【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年2月1日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回、前々回に引き続き、今回も「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍をネタに話を進める。今回は、関東私鉄の中でも古参の部類に入る玉川電気鉄道で、最終的には東京横浜電鉄に吸収合併されるが、当時はまだそういう状況となっておらず、池上電気鉄道はもちろん目黒蒲田電鉄や東京横浜電鉄よりも規模が大きい。加えて路線拡充中であり、およそ10年ほど経って他者(社)の軍門に降るというのは考えられなかったろう。では早速、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」101~103ページの「玉川電気鉄道株式会社線」と冠された文章を以下に引用する。なお、漢字は常用漢字に置き換え、仮名づかいも現在のものに置き換えている。

創立………………明治三十六年十月

開業………………同四十年三月

資本金(公称)…一千二百五十万円

資本金(払込)…七百二十五万円

営業線亘長………十二哩六十七鎖

軌間………………四呎六吋

車輌ボギー車……四十輌

車輌 単車………十五輌

車輌 貨車………二十五輌

運輸従業員………三百七名

兼業………………電気供給、砂礫

(昭和二年五月末日現在)

 当社は明治三十六年十月の創立で、郊外電車としては京浜電車に次ぎ古い歴史を持って居る。明治四十三年三月初めて渋谷、玉川間を開業したが、当時は沿線に未開地多く従って乗客少なく営業振わずして一時経営難に陥り減資の已むなきに至った。然るに欧洲大戦後に於ける郊外の発展に伴い漸く乗客を増加すると共に社運挽回し、其の後数次の増資を重ね次第に盛大を加うるに至った。

 当社の営業線は次表の通りであって何れも東京都市計画区域内に属するが、本線の軌道は大部分市街地を貫通する道路上に敷設せられ、遠隔地間の連絡よりも寧ろ市街電車としての色彩が濃厚である。

玉川電気鉄道営業路線(昭和二年七月一日現在)

玉川本線……天現寺橋-渋谷橋   〇哩五三鎖 大正一三、五、二一

    ……渋谷橋-渋谷     〇哩七八鎖 同 一一、六、一〇

    ……渋谷-玉川      五哩五五鎖 明治四〇、三、 六

計……………………………………… 七哩二六鎖

砧線…………玉川-砧       一哩三〇鎖 大正一三、三、 一

世田谷線……三軒茶屋-世田谷   一哩二三鎖 同 一四、一、一八

    ……世田谷-下高井戸   一哩七六鎖 同 一四、五、 一

計……………………………………… 三哩一九鎖

目黒線………渋谷橋-目黒役場前  〇哩七二鎖 昭和 二、三、二九

合計……………………………………一二哩六七鎖

 右の外当社には玉川終点から多摩川を渡って溝の口に至る一哩二十二鎖と玉川村地内九鎖の二計画線があって予て工事中であったが昭和二年七月中旬に開通した。

 次に本社の創業以来の旅客輸送の業績を次表に依って一瞥すると開業の当初は一日平均の乗車人員は二千人内外に過ぎなかったが、爾来郊外の発展に伴い漸く其の数を増加し、特に大震災後は沿線各町村の人口増加と路線の伸長と相俟って著しい発展を招来した。大正十五年度の乗客は一日平均五万余人にして之が賃金収入は一日平均三千三百三十円七十銭である。

(次表略。)

玉川電気鉄道は、多摩川の砂利運搬を主要事業として創立されたが、東京市の論調では単に旅客収入をもって計られているため、明治~大正中期までは振るわないのは当然ではある。とはいえ、砂利需要は好不況に旅客運賃以上に左右されるものであり、減資を行わざるを得なかったのも自明であるだろう。

 

東京市も指摘するように、玉川電気鉄道は大正後期からその性格を一変させ、砂利運搬等貨物輸送から旅客輸送にシフトする。基本線の渋谷~玉川間から派生した路線は、

  • 渋谷~渋谷橋~天現寺橋
  • 渋谷橋~目黒役場前(正式には中目黒)
  • 三軒茶屋~世田谷~下高井戸
  • 玉川~砧

があるが、いずれも旅客目的が主である。特に町村役場までの交通確保が目指されており、延長路線は発展著しい渋谷町役場、目黒町役場、世田谷町役場の至近に停車(留)場が位置する。

 

