2025年も、とうとう残すところ1か月となってしまいました。

いつも申し上げていることですが、加齢と共に年月が速く(早く)感ずるのは自明のこと(5歳児にとって1年は5分の1ですが、50歳にとっては1年はわずか50分の1)なので、いちいち驚きはしませんが、それでも嘆くことはあります。確実に人生の折り返しを過ぎているはずなので(人生100年というウソに騙されている人を除く)、残りの人生をどう愉しく過ごすかということを重点に置きつつ、無理をせず、その日その日が愉しければそれでいいという感じでしょうか。

 

 

厚労省の人口動態統計を見れば(マスコミのフィルタを通さず、自分の目でご覧になることを強くオススメ)わかるように、加齢と共にリスクは増していきます。ただ、これは圧倒的に個人差が大きく、遺伝子レベルというだけでなく、生活習慣や仕事、社会とのかかわりなど、様々な要因によって変動します。そして、事故や疾病。思いがけずといいますが、これも人生においては避けられないものです(運の良い方を除く)。人口動態統計にはこういったデータ(不慮の事故みたいな感じで)も掲載されているので、現実を知るには素晴らしい統計だと思いますね。

 

さて、12月です。あれこれ先のことを「考え過ぎても」仕方がないことです。何か毎回毎回同じことを繰り返してますが(またかよ)、愉しく過ごせればそれでいい。そんなことを月頭に考えながら、多忙を上手くやり過ごせればいいなとも思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年11月12日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、前回と同時期の帝都電鉄の路線図を眺めていこう。

 

 

「高速線から帝都沿線へ」と書かれているのは、東京高速鉄道(現 東京メトロ銀座線の渋谷~新橋間を開業させた鉄道会社)との通し切符を利用することで、都心まで出られることをアピールしているものだが、相互直通ではないので、現在と同様に渋谷駅でそれなりの距離を歩いて乗換える手間はある。通し切符による利便性を強調しているが、今日的視点ではいったいどこが便利なんだ?と思うかもしれない。今ではPASMOやSuicaを代表するICカードパスによって、チャージさえしておけば自動改札で手間いらずだが、少し前の時代ではICカードなんかなかったし、それより前は自動改札なんかなかったし、さらに前は自動券売機もなかった。そうなのだ。切符は窓口で対面販売で購入し、改札で切符に切り込みを入れ、他社乗り換えの場合はわざわざ切符を買い直さなければならない。それが通し切符であれば、買う手間を一回省略できるというわけである。

 

ということで、通し切符の利便性が強調されているわけだが、続いて路線図の各駅を見てみると、さすが東京圏では最後発に近い帝都電鉄(開業は1933年=昭和8年)であるので、駅の異動は少ない。図から列挙すると、

  • 渋谷
  • 神泉
  • 一高前
  • 駒場
  • 池ノ上
  • 下北沢
  • 代田二丁目
  • 東松原
  • 明大前
  • 永福町
  • 西永福
  • 浜田山
  • 高井戸
  • 富士見ヶ丘
  • 久我山
  • 三鷹台
  • 井ノ頭公園
  • 吉祥寺

現在と異なるのは、一高前と駒場が統合されて駒場東大前となったこと、代田二丁目が新代田に改称、井ノ頭公園が井の頭公園に改称されただけと異動は少ない。また、急行停車駅が永福町と井ノ頭公園といずれも他社線乗換え駅でない点も興味深い(起終点を除く)。

 

他にも興味深い点はあるが、今回は取り急ぎここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年11月11日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

さて、今回は久々の地域歴史研究系の話題。昭和10年代中頃の東京横浜電鉄(旧 目黒蒲田電鉄及び旧 東京横浜電鉄)の沿線図を眺めながら、あれこれ語っていこう。では、題材の沿線図から。

 

 

「東横・目蒲電車沿線案内図」と表題が与えられた本図は、東京高速鉄道(現在の東京メトロ銀座線の渋谷~新橋間を開業した)全通時期に作成されたもので、東京急行電鉄となる前のものとなる。よって、池上電気鉄道はもちろん、玉川電気鉄道も合併されて以降の路線がすべて掲載されている。自社作成の沿線案内図なので、どこを注目してほしいかがよくわかる興味深い図といえよう。

 

まず、当blogでは誤りから注目する(笑)のが定番なのでここから話を進めると、大井町線と池上線の交叉部分にまずはご注目。当時は旗の台駅がないので○がないのは問題がないが、洗足池駅の場所が交叉部分より五反田駅寄りになってしまっている。正しくは交叉部分より雪ヶ谷駅寄りにあるのが正しいが、交叉部分に乗換駅が存在しないため、位置関係を気にしなければ沿線案内図としては致命的問題とはならない。とはいえ、誤りは誤りであるので指摘した次第。

 

では、案内図をじっくり見ていこう。まずは駅から。起終点・乗換駅が掲載されるのは当然として(例外は三軒茶屋が未掲載)、それ以外の駅は注目してほしい駅という位置づけになるだろう。確認すると、新丸子、綱島温泉(現 綱島)、大倉山、洗足池、雪ヶ谷(現 雪が谷大塚)の5駅になるが、すべて東横線と池上線の駅というのが面白い。このうち雪ヶ谷は例外で、田園調布との点線に示されるように乗換駅的な位置づけである。ここで当blogならではの余談を差し挟むと、雪ヶ谷→雪ヶ谷大塚改称問題について、通説の昭和8年改名説はここでも否定されることが確認できる。雪ヶ谷大塚への改称は昭和18年に行われたことはほぼ確実だが、この案内図時点でも雪ヶ谷のままであるということはこれを裏書きするものとなるだろう。

