【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年6月14日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

3か月ほど前、「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編]」という記事内において、東急池上線の雪が谷大塚駅の変遷について以下のように記述した。

 

明らかにこれまでの定説を覆す事実に気がつくだろう。そう、それは雪ヶ谷駅の移動遍歴である。「回想の東京急行 I」等に見られるように、雪ヶ谷駅の駅の位置は全部で三つあり、初代(大正12年。開設時)→二代目(昭和3年。奥沢線開通時)→三代目(調布大塚駅統合時)などとされてきた。このうち、初代が最も北側に位置するとされていたのだが、3,000分の1地形図からの情報では、初代から二代目に移行の際、南下したのではなく北上したことが確認できる。そして、三代目となって再び南下し、初代よりも南側に位置するようになった。これは、駅南側道路に接道させるための変更である。

 

これまでの定説とは、「回想の東京急行 I」にある次の記述である。

 

初代の雪ヶ谷駅は、現在の石川台1号踏切の蒲田寄りの位置に開業した。設備の詳細は不明で、営業期間も短く、昭和3(1928)年10月には新奥沢支線の開業にともなって約150m蒲田寄りに移設した。当初、相対式ホームのみであったが、まもなく新奥沢支線用のホームが設置され、立派な分岐駅の体裁を成した。

初代の雪ヶ谷駅は、現在の石川台1号踏切の蒲田寄りの位置だというが、地図で確認するとわかるように不自然な位置にある(後でまとめて示す)。本文にもあるが、設備の詳細は不明とあり、この場所は駅の痕跡すら残っていない。では、なぜこの場所が初代の雪ヶ谷駅だとしたのか? この疑問に対し「回想の東京急行 I」にはまったくふれられていないので答えようがないが、ついにこの説の典拠と思われる書籍を見つけた。「鉄道廃線跡を歩く VII」(宮脇俊三 著、JTB発行)である。この本の105~107ページには「池上電気鉄道新奥沢支線」が紹介されているが、ここに雪ヶ谷駅の変遷が地図に示されている。早速確認してみよう。

本文中には、

石川台1号踏切際にあった初代雪ヶ谷駅(A)は高圧鉄塔用地になって何も発見できないが、1号と2号踏切の中間より線路幅が広がり始める地点が新奥沢分岐点である(B)。続く3号踏切の進行右側空地が二代目雪ヶ谷駅本屋の位置であった。また、現・雪が谷大塚駅ホームの五反田寄りが二代目駅ホーム位置で(以下略。下に部分図で補完。なお、下地図にあるA地点は本文中にある石川台1号踏切付近ではなく、石川台2号踏切付近を指している。単にこれは誤植のようなものと思われる。)

 

とあり、初代雪ヶ谷駅の位置については「回想の東京急行 I」とほぼ同内容の記載となっている。これは「回想の東京急行I」の著者の一人 関田克孝氏が「鉄道廃線跡を歩く VII」中の「池上電気鉄道新奥沢支線」の著者でもあり、よって同内容で記載したと考えられる。加えて、両書とも2001年の初版発行であり、おそらく執筆時期も近いと思われる。つまり、両書に記載されている初代雪ヶ谷駅の位置の根拠は、どちらか一方で根拠を確認できれば、両方とも証明できるとなるわけである。下に「鉄道廃線跡を歩く VII」の107ページを縮小・圧縮して引用しているが、このページには3枚の地図が掲げられており、最も古いものは国分寺線第一期計画図で、ベースは3千分の1地図(おそらく大正14年のもの)。二番目に古いのは新奥沢線開通後の昭和初期の1万分の1地図。残るものがほぼ現代に近い1万分の1地図である。縮尺が異なるものがあるが、この3枚をできる限り同一縮尺かつ同地域となるよう工夫がされている。

 

 

だが、よく見てみると位置がずれているだけでなく、縮尺が合っていないことがわかる。特に国分寺線第一期計画図(右下の図)は、ベースが3千分の1だからなのか、他の1万分の1地図と位置がずれている上に明らかに他の2図と比較してやや縮尺が大きめになっている。このため、計画図(右下)に書かれている雪ヶ谷駅(終点)と最も新しい1/1万地形図「自由が丘」(左上)に追記されている雪ヶ谷(初代)駅とは、一見すると同じ位置のように錯覚してしまうが(特に左下の地形図とも見比べるとなおさら)、実は大きくずれているのである。にもかかわらず、右下端のほぼ同位置にあることをもって初代雪ヶ谷駅の位置を特定したのではないかと推察されるわけである。

 

 

上図が国分寺線第一期計画図の右下端を拡大したものだが、この図の初代雪ヶ谷駅の位置と、アルファベット入りでほぼ現代の地形図に初代雪ヶ谷駅等を追記した図と比較すると、何となく同じ位置にあるような錯覚を覚える。「鉄道廃線跡を歩く VII」においても、初代雪ヶ谷駅をこの位置にした根拠は語られていないが、この3図を比較検討した上での関田氏の推測ではないかと私は考えた次第である(関田氏本人に伺うのが手っ取り早いが、何で誤ったのかとは聞きにくい)。

もう少し、錯覚を覚えるという部分を詳しく説明しよう。

 

 

 