また、世田谷地域の発展は関東大震災に伴う郊外移転のほかに、軍事施設の集中があったことを忘れてはならない。駒沢練兵場(駒沢といっても今の目黒区と世田谷区の境にある世田谷公園や陸上自衛隊三宿駐屯地などがある一帯)、近衛歩兵連隊、近衛騎兵連隊、近衛野砲連隊などが明治後期までに置かれ、玉川電気鉄道は関連運輸を担うこととなったからである。実際、世田谷(世田ヶ谷)の名前が広く知られるようになったのは、軍需施設が移転して以降であって、世田谷停車場も当時は駒沢練兵場近く(現在の世田谷区池尻三丁目)にあった。大山街道(玉川通り、国道246号線)の整備も、軍需施設の移転以降になされ、最初は道玄坂から三軒茶屋あたりまでが拡幅・直線化された。玉川電気鉄道も、この整備された道路上に軌道として敷設されたのである。

 

大正15年度の1日平均収入は、池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄と比べてさらに多い3,330.70円。昭和初期に小田原急行電鉄と東京横浜電鉄が玉川電気鉄道営業線の南北に開業することで、駅勢圏は狭まるが、それ以上に路面電車故の問題が出てくるのも昭和初期から。モータリゼーション発達と輸送能力の限界が早いという2点は、この時期が玉川電気鉄道のピークだったということを裏付ける。

 

唯一残った世田谷線(三軒茶屋~下高井戸)は、結果論だが、路面電車の性格を外して耕地整理に合わせず(一部例外を除く)、道路とは無関係に軌道を敷設したのが功を奏した。無論、軌道を道路に用途変更してバスを通す手もあったろうが、様々な手続きを慮れば当該区間だけで行けるところまで行くという方法が、ベストとはいわないまでもベターであったろう。東急の路面電車(玉川線)の廃止から、既に40年以上経過したことを踏まえれば、よりベターであったと思う。

 

では、前回、前々回同様、最後に本書掲載の「玉川電気鉄道営業路線図(昭和二年七月一日現在)」を掲げて、今回はここまで。

 

 

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年1月31日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回に引き続き、今回も「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍をネタに話を進める。今回は、池上電気鉄道の終生のライバル目黒蒲田電鉄に係わる箇所を抜粋し、前回同様にあれこれ語っていく。では早速、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」97~100ページの「目黒蒲田電鉄株式会社線」と冠された文章を以下に引用する。なお、漢字は常用漢字に置き換え、仮名づかいも現在のものに置き換えている。

創立………………大正十一年九月

開業………………同十二年三月

資本金(公称)…一千百万円

資本金(払込)…五百六十万円

営業線亘長………八哩十九鎖

軌間………………三呎六吋

車輌ボギー車……三十一輌

車輌 貨車………二十四輛

運輸従業員………三百二十四名

兼業………………電力供給

(昭和二年五月末日現在)

 当社の営業線は省線目黒駅を起点とし、荏原、碑衾、調布等の町村を迂回し省線蒲田駅に至る八哩十九鎖にして全線東京都市計画区域内に存する。当社は、大正十一年九月の創立で、翌十二年三月に目黒、武蔵丸子(現今の沼部、大正十五、一改称)間五哩十五鎖を先ず開業し、次て同年十一月武蔵丸子、蒲田間三哩四鎖を竣工しここに目黒、蒲田間の全通を見たのである。斯くの如く当社は創業以来日尚浅く、開業当初は沿線の開発策として専ら田園都市の経営に尽瘁して居った程であるが、開通後間も無く偶大震火災に遭遇し、其の結果沿線町村の人口が急激に増加し、従って乗客亦頗に多きを加うるに至ったので、爾来著しき進展を示した。尚又大正十五年二月には、当社の姉妹会社たる東京横浜電鉄株式会社(注一)の丸子多摩川、神奈川間九哩二分が開通して目黒、神奈川間の直通連帯運転を開始した為一層乗客を増加するに至った。(注二)

 今之を次表に就き一瞥するに、開業の当年度には乗客は一日平均一万人に満たぬ状態であったが、大正十三年度には二万四千人、同十四年度には三万八千人、而して同十五年度には五万人と比年躍進的激増を示して居る。因に大正十五年度の乗客賃金収入は一日平均二千八百三十円九十八銭である。

 又資本金の如きも設立時は三百五十万円に過ぎなかったが、開業の翌年には早くも六百万円に増資し、大正十五年七月に至り再び増資を行い一千百万円とした。

 次に当社の新設予定線は予て工事中の大井町線(幹線大岡山、省線大井町駅間)二哩三十八鎖が昭和二年七月上旬に竣工開通したので差当り既定のものはないが目下出願中に属する二線がある。其の一は大井町線の中間から分岐して当社線の武蔵新田駅に至る三哩、他は当社線の武蔵新田駅より分岐して玉川電鉄の二子駅に至る二哩半である。更に当社は近く前記東京横浜電鉄会社と合併すべく伝えられているが、後者は計画線として現在左の各線を有して居る。

(次表略。)