 

さて、雪ヶ谷に話を戻すと、田園調布~雪ヶ谷が点線で結ばれている理由は、この間を路線バスでつないでいることを強調するものであるが、これは池上線の自社内他線接続が今一つであるからである。乗換えネットワークの要である大井町線は、意図的に池上線との乗り換えを行わないようにしていた名残で、池上電鉄合併後に乗換駅設置の検討は成されていたものの、この当時は実現できていなかった。このため、自社内での接続は超大回りの蒲田駅経由(多摩川園前~蒲田~雪ヶ谷)しかなく、また蒲田駅での乗り換えは現在のように便利でなかったこともあって、約2km程度の田園調布~雪ヶ谷間をバス接続できるとアピールしているわけである(図からは路線バスだと書いていないが)。結果論ではあるが、こんなことなら池上電鉄の奥沢線(新奥沢線)を活用すればよかったともいえるが、当時の五島慶太氏の発想からはあり得ない選択肢ではあったろう…。

 

田園調布~雪ヶ谷間を点線でつなぐ必要は、自社グループ内鉄道ネットワークの良さをアピールする以上に、洗足池への観光を狙っているのは言うまでもない。だからこそ、単独駅でありながら洗足池駅が掲載されており、観光地として洗足池が掲載されているのである。

 

続いて、残る単独駅はすべて東横線の3駅であるが、そもそも本図には当時開業していた現 JR南武線や現 JR横浜線が掲載されていないため、菊名駅が載っていないというほかに武蔵小杉駅について補足しておこう。南武線は、当時民営鉄道の南武鉄道が運営する路線で、池上電鉄との接続駅が設けられなかった理由とほぼ同様の理由から乗換駅が設けられなかった(開業順としては大正15年に東京横浜電鉄線、昭和2年南武鉄道線と一年置かずに相次いで開業)。その後、南武鉄道がグラウンド前駅を東横線との接続点に開業するも東京横浜電鉄は動かず、昭和14年になって新丸子~元住吉間に工業都市駅を開業したが、南武鉄道との接続点ではなく、それよりも南寄りに設置された。現在のように乗換駅となるのは、太平洋戦争も末期の昭和20年6月である。東京急行電鉄(大東急)がようやく接続駅として武蔵小杉駅を開業したからだが、確執の大元である南武鉄道は既になく当時は国有化されていたことも大きい(時局に鑑み、というのももちろん大きい)。

 

で、新丸子、綱島温泉、大倉山が選択されているのは、当該沿線に観光客を誘致しようというのが狙いであろう。スピードウェー、直営浴場、天然スケート場、三ツ池のほか、文字情報はないが野球のボールや桜の花などが描かれているように、この部分について営業強化を図っているといわんばかりの構図となっている。反面、既に都市化が終了している発祥路線である目蒲線などは、まったく乗客誘致がらみのものは見えない(多摩川園のみ)。

 

そして山手線に接続する、渋谷、目黒、五反田については、それぞれ、東横百貨店、東横目黒食堂、五反田映画劇場と自社系列のアピールも忘れていない。反面、大井町、蒲田、横浜はそうではなく、このあたりの差別化も興味深いものがある。

 

といったところで、今回はここまで。

えっ…と、今日は11月28日。11月はあと2日残っているな、と。

で、今日は金曜日で次の出勤は……、お、12月1日。そうか、もう師走か(苦笑)。

 

 

そんなボケはともかく、事実上の週末かつ月末。もう12月は目前で多忙な月である12月がやってくる。師も走るくらいの忙しさと昔から言われては来たけれど、年度末や期末という概念は別にあれど、やはり年末というのは忙しいものです。年末年始休み前の準備やその後の展開もありますしね。

 

若い頃は、年末年始といえばシステム更改へのお付き合いが毎年ありました。これは昔も今も変わらないと思いますが、この時期に活躍する皆様、本当にご苦労様です。私といえば、あくまで今のところですが、年末年始はそのままお休みの予定です。大納会を終えて、お疲れさんと皆に声かけ(おっさんくさいな)、そして机上を綺麗にして年始を迎える。そういう年末でありたいものです。

 

とはいいつつも、色々なものが急展開する昨今、1か月先のことを見通すなど不可能です。なので、いつものパターンですが、金曜は美味しいものを食べようという野望を抱きつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年11月24日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回は思いがけず、次回に続くとしてしまったので、今回はその続き。引き続き、「東京高級住宅地探訪」の気付いた点についてあれこれ語っていこう。

本書87ページ

「洗足の分譲規模は、五七四区画、二七万九千平米。だから、一区画平均四八六平米。もちろんこれは道路なども含んでいるので、それを差し引くとおそらく一区画平均三三〇平米=百坪ほどであったと思われる。」

ここにいう「五七四区画、二七万九千平米」は、おそらく「郊外住宅地の系譜」からの引用と思われるが、なかなかこの数字の定義が難しい。前回、洗足田園都市の分譲エリアについて図(航空写真ベース)で示したところだが、洗足分譲地とされるのは大きく以下の4つに分けることができる。

  • 第一期分譲地(田園都市)
  • 第二期分譲地(田園都市)
  • 東洗足分譲地(田園都市)
  • 北千束分譲地(目黒蒲田電鉄)

