入れによって目指したばかりに、五島慶太に乗っ取られたというわけである。

 

では早速、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」89~93ページの「京浜電気鉄道株式会社線」と冠された文章を以下に引用する。なお、漢字は常用漢字に置き換え、仮名づかいも現在のものに置き換えている。

創立………………明治三十一年三月

開業………………同三十二年一月

資本金(公称)…一千五百万円

資本金(払込)…一千五万円

営業線亘長………十七哩七十鎖

軌間………………四呎六吋

車輌ボギー車……六十輌

車輌 貨車………十七輌

運輸従業員………八百一名

兼業………………地方鉄道、電気供給、土地家屋、工場経営、運河

(昭和二年五月末日現在)

 当社は明治三十一年三月資本金九万八千円を以て創立せられ、翌三十二年一月川崎を起点とし川崎大師停留場に至る一哩三十八鎖の単線運転を開始したが、之れ実に東京市附近に於ける郊外電車の濫觴である。

 本社は当初台紙電気鉄道株式会社と称したが明治三十二年四月京浜電気鉄道と改称し、やがて資本金を八十五万円と為し、次第に事業を拡張した。即ち左表に示すが如く、明治三十四年には川崎、南馬場間及び大森海岸、大森駅前間が開通し、次て糀谷、穴守間、品川南馬場間が竣工し、明治三十八年に至り川崎、神奈川間の連絡が完成した。而して其の後大正二年に蒲田、糀谷間が開通し、越えて大正十四年三月に至り市電と線路の一部共用を約することにより現在の高輪駅迄伸長したのである。

 尚同年十月には当社の分身たる海岸電気軌道株式会社(注)の総持寺駅川崎大師間の迂回線が開通し、当社線と共同運転を開始するに至った。当社の現在営業線は省線品川駅前の高輪駅を起点とし横浜市の京浜神奈川駅に至る十三哩五十四鎖の本線と、大森海岸、大森駅前間の三十二鎖、京浜蒲田、穴守間の二哩二十六鎖及び川崎、川崎大師間の一哩三十八鎖の各支線とを併せ十七哩七十鎖であるが、内東京都市計画区域内に属する路線は六郷土手駅を限り総長七哩四十二鎖である。

高輪-品川……………… 〇哩三八鎖 大正一四、 三、一一

品川-南馬場…………… 〇哩五四鎖 明治三七、 五、 八

南馬場-川崎…………… 六哩二六鎖 同 三四、 二、 一

川崎-神奈川…………… 六哩一六鎖 同 三八、一二、二四

計…………………………一三哩五四鎖

大森海岸-大森駅前…… 〇哩三二鎖 同 三四、 二、 一

蒲田-糀谷……………… 〇哩四四鎖 大正 二、一二、二六

糀谷-穴守……………… 一哩六二鎖 明治三五、 六、二八

計………………………… 二哩二六鎖

川崎-川崎大師………… 一哩三八鎖 同 三二、 一、二一

合計………………………一七哩七〇鎖

(注)海岸電気軌道株式会社は大正九年十一月の創立にして京浜電気鉄道と同一資本系統に属する会社である。現在は別個の組織となって居るが、資本金二百五十万円の中百五十万円は京浜電鉄の持分に属し、又実質上同社の経営する所であって早晩両社は合併するものと予想されている。海岸電軌会社は現に大正十四年十月に開通した京浜電鉄本線の総持寺駅より鶴見埋立地を迂回経由し京浜線の川崎大師駅に接続する五哩の営業線を有している。

 次に当社の旅客運輸業績に就て述べんに、旧時のことは其の資料を欠き明かでないが、今仮に累年の利益計上率等に依って其の一班を窺えば、当社線には古くから有力な競争線たる国有鉄道があり常に圧迫を蒙りつつあったが、殊に大正四年京浜間に省線(当時院線)電車開通以来京浜直通客の大部分を省線に奪われ、為に相当経営難を来した様であった。然し乍ら其の後欧洲大戦の勃発に因って招来されたる好景気に依り京浜間に多数の工場が建設され、沿道の漸く開けるに従い人口増加し、従って乗客も亦増加したので、大正七年上半期から次第に順況に趨いた。