注一 東京横浜電鉄株式会社は明治四十三年六月資本金三百五十万円を以て創立した武蔵電気鉄道株式会社を前身とし、線路敷設に至らずして大正十三年十月目黒蒲田電鉄関係者に事実上買収せられ、資本金を五百万円に増資すると同時に社名を現在のものに変更したのである。営業路線については本文に於て記した。

注二 東京横浜電鉄の開通後は目黒、神奈川間が事実上の本線となり蒲田行きは丸子多摩川で乗換を要することとなった。

東京横浜電鉄計画線(昭和二年七月一日現在)

区間

渋谷────────祐天寺   一哩五〇鎖

祐天寺───────多摩川   三哩五七鎖

渋谷町(広尾)───麻布二ノ橋 〇哩七三鎖

渋谷町(広尾)───祐天寺   一哩六五鎖

渋谷町(中渋谷)──淀橋町   二哩六六鎖

玉川電気鉄道交叉箇所      〇哩一八鎖

神奈川───────高島町   〇哩四三鎖

計 一一哩五二鎖

備考 渋谷、祐天寺間及祐天寺、多摩川間は予て工事中であったが、昭和二年八月下旬に開通した。

長い引用となったが、池上電気鉄道とは羽振りの良さが全然違うことに驚かされる。乗客数と運賃(賃金)収入の差も、

大正十五年度で比較すれば、

  • 池上電気鉄道…… 3,516人 ・   170.75円
  • 目黒蒲田電鉄……50,000人 ・ 2,830.98円

と、どちらも15倍以上の開きがあり、全く勝負にならないことがわかる。

 

さて、本文中の興味深い点としては田園都市に関してのところで、東京市の見立てでは田園都市の経営は鉄道業の副業的な扱いとされている部分だ。歴史的には、田園都市株式会社の鉄道部門として成立した目黒蒲田電鉄であるが、わずか創立5年ほどで目黒~蒲田間、大井町~大岡山間、そして東京横浜電鉄の渋谷~神奈川間を開通させ、飛躍的な発展を遂げたことから、既に外部の目からも目黒蒲田電鉄の副業が田園都市だという認識に映ったのだろう。主客転倒とはまさにこのことである。さらに、目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄の合併話も出ているが、実際に合併したのは本書が著されてから10年以上を経てからであり、いかに五島慶太といえども両社の合併に苦労したかもうかがえよう。本文から明らかだが、東京市は東京横浜電鉄を目黒蒲田電鉄と一体とみなしており、小さな池上電気鉄道でさえ独立した記事があるにもかかわらず、東京横浜電鉄の記事がない。

 

そして、やはり目黒蒲田電鉄及び田園都市の発展は「開通後間も無く偶大震火災に遭遇し、其の結果沿線町村の人口が急激に増加し、従って乗客亦頗に多きを加うるに至った」とあるように、同時代の見解としても関東大震災による沿線人口激増が最大の理由だということである。歴史に「if」はないが、東日本大震災も大きな影響を与えているのと同様、関東大震災もまたしかりということで、もし関東大震災がなかったとしたら、あるいは数年単位で遅れて発生していたとしたら…。

 

では、前回同様、最後に本書掲載の「目黒蒲田電鉄営業路線図 附 東京横浜電鉄計画線(昭和二年七月一日現在)」を掲げて、今回はここまで。

 

 

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年1月30日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」(昭和三年二月、東京市役所)という書籍から、池上電気鉄道に係わる箇所を抜粋し、これをネタにしてあれこれ語っていこうという趣旨である。では早速、「東京市郊外に於ける交通機関の発達と人口の増加」94~95ページの「池上電気鉄道株式会社線」と冠された文章を以下に引用する。なお、漢字は常用漢字に置き換え、仮名づかいも現在のものに置き換えている。

創立………………大正六年十二月

開業………………同十一年十月

資本金(公称)…三百五十万円

資本金(払込)…百五十六万八千七百五十円

営業線亘長………三哩二十九鎖

軌間………………三呎六吋

車輌ボギー車……八輌

運輸従業員………六十九名

兼業………………電力供給、土地家屋

(昭和二年四月末日現在)

 当社の営業線は省線蒲田駅前より池上町雪ヶ谷に至る三哩二十九鎖にして、全線東京都市計画区域内に在る。当社は大正六年十二月の創立で、当初の資本金は四十万円であったが、後、百八十五万円に増資した。而して大正十一年十月先ず蒲田、池上間一哩十四鎖の営業を開始し、次て翌十二年五月池上より雪ヶ谷の延長線二哩十五鎖を開通した。

