【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年4月15日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、標題にあるように東京都目黒区にある東急東横線及び東急大井町線の自由が丘駅前が、1940年(昭和15年)当時どうだったのかを地図で確認してみようという内容である。では早速、地図から確認。

 

 

これは住宅地図のように見えるが、いわゆる火災保険地図と呼ばれるもので、火災保険会社はこの地図を参考に保険料設定に利用していたためにその名がある。建物が木造なのか鉄骨(鉄筋。不燃系)であるかや、建物が建て込んでいるか否か、接道状況はどうか、などなど現地確認を行う前に参考とするには十分な内容を持っている。

 

さて、地図を見てみよう。既に自由ヶ丘駅は東横線が上(高架)、大井町線が下(地上)という構成となっているが、当時2両ないし3両編成であったため、ホーム延長は今ほど長くはない。東横線ホームは大井町線を跨ぐ部分までホームは延びておらず、1本の島式ホームであることから急行電車と普通電車の乗り継ぎもできない構造である。一方、大井町線は自由ヶ丘駅出入り口の場所(現在の自由が丘東急プラザ)から二子玉川寄りは現在とほとんど変わらず、現在の6両編成対応は大井町側にホーム延長されたことが確認できよう。

 

そして先にふれたように自由ヶ丘駅本屋は、現在の自由が丘東急プラザの場所にあり(自由が丘東急プラザは当時の駅本屋より西側に大きく張り出している)、小さいながらも駅前広場もある。東京横浜電鉄が本路線を建設した当初は駅前広場などない駅ばかりだったが、ここ自由ヶ丘駅は以前に当blogでふれたように、二子玉川線が奥沢駅から九品仏駅(自由ヶ丘駅→自由が丘駅)に接続駅が変更になった際、九品仏駅の位置を南側に移動し、駅名も衾駅と変える予定だったものを地元の強い意向で自由ヶ丘駅とした。この移転・高架化工事とあわせて駅前広場が作られたのだった。なお、現在の駅前広場は1940年の地図に「自由ヶ丘」と書かれている下の2街区(自由ヶ丘駅と東横線に隣接する街区。その右側(西側)の街区)も駅前広場となっている。自由ヶ丘駅周辺は駅付近を米軍による空襲で焼かれており、駅前広場となった2街区もそれにあたり、戦後間もない1946年(昭和21年)に地主によって寄贈されたのである。

 

さて、火災保険地図で興味深い点を見ていこう。左上に「石井漠舞踏体育学校」と表記されているのは、舞踏家として著名な石井漠氏が開いていた学校(教室)で、自由ヶ丘と命名される前から当地域に居住し、衾駅から自由ヶ丘駅への改称運動に携わった方でもある。今はTSUTAYAなどがテナントとして入っている「自由が丘エヌケービル」となっており、石井氏の関係者がかかわっているかはわからない。

 

そして、今も健在なのは不二家書店。場所は現在地ではなく、今は駅前広場となった場所であるが、いい場所にあることに変わりはない。他に現在まで続いているところは、あまり自由が丘の店舗については承知していないので何とも言えない。なので、この地図上に明記されている店舗をすべて列挙することで、誰かに気付いてほしいと他人任せとしたい(苦笑)。パンヤ、セトモノヤ、肉ヤ、八千代食堂、モスリン店、川辺カメラ、吉田クスリヤ、菊地歯科医院、十菱本ヤ、クツヤ、田中セトモノ、スシヤ、キッサ、ヤマヤ食品店、栗山手芸店、石川写真館、小森洋装店、菓子店、コーヒー、ラヂオヤ、根元玩具店、寝具ヤ、ゲタヤ、菅田菓子店、本ヤ、ワカバ洋装店、レコードヤ、ささき料理、クダモノ、むさしや呉服店、洋品店、京染店、むさしや雑貨店、朝倉クツヤ、飯尾トケイ、内田センベイ、木村ヤパン、ポパイカワグチ、加賀見菓子店、小川雑貨、森田商店、堀クスリヤ、イヅミヤ洋品店、ナルセ文具店、平井花ヤ、パリー院、福島ハキモノヤ、松永家具店、山田ハキモノ、村林金物店、自由ヶ丘市場、運送店、吉田ペンキ、麻雀トキワ、ラヂオ鈴木、ソバヤ、岡田魚ヤ、蟹江医院、丸井家具店、タンポポキッサ、古賀造型社、渡辺印刷所、室賀風呂店、床ヤ。