第一期については、前回の図でも示したように洗足駅を中心とした洗足田園都市最大のエリアを持ち、「東京横浜電鉄沿革史」及び「東京急行電鉄50年史」に記されているように、販売面積55,000坪(185,000平米)とされている。第二期については、これも前回の図で示したように第一期の南側に位置し、「東京横浜電鉄沿革史」に販売面積3,500坪と記されている(「東京急行電鉄50年史」には誤って多摩川台11,550平米と記載。まぁ「東京急行電鉄50年史」は軽く見積もって誤植含めた誤りは200箇所以上あるのでしかたがないが…)。そして東洗足分譲地は、第二期のさらに南側で前回の図で薄赤く示したところ。最後の北千束分譲地は、2か所に分散し、一つ目は前回の図で「北千束一丁目」とあるうち「千束」と字が書かれたあたり(ちょっと重ね方を間違えてしまった)。二つ目が、同じく前回の図で北千束駅の東側付近で薄紫色で示したところ。これらをすべて合わせて574区画、279,000平米としていると思われる。

 

だが、悩ましいのは、第一期分譲において当初用意されたのは384区画なのだが、一人で複数購入する者もあれば、売れないものは田園都市自身が分割して再分譲したもの。さらに第一期分譲地内にあった田園都市株式会社本社の敷地も、昭和に入って建物が撤去された後、細かく商店街用地として分譲されている。その上、小学校用地として保留されていた土地、隣接する耕地整理組合との調整により区画が再度変更された土地など、田園都市第一号分譲地だけあって、かなり紆余曲折が見られる(この反省が第二号の多摩川台住宅地=田園調布に活かされているのは言うまでもない)。要するに、いつの時点でという定義をしておかないと、特に区画数については特定しにくいというわけである。よって、著者がいうように、単純な割り算でどうのこうの言えるようなものではない、となるわけだ。なお、私的には洗足田園都市とは第一期と第二期を指し、東洗足や北千束は含めない方がいいのではないかと考えている。

本書92ページ

「分譲当初からある洗足会館も最近建て替わった。」

洗足会館は、当Blog記事「洗足会館、竣功時の写真」に示した(転載時注:まだこの記事は未転載です)ように、1931年(昭和6年)の竣功である。洗足住宅地が分譲開始(図面販売)したのが1922年(大正11年)6月で、田園都市株式会社の本社が移転してきたのはその翌年にあたり、関東大震災が起こった頃までには40戸程度ができていたので、洗足会館を分譲当初というには厳しいと感ずる。90年の歴史からすれば、たったの9年ではあるが、9年も経っていながら当初からとは言いにくいだろう。

本書107ページ

「創業一九三二年の老舗。洗足田園都市とともにあった老舗。」

ロンシェールさん自らが記す「ロンシェールの歩み」をご覧いただければわかるように(転載時注:この記事を書いて暫くして閉店となりました)、1932年(昭和7年)にオープンしたのは間違いないが、洗足ではなく東洗足である。当Blogにそれなりの期間お付き合いいただいている方々には言わずもがなだが、東洗足は現在の旗の台にあたり、洗足とは別である。現在地に移転したのは戦後の1947年(昭和22年)であり、ここから通算すれば65年と結構な長さではあるが、戦後は既に洗足田園都市と呼ぶには相応しくなく、「洗足田園都市とともにあった」とはならないだろう。

 

以上で本書の第四章についてはおしまい。他にもいくつかあるが、長くなってしまったので一つだけ特に気になったものを以下にあげよう。

本書76ページ

「山王(旧・入新井村)では、現・大田区内でいち早く、一九一六年から二二年にかけて耕地整理が行われ、住宅地化への準備を進めている。こうして入新井村(山王)の人口は、一六年には一〇四四二人だったのが、二一年には二三四八九人、二六年には三七四九二人、三一年には四九七三〇人と、順調に増えていくことになった。」

著者は山王を歩いたことがあるはずだが、道路が曲がりくねって狭いと感じなかったのだろうか。そう、著者は致命的な勘違いをしているのである。まず、それを指摘する前に、大田区山王の地名の歴史(明治以降)を簡単に振り返ってみよう。

 

山王とは、著者も本書に記すように日枝神社に由来している。明治初期、地租改正によって荏原郡新井宿村に山王及び山王下という字名が誕生した。新井宿村は明治22年(1889年)に隣接する不入斗村と合併して入新井村となり、両村はそれぞれ新村の大字となった。これにより、荏原郡入新井村大字新井宿の字(小字)として山王及び山王下が継承され、これは昭和7年(1932年)東京市に合併されるまで続く。では、ここで明治末期の地図で確認してみよう。

 

(©国土地理院)

 

明治末期の大森駅周辺。「山王」と見えるのは、現在の大田区山王一丁目あたりで、実際この一帯が字山王で、線路を挟んで東側(右側)に飛び出た部分(現在は区界変更でほとんどが品川区になっている)が字山王下である。日枝神社を山王と称呼するのは都心にある日枝神社も同様で、東京メトロ南北線の溜池山王駅の山王も同様である。

 

ごくごく狭いエリアだった「山王」だが、明治末期の地図からも明らかなように、このあたりは別荘地化が早く進み、計画的な道路も用意されないまま宅地化が進んでいる。これは今も基本的に変わることはない(建築基準法上4メートル道路の接道が求められているため、道は若干広がってはいるが)。別荘地と「山王」という名称は受けがよかったため、東京市に合併された際、「山王」エリアは大きく拡大した。