このように両図を並べ、中原街道から初代雪ヶ谷駅の蒲田寄りに通る直線道路を赤線で示した。一見すると同じ道路のような錯覚を覚えるが、計画図にある直線道路は現在、存在していない。雪ヶ谷駅が開設した当初に一時的にあっただけで、周辺が耕地整理組合によって区画整理された時に消えてしまったのである。しかし、両図を並べてみるとわかるように、若干角度はずれているが同じ道路のように見え、ここから初代雪ヶ谷駅の位置を特定したのではないだろうか。また、中原街道北西側(図では上側)の細い道路も同じだという先入観で見れば、何となく同じように見えてしまうような気もする。とはいえ、同じ道路でないことは、線路と中原街道との接近具合でも確認できる(拡幅はされたが曲がり具合はそのまま)。

 

ここで、最近見つけた新資料(私にとっての)を確認してみよう。

 

これは「第参期線 池上電気鉄道線路平面図」とある池上電気鉄道が当局に提出した第三期線の計画図面である。第三期線とは、雪ヶ谷~五反田間(ただし、大崎広小路~五反田間は現在の路線とは異なり、再度申請・免許されている)を指し、言うまでもなく第二期線の雪ヶ谷駅までは既に開業していたため、この図における雪ヶ谷駅の位置は正しいものと考えられる。では、当該部分を拡大してみよう。

 

 

拡大してもわかりにくかったので、私の方で一部文字を追加した。「三期工事起点3マイル72チェーン地点」は、第二期工事までに施工完了したところで、雪ヶ谷駅終点からわずかに先となっている。そこから、中原街道に沿う形で第三期線の直線が引かれている。途中4マイル地点に◎が付いており、ここまでの距離は工事起点から8チェーン(= 4マイル ー 3マイル72チェーン。1マイル = 80チェーン)なので、メートル法に直せば約161メートル(1チェーン = 20.1168メートル)であり、さらに進むと斜めに道を横断、すぐにもう一本道を渡って崖地を越えるようになる。ちょうど上図の右端辺りに線が複数入っているが、ここが崖地であり、「4マイル地点」とある「点」の字の右にある道路が、いわゆる山裾道でこの道の右側にあたる部分が崖下となっている。工事起点から4マイル地点までの距離が約160メートル程度なので、4マイル地点から崖下に第三期線がかかるまでの距離はおよそ130メートル程度となる。合わせれば、工事起点から崖地にかかるまで約290メートルの距離があると計算できる。

 

さて、これを現代の地図にあてはめて、崖地(山裾道の北側)から約290メートル雪ヶ谷方向に戻ってみるとどのあたりになるのだろうか。そう、現在の雪が谷大塚駅のホームにあたる場所にまで戻ってしまうのである。また、この計画図に関田氏のいう初代雪ヶ谷駅をはめ込むと、4マイル地点よりも先に駅があったことになり、第二期工事までに開業した雪ヶ谷駅であるにもかかわらず、駅の場所は第三期工事区間に存在してしまうことになる。これは矛盾どころかあり得ないとなるのは、言を待たないだろう。

 

 

それでは、航空写真も参考にしながらまとめに入ろう。

「回想の東京急行 I」並びに「鉄道廃線跡を歩く VII」では、初代雪ヶ谷駅は石川台1号踏切際(蒲田寄り)にあったとしているが、これは当Blogの「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編]」という記事で、古地図等を参照すると誤っているのではないかと指摘したが、今回はさらにそれを補強する根拠として、「第参期線 池上電気鉄道線路平面図」に記載されている雪ヶ谷駅の位置や、第三期線の計画線を検討し、どう考えても石川台1号踏切近く(山裾道そば)に初代雪ヶ谷駅は存在しないと確認した。

 

そして、関田氏が石川台1号踏切近くを初代雪ヶ谷駅としたのは、「鉄道廃線跡を歩く VII」中の新奥沢支線の記事に掲載した、3枚の年代別比較地図から類推したのではないかと推測した。あのように並べてしまうと、確かに勘違いしてしまう可能性が生ずるのはやむを得ないが、街区パターンが現在とは異なっている場合、よく気をつけて確認しないとこのようなミスを犯しかねない。また、同じ縮尺の地形図であっても、初版が戦前のものと初版が戦後のもの(都市計画図を縮小編纂)とでは、測量方法等の違いから微妙なずれが生ずることも少なくない。

 

とはいえ、実はまったく別の典拠があって、初代雪ヶ谷駅を石川台1号踏切近くとした可能性もある。やっぱり著者に聞いてみるしかないのだろうな(苦笑)。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年3月24日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

そろそろ別の話題も、と考えていたが決定的な証拠を見つけたので、一気に完結編と題して書けるところまで書いてみようと思う。

これまでの議論を踏まえていくが、基本的に完結編を読めば済むように努める。が、必要に応じて過去記事も参照いただければ、という前提で進めたい。

 

まず、確認するのは3,000分の1地形図。別名都市計画図とも言われるだけあって、搭載されている情報は1万分の1地形図の比ではない。まずは、最も古い大正14年測図のものから示そう。

 

 

大正12年5月4日に雪ヶ谷駅まで開通している池上電気鉄道であることから、既に地図上には線路及び駅が記載されている。この図のポイントを列挙すれば、以下のとおりとなるだろう。

  • 雪ヶ谷駅は、荏原郡池上村(大字雪ヶ谷)と荏原郡調布村(大字鵜ノ木飛地)の境界付近に建設された。
  • 雪ヶ谷駅は、出口に側道を設けて中原街道側に接していた。
  • 雪ヶ谷駅は、池上電気鉄道では基本の相対式ホームだった。
  • 雪ヶ谷駅周辺の区画整理(耕地整理)はまだこれからだが、駅南側の道路や駅南東側に見える荏原土地会社経営
  • 地附近には、新たに直線的な道路がつくられている。
  • 嶺変電所(地図中、池上電鉄嶺変電所)は見えるが、操車場等は見えない。