 

©国土地理院

 

最後に比較のため、1941年(昭和16年)撮影の航空(空中)写真をご紹介しよう。火災保険地図よりも範囲を拡大してあるが、近い年代であることからおおよその見当はつくはずだ。といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年5月3日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

東京都目黒区洗足。この町名の由来については、かつての田園都市株式会社(現在の東急電鉄の前身…というか母体)が最初に分譲した際、洗足住宅地として命名し、最寄り駅名を洗足と定めたことに加え、自身がこの地に本社を移転させた際、正式には荏原郡碑衾村大字碑文谷字南原であった地名を東京市外洗足町と自称(碑衾も碑文谷も荏原郡も表記したくなかったのだろう)するなどして定着したものが、昭和7年(1932年)この地が東京市に併合されるにあたり、東京市目黒区洗足として正式町名となった由来がある(長い文になったな…)。つまり、この地はもともとの地主(おそらく江戸期以前より由来)から田園都市株式会社が土地を買い上げ、耕地整理組合(田園都市株式会社による一人施工)を立ち上げ耕地整理(区画整理)し、土地分譲を行ったものである。よって、どんなに早くともこの地の土地を購入できるのは図面販売時の大正11年(1922年)6月であり、実際に住宅を建設できるようになるのは、耕地整理工事も終了に近づいた大正11年(1922年)年末から翌大正12年(1923年)前半であった。(分譲地に必須となる電気供給を田園都市株式会社は大正11年末に開始。)

 

住宅建設が始まった頃、まだ目黒蒲田電鉄線(現在の東急目黒線及び東急多摩川線)は工事施工中であり、目黒駅~丸子駅(現在の沼部駅)の開通は大正12年(1923年)3月10日だった。そして、その約半年後、関東大震災に見舞われることになるが、洗足分譲地にあった40戸あまりの住宅にほとんど被害はないという話が渋沢秀雄氏から伝わっているので(一方、電車運行に欠かせない千束変電所は倒壊した)、第一期分譲が約400区画あったとはいえ、図面販売から1年3か月、耕地整理工事完了後からおおよそ8か月の時点で、まだ1割程度の状況だったことが伺える(土地を購入しても即座に住宅建設を行った事例は少なかった)。

 

しかし、このような状況下であったものの、田園都市という今はもちろん、当時はさらに摩訶不思議な社名を採用した田園都市株式会社は、社会事業的な位置づけも持っており(発起人の渋沢栄一氏自身がそうであるため)、新たな洗足住宅地に土地だけを売るのではなく、そこにコミュニティの誕生までもかかわるよう動いていた。大正11年(1922年)11月、土地購入者を集め、耕地整理工事の終了及び住宅地への送電開始時期、鉄道開設時期を報告会を開催。さらに翌大正12年(1923年)2月26日には、田園都市株式会社主催の夕食会を丸ノ内生命保険協会で開催し、出席者は176名を数えた(当時の購入者の6割以上を集めた)。ここで、田園都市株式会社はパンフレットにも掲げていた「理想的田園都市」を会社と居住者で作っていこうと申し合せを行ったのである。

 

無論、いきなりそのような夕食会が開催されたわけではなく、入念な根回しが行われていた。この場では、洗足会の前身となる理想的田園都市をつくるための暫定委員会の設置が確認され、委員長には大正11年度末(=大正12年3月31日)現役武官から退任予定の山屋他人氏が推挙された。山屋他人氏は洗足住宅地購入者の一人で、分譲地番号367番及び368番をひとまとめにして住宅を建設した(現在の東京都品川区小山七丁目17番東南角。当時の住所では、東京府荏原郡平塚村大字小山字南耕地513番地。下の地図では左端下方に見える513の中の二とある所)。ちょっと先走るが、山屋氏の住宅は米軍の空襲で罹災し(山屋他人氏はその5年程前の1940年に他界)、戦後は別の所有者となっている(現在は4つに分割されてしまっている)。

 

 