  • 山王一丁目 = 山王下、山王、源蔵原
  • 山王二丁目 = 道免、於伊勢原

東京市大森区に属する山王一丁目及び二丁目が成立し、従来「山王」だったエリアは一丁目の半分ほどで、残りはすべて「山王」とは無縁の隣接地だった。そして戦後しばらくして、住居表示制度の荒波が訪れ、「山王」はさらに拡大する。

  • 山王一丁目 = ほとんど旧山王一丁目
  • 山王二丁目 = ほとんど新井宿一丁目及び旧山王二丁目
  • 山王三丁目 = 新井宿二丁目・同三丁目・同六丁目の一部、
  • 山王四丁目 = 新井宿二丁目・同三丁目・馬込町東二丁目の一部。

これが現在、「山王」を名乗るところだが(細かい部分を除く)、その多くが環七通り、池上通り、ジャーマン通り(かつての言い方では改正道路)に囲まれたエリアであるものの、大半が「山王」とは無縁だとわかるだろう。そして、新井宿一丁目が山王二丁目に組み込まれたことで、ようやく天祖神社の住所が「山王」となった。

 

以上、簡単に「山王」の流れを追ってみたが、本書の著者は「山王」を現在の住居表示における山王一丁目~四丁目にあてているようで、もうこの時点からして「わかってないな…(嘆息)」であるのだが、今回指摘するのはこの点ではない。もう一度、引用部分で大事な箇所を示せば、

「山王(旧・入新井村)では、現・大田区内でいち早く、一九一六年から二二年にかけて耕地整理が行われ、住宅地化への準備を進めている。」

とあり、ここにいう「山王」とは何を指すか、である。明治22年(1889年)成立した入新井村は、大雑把に今日の大田区山王一丁目~四丁目、中央一丁目~四丁目・六丁目・七丁目、大森北一丁目~五丁目、大森西一丁目及び四丁目の一部などで構成されており、東京市合併前までは入新井村の二つの大字のうちの一つ、大字新井宿のうち2つの小字でしかない(位置的に「山王下」は含めなくていいので1小字のみと言っていいだろう)。明治末期の地図で確認したように小字の「山王」は、既に別荘地化しており、耕地整理を実施する余地もなく、また現在まで道路パターンもほとんど変わらずに来ている。

 

では、入新井村のうち、現在の山王一丁目~四丁目に相当するエリアを指すのだろうか(東京市合併後の山王一丁目~二丁目はこれを考察すれば不用)。上記のとおり、住居表示における「山王」は旧入新井村大字新井宿の半分程度と旧馬込村のごく一部を占めるが、このエリアで耕地整理を行ったのは、山王四丁目の環七通りに面した部分で、住居表示前は馬込町東二丁目にあたる。ここは、谷中耕地整理組合が施行した箇所であり、大田区内でいち早く行ったものではない。

 

著者が言わんとするのは、入新井第三耕地整理組合であり、確かにこれは1916年(大正5年)に組合を設立し耕地整理事業を行ったところだが、事業用地はまったく「山王」とは関係がなく、現在の中央一丁目~七丁目あたりである。入新井村大字新井宿のうち、おおよそ南半分弱に相当する。大森駅から離れていたにもかかわらず、住宅地化が大きく進んだエリアであった。

 

ここまで見てくれば、著者の混同ぶりがよくわかるだろう。「山王」エリアの特定もできないばかりか、耕地整理についても入新井村と山王を同一視しており、山王では耕地整理が行われていない…いや狭い曲がりくねった道路が多いということから、ここが未施行地だと判断すらできないとなるだろう。

 

といったところで、今回はここまで。本書については、あまりにもこういうレベルのものが多いので(たかがエッセイ風情にここまでいう方がおかしいが)、きりがないため今回で終了。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年11月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

なかなか興味深い本が出ていたので、早速購入した。タイトルにもふれたように書名は「東京高級住宅地探訪」(著:三浦展、発行:晶文社)である。

 

 

この手の本で著名なのは鹿島出版会から出ている「郊外住宅地の系譜」だが、これは学術的な色彩を帯び、中には論文そのものというくらいに精緻なものもあるが、本書はエッセイに近い、いや私的にはエッセイそのものといった印象で、実際本文中にも「~らしい」「~あるそうだ」「~だろう」「~かも知れない」など曖昧で語尾を濁す表現が多い。とはいえ、エッセイであればそれも表現手法の一つであるから、それはそれで何の問題もない。

 

本書に着目したのは、表紙にも取上げられているように「田園都市」、特に田園都市株式会社の分譲地に関していくつか書かれていることにある。目次を以下に示せば、

  • 序   田園都市の百年と高級住宅地
  • 第一章 田園調布 高級住宅地の代名詞
  • 第二章 成城 閑静さと自由さと
  • 第三章 山王 別荘地から住宅地へ
  • 第四章 洗足、上池台、雪ヶ谷 池上本門寺を望む高台
  • 第五章 奥沢、等々力、上野毛 東京都は思えぬ自然と豪邸
  • 第六章 桜新町、松陰神社、経堂、上北沢 世田谷の中心部を歩く
  • 第七章 荻窪 歴史が動いた町
  • 第八章 常盤台 軍人がいなかった住宅地