 当社線は他の郊外電車と異り大都市に直接の連絡なく、又沿線附近に遊覧地を有せず、加うるに大正十二年十一月以来目黒蒲田電鉄線が進出して当社線と競争に地位に立ったので従来業績は兎角沈滞勝ちであった。創業以来の乗客及び賃金を示せば次表の通りであって、大正十五年度中の乗客及び賃金は一日平均夫々三千五百十六人 百七十円七十五銭である。

 当社は最近資本金を半減し事業の整理を行い、進んで拡張計画を立て、差当り予ての計画線たる雪ヶ谷、五反田間三哩四十二鎖及池上、大森間一哩五十六鎖の建設に着手したが、前者は昭和二年十月上旬に竣工した。又最近には五反田より芝区白金猿町市電終点を経て省線品川駅前に至る五十八鎖の特許を得たが、本線中猿町、品川間の線路は京浜電気鉄道線との供用の予定であると云う。

(次表略。)

昭和3年(1928年)に世に出た本書であるが、本文は昭和2年(1927年)4月末現在の状況で著されているため、池上電気鉄道はまだ五反田まで開通しておらず、蒲田~雪ヶ谷間のみの単線営業であったことから、惨憺たる書かれ方であると言えよう。戦前のお役所は、今のように民間企業(や市民など)に阿ることなどあり得なかったので、本書においても遠慮など全くない。しかし、一方的な悪口もないわけで、東京市からすれば池上電気鉄道はちょっと(いや、かなりか)今ひとつだという印象だったことは確かである。

 

もっとも、五反田駅まで全通した後は「大都市に直接の連絡なく」や「沿線附近に遊覧地を有せず」という東京市の指摘は解消され、目黒蒲田電鉄との対立が尖鋭化していくこととなる。また、会社創立時からの計画線である大森~池上間については、五反田から東京市内への乗り入れ(昭和7年10月より以前は五反田駅付近は東京市外)が最優先とされたこともあって、用地買収すら行っていなかった。五反田から白金猿町経由品川駅前の計画も、京浜電気鉄道が東京地下鉄道との関係を深めていくに連れ、池上電気鉄道は相手にされなくなり、本書の記述には出てこない起死回生の奥沢線計画に邁進していくわけである。

 

また、諸元を見ると、ボギー車8輌に対して運輸従業員が69名というのは、駅員等の配置を考えてもかなり多いという印象だ。昭和2年(1927年)4月末現在では、蒲田駅、蓮沼駅、池上駅、慶大グラウンド前駅、光明寺駅、末広駅、御嶽山前駅、雪ヶ谷駅と8駅(事実上、光明寺駅は機能していなかったと看做されるため7駅が適切か)しかなく、また単線であったので、ボギー車8輌というのも多すぎる。やはりこれは、五反田までの延長と全線複線化を見越した上での配置と見るのが的確だろうか。

 

では、最後に本書掲載の「池上電気鉄道営業路線図(昭和二年七月一日現在)」を掲げて、今回はここまで。

 

 

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年1月10日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、我が国最初の総合的な鉄道史である「日本鉄道史」(鉄道省。1921年8月31日発行)のうち、下巻に掲載されている路線図、さらに首都圏の路線図(東京及横浜近傍。大正9年3月末現在)を眺めながら、あれこれ語っていこう。

 

 

現在の路線図と見比べると、JR線はあまり変化が見られないが、私鉄については大きく異なっていることに気付くだろう。なお、上図は黒実線が開業路線、白黒実線が未開業路線(免許線)となっている。中でも思いっきり異なるのは、東京城南地域の路線(免許線)図である。

 

 

原図の解像度が低いので、拡大するとぼけぼけになってしまうのはご容赦だが、概ね判読には支障がないだろう。まず興味深いのは、関東地方最古の現役私鉄である京急線が描かれていないことである。路面電車(軌道)扱いとされているのが理由かと見るが…。

 

そして、さらに興味深いのは白黒実線で描かれる免許線(未開業線、未成線)で、現在路線とほぼ一致するのは蒲田~池上間の池上電気鉄道線のみで、それ以外は大きく異なる(辛うじて東横線の元となる武蔵電気鉄道線が近いと言えるレベル)。以下、個々に見ていこう。

 

大井町~調布(5.24km)は、荏原電気鉄道線で、田園都市株式会社の鉄道部門(というよりは免許取得のためのペーパーカンパニー)が田園都市への足として計画したもので、荏原電気鉄道→田園都市株式会社→目黒蒲田電鉄と免許が異動し、最終的に現在の大井町線の一部(大井町~大岡山)として完成した。残る区間(大岡山~調布)は、目黒蒲田電鉄本線として目黒~丸子(現 沼部)の部分として組み込まれたので、基本線としてはすべて実現したとなるだろう。