 然るに這般の大震災に依り会社は再び大打撃を蒙ったが、一方彼の大震火災に基く東京市人口の大移動に伴い沿線の各町村に移住したるもの多かりし為著しく乗客数を増加し、其の最近に於ける乗客及賃金の状況は次の通りである。尚次表に依れば震災後に激増した乗客数は、大正十四年上半期を頂上として漸く減少に向って居るが、之れ主として沿線の工場地帯が一般経済界不況の余波を受けて業務沈滞したるに因るものと察せられる。尚大正十四年十一月省線の上野、神田間開通後に於ける横浜、上野間直通の影響も亦一因として考えらるべきであろう。大正十五年度中の乗客及賃金は一日平均夫々九万八十七人、七千十一円である。

(次表略。)

 次に当社の計画線としては、高輪駅より白金猿町に至る六十七鎖と、横浜市では京浜神奈川駅から長者町迄の市内乗入線とかあるが、何れも目下工事中である。此外新出願線としては幹線京浜蒲田駅より分岐し、省線東海道線及山手線を横断して大崎町五反田附近を迂回し、芝区札の辻に達するものがあるが、この延長は六哩八分、軌間四呎八吋半で五反田より札の辻に至る約二哩は地下式とする計画であると云う。更に又鶴見花月園内に停留場を設け、架橋に依って省線を越え遊覧客を計画線に誘う目論見があると聞くが孰れも実現期は未定である。

さすがに関東最古の郊外私鉄といわれるだけあって、これまでの三社と比べても長文だが、路線長も品川から神奈川までと3つの支線から構成されるそれは、最も長いものとなっている。興味深いのは、本文中にも「旧時のことは其の資料を欠き明かでないが」とあるが、乗客数及び運賃収入が大正11年下半期からの記録しかなく、それ以前ははっきりしないことである。理由は、関東大震災で関連する書類が焼失したともいわれるが、実際そのとおりかは何とも言えない。ただ、平行する強力な競争相手があるにしても、京浜間を走る実力は相当なもので大正15年度の乗客数及び運賃収入は、これまでの3社と比べてもはるかに多い

 

さて、続いてはおそらく錯誤ではないかと思うのが、京浜蒲田(現 京急蒲田)~糀谷間の開通日で、糀谷から穴守までは明治35年となっているのに、途中の京浜蒲田~糀谷が大正2年となっていることだ。京急自身は社史で蒲田(京浜蒲田)~穴守間を明治35年6月28日としており、大正2年は月日が異なるが、穴守稲荷神社(戦前は羽田空港敷地内にあった)参道前まで延長した路線が開業としている。この異動については、明治期の史料(資料)が当時の東京市にはなかったことから、別の資料によったと見るが、切れた盲腸のような路線開業があるのだろうか?と考えると、本書の方の誤りかと思う。このほかにも細かい点として、最初に開業したのは川崎~川崎大師ではなく六郷橋~大師であるのだが、まあ本書にとっては細かすぎる指摘か。

 

他には、計画路線を眺めれば、当初提携していた池上電気鉄道から東京地下鉄道へシフトしていった様子もうかがえよう。池上電気鉄道との関係は古く、京浜電気鉄道大森駅前停車場と接続する前提で、大森~池上間を本線として計画していたのだが、まったく進捗する様子が見られず、蒲田~池上~雪ヶ谷~五反田へと進んでいくことで、今度は白金猿町まで迎えに行ってやろうという計画線を用意した。

 

そこまでしておきながら、今度は都心方向への乗り入れを東京市電から東京地下鉄道へと改めると同時に、都心への接続方法を品川まで東京地下鉄道線を待つものと、新路線を新たに京浜蒲田から五反田へ延ばし、さらに札の辻まで自社線(そして東京地下鉄道線と乗り入れ)を用意するという意欲的なプランを用意した。しかし、膨張する東京は大東京となり、市境だった白金猿町は意味を失い、東京市電は白金猿町から五反田駅前まで乗り入れる。そして大戦後の不況と昭和恐慌によって、計画線は画餅に終わる。京浜電気鉄道の運命は、最初に書いたように地下鉄戦争のさなか、東京横浜電鉄へ合併されて終わるのである。

 

では最後に、本書掲載の「京浜電軌鉄道営業路線図(昭和二年七月一日現在)」を掲げて、今回はここまで。