では、続いて昭和4年8月測図の地形図を見て、大正14年版との違いも念頭に置きながらポイントを列挙しよう。

 

 

雪ヶ谷駅が見えないが、これはちょうど地図の切れ目に位置し、この上部分(北側)にあると思われる。残念なことにこの上部分(北側)の同時代の地図を見つけることができないが(後段に見にくいが上部分の地図の一部を別途示す)、1万分の1の地図から補完するに、駅の位置はやや北側に移動した可能性が高い。

  • 池上電鉄奥沢線(いわゆる新奥沢線)が登場した。
  • 雪ヶ谷駅周辺の区画整理(耕地整理)が進んでおり、駅南側の道路を含め、道路網が大きく変わっている。ただ、古い道路もいくつか残されている。
  • 嶺変電所の西側に調布大塚駅が新設された。
  • 調布大塚駅南側に車庫らしきものが新設された。

では、続いて昭和13年測図の地形図を見て、昭和4年版との違いも念頭に置きながらポイントを列挙しよう。

 

  • 雪ヶ谷駅が南側に移動した。
  • 昭和4年の雪ヶ谷駅の様子はわからないが(後段に見にくいが上部分の地図の一部を別途示す)、この時点では大正14年時の相対式ホームから島式ホームに変わった。同じく、大正14年時に見られた中原街道への側道もなくなっている。
  • 新奥沢線が跡形もなくなった。
  • 雪ヶ谷駅周辺の区画整理(耕地整理)がほぼ完了し、中原街道の拡幅以外はほとんど現在と変わらない街区パターンとなった。
  • 嶺変電所の西側を通っていた線路が東側を通るようになり(変電所は移設?)、雪ヶ谷駅以南の線路の形状が東寄りに移り曲線が緩やかになった。
  • 調布大塚駅がなくなった。
  • 車庫の場所が北側の街区に移動し、跡地の一部は東調布警察署となった。

以上の流れを見ていくと、明らかにこれまでの定説を覆す事実に気がつくだろう。そう、それは雪ヶ谷駅の移動遍歴である。「回想の東京急行 I」等に見られるように、雪ヶ谷駅の駅の位置は全部で三つあり、初代(大正12年。開設時)→二代目(昭和3年。奥沢線開通時)→三代目(調布大塚駅統合時)などとされてきた。このうち、初代が最も北側に位置するとされていたのだが、3,000分の1地形図からの情報では、初代から二代目に移行の際、南下したのではなく北上したことが確認できる。そして、三代目となって再び南下し、初代よりも南側に位置するようになった。これは、駅南側道路に接道させるための変更である。この結果、中原街道と区画整理(耕地整理)された道路との接続方法も変わった。昭和13年時点の地形図から明らかなように、既にこの時点で現在の雪が谷大塚駅と基本的な構造が変わっていないことが確認できる。また、昭和22年時点の航空写真と比べてみても、ほとんど変わっていないことから、昭和18年に雪ヶ谷大塚と改名したタイミングで駅の位置をやや南に移動したという内容(「回想の東京急行 I」に記載有)も疑問符がつくものとなる。その後の大きな変更は、駅ビルの建設を別にすれば、かつての池上電気鉄道の車庫だった部分が、再びその役割を持つようになる以外にない。つまり、雪ヶ谷駅周辺の基本的構造はほぼ昭和13年の時点で完成したことを意味するのである。

 

以前に「東京横浜電鉄沿革史」で調査した曲線半径の変更工事や電車庫の新設等の情報を組み合わせると、雪ヶ谷駅及び周辺の変遷は以下のようになるだろう。

 

大正12年5月4日 池上電気鉄道、池上~雪ヶ谷間を部分開業。雪ヶ谷駅開設。中原街道に接続道を設置。

昭和2年8月19日 御嶽山前~雪ヶ谷間に、調布大塚駅を開設。

昭和3年10月5日 雪ヶ谷~新奥沢間を部分開業。雪ヶ谷駅を五反田寄りに約100メートル程度移設。接続道路を中原街道から駅北側道路へ変更。

昭和8年6月1日 雪ヶ谷と調布大塚が統合。調布大塚駅廃止。御嶽山前が御嶽山に名称変更。

昭和9年10月1日 池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄に吸収合併。

昭和10年10月14日 東調布警察署、旧池上電気鉄道の車庫跡地に開署。

昭和10年11月1日 雪ヶ谷~新奥沢間廃止。

昭和12年10月頃 雪ヶ谷~御嶽山間の曲線改良工事完了。雪ヶ谷駅も蒲田寄りに約150メートル移動、島式ホームとなり、接続道路も駅北側道路から駅南側道路へ変更。

昭和13年 雪ヶ谷電車庫及び修繕工場新築。

 

ここまでは、それなりに資料も豊富なので比較的推論を挟む余地はほとんどなかったが、問題はここからで、いかにして昭和18年に雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚に改称したのかという肝心な部分の分析は、まだできていない。ただ、ほぼ確実なことは昭和8年6月1日において、雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚への改称は行なわれていないということである。なぜなら、戦前に発行された各種文献、地図等を眺めれば、昭和18年より前のものはすべて「雪ヶ谷」表記のものばかりだからである。中でも重要なことは、同時代資料である「東京横浜電鉄沿革史」内ではすべて「雪ヶ谷」のみで、「雪ヶ谷大塚」とする箇所は一つもないことからも明らかと言えよう。

 