以上の経緯で委員長に海軍大将という経歴を持つ山屋他人氏をいただいた委員会は、同年4月12日、第一回委員会を東京築地の水交社で開催。田園都市株式会社に居住者の要望事項を提出するなど、積極的に今で言う街づくりに動き出した。これらの功績で、洗足田園都市の初期に大いなる功績を残されたのが山屋他人氏であり、その故かどうかはわからないが、居住地の一角に「山屋坂」という石柱が建っていると思われる。

 

 

以上の経緯で山屋坂となったわけだが、最近(といっても数年前)出版された「美智子皇后と雅子妃」(福田和也 著)115ページには次のようなくだりがある。

東急目黒線洗足駅近くの小和田邸の側に山屋坂とよばれる小道がある。坂道というほどのものではない、狭くなだらかな坂だが、この坂の出口、中原街道から洗足駅前に抜ける一方通行の道と交わるところに「山屋坂」と刻んだ石柱がある。

この坂の名前は山屋他人に因んだものだ。山屋将軍は退任後、居住していた洗足村の村長を引き受け、同地の整備に寄与した。それを顕彰して、この石柱が建てられた。

つまり、現在の小和田邸辺りは、もともと山屋家のものであり、そこに江頭、小和田と二代の婿が住んだのである。そうした経緯を考えにいれると、小和田氏自身は入り婿に近い存在と見るべきかもしれない。

どうしてこのような記載となったのかは知らないが、小和田邸は東京都目黒区南一丁目14番にあり、ここは田園都市株式会社の分譲した洗足住宅地に含まれておらず、分譲地最西端から測っても約100メートルほど離れている。無論、山屋坂の石柱がある品川区小山七丁目17番からは直線でも約700メートル離れているので、どうすればこのような記載となるか意味不明である。そして、致命的な勘違いは「山屋将軍は退任後、居住していた洗足村の村長を引き受け、同地の整備に寄与した」という点だ。正しくは「洗足村」ではなく「洗足会」(発足時の暫定委員会)であって、「村長」ではなく「委員長」(洗足会になってからは会長)である。著者の勘違いは、洗足村の村長なのだから、大地主であって現在の目黒区洗足あたりから南一丁目あたりまでの地主だったと推量したからであろう。実際は、田園都市株式会社が分譲した洗足住宅地のうちわずか2区画を購入したに過ぎないだけであるのに、現在の小和田邸のある場所と近い(約700メートルの距離が近いか遠いかは主観に因るが)というだけで勝手に関連づけたと思える。地域の歴史にまったく無関心と思われる著者の聞きかじりが、このような記載となったのではないだろうか。

(現在の小和田邸が山屋氏からの相続物件かは何とも言えない、というかここの議論とは無関係。)

 

以上、山屋坂についてあれこれ書いてみた。石柱1つでなかなかに奥深い地域の歴史が秘められているなと思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年5月6日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回、前々回、洗足田園都市エリアを大正中期の逓信省地図で確認してきたわけだが、現在の東京都目黒区にあたる荏原郡碑衾村エリア、同じく東京都品川区にあたる荏原郡平塚村エリアをとり上げたので、残るは一つ。東京都大田区にあたる荏原郡馬込村(千束)エリアを以下に示そう。

 

 

荏原郡平塚村及び荏原郡碑衾村とは違って、かなり狭い範囲であることがわかる。通称田無街道(現在の環七通りに相当)から碑衾村に隣接するエリアで、3898番地だけ買収できなかった。ここだけ買収できなかった理由は不明だが(上物があったわけではない)、この3898番地に隣接するように線路が敷かれたことから関連する話があったかなかったか…。

 

こうして洗足田園都市エリアを逓信省地図で確認してみたが、逓信省地図が同時代地形図と大きく異なっている部分が多いので、これだけを史料として判断するのは難しい。いずれは地形図や市販された地図、現地確認をしつつ特定していくつもりであるが、実際、耕地整理(区画整理)を行ってしまったところは戦後であっても以前がどうだったかを特定するのは難しい。自由ヶ丘のように耕地整理組合が1,000分の1より大きい縮尺の新旧比較図を残しているような場合はそうではないが、こと洗足田園都市については肝心の東急電鉄にも史料がほとんど残っていないようなので、地道な作業を伴うのは必至と見る。