とあるように、序、第一章、第四章、第五章(一部)と全体の3割ほどを占めている。そういうわけで、エッセイ風の本書を読み進めていくと、やはり気になるのは著者の誤り(勘違い)である。曖昧で語尾を濁すところは仕方がないというか、まぁそういうものだろうと言えなくもないが、断定調に「である」を使った箇所はやはり気になってしまう。そんなわけで、主に第四章を中心に気になった点について列挙していこう。

本書84ページ

「洗足という地名は、目黒区だが、田園都市としての洗足には、目黒区洗足二丁目、品川区小山七丁目、同・旗の台六丁目の一部が含まれる。」

う~ん、やはり無視されてしまったかと思わざるを得ない(笑)。洗足田園都市にはもう一つ、大田区北千束一・二丁目が含まれている。現在の環七通りと目黒区と大田区の区界に挟まれたエリアにあたるが、様々な文献を見てもここが忘れ去られることが多く、著者が参考文献から引用したからか、そういう風に受け止めたかは判断尽きかねるが、まぁそういうことである。また、コメントでご指摘いただいたように品川区荏原七丁目も一部含まれている。よって、正しくは「洗足という地名は、目黒区だが、田園都市としての洗足には、目黒区洗足二丁目、品川区小山七丁目、同・旗の台六丁目、同・荏原七丁目及び大田区北千束一・二丁目の一部が含まれる。」となる。洗足田園都市の分譲エリアと現在の住居表示を比較できるように、以下に図を掲載しておく。

 

 

ただ、こうしてしまうと次行以降の展開に難を来すので、あえて外したと言えなくもないが。

本書86~87ページ

「こうした渋沢の構想をどこかで聞きつけたのか、一九一五年三月、東京府下荏原郡の地主有志数名が、王子飛鳥山の渋沢邸を訪ね、荏原郡一円の開発計画を説明して、その実施を渋沢に依頼したという。そういうこともあったので、渋沢としては田園都市の実現に当たって田園調布にも優先する形で洗足の開発を進めたのかも知れない。」

最初の一文は「街づくり五十年」(東急不動産)からの引用とし、「こうした渋沢の構想」とは田園都市設立趣意書より以前のものを指す。ここには、なぜ荏原郡の地主が渋沢邸を訪れたのかが曖昧になっているが、実はここが最も重要なところで、畑弥右衛門という渋沢と荏原郡有志(皆、村長クラス)を結びつけた存在を忘れてはならない。この人物がなければ、おそらく田園都市がこのエリアに展開したかどうかすらはっきりしなかった。また、開発計画といっても具体性に乏しく、畑弥右衛門の青写真(大風呂敷)を文章で示したに過ぎない。とはいえ、これをきっかけに有力地主と結びついた意義は大きく、田園都市計画が具体化するに従って事業用地買収に多大な寄与をしたことは疑いのない事実である。

 

また、それ以上の事実誤認(推測誤り)は「渋沢としては田園都市の実現に当たって田園調布にも優先する形で洗足の開発を進めたのかも知れない」という部分で、田園調布(多摩川台住宅地)はそもそも当初開発エリアに含まれておらず(その証拠として、渋沢邸を訪れた有志に荏原郡調布村の関係者は含まれていない)、荏原郡玉川村の対象地域も今日の玉川田園調布エリアではなく、奥沢・等々力エリアであった。要するに、田園調布は当初の構想の対象外なのである。今では田園調布と洗足は比較対象にもならないが、洗足エリアでの用地買収が芳しくなかったために、買収エリアを玉川村の先にあたる調布村に伸ばし、ここでの用地買収に見込みをつけたことで(このあたりは田園都市の「土地買収要項」より自明)、田園都市株式会社傘下の荏原電気鉄道の予定路線を玉川村方向から調布村方向へと変更した。著者は、このあたりの経緯をご存じないことに加え、今日の状況下で事実誤認したのではないかと推定する。

本書87ページ

「ちなみに大岡山も洗足、田園調布とともに、田園都市株式会社が開発した住宅地だが本書では取り上げない。」

これは、いわゆる補足説明部分(かっこ書き)だが、大岡山が東工大の移転先という文を受ける形となっている。確かに、田園都市が計画した大岡山分譲地はあったのだが、この分譲地はほとんどすべてが東工大(当時は東京高等工業学校)の移転用地になったことで、田園都市としての大岡山分譲地は消滅した。その後、昭和10年代前半に大岡山駅北側の東工大用地を駅南側の目黒蒲田電鉄買収地と等価交換した際に、目黒蒲田電鉄が大岡山分譲地(現在の大田区北千束一丁目36, 37, 39, 40, 42番あたり)として「再」分譲した。以上の経緯からわかるように、田園都市は大岡山分譲地を開発しておらず、わずか3万平米に満たない5ブロックほどのエリアでしかない目黒蒲田電鉄の大岡山分譲地とを、著者が混同している可能性を指摘しておく。

 

──と、簡単に終わるかと思ったら結構指摘するものが多く、自分でも予想外の次回に続く。

勤労感謝の日を含む、3連休が終わってしまいました。

年内最後の祝日だったわけですが、皆様は充実された日々を過ごされたでしょうか。

 

私はあちこち出かけましたが、また食べ物の話かとなりますが、やはりふれておかねばならないと思ったのが、西京焼きについてです。

 

 

これは銀鱈の西京焼きですが、当たり前の話として、どれだけ詳細なレシピ等があったとしても、上手な人が焼くのと私が焼くのとでは大違いです。これは設備とかの差はあるにしても、おそらく同じ土俵で勝負しても、焼き加減はプロには到底かないはしません。