一方、雪ヶ谷大塚の初出はとなると、以前に紹介した昭和20年当時の池上線の写真は別にして、昭和21年発行の戦災被害図に「雪ヶ谷大塚」という表記が確認できる。つまり、どんなに遅くとも昭和21年時点においては「雪ヶ谷」ではなく「雪ヶ谷大塚」に改称されていた。このことも確実だとなる。

 

そして、ついに決定的な資料を見つけた。切符である。昭和11年12月14日付けのもので、しっかり「雪ヶ谷→石川台 長原間」とあり、これで確実に昭和8年6月1日改名説は消滅したと言っていい。

 

 

残るは、雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚に改名した時期である。昭和18年説の根拠を私は知らないが、今まで調べてきた中から考えると、典拠は「東京横浜電鉄沿革史」にあるのではないかと考える。つまり、本書では昭和18年の時点においては「雪ヶ谷」のままであり、昭和20年の時点では「雪ヶ谷大塚」に変わっている。なお、前回ご紹介した「東急電鉄記録写真 街と駅 80年の情景 ─東横線・池上線・大井町線80周年記念フォトブック─」のP42及びP43に典拠となりそうな写真の一部を以下に示す。

 

 

見にくいが、昭和16年8月撮影の写真には「五反田 雪ヶ谷」とある。そして、

 

 

こちらは昭和20年撮影の写真。「雪ヶ谷大塚」とあることから、上述の議論の証拠写真として示しておく。

 

話題戻って、昭和18~20年の間、東急においては二度駅名の変更が実施されており、仮に「雪ヶ谷」が他の駅と同時に改名したと推測すると、このどちらかに該当するのではないかと考えられる。一つは昭和18年12月1日付けで東横線の「青山師範」と「府立高等」を「第一師範」と「都立高校」に改称したもの。もう一つは昭和19年10月20日付けで東横線の「綱島温泉」を「綱島」に、大井町線の「二子読売園」を「二子玉川」に改称したものである。後者の昭和19年の方は、いわゆる時局に鑑みというもので、温泉や遊園地といった娯楽系の名称を当局の指導で変更したものである(自由ヶ丘や多摩川園前が残ったのは地域の力が勝ったため)。となると、雪ヶ谷大塚は前者の昭和18年の方が妥当(東横線の駅名変更は学校名の変更だが、学校の名称変更よりもやや遅れて実施している)であり、よって昭和18年説が出てきたのではないだろうか(あてにならないWikipediaでは昭和18年12月とあるが、まさにこの推論からだろう)。このことは、改称年月日がはっきりしないことからも裏付けられると考える。つまり、消極的な「東京横浜電鉄沿革史」の利用である、となるわけである。

 

最後の最後を推測で片付けてしまうのは心苦しいが、おそらくは以上のような流れとなるのではないだろうか。

 

それにしても、いい加減な情報が流布されているものである。専門家でもない私が、多少調べただけでも専門書と称されるべき書籍の記述が誤りを多く見つけることができた。いったい、何を調べてものを書いているのか? 執筆者によく話を伺ってみたいものである。

 

最後に。昭和4年当時の3,000分の1地形図が東京市域拡張時における町名変更地図に活用されていることがわかり、当該部分を見にくいが肝心な部分を以下に示しておく。

 

 

ご覧のとおり、奥沢線が分岐していた頃の雪ヶ谷駅はかなり北側に位置し、巷間言われているように「雪ヶ谷駅跡」として紹介されることの多い場所にある。ただし、これまでの議論から明らかなように、ここは二代目雪ヶ谷駅の場所であって、初代雪ヶ谷駅は現在の雪が谷大塚駅とあまり変わらない場所に位置していた(雪が谷大塚駅中原街道口の位置は、初代雪ヶ谷駅の中原街道接続口とほぼ同じ場所)。

 

以上、大変長くなったが、これで雪が谷大塚駅の歴史を終える。……って戦前までか。戦後はほとんど変わってないし、あえて挙げるなら、昭和41年1月20日雪ヶ谷大塚から雪が谷大塚に改称くらいのもの。ということで、今度こそこれにて完結。

 

今度こそ、書いていながら追記。よくよく考えたら、雪ヶ谷駅と調布大塚駅が合併して雪ヶ谷大塚駅とならず、10年近くを経て唐突に雪ヶ谷大塚駅に改称したという最初の疑問には、まったく答えられていない。これについては、今後の宿題としておこう。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年3月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

年度末にしては珍しい、暦どおりの三連休。図書館などで課題を調査してきた。課題とは前回に示したとおり、

  1. 開業時からの駅位置等の変遷を探るため、関係する地図群の収集・確認。
  2. 社史や各種文献からの駅の歴史(特に昭和25年以前)。
  3. 路線図、切符等の駅名表記。
  4. 写真など。

である。

 

これまでも各種文献などを眺めてはきたが、漫然と見てきた部分もあることから、上記目的を持って改めて確認すると、次のようなことを確認できた。

 

1に関連して

当Blogでもいくつか地図(部分)を示してきたが、これ以外にもいくつか確認したところ、駅の位置は定説どおり、「開業時→奥沢線開通時→新奥沢線廃止後しばらくして」と、計二回の移転が行なわれていることが確認できた。

 