 

といったところで簡単ですが、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年5月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

本来なら「大正中期、逓信省地図(荏原郡平塚村)における洗足田園都市エリア」の記事として含める予定だった(タイトルもあっさり「大正中期、逓信省地図における洗足田園都市エリア」とする予定だった)が、時間がなかったため二回に分けた次第。というわけで、洗足田園都市エリアの半分近くを占める荏原郡碑衾村の逓信省地図に洗足田園都市エリアを示した図を以下に示す。

 

 

実は──時間がかかったのは、碑衾村エリアを特定しにくかった(というかできなかった)ことによる。前回の平塚村エリアは耕地整理前の道路がそれなりに現在まで生き残っているので、特定しやすかったのだが、こちら碑衾村エリアは最初から躓いた。それはどこか。答えは平塚村との境を跨ぐ道路(上図では右やや上の「字池ノ谷」の池の字右から横に通ずる道路。1431番地と1432番地間を通る)を洗足田園都市エリアの北限とならなければならないのに、これを採用してしまうとかなり北寄りとなってしまい、図中に示される家屋(地番エリアが白=色が塗られていない)の場所からあり得ない選択となってしまう。かといって、平塚村側を見ればこの道路を北限とするのが妥当であり、碑衾村側とかみ合わない。この理由を熟考しているうちに昨日は時間を要してしまい、今日にずれ込んだというわけである(苦笑)。

 

とはいえ、江戸期由来の地図作成手法を色濃く受け継ぐ逓信省地図なので、若干のずれはあるだろうと逃げをうって、この図だけで妥当性を求めた結果を示すこととした。

 

さて、本図を見ても確認できるようにこのエリアでも家屋(上物)は一つもない。平塚村と異なるのは、平塚村はすべて田畑表記だったものが、こちらは森林表記のものも含まれている点である。明治中期に作成された地図では字南原あたりは「荒地」と記載されてもいるので、まぁそういうことなのだろう。伊達に4村境界(明治中期における中延村、小山村、碑文谷村、馬込村千束)ではないのだ。

 

といったところで、今回はここまで。次回は、ここまでやったので残る馬込村についてエリア確認をする予定。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年5月4日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

おおよそ2か月ほど前に「1915年(大正4年)当時の洗足田園都市エリア開発前夜」という記事で、1万分の1地形図に田園都市株式会社が洗足住宅地として分譲したエリアを示したが、今回はその姉妹編という位置づけである。

 

 

上図がその際、作成したものだが、ご覧のとおり買収エリアにはまったく住宅地が存在しない。上物(家屋などの建築物)があると土地代金のほか、取り壊し費用や移転費用など余計な金員を支出しなければならないので、洗足エリアをはじめ、大岡山エリアや多摩川台(田園調布)エリアも上物のない用地を買収地として選定した(もちろん例外あり)。

 

 

これがいわゆる逓信省地図(一部)で主に郵便配達のために作成され、今日の市町村毎の地図と同じく地方自治体毎に作られており(すべて作られていたわけではなく、必要性が低いところ=かなりの田舎のものは作られていない村もあった)、地番が漏らさずふられている。上図は東京府荏原郡平塚村(のちの平塚町→東京市荏原区→東京都品川区の一部)のもので、ピンク色を付けたところが洗足田園都市エリアとなる。確認できるように、地番単位で買収されていることがわかるだろう。

 

といったところで時間がなくなったため、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年5月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

以前にも記したように、古い官報を読み漁っている日々が続いているが、今回は当blogでも何度も採り上げている池上電気鉄道奥沢線(新奥沢線)の死亡公告とも言うべき、1935年(昭和10年)11月30日付け官報に掲載された記事を紹介する。

 

 

以下に書き起こせば(漢字は現在のものに置き換え)、

鉄道一部運輸営業廃止実施

本年九月十九日目黒蒲田電鉄株式会社ニ対シ雪ヶ谷、新奥沢間鉄道運輸営業廃止ノ件許可セル処 本月一日之ヲ実施セル旨届出アリタリ(鉄道省)