 

蒲田~調布(4.05km)は、武蔵電気鉄道の支線(蒲田支線)であったが、五島慶太の目黒蒲田電鉄移籍と共に目黒蒲田電鉄に無償譲渡されるという奇怪な運命をたどり、目黒蒲田電鉄本線の一部として組み込まれた。これも基本線としてはすべて実現したといえる。

 

大森~池上~目黒(7.70km)は、池上電気鉄道の本線と位置づけられるが、大森~池上は計画頓挫。池上~目黒は、道々橋経由から光明寺経由と大きく迂回した後、雪ヶ谷までの部分開業後に、目黒蒲田電鉄線との競合から起終点を目黒から五反田へ変更したことで、計画路線も大きく変わった。計画線とは大きく変わったが、一応は実現したといえるのではないだろうか。

 

蒲田~池上(1.11km)は、結果的に池上電気鉄道が最初に開業した路線であるが、この図に記載されている中では池上電気鉄道計画線中で最も新しい。これは大森~池上~目黒の計画線よりも優先順位が高かった等ではなく、単に工事費が安価に済むからと言う消極的理由からだった。

 

渋谷町~目黒~調布~高島町(15.10km)は、武蔵電気鉄道の本線と位置づけられていたが、資金繰りが進まず、座して死を待つような状態だった。それが、現在は東急東横線として重要路線として成立し得たのは、単に五島慶太の「想いの強さ」に他ならない。目黒蒲田電鉄と田園都市株式会社の資金(利益)を武蔵電気鉄道の買収と鉄路建設に直結させたのが五島慶太であり、様々な見方はあるが、結果としては意義あるものだったとなるだろう。なお、図中の渋谷町は現在の渋谷駅ではなく、渋谷広尾町(現在の日比谷線広尾駅の南あたり)を指す。また、目黒とあるのも目黒駅ではなく目黒町(現在の中目黒駅付近)を指す。

 

以上、簡単にふれてみたが、この後の東京圏は関東大震災に見舞われ、都市計画そのものの見直しが大きく進み、爆発的な郊外移転の波が押し寄せることになる。ある意味、牧歌的な時代の計画であるものの、計画の基幹はそれほど動いていないとも言える。そんなことを踏まえつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年3月28日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

JR山手線は日本鉄道が明治時代に開業したが、その初期計画路線において、渋谷~品川間が大きく異なっている。中でも「目黒駅追い上げ説」が有名な話として語られるが、これは私の知る限り大正時代までには語られていることが確認できている。本件については、当blog記事でもいくつかふれているが主な記事としては、

にとりあげている。今回は、これらを踏まえて初期計画線のルートを跡づけてみようという企画である。まずは、日本鉄道の計画路線絵図から。

 

 

作図をするにあたり、ポイントとなったのは次の点となる。

  1. 渋谷ステーションから南を進んだ後、どこから台地部に入り抜けていくか。
  2. 火薬庫付近の目黒川渡河位置はどこか。
  3. どのくらいまで目黒不動まで近づくか。

これらが判明すれば、概ね初期計画線を跡づけることが可能となる。とはいえ、目黒川渡河位置は言うまでもなく、現在の目黒川とは川幅も経路も大きく異なっているので、明治期の、計画線策定時の流路から検討する必要がある。そして、

 

 

も併せて検討した結果、こんな感じの図となった。

 

 

赤い線が初期計画線、黄色い線が現在線。ちょっと渋谷から南の曲線を曲げすぎた感触があるが、岩倉邸(今のキングホームズ。東横線中目黒側から代官山トンネル側を見てトンネル上に位置するマンション)の北側・南側のどちら側を通るかによって、曲線の曲げ具合が変わり悩んだが、今回は北側を通るものと推定した。

 

当初計画線と現在線を比べれば、台地を削る工事は当初計画線の方が短く、距離は大回りになる分が長くなる。どちらが有利かは何とも言えないが、目黒不動への最寄り駅として目黒駅を開設しようと考えるなら、当初計画線の方がいいだろう。上図中、「目黒駅(予定)」とあるのは、実際に計画されたものではなく、もし初期計画線のとおりに開通したなら、目黒駅はこの辺りであるだろうという私の予想である。

 

今回は、作図だけで時間が尽きたので、いったんここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年1月15日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「現在とまったく違う場所に開業していた目黒駅」という記事を8か月ほど前に書き、目黒駅に関する都市伝説(端的に言えば、目黒駅が最初から現在地に開業したという誤った前提で論を展開しているもの)を否定した。今回は、ではその頃に現在の目黒駅のある場所は、どんなだったのかを当時の地図で確認してみようという試みである。