2に関連して

社史では、決定版と位置づけられる「東京急行電鉄50年史」を確認。今更だが、雪ヶ谷大塚駅への改名は雪ヶ谷駅と調布大塚駅が統合された昭和8年6月1日と数か所で記されており、昭和8年雪ヶ谷大塚改名説の典拠は「東京急行電鉄50年史」と考えられる。確かに社史を典拠としたくなるのは私も同じで、まさか記述が誤っているとは考えようもない。しかし、残念ながらこれは事実で、単なる誤植ではない完全な誤りも多く含まれていた。とはいえ、多くの誤りの責任は執筆者にあり、関係した大学教授あたりのレベルの低さが根源だろう。社史とは、後世にも長く残るものなので、誰に監修を任せるかというのが非常に重要だと認識できたのは大きな成果だった。

 

最近の公式資料である「東急電鉄記録写真 街と駅 80年の情景 ─東横線・池上線・大井町線80周年記念フォトブック─」(監修 関田克孝。発行所 東急エージェンシー出版部)では、P9の年表には「昭和8年6月1日 池上線「調布大塚」と合併し、「雪ヶ谷大塚」と改称」とあるが、P43の駅説明には「昭和8年6月1日調布大塚と統合。昭和18年雪ヶ谷大塚に改称」とあり、相矛盾した表記が併記されている。公式資料ですらこういう状態なのだから、この問題の根の深さがわかるというものである。

 

 

ただ、この書籍には重要な写真が掲載されている。それはP42右上にある昭和16年8月撮影とされる写真で、電車の先頭部分に「五反田 雪ヶ谷」とあるもの。そしてP43左下にある昭和20年撮影とされる写真には、電車の先頭部分に「雪ヶ谷大塚」とあるもの。家人曰く「単に文字を書くスペースが足りないから省略してるだけじゃない?」というが、昭和16年8月時点では「雪ヶ谷大塚」ではなく「雪ヶ谷」表記が電車の行き先表示にあり、昭和20年時点では「雪ヶ谷大塚」とあることは、昭和18年改名説を裏付ける重要な証拠であるように思う。

 

3に関連して

そして路線図や切符については、ポイントとなる昭和8年6月1日~昭和19年頃までのものは、あるにはあるがどうにも不可思議なものが残っていた。まず、路線図だが、昭和10年代初期と思われる目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄発行の路線図には、池上電気鉄道という他社路線からか、池上線の情報に疑問符が付けられる。以前話題にした「慶大グラウンド前」駅は「慶大グランド」あるいは「慶大グランド前」と表記されているし、今回焦点としている「雪ヶ谷」駅関連については、表記は「雪ヶ谷」駅となってはいるが、「調布大塚」駅が残されている等、昭和8年6月1日に「調布大塚」駅と「雪ヶ谷」駅が合併したことすら否定するものとなっている。ちなみに昭和8年6月1日に改名された「御嶽山」駅(以前は「御嶽山前」)については、正しく改名後のものとなっている。

 

なお、昭和18年発行の「東京横浜電鉄沿革史」に記載される路線図では「調布大塚」はなく「雪ヶ谷」のみとなっているが、「雪ヶ谷大塚」という表記はどこにもない。「雪ヶ谷」表記は路線図のみならず、営業報告等にも掲載されているので、本書の記載を信用するならば、昭和18年直前まで「雪ヶ谷」駅だったとしか読み取れない。

 

一方、切符については残念ながら、現時点では当該期間のものを発見することはできなかった。引き続き、要調査である。

 

4に関連して

写真については、先にふれたように「東急電鉄記録写真 街と駅 80年の情景 ─東横線・池上線・大井町線80周年記念フォトブック─」のP42及びP43に典拠となりそうな写真はあったが、これをもって完全な証明とはなお言い難い。今後も引き続き、資料を収集することになるだろう。

 

以上、調査経過についてお伝えした。そろそろ別ネタに…。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年3月15日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回の続きである。

が、まずは最初にお断り。時間がないので地図等の資料掲示だけにとどめ、議論等は後刻(あるいは後日)とさせていただくことをご容赦願いたい。

 

©国土地理院

 

これは、1万分の1地図「田園調布」(昭和4年測図)の一部。

 

©国土地理院

 

これは、1万分の1地図「田園調布」(昭和12年修正測図)の一部。

 

©国土地理院

 

これは、昭和22年に米軍が撮影した空中(航空)写真の一部で、上地図と同じ場所となるよう加工・編集したもの。

 

これらと前回掲げた二つの地図をあわせ比較してみると、雪ヶ谷駅、調布大塚駅、そして雪ヶ谷大塚駅がどのように変遷していったかが、はっきり読み取ることができるだろう。ということで、内容は近いうちに加筆します。

 

とりあえず、以上。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年3月14日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

以前、当Blogで慶大グラウンド前という駅名についてあれこれ考察してみたが、今回も同じ東急池上線の雪が谷大塚駅に対して考察してみたい。この駅をターゲットとした理由は、「東急の駅 今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介」(著者 宮田道一、発行所 JTBパブリッシング。2008年9月1日 初版発行)という書籍を眺めているときに、以下のような紹介文があったからである。

「引用開始」(同書121ページ)

 雪ヶ谷駅が移転のため次の調布大塚と至近となっていたので、昭和8年(1933)6月にこの二つを統合して雪ヶ谷大塚とした。

「引用終了」

そして、「昭和8年(1933)6月1日雪ヶ谷大塚として開業」と紹介されている。これは明らかに誤りである。東急電鉄の正式史料においてはもちろんのこと、各種文献(たとえば「回想の東京急行」等)や当時の地図をはじめとして、ほとんどすべてが雪ヶ谷駅から雪ヶ谷大塚駅への改称を昭和18年(1943年。ただし年月日は不詳)としており、上記は著者の宮田道一氏の勘違いであるだろう。だが、確かに勘違いを犯しても不思議のない話なのである。

