【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年12月21日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「一枚の写真」のコーナーです(苦笑)。

 

どこかで聞いたことのある、というかまんまのコーナータイトルですが、今回から不定期で(忘れてしまったら今回限りの可能性大)連載予定の「一枚の写真」。第一回の今回は、タイトルにも掲げたように「池上電気鉄道時代の五反田駅遠望」です。掲載元は、昭和7年(1932年)に刊行された「大崎町郷土教育資料」という本から。この書籍は、東京府荏原郡大崎町が東京市に合併されることを記念して発刊されたものだが、なかなか興味深い写真がいくつか掲載されている。その一つがこれである。

 

 

空が広かったので部分掲載。遠くに見える松の木は、池田山(現 品川区東五反田五丁目)にあるもので、江戸期より人々の目標ともなったことだろう。さて、写真中央を貫いているのは、高架部分の池上電気鉄道線(現 東急池上線)で、左側には大崎広小路駅があり、特徴的なS字カーブを経た先に五反田駅の構造物(屋根等)が確認できる。大崎広小路駅そばに小さい一両編成の電車も確認できるが、ビルが建ち並ぶ現在と比較しても、建物が建て込んでいるような印象を強く受ける。とはいえ、高架線よりも高い建物は見えず、高架線がいかに目立つ存在だったかもわかるというものだろう。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月27日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回「調布大塚駅は、本当に昭和8年(1933年)に廃止となったのか?」の事実上の続き。「続~」としてもよかったが、あえて変えてみた次第。

 

さて、調布大塚駅の廃止についての疑義を前回提示したわけだが、国立公文書館アーカイブによる情報によれば、以下のような公文書