 

 

これは明治20年頃のもので、開通間もない日本鉄道品川線(現 JR山手線)が単線で描かれており、既存の道路などがそのまま残されている(鉄道を後で追記したという印象)ことから、かなり無理して掘割式でこの地を通したこともうかがえよう。また、興味深いのは三田用水と道路に挟まれた領域(585番地、587番地の間)の掘割に占める面積がその前後よりも狭く(小さく)、住宅地(地番が書かれているのは住宅地)においては買収地を少なくしようとした配慮も見える。この地図からは、将来目黒駅が移設する地は、字千代ヶ崎だということも確認できる。

 

 

比較のために、ほぼ同じ場所をゼンリンの電子地図で示す。幸いにして、この地は当時の村境界線が概ねそのまま区境界線に継承されているので、位置関係が掴みやすい。また、大規模な区画整理も行われなかったことから、江戸期以来の細い道路もそのまま残っている(若干の拡幅はあったが)ことも、位置関係を確認するのに好都合だ。

 

さて、現在の目黒駅についてはゼンリンの電子地図で区界が確認できるように、左(西)から目黒区、品川区、港区と続き、品川区にあるのに目黒駅だと言われている。だが、これは1947年(昭和22年)からの話で、それ以前は品川区ではなく荏原区であった。これも1932年(昭和7年)からの話であり、さらにその前は大崎町(村)だった。そして、今回とりあげた地図作成年代である1887年(明治20年)はといえば上大崎村にあたり、これは初代目黒駅の場所も同様であった。つまり、正しく言うなら、

 

上大崎村にあるのに目黒駅(停車場)

 

だというわけである。ついでに言えば、すぐに隣接する目黒と付いた村も、当時は目黒村ではなく下目黒村だった。目黒村となるのは、1889年(明治22年)の市制町村制による大合併が行われた際、下目黒村、中目黒村、上目黒村、駒場村が合併してからのこと。要は、同時期に目白と命名された停車場ができたことから明らかなように、最寄りが目黒不動だというのが由来である。

 

これも品川線が当初計画どおりに目黒川岸を通り、目黒不動尊の近くを擦るようになってさえいれば、当時から下目黒村で、現在でも目黒区に属するようになっていたのだから、将来に及ぼす影響など現時点ではわかるはずもないし、過去の歴史的経緯を知らずして今のことを語ることもナンセンス。そんな自明なことを思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年4月20日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、東京都品川区にあたる地域で施工された三谷耕地整理組合の範囲を示しながら、このエリアの歴史などを簡単にふれていく。

 

三谷耕地整理組合施工エリア

 

三谷耕地整理組合施工地は、現在の東急目黒線 武蔵小山駅から西小山駅間の南側に位置し、旧東京府荏原郡平塚村(後、平塚町→荏原町→東京市合併時に荏原区の一部)の大字小山のうち、字三谷耕地と隣接する大字中延の飛地(概ね目黒線で区切られた部分)や大字戸越のごく一部から構成されたエリアで、大正12年(1923年)に耕地整理組合が成立し、大正14年(1925年)までにほぼ換地処分が終わるという、非常に早いスピードで事業が進んだ。

 

1923年といえば、目黒蒲田電鉄による今日の東急目黒線が開通した年にあたるが、鉄道建設工事と同時に進められていた田園都市(洗足。第一期)建設に大きな影響を受け、この三谷耕地整理組合を含めた目黒線沿線地域で次々と耕地整理組合が設立、施工されていた時期に相当する。

 

近いうちに取上げる予定であるが、この三谷耕地整理組合地と目黒線を挟んだ反対側には、ほぼ同時期に碑文谷耕地整理組合地があり、武蔵小山駅周辺の爆発的な発展は、この両耕地整理組合が積極的に事業を進めた結果であるといって過言ではない。無論、関東大震災による都心の壊滅という事態が、それをより加速させたのも事実であるが、住宅地としての準備が整っていなければそのようにならないことはならない。具体的には、現目黒区の碑文谷二・三丁目あたりは耕地整理されていなかったため、発展から置き去りになっていたのである。

 

耕地整理事業で最も時間がかかるのは、権利関係の調整である。一人施工(土地所有者が一人しかいない。いわゆる単独施工)であれば、調整するのは道路管理者等、公的機関のみとなるが、複数人であれば事業費の分担方法などはもちろん、最終的にどの土地を誰にあてがうかという換地処分に最も時間を要する。減歩率一つとっても、大土地所有者と商店経営者のような店舗付家屋の土地のみ所有しているのとでは、同じ20パーセントとしても零細土地所有者には厳しいだろう。よって、戦前には耕地整理工事が完成したものの、換地処分はようやく戦後になってというところも少なくない。