 

なぜ勘違いを犯しても不思議のない話かと言えば、上記引用部に示したように、昭和8年(1933年)に雪ヶ谷駅と調布大塚駅は合併したとすれば、この時点で雪ヶ谷大塚となるのは自明の流れであるのに、なぜか統合時点では雪ヶ谷のままであり、忘れた頃とも言える10年後の昭和18年(1943年)に突如として、雪ヶ谷駅から雪ヶ谷大塚駅に改称したのだから、「なぜ?」と思えるのである。この「なぜ?」を解明すべく、雪が谷大塚駅の変遷について検討していこう。

  • 大正12年5月4日 池上電気鉄道、池上~雪ヶ谷間を部分開業。雪ヶ谷駅開設。
  • 昭和2年8月19日 御嶽山前~雪ヶ谷間に、調布大塚駅を開設。
  • 昭和3年10月5日 雪ヶ谷~新奥沢間を部分開業。雪ヶ谷駅を蒲田寄りに150メートル移設。
  • 昭和7年10月1日 雪ヶ谷及び調布大塚一帯は東京市に編入され、東京市大森区となる。
  • 昭和8年6月1日 雪ヶ谷と調布大塚が統合。調布大塚駅廃止。
  • 昭和8年7月10日 池上電気鉄道臨時株主総会において、役員全員の辞任が承認。新たに五島慶太以下、目黒蒲田電鉄役員が就任。事実上、目黒蒲田電鉄の支配下に入る。
  • 昭和9年10月1日 池上電気鉄道、目黒蒲田電鉄に吸収合併。
  • 昭和10年11月1日 雪ヶ谷~新奥沢間廃止。

宮田道一氏の勘違いは別にして、ここまでの流れは各種文献にほとんど違いはない。だが、ここから昭和18年に雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚に改称されるまでの流れは、この手の本のバイブルといわれている(らしい)「回想の東京急行 I」及び「回想の東京急行 II」(いずれも、著者 萩原二郎・宮田道一・関田克孝。大正出版)のうち、東急池上線を取り上げている「回想の東京急行 I」には、次のように記されている。

「回想の東京急行 I」134~135ページ

「引用開始」

 昭和8年6月には、雪ヶ谷と調布大塚の両駅を統合して雪ヶ谷駅とし、廃止した調布大塚駅跡と急カーブの旧本線部分を東側へ移設のうえ、新設車庫の建設用地とした。

 昭和9(1934)年10月1日、池上電鉄は目蒲電鉄に吸収合併され、翌年11月1日には未完の新奥沢支線も廃止となってしまった。

 昭和18(1943)年には、駅も少し蒲田寄りの現在地に移転のうえ、雪ヶ谷大塚駅と改称して現在にいたっている。相対式のホームは合理化のため島式に変更され、駅舎は上下線間の蒲田寄りに設置した。

「引用終了」

大きく分けて3つの事象を確認できる。整理すると、

  • 昭和8年6月…雪ヶ谷と調布大塚を統合して雪ヶ谷駅とし、廃止した調布大塚駅跡と急カーブの旧本線部分を東側へ移設のうえ、新設車庫の建設用地とした。
  • 昭和10年11月…新奥沢支線廃止。
  • 昭和18年…雪ヶ谷大塚駅と改称し、相対式のホームは島式に変更され、駅舎は上下線間の蒲田寄りに設置した。

と、時系列に並べることができる。これが正しいかどうかは、別の資料で補強する必要があるが、やはり公式資料を当たるのが最初に行うべきことだろう。最も都合のいい資料は、昭和18年3月15日発行の「東京横浜電鉄沿革史」である。

 

「東京横浜電鉄沿革史」の467ページには、曲線変更工事として雪ヶ谷構内が記載されている。ポイントを列挙すると、

建設当時半径 200メートル → 改良後半径 400メートル工事延長 356メートル

工事費 15,663円

竣工年月 昭和12年10月

とある。また、同書484ページには「雪ヶ谷電車庫及び修繕工場は、昭和13年の新築」との記載があり、着工年月は明らかにされていないが、曲線変更工事を含めたこれらの工事の完了は昭和12~13年中ということがわかる。この記載内容と、先の「回想の東京急行 I」の記載内容と矛盾はしないが、ここで重要なポイントを忘れてはならない。それは、いわゆる新奥沢線の存在である。

 

いわゆる新奥沢線は、昭和10年11月1日に廃止となったが、少なくとも前日の10月31日までは雪ヶ谷~新奥沢間の電車を運行していたはずである。つまり、電車運行を行っている間は、線路や駅はそのままであったはずで、昭和8年6月1日に調布大塚駅を廃止したからといって、すぐさま曲線変更工事ができるものではない。工事延長356メートルという距離がそれを立証している。調布大塚駅の改札口付近から、雪ヶ谷方向に356メートル進むとそこはもう雪ヶ谷駅構内になり、まさに「東京横浜電鉄沿革史」に記載されている「雪ヶ谷構内」となるからである。

 

つまり、曲線変更工事は調布大塚駅廃止以降から行われていたかもしれないが、本格的に工事を始めるには新奥沢線の廃止を待たねばならず、すなわち、昭和10年11月1日以降になるわけである。また、この間には目黒蒲田電鉄による池上電気鉄道の吸収合併もあったわけで、このことも考慮に入れるならば、やはり新奥沢線の廃止以降に曲線変更工事及び雪ヶ谷電車庫及び修繕工場建設工事が本格化したと見るべきだろう。