という何ともあっさりとした記事だが、必要十分な内容は持っている。既に池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄に合併されており、廃止申請は目黒蒲田電鉄が行ったわけだが、廃止許可後、およそ1か月半弱で廃止したのは当時としては長かったのか短かったのか、はたまた妥当だったのか…。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年7月3日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

出土橋、タイトルにも記したように「でどばし」と読む。場所は、東京都大田区中央四丁目20番と31番にまたがるところで、ゼンリンの電子地図で示せば以下のとおりとなる。

 

©ゼンリン

 

もちろん、現在は橋のようには見えない。以下の交差点横断歩道やや左寄りあたりに川が流れ、同じく横断歩道あたりに橋が架かっていた。これが出土橋である。出土橋は今にいう旧池上通りが内川を渡るところで架橋されていた。

 

 

それを示すのが、上写真右側に見える石碑で、

 

 

だいぶ下部が汚れて見にくくなっているが、上側には「いにしえの東海道」と書かれているように、江戸以来の東海道ではなく、それ以前の東海道(平間街道と言ったり、相州鎌倉街道、池上道など様々な呼称がある)だったことを示している。さらにこの右奥には、

 

 

葉で一部が隠れて読みにくいが、「旧新井宿出土橋跡」とある。旧新井宿とは、もちろん当該地域の旧地名(とはいえ、新井宿という名は区の出張所や小学校などかなり残っている方である)で、住居表示制度前までは新井宿○丁目として。東京市に合併される前は荏原郡入新井町の大字新井宿として。さらに1889年(明治22年)の市制町村制施行前には荏原郡新井宿村として、長い歴史を持つ由緒ある名である。

 

 

なお、出土橋という名前自体は最近ではほとんど聞かれることはないが、現在でも電柱に「出土橋支線」とあるように、出土橋はかつてこの地域ではそれなりに名の通ったものであることが伺える。数年(十数年?)程前までは、交差点に面する歯科医院の隣に出土橋を冠した商店があったが、既に今はない。周りを見る限りだが、出土橋を名乗るものは石碑の他は電柱の支線にのみ残り、もはや巷間に上らない地名となった。

 

では、なぜ出土橋というものを今回取り上げたのか。簡単ではあるが、最後にこのことにふれておこう。私は現在、池上電気鉄道の歴史を調べているところであるが、そもそも池上電気鉄道は「大森駅~池上」間の交通機関として誕生し、それは馬車輸送の置き換えを狙ったものだった。しかし、このルートは本線であったにもかかわらず、免許取消しの憂き目に遭い、鉄道としては未成のままとなった。だが、池上電鉄成功事例の一つであるバス事業では、大森駅~池上ルートを実現し、これはドル箱路線となった。現在でも大森駅~池上駅のルートは、大田区役所が大田区中央二丁目から蒲田駅東口に移転して以降、減少傾向にあるものの、まだまだ輸送需要は多い。このドル箱路線であった頃の昭和初期のバス停は、

  • 大森駅前(当時は東口側の京浜電気鉄道大森駅横から発車していた)
  • 八景坂下(京浜線ガードをくぐった先)
  • 根岸
  • 六人衆墓地前(これより先は現在の旧池上通りを進む)
  • 春日神社前
  • 出土橋
  • 子母沢(バス車庫の最寄り)
  • 市野倉
  • 八幡神社前
  • 堤方
  • 浄国橋
  • 山下橋
  • 本門寺前
  • 池上駅前

であり、出土橋という興味深い名前を確認したかったというわけである。といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年7月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

全国津々浦々に見られる「中央」という地名。「中央」という名を広く広めたのは、現在のJR中央線(中央本線)と中央大学だと思っているが(どちらも明治末期に命名)、地名(自治体名)として「中央」を広めたのは戦後に誕生した東京都中央区だろう。

 

©ゼンリン

 

では、その中央区はなぜ「中央」を名乗ったのか。日本橋区と京橋区の合併なので、大田区(大森+蒲田)のように日京区という案もあったようだが、東京の中心としての採用であることは間違いない。では、なぜ中区などではなく中央区なのか。「中央」という名前にこだわった理由までは定かでない。この点が気になるのは、戦前に中央と名乗る地名はほとんど(まったく?)見られないからである(中町とかならある)。