 

そこでの解決手段は、おカネによる解決です(苦笑)。

当然、自分で準備し、自分で焼くよりも余計なコストはかかりますが、コスト以上の美味しささえ確保できれば、そのコストは無視できます。いや、コストをかけるのは当然と言えます。

 

特に焼きたてをいただくのは、もう、何とも言えない美味しさを味わうことができます。どんなにプロが美味しく焼き上げても、時間経過したらかなり美味しさが失われます。言い方は悪いですが、スーパーで購入するよりも多少よい程度の満足感でしかありません。プロが仕込み、プロが焼き、それをすぐにいただく、これがベストなのです。

 

今日は給料日でもあるので、昼休みは美味い西京焼きを提供するところに行きたいもの。そんな愉しみを考えつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年2月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズは、全19回で最終回を迎えたつもりでいたが、ざっと振り返ってみてまったく図がないのはやっぱりわかりにくいのではないかと考え、今回はそのフォロゥとして簡単な図を作成してみた。各村々の境界線を描ければなおよいのはわかっているが、そこは時間との兼ね合いなので概ねの位置関係を把握できる程度にとどめている。無論、大村と小村を同一サイズの楕円に囲んだ名称で並べるのはナンセンスであり、特に現在の蒲田駅西口方面の小村林立地帯では、狙った場所に村名を置くことができなかったところもある。よって、あくまでどのあたりにあったのだという程度でご覧いただければ寛仁である。

 

 

まず、最初にご覧いただくのは、明治22年(1889年)、町村制施行後に東京府荏原郡を構成する町村の合併前の村々を示した図である。市制町村制の前は大区小区制があり、各村々はそれぞれ大区・小区に所属していたが、それをも考慮に入れず、単に位置関係だけを示した。これは先入観を抜きに、位置関係からどの組み合わせが適切かを確認するためである。では、これを踏まえて第一次案の組み合わせではどうだったのかを見ていこう。

 

 

これまで19回にわたって個別に見てきたが、ここでは全体を俯瞰してみる。細かい飛地や部分などを除き、組み合わせを以下に示すと、

  • 南品川町 = 北品川宿 + 南品川宿 + 二日五日市村
  • 大井村 = 大井村
  • 大崎村 = 下大崎村 + 上大崎村 + 居木橋村 + 谷山村 + 桐ヶ谷村
  • 戸越村 = 戸越村 + 下蛇窪村 + 上蛇窪村 + 中延村 + 小山村
  • 目黒村 = 下目黒村 + 中目黒村 + 上目黒村 + 三田村
  • 衾碑文谷村 = 碑文谷村 + 衾村
  • 新井宿村 = 新井宿村 + 不入斗村
  • 大森村 = 大森村
  • 馬込村 = 馬込村 + 池上村 + 石川村 + 雪ヶ谷村 + 道々橋村
  • 池上村 = 下池上村 + 堤方村 + 市野倉村 + 馬込領桐ヶ谷村 + 久ヶ原村 + 徳持村
  • 沼部村 = 下沼部村 + 上沼部村 + 嶺村 + 鵜ノ木村
  • 蒲田村 = 北蒲田村 + 蒲田新宿村 + 女塚村 + 御園村 + 麹谷村
  • 羽田村 = 羽田村 + 羽田猟師町 + 鈴木新田 + 萩中村
  • 八幡塚村 = 八幡塚村 + 雑色村 + 町屋村 + 高畑村 + 古川村
  • 矢口村 = 矢口村 + 下丸子村 + 今泉村 + 古市場村 + 安方村 + 小林村 + 道塚村 + 原村 + 蓮沼村
  • 等々力村 = 等々力村 + 奥澤村 + 尾山村 + 下野毛村
  • 瀬田村 = 瀬田村 + 野良田村 + 上野毛村 + 用賀村
  • 代田村 = 代田村 + 三宿村 + 池尻村 + 太子堂村 + 若林村 + 下北澤村
  • 世田ヶ谷村 = 世田ヶ谷村 + 経堂在家村 + 弦巻村
  • 馬引澤村 = 下馬引澤村 + 上馬引澤村 + 野澤村 + 深澤村 + 世田ヶ谷新町
  • 北澤村 = 上北澤村 + 赤堤村 + 松原村

となる。これが第二次案では、

 

 

このようになり、組み合わせが大きく変更になったところのみ列挙すると、

  • 大森村 = 大森村 + 不入斗村
  • 池上村 = 下池上村 + 堤方村 + 市野倉村 + 馬込領桐ヶ谷村 + 久ヶ原村 + 徳持村 + 新井宿村
  • 蒲田村 = 北蒲田村 + 蒲田新宿村 + 女塚村 + 御園村 + 麹谷村 + 萩中村
  • 羽田村 = 羽田村 + 羽田猟師町 + 鈴木新田
  • 玉川村等々力村奥澤村尾山村下野毛村瀬田村野良田村上野毛村用賀村
  • 世田ヶ谷村 = 世田ヶ谷村 + 経堂在家村 + 三宿村池尻村太子堂村若林村
  • 駒澤村 = 下馬引澤村 + 上馬引澤村 + 野澤村 + 深澤村 + 世田ヶ谷新町 + 弦巻村
  • 北澤村 = 上北澤村 + 赤堤村 + 松原村 + 代田村下北澤村