 

以上を裏付ける別の資料として、昭和13年作成(測図)の3,000分の1縮尺の都市図を示そう。地図の正確性という問題は、また別にあるのだが、さすがにできてもいないものを図面化することはほとんどない(完成予想図は別)。では、その点を留意しながら確認してみよう。

 

 

この地図から明らかなように、昭和13年の時点でほぼ現在と同様の構造になっていることが確認できる(検車区等は、上図中の東調布警察署及び南側の空白部分に後につくられる)。これは、「回想の東京急行 I」に記述のあった昭和18年における事象のうち、雪ヶ谷大塚駅に改称した以外のすべてが、この時点で既に地図上に明記されていることを意味する。つまり、同書では昭和18年にあったとされるもののほとんどが、昭和13年までには完成していたのである。

 

では、池上電気鉄道時代の、曲線変更工事や雪ヶ谷電車庫及び修繕工場新築工事、新奥沢線廃止前はどうなっていたのだろう。同じ地域の昭和4年作成(測図)の同図と比較すると、上記の議論を補足することができるだろう。

 

 

両図を比較すると、雪ヶ谷~調布大塚~御嶽山前がどのように変遷してきたかが明らかだろう。両図を比較すれば、いくつもの重要なポイントに気付くはずだ。

 

と、ここまででいったん続くとさせてください。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年4月29日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

地域歴史研究に必要なもの、というより必須のものは「典拠」となる資料の収集だが、狙っている資料であったとしても、そこには思いがけない「発見」もある。もちろん、「発見」というのはあくまで自分視点でしかないのだが、今回面白い「発見」と思ったのは、『東京府北豊島郡王子町全図』(昭和5年2月発行)を眺めていた時であった。

 

 

これがその部分図だが、赤線を引いたところがポイントである。「女体」、「腰巻」という何やら意味ありげな地名が並んでいるが、ここは現在の住居表示上では、

  • 東京府北豊島郡王子町大字堀ノ内字女体 = 東京都北区堀船三丁目1~5番辺り
  • 東京府北豊島郡王子町大字堀ノ内字腰巻 = 東京都北区堀船二丁目26~29番辺り

となっている。残念ながら小字地名なので、当然のごとく現在まで継承されていないし、それどころか大字の堀ノ内も消滅(堀船という町名は「堀ノ内」と「船方」の合成地名)してしまっている。場所は地図中に石神井川が見えるように、隅田川(旧荒川)への合流点(現在は石神井川改修によって流路が直線化したが、旧川道に沿って堀船と豊島の町境として残っている)なので、どのあたりかは見当が付けやすい。

 

それにしても、なぜこのような「女体」、「腰巻」といった地名が付けられたのだろう。現時点ではまったく調査していないので不明であるが、きっと何か理由があって付けられたものに違いない。とはいえ、こんなものまで調べ始めたら一生掛かってもやり尽くせないのは自明なので、単に今回は示すだけにとどめておこう。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年12月31日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「一枚の写真」第5弾をお贈りする。まずは写真をご覧いただこう。

 

 

多数の人物が並ぶ記念写真。主要人物にはA~Gまでアルファベットを付した。これこそ田園都市計画の主要登場人物勢揃いの写真なのである。「東京横浜電鉄沿革史」に掲載されるこの写真解説には、「田園都市建設につき大正四年三月土地有志が飛鳥山渋沢子爵邸を訪問せる時の記念撮影」(字は一部修正)とあるように、時は大正4年(1915年)3月、渋沢子爵が満64歳(数えで65歳)の誕生日を迎えた頃のものである。

 

主要登場人物は、

 

A:渋沢栄一 子爵

B:海老沢正忠 氏(池上村)

C:小杉信太郎 氏(碑衾村)

D:畑弥右衛門 氏(ブローカー)

E:安藤武 氏(碑衾村)

F:岸田鈴太郎 氏(馬込村千束)

G:豊田正治 氏(玉川村)

 

であり、カッコ内に村名を記しておいたが、わかる人にはわかるであろう蒼々たる地主、有力者が集っていることが確認できる。注意深く見れば、これら村の地主・有力者は紋付き袴で、それ以外は洋装である点も面白い。

 

碑衾村(洗足地区、大岡山地区)、馬込村千束(洗足地区)、池上村(大岡山地区)、玉川村(奥沢地区、玉川等々力地区)の有力者を集めており、のちの田園都市株式会社の分譲する地区と合致するのだが、気になる点もある。それは、調布村(多摩川台地区、現在の田園調布の一部)の有力者が見当たらないことである。単に調査漏れの可能性もあるが(紋付き袴の方のうち3人が不明)、現時点ではそういうことで。

 

この集合記念写真を撮影した時は、田園都市建設を実現するということで具体的なプランはともかく、ある程度の方向性は示されたであろう。その後、この地域がどういう方向で発展していったのかを知る際、きっかけの一つは間違いなくこれにあったことをおさえつつ、今後の地域歴史研究を進めていきたい。と来年以降の抱負を述べて今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年12月25日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「一枚の写真」シリーズも4回目。今回も池上電気鉄道旗ヶ岡駅関連の一環として、至近にあった洗足幼稚園の話題。まずは、園舎の写真からご覧いただこう。

 

 