この中央区を皮切りに、東京23区では住居表示制度以降、次々と町名として採用されていく。

  • 東京都中央区(昭和22年3月15日)
  • 東京都江戸川区中央(昭和40年9月1日)
  • 東京都大田区中央(昭和40年11月15日)
  • 東京都足立区中央本町(昭和41年1月1日)
  • 東京都目黒区中央町(昭和41年3月1日)
  • 東京都中野区中央(昭和42年6月1日)

しかもご覧のとおり、わずか1年9か月(昭和40年9月~42年6月)の間に集中して採用されているのである。この当時、東京特別区は独立した地方自治体としてではなく東京都の内部団体的な位置づけであったので、隣接区に同様の町名は避けるよう指導を受けていた。実際に隣接する区は大田区と目黒区のみ(もともと目黒区も中央だったものを都の指導によって中央町とした)だが、それでも特別区にこれだけの中央と冠する町名が誕生したのは奇異に映る。

 

ちなみに、中央と冠した町名に区役所が存在したのは、江戸川区、大田区、目黒区の3区で、このうち江戸川区を除く2区は交通不便な地域からそうでない地域に移転している。一方、足立区は中央本町が成立した際、区役所はこの地になかったが、現在は移転してこの地にあるという目黒区や大田区とは逆のパターンである。また、中野区では中央は区の中央部という意味合いであって、区役所が中央に存在したことはない。

 

中央という地名は全国各地に見られるが、味気ない名前とする評価も多いものの、どうしてその名が付けられたかという意味からすれば、それはそれで地域の歴史となるだろう。そんなことを思いながら、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年7月8日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「池上電気鉄道、開業前の年表作成の試みに関する一考」と「池上電気鉄道、開業後から1927年までの年表作成の試みに関する一考」の続きです。

 

さて、今回も池上電気鉄道の年表を東横沿革史(東京横浜電鉄沿革史)と東急50年史(東京急行電鉄50年史)とを比較しながら、残る7年間を見ていこう。

 

 

残る7年の年表は、これまであったような両書間の年代的違い(錯誤)は見い出せない。ただし、記事の数はこれまで以上に東横沿革史のものは少なく、わずかに4記事しかない。

  • 大崎広小路~五反田間開通。
  • 取締役社長中島久万吉辞任。後藤国彦代表取締役に就任。
  • 池上電鉄を統制。
  • 池上電鉄を合併。

実にあっさりと言うべきか、何と言うか…。五反田~蒲田全通以外は会社の体制にかかわる記事のみで、それ以外はない。1927年以前の東横沿革史年表も記事の数は、東急50年史より少ないのだが、それにしても少なすぎる。特に、奥沢線(新奥沢線。雪ヶ谷~新奥沢間)は腫れ物を扱うがごとく、と言っていいのか、まったくふれられていない。ただし、全般的に1928年(昭和3年)より後の時代は、総じて池上電気鉄道に関する記事は少なく、私もこれまでに様々な文献等を見る限りにおいて、まったくといっていいほどないに等しい。統計資料からは、五反田まで全通したことで乗降客数が倍々ゲームで伸びていることはわかるのだが、これといったトピックがないのか(大きな事件などがなければ年表に記しにくいのはわかる)、別の理由があるのか何とも言えないが、記事が極端に少なくなるのが目黒蒲田電鉄に統制されるまでの4~5年間なのである(1930年=昭和5年は何一つない)。

 

以上のことから、池上電気鉄道の通史をあらわす場合、困難な問題の一つが五反田まで全通して以降の歴史がそれ以前と比べてスカスカであることにある。無論、奥沢線問題や白金延長線問題など、個別の事象はあるにせよ、社全体としての取り組みと言おうか流れと言おうか、そういったものが見えにくいという点にある。だからこそ、事業展開として見るべきものがないから合併されるという憂き目に遭ったとの判断もあるだろう。そんなことをあれこれ考えながら、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年6月25日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

以前、「池上電気鉄道、開業前の年表作成の試みに関する一考」という記事を作成したが、今回はその続きで開業後から1927年(昭和2年)までを対象とする。以前と同様に、「東京急行電鉄50年史」(以下、東急50年史)と戦前に刊行された「東京横浜電鉄沿革史」(以下、東横沿革史)の2図書の巻末の年表から列挙したものから示そう。