以上8村におよび、組み合わせは変わらないが合併後名称を変更したのは、平塚村(第一次案では戸越村)、六郷村(第一次案では八幡塚村)、調布村(第一次案では沼部村)の3村を数える。そして最終案では、

 

 

このようになり、同じく組み合わせが大きく変更になったところのみ列挙すると、

  • 入新井村新井宿村不入斗村
  • 大森村 = 大森村
  • 馬込村 = 馬込村
  • 池上村 = 下池上村 + 堤方村 + 市野倉村 + 馬込領桐ヶ谷村 + 久ヶ原村 + 徳持村 + 池上村石川村雪ヶ谷村道々橋村
  • 蒲田村 = 北蒲田村 + 蒲田新宿村 + 女塚村 + 御園村
  • 羽田村 = 羽田村 + 羽田猟師町 + 鈴木新田 + 麹谷村萩中村
  • 世田ヶ谷村 = 世田ヶ谷村 + 経堂在家村 + 三宿村 + 池尻村 + 太子堂村 + 若林村 + 代田村下北澤村上北澤村赤堤村松原村

以上7村におよび、組み合わせは変わらないが合併後名称を変更したのは、碑衾村(第二次案までは衾碑文谷村)がある。そして実際の施行においては、

 

 

このようになり、同じく組み合わせが大きく変更になったところのみ列挙すると、

  • 品川町 = 北品川宿 + 南品川宿 + 二日五日市村 + 品川歩行新宿南品川猟師町南品川利田新地
  • 世田ヶ谷村 = 世田ヶ谷村 + 経堂在家村 + 三宿村 + 池尻村 + 太子堂村 + 若林村 + 代田村 + 下北澤村
  • 松澤村上北澤村赤堤村松原村

以上、3町村に異動があった。

というわけで、これを含めて東京府荏原郡における明治期の町村制施行時の変遷過程シリーズは20回で簡潔もとい、完結。といったところで、今回はここまで。

(転載時追記 この記事前に19回にわたって各町村の変遷過程の詳細があったのですが、取り急ぎ、このまとめのみをあげておいて、残りについては検討中です。)

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年5月18日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「JR山手線の駅名の由来を改めて考察してみる」シリーズ(その1、その2、その3)を先週まで書いていたが、これを書いている最中、今さらながらであるが、開業当初の目黒駅の場所が現在とまったく違う場所にあることに気がついた(正確に言えば思い出した)。当時の地図(明治20年前後。開業して2年足らず)を見て確認しよう。

 

 

これだけ見ると、駅(停車場)の位置はわかるけど、今でいうとどの辺かはよほどの通でないとわからないだろう(地図中の「徳蔵寺」が今もほぼ同じ場所にあるのがヒント)。そこで、ゼンリンの電子地図で示すと、以下のとおりとなる。

 

(本来ならゼンリン地図へのリンクを貼りたかったのですが、アメブロの使用禁止タグの引っかかって地図のコピペになっています。この部分追記。)

 

現在の目黒駅と五反田駅のほぼ中間、どちらかといえば五反田駅寄りにあたる場所にあった。明治28年(1895年)までにはこの場所からほぼ現在地に移転しているので、各種文献等にもこの事実にふれているものはほとんどない。実際、この場所は主要道路にも接続あるいは隣接しておらず、なぜこんな辺鄙なところに駅を設置したのかという疑問は当然のごとく起こってくる。だが、目黒駅と目白駅が同時開業している事実から、これが目黒不動尊への最寄り駅だと位置づければ、たとえ細道であっても概ね一本道で接続はしているので…………、微妙か(苦笑)。だからだろうが、開業して10年程度で移転したのも頷けるとなるのである。

 

以上、簡単だが、開業当初の目黒駅の場所について確認してみた。いつものことだが、今の目黒駅の位置から開業当初変わらずにいるという前提に立った論考(というレベルに到達していないものも含む)が多く、よってでたらめな結論に至るものも少なくない。他山の石を念頭に置きつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年5月12日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回(その2)は、山手線が日本鉄道から国有化されるところまで話を進めたので、今回はその続きから。

 

1906年(明治39年)11月1日に国有化されて以降の大きな異動は、1909年(明治42年)に電車運転(電化)が開始されたことで、同年、大崎~品川間も複線化がなり、この電車運転のタイミングで代々木駅が開設される。既に代々木駅は甲武鉄道によって開業されていたが、電車対応となったことで駅間が短くても対応できるようになったことが大きいだろう。そして翌年(1910年)には目白~新宿間に高田馬場駅、赤羽~板橋間に十条駅、田端~巣鴨間に駒込駅が開業し、さらにその翌年(1911年)には目黒~大崎間に五反田駅が開業する。電車運転開始によって、明治末期には旅客鉄道としてのウェイトがさらに高くなってきたことがわかる。

 

(この写真は記事転載時に追加したものです。)

 

国有化後、明治までの間に新たに開業した駅が所属する当時の町村名を列挙すると、

  • 代々木(東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷字新田)
  • 高田馬場(東京府豊多摩郡戸塚村大字戸塚字清水川)
  • 十条(東京府北豊島郡王子町大字下十条字仲道)
  • 駒込(東京府北豊島郡巣鴨町大字上駒込字伝中)
  • 五反田(東京府荏原郡大崎町大字上大崎字子ノ神下)

以上のとおりとなる。

 