生け垣のある民家っぽい建物だが、手前の小さな立て札には見にくいが「洗足幼稚園入口」と書かれているように、これが洗足幼稚園。現在の東京都品川区旗の台六丁目22番(ゼンリンの電子地図で示すとここ)で、香蘭女学校に隣接していた。残念ながら洗足幼稚園のその後は調査し切れていないが、現在地には既にない。写真は「還暦記念 洗足幼稚園(大正15年10月19日発行。著者 棟居喜九馬)」という本からの引用だが、これには洗足幼稚園の成立までの歴史などが書かれているが、なかなかに地域歴史研究の視点からも興味深い内容が多い。その中から、この場所に幼稚園を作った理由、そして命名理由を述べた部分を示そう。

斯くて其設立の場所を府下荏原郡平塚町字中延さいかち坂上に定む、此地は洗足田園都市に近く高台にして見晴らし佳く、特に其隣地財団法人四皕荘(筆者注:四と荘の間の字が表示されない場合は「百百」が一文字)所有の二千坪にも余る一面芝生の庭園を時々園児の遊園に使用し得る承認を得たるにより、之れ以上理想的の場所はなく、且つ此辺は近来頓に人家増加して幼き子供の世話をする適当な機関を要求せらるる事頗る切なるものありと聞き、遂に該場所を選みたる次第である、又其名称を「洗足」となしたるは、此辺一体に共通する地名を用いたるに過ぎざるも、元来其字が昔時日蓮上人が池にて足を洗ひたる故事に因みてゆかしく、又基督が弟子の足を洗ひ給ひたる謙遜の徳も偲ばれ、又一面には余が過去の生活の足塵を洗ひ去って、心機一転無邪気な初童に更生し、更に新天新地の舞台に復活する気持にも協ひ、旁此名を冠したる訳である、

往事は、洗足田園都市がその姿を現し、これに刺激を受けた周辺地主もこぞって耕地整理した土地を優良住宅地として展開していた頃、つまり「洗足」ブランドが光り輝いていたことから命名されたのが伺える。位置関係を示すために、以前も示した昭和初期の地図を掲げておく。洗足幼稚園の北方向に位置する(地図にはほとんど入らない)のが洗足田園都市となる。

 

 

さて、洗足幼稚園の創立時の簡単な歴史もふれておこう(「還暦記念 洗足幼稚園」より)。

  • 大正15年3月26日趣意書を配布して園児募集。意外にも直ちに30数名の応募を得る。
  • 財団法人四皕荘所有の耕読寮を借り受け、大正15年4月12日午前10時開始。
  • 大正15年5月22日東京府の正式認可を受ける。
  • その後、敷地を定め校舎を新築し、65名収容可能な設備を完成。
  • 寄付金は1,000円の藤田政輔氏を筆頭に毛利元秀子爵(100円)、田園都市株式会社(200)円など、現金は17人(個人、法人)。
  • 入園料は2円、月謝は4円。

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年12月24日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回及び前々回に引き続き、今回も「一枚の写真」。最近の地域歴史研究は池上電気鉄道にこだわり続けているが、今回はライバルの目黒蒲田電鉄(現、東京急行電鉄)。現在の多摩川線(多摩川~蒲田間)にかつてあった駅、本門寺道駅である。

 

 

この駅(写真は昭和7年(1932年)刊行の「矢口町誌」より)。その名のごとく、池上本門寺に因んではいるが、「道」とついているのがくせ者で、本門寺に通ずる古道に接しているから「本門寺道」駅。今の東急池上線蓮沼駅付近を南北に走る道路がそれで、蓮沼駅から南下することおよそ400メートル。本門寺門前までは、実に2km弱になる。駅の場所は、今の東京都大田区西蒲田八丁目12番西側あたりがそこにあたる。

 

この駅。既に廃駅だが、わずか15年程の短い歴史でもそれなりに記すことは多い。まず、駅ができた理由がすごい。池上電気鉄道に対抗して作られたという点は、理由としては問題ないが、それをこの場所に作ってしまうのがすごい。「道」と付けているので詐欺ではないが、洗足池の最寄り駅として今でも勘違いされることの多い、洗足池駅、洗足駅、北千束駅の混同と同様の事態を招いたことだろう。

 

そして駅名変更。本門寺道という駅名の由来は池上電気鉄道対抗であったわけだが、これを合併したことで名実一致させるように「道塚」駅に改名した。本門寺「道」と関わりは若干あるが(この道に面した塚が由来)、古来よりの道塚という地名(かつては村名、のちに矢口村の大字名、蒲田区の町名)がありそれを採用。

 

そしてもう一つは線路変更。地図をご確認いただいていれば、本門寺道駅がかつてあったところは既に線路はない。今では蒲田駅から西にほぼ直線化している多摩川線だが、当時はここを通るような形で南側に弛んだような線形となっていた。これを太平洋戦争末期、一面は焼け野原となった際、帝国陸軍の力も借りて一気に新線を作ってしまった結果で、今では考えられない手法で行われたのであった。結果、線路がなくなってしまった本門寺道駅(道塚駅)は存在基盤を失い、廃駅となるしかなかった。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年12月22日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回に引き続き、今回も「一枚の写真」。そしてこれも前回に引き続き、「大崎町郷土教育資料」(昭和7年刊)より。能書きはともかく、まずは写真をご覧いただこう。

 

 

目黒川を渡る池上電気鉄道線と大崎橋。左側に五反田駅が見える。当時は、地表面から東洋一の高さを誇る五反田駅というが、この写真を見ると「なるほどなぁ」と唸らされる。そして、今でも強風時には大崎広小路止まりとなってしまうのも、この高さのせい。一両編成の電車でも、横からの強風にあおられると簡単に下に落ちそうに見えるのがこわい。

 

といったところで、今回はここまで。