 

それが早期に確定するということは、利害関係から、というのはもちろん、リーダーシップを持った地元の名士があるなどの要因もあるだろう。だが、それ以上に大きいのは非協力的な地主の排除である。耕地整理組合が成立すれば、その組合地の土地を自由に売買することが禁止されるということもあるが、それ以上にいうことをきかない組合員が入っては困るという考えである。武蔵小山駅周辺(耕地整理組合成立時は単に小山駅)の土地は、利権目当てにむらがる怪しげな小規模地主(あるいは地主と称するだけの怪しい人たち)が割拠しており、これを組合地に組み込んでしまうと当然、進む話も進まなくなる。もっとも駅隣接地は、耕地整理などせずとも十分に利益をあげることができるので、下手に減歩率を適用され、ただでさえ小さい土地を削られるメリットはない。お互い適当な距離感があって、一部駅周辺の土地を除いた形で組合地が成立したのである。

 

組合地の道路パターンは、目黒線と平行する道路とそれと直行する道路とで構成されているが、これは目黒線と合わせたというよりは、地域にもとからあった主要道を背骨のようにして構成したに過ぎない。また、南側がV字のようになっているのは字界の道路(現在も道路として継承)の形からで、ここから南側の街区とは異なる道路パターンとなっていることからも、耕地整理の境界であることが確認できよう。また、南西側に凹みがあるのも字界に由来する。

 

以上、簡単ではあるが三谷耕地整理組合地に関して、あれこれ語ってみた。今では狭い道路であるが、これでも当時としては広い道路であり、まさか自動車交通が主流になるとは考えられなかった時代の産物ではある。しかし、道路を広く取ればそれだけ減歩率は高くなり、地主(組合員)からの反発は強くなるわけだから、建前上は「自動車交通が主流になるとは考えられなかった」としつつ、実態は減歩率を少しでも減らしたかったというのが本音であるだろう。といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年5月10日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回「碑文谷第二耕地整理組合地(東京目黒区)における新大字命名直前の状況 」の続き。

昭和7年(1932年)10月1日は、東京市が周辺5郡82町村を合併した日であり、荏原郡下の町村もすべて東京市に属した。碑衾町も東京市目黒区の一部(半分)を構成し、町内の大字・小字すべてが市区の町丁となった。つまり、昭和7年10月1日をもって、すべての字が消滅したのである。

 

にもかかわらず、昭和7年9月10日。碑衾町は(正確には東京府が決定するが申請は碑衾町)、耕地整理工事が完了した碑文谷第二耕地整理組合地に属する地域を以下のように改称・境界変更した。

 

 

旧字界は黄細点線、新大字界は黄実線で示した。そう、碑文谷第二耕地整理組合地のほとんどは、大字碑文谷の小字から、新たな大字として大字碑文谷から独立したのである。

  • 大字鷹番 = 字五本木前(部分)+ 字鷹番(部分)+ 字北三谷(部分)+ 字三谷(部分)
  • 大字三谷 = 字五本木前(部分)+ 字馬引沢境 + 字北三谷(部分)+ 字西ノ前(部分)+ 字三谷(部分)+ 字西池下(部分)
  • 大字本郷 = 字西ノ前(部分)+ 字三谷(部分)+ 字西池下(部分)+ 字田向(部分)+ 字殿山

ただし、碑文谷第二耕地整理組合地でありながら、大字衾字東谷戸の一部は隣接する大字本郷には加わらず、大字衾にとどまった。この3大字の誕生(独立)によって、昭和7年(1932年)9月10日から荏原郡碑衾町は、以下のように再編成された。

 

 

既に、大字衾から大字自由ヶ丘が独立しており、新たな3大字が追加となって碑衾町は6大字となった。大字自由ヶ丘を含め、新設された大字には小字は設定(継承)されず廃止された。これは、東京市へ合併される前提として行われたものであり、昭和7年(1932年)10月1日に東京市に合併された際は、大字鷹番、大字三谷、大字本郷、大字自由ヶ丘は境界変更されることなく、そのまま東京市目黒区の町となったのである。この際、

  • 荏原郡碑衾町大字鷹番 → 東京市目黒区鷹番町
  • 荏原郡碑衾町大字三谷 → 東京市目黒区三谷町
  • 荏原郡碑衾町大字本郷 → 東京市目黒区本郷町
  • 荏原郡碑衾町大字自由ヶ丘 → 東京市目黒区自由ヶ丘

となり、自由ヶ丘だけが「町」と付けなかった点に、この町の矜持を見ることができるが、それ以外はいずれも「町」を付けたことで、9月10日に成立した大字名はわずか3週間で終わったのであった。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年5月8日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、碑文谷第二耕地整理組合の施工地が耕地整理前、どのような字名(地名)があったのかを示す。