まず、代々木駅については、既にあった甲武鉄道(日本鉄道と同様に国有化された)の駅との乗換駅として開設されたため、ネーミングについてはそのまま継承している。よって、甲武鉄道の駅ができた当時の町村名が重要だが、山手線の代々木駅開業時と異なるのは千駄ヶ谷町が町制施行する前だったのみで、府郡大字小字については変わりがない。つまり、代々木駅の場所は千駄ヶ谷村(町)にあり、本来なら千駄ヶ谷としたかったところだが、同時期に隣駅に千駄ヶ谷駅を設けていたため、隣接地名となる豊多摩郡代々幡村大字代々木の名を拝借したというわけである。

 

そして高田馬場駅。これは当局もかなり悩んだのではないか。というのは「戸塚」といえば、やはり東海道の宿場町だった戸塚が有名であり、既に鉄道駅も存在していた。村名も大字名も戸塚であるので、残るは字(小字)名となるが、これも清水川と今一つ。戸塚村内の隣接大字も「諏訪」であり、長野県がイメージされるので、他に…となると神田川が当時の北豊島郡と豊多摩郡の境界(今でも豊島区と新宿区の境界)であったので、北側の有力名も採用しがたい。そこで出てきたのが、堀部安兵衛の高田馬場の決闘で巷間流行っていた「高田馬場史跡」に因んだ「高田馬場」であり、戸塚村の顔も立つ(高田馬場史跡は戸塚村内にあった)という流れである。今では、駅含めた周辺の町名として高田馬場(一丁目~四丁目)となっているが、そもそも高田とは豊島区側にあった村名に由来し、川の上流には上高田(中野区)がある。なので、様々な意味で拝借地名採用と言えなくもない。

 

そして十条駅については、所属する北豊島郡王子町の王子は既に採用駅があったので、大字名から採用。駒込駅についても北豊島郡巣鴨町の巣鴨は既に採用駅があり、大字名からの採用となった。

 

残る五反田駅については、なかなか珍しいケースとなっている。町名も大字名も大崎なので、既にある大崎駅からどちらも採用しがたい。とはいえ、字(小字)名ではあまりに範囲が狭く、実際採用例も路面電車(馬車鉄道)レベルでごくごくわずかに見られる程度。加えて「子ノ神下」というのは、さすがに当時でも躊躇したようである。しかもこの地は、大崎町の中心で町役場などもあったことから、ここを大崎駅とすべきと言う地元の強い声(だからあのとき大崎でなく居木橋にしておけば…というような)もあったが、国営化されたことで御上と喧嘩するわけにもいかず、結局、隣接字名である五反田が採用された。実際の字五反田の地には鉄道院の官舎が建てられ、五反田官舎を名乗ったが、これは駅名から採ったのか、それとも字名から採ったのか…。また、余談となるが、池上電気鉄道(東急池上線)の五反田駅は、字五反田の地につくられている。

 

以上、いずれも大字名ないし字名が当地ないし隣接地から採用されたことが確認できる。隣接地の場合は、どちらも先行して使用されていたためやむを得ず、という形である。高田馬場駅と五反田駅は、それぞれ両極端な駅名採用となったが、地域特性(有力者の意見)というものを考慮したことは疑いない。

 

さて、その3まで進めてきて今さらの注意点(苦笑)。JR山手線というと、一般的には東京を一周する環状運転のあれを指すと思われるだろうが、実際の山手線は「田端~品川」間のみであり、歴史的経緯で赤羽線(これも多くの人が埼京線の一部としか思っていないだろうが)「赤羽~池袋」間を併せて採り上げている。なので、「田端~品川」間は今シリーズでは採り上げないのでご容赦願いたい。

 

では話を戻して、大正時代の山手線に話を進める。その前に明治までに開業した駅を確認しておこう。

 

今日の赤羽線部分

 赤羽

   十条

 板橋

 

今日の山手線部分

(田端)

   駒込

  巣鴨

  大塚

  池袋

 目白

   高田馬場

 新宿

   代々木

  原宿

 渋谷

  恵比寿

 目黒

   五反田

  大崎

(品川)

 

ある程度、東京の地理に明るい方でも、現在の駅と比べて何が足りないかは気付きにくい。1914年(大正3年)、高田馬場駅~新宿駅間に新大久保駅が開業するが、これですべて出揃う格好になる。山手線はまだ環状運転どころか、いわゆる「の」の字運転すらしていない時代に駅の構成は完成していたのである。

  • 新大久保(東京府豊多摩郡大久保町大字百人町字仲通)

新大久保駅は「新」と冠称した最初の駅名(新宿等は除く。「新」+「既存駅名」)であるが、中央線大久保駅の所在地も新大久保駅とまったく同じ「東京府豊多摩郡大久保町大字百人町字仲通」であるので、町村名からの採用は不可能。大字(百人町。大正元年に町制施行する前までは大字大久保百人町だった)名から採用しなかったのは、調査し切れていないが、それ相応の理由はあったと見る。

 

山手線の駅名について考察してみた。こうして眺めてみると駅名改称が一度もないことに気付くが、それだけ定着しているという見方が適当だろう。むしろ、駅名に引っ張られる形で町名変更が成された数を慮れば、その影響力は計り知れないという方がいいだろうか。駅名については、基本は当該町村名が採用されているが、ただ単に当該地としてはおらず、周辺に著名なものがあればそれが採用されるなど、時代背景によって様々な形が見える。中でも、高田馬場駅については明治末期という時代でなければ、別名が採用された可能性が高いだろう。

 

といったところで、今回はここまで。