 

 

この約5年間には、池上電気鉄道によって本格的な電鉄会社となっていく、いわゆる産みの苦しみを味わうような雌伏の期間といえるものだが、東横沿革史には11記事、東急50年史には14記事(上年表では一つの記事でも時期が異なるもの<例えば免許申請と認可関連>は2つに分けているので16記事に数えられるが、東急50年史巻末年表では14記事となる)あり、取り上げる内容に差はあるが、ほぼ同内容のものが列挙されている。決定的に異なる越山体制から中島体制への移行は、正しくは1926年(大正15年)3月であるので東横沿革史が誤ったものとなる。ほか、同内容の記事は両書とも同じであり、いずれも官報等、他資料においても同様なので問題はない。

 

興味深いのは、東横沿革史年表には載っているが東急50年史年表には載っていない。あるいはその逆のものが見えることである。まず、東横沿革史年表にあって東急50年史年表にないものを列挙すると、

  • 開通式挙行。
  • 資本金を370万円に増加。
  • 電車線路の終点を五反田に変更の件、許可される。

の3記事で、どの記事も高柳体制でのできごとである。開通式の有無は、式典の重要性が戦前と戦後では「重み」が異なるのではないかということ。資本金370万円増加の件は、結局のところ高柳体制下での虚飾(粉飾)に塗れたもので実際には行われなかった(1926年5月17日の記事がそれを受ける)ため、戦前は池上電鉄の失敗としてあげたが、戦後は重要でないとしたか。3つめの終(起)点の変更は、池上電鉄にとって重要なものだが、それ以上に目黒蒲田電鉄(東京横浜電鉄の前身)にとっても重要なこと(池上電鉄の方が早く目黒を起点としていたが、目黒蒲田電鉄の親会社であった田園都市株式会社が目黒までの支線を遅れて許認可を受けたが、資本力の差で先行開業に漕ぎ着けた。これにより起終点が目黒~蒲田と全く同一になり、池上電鉄は接続駅の再検討を迫られることとなった経緯がある)であり、あえて記したとも言える。一方、戦後のものは池上電鉄との確執はそれほど重要視しておらず(後述)、そのあたりのことは重要でないと判断して記載しなかったとも考えられる。(実際、関東大震災以降~大正末期は、池上電鉄に関する記事はほとんどないので、この時期の重要記事と思われる目黒駅から五反田駅への接続駅変更を載せなかった理由を考えた方がいいかもしれないが。)

 

一方、東急50年史年表には載っているが、東横沿革史年表には載っていないものを列挙すると、

  • 本社を東京市神田区小川町35に移転。
  • 慶大グランド前駅新設。
  • 本社を荏原郡大崎町大字桐ヶ谷362に移転。
  • 雪ヶ谷~国分寺間鉄道敷設免許申請。
  • 雪ヶ谷~蒲田間複線工事竣工。
  • 調布大塚駅新設
  • 乗合自動車業営業開始。
  • 雪ヶ谷~国分寺間鉄道敷設免許許可。

の8記事で、興味深いものはやはり奥沢線(新奥沢線)に関連する記事(上では赤太字とした)が東横沿革史年表にはまったく見えない点だろう。ほか、本社移転記事、新駅等の新設・異動記事、乗合自動車関連記事は、続く1928年(昭和3年)以降にも東横沿革史年表ではまったく見えないので、掲載基準としてどうだったかという判断で決まったと見る。

 

では、通してみて気になる点といえば、当blog記事で取り上げた慶大グラウンド前駅の件について明らかにしたように(「池上電気鉄道 慶大グラウンド前駅について(確定編)」ほか)、慶大グランド前ではなく慶大グラウンド前が正しいこと。また、雪ヶ谷~国分寺間の免許許可を10月6日としているが、是に関しても当blog記事(「池上電鉄奥沢線(新奥沢線)の歴史を探る その8」ほか。再掲示注:今後再掲予定)を参照すればわかるように、10月6日という日付は一切出てこない。何か理由があって、この日付としたのかもしれないが、本文中と矛盾した日付でもあるので、年表側の記載ミスの可能性が高い。

 

といったところで、今回はここまで。