 

 

現代の航空写真をベースに、昭和7年(1932年)9月9日まで現役だった字名とその境界を示したが、字名を列挙すると、

  • 五本木前
  • 馬引沢境
  • 北三谷
  • 三谷
  • 鷹番
  • 西ノ前
  • 西池下
  • 田向
  • 殿山
  • 東谷戸(大字衾)

五本木といえば、現在まで続いている目黒区の町名の一つであるが、この当時も碑衾町に隣接する目黒町の字名に「五本木」があり、碑衾町側に「五本木前」が存在するという構図になっている。つまり、五本木に隣接しているから五本木前というわけだ。ちなみに五本木前の南側の境界は、品川用水である。

 

馬引沢境も五本木前と同様に、隣接する駒沢町にあった馬引沢(今では上馬、下馬となっているが、これは省略形であって、元は上馬引沢、下馬引沢といった)に隣接していることによる。北三谷及び三谷は集落としての名前がそのまま字名に継承され、鷹番は江戸期よりのもの、となっている。

 

また、東谷戸の一角は、碑衾町大字衾字東谷戸の一部で、この逆三角形状のエリアは明治中期以降の変遷だけを辿っても、駒沢村から碑衾村に異動した後、大字衾に属したまま碑文谷第二耕地整理組合に入って耕地整理事業を行ったものの、東京市合併時にはなぜか世田谷区に属し(このあたりは地図情報のみからの判断であり、情報が矛盾しているため今後の課題)、その後に目黒区に属するという変転をとげる。

 

この大字東谷戸の一部は例外だが、字地域すべてが耕地整理に一体として事業化されてはいない。鷹番、田向、西池下は一部または大部分が属し、旧目黒通りや北里研究所の敷地(鷹番小学校が不自然な形で切れている理由)を事業地境界とした。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年5月7日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回まで、数回にわたっておおくりしてきた碑文谷耕地整理組合に関しての話は終え、それに続くはまた同じような話題にしか見えない碑文谷第二耕地整理組合について、である。食傷気味とは思うが、作図に要する時間を得るには休日の方が都合がいいので、どうしても似た話題が続くのはご容赦願いたい。では早速、碑文谷第二耕地整理組合の施工範囲を示した図から見ていこう。

 

 

場所は、東京都目黒区で左下に見える幹線道路の交差点は柿の木坂陸橋で、目黒通りと環七通りの交叉する道路交通の要衝である。柿の木坂陸橋の上方を走る鉄道は東急東横線で、中央上寄りに見える駅は学芸大学駅、その左下には弁天池を中心とした碑文谷公園である。これらが含まれる地(橙色で囲んだ)が、今回取り上げる碑文谷第二耕地整理組合の施工地域となる。なお、参考までに右下の水色で囲んだエリアが、前回まで取り上げていた碑文谷耕地整理組合地である。

 

つまり大雑把に言うと、碑文谷第二耕地整理組合地は、現在の東急東横線学芸大学駅を中心とした東京都目黒区の西部にあたるエリアとなるが、当時の言い方にすると、東京府荏原郡碑衾町大字碑文谷北西部一帯となる。碑衾町を構成する2大字の一つ、碑文谷地域の碑文谷耕地整理組合に続く、2番目の耕地整理組合だと主張するネーミングということも確認できよう。ちなみに大字碑文谷で施工された耕地整理は、田園都市(洗足)、碑文谷、そしてこの碑文谷第二の3つで、東京市に合併されて以降になってようやく碑文谷地域中心が区画整理されるのは、耕地整理によってではなく土地区画整理によってであった。

 

では、耕地整理施工当時に近い1936年(昭和11年)撮影の航空写真でさらに確認しよう。

 

 

例によって航空写真の都合上、完全に真北を上とせず、やや傾いた上に南部が欠けてしまっている点はご容赦願いたい。碑文谷第二耕地整理組合地は、北(上)は荏原郡目黒町を境界とし、東南(右下)は北側の一部を除き旧目黒通り、西(左)は概ね北側が荏原郡駒沢町、南側を大字衾との境界としていた。

 

碑文谷第二耕地整理組合は、昭和6年(1931年)より事業開始しており、東京横浜電鉄線(現 東急東横線)の開通よりも後であるため、鉄道線路を考慮に入れた道路パターンとなっている(碑文谷公園のあたり)。また、駅周辺は市街地化が進んでいるのに対して、駅から離れた南側はまだ宅地化は進んでいないことも注目である。

 

といったところで、連休明けで時間がないため、今回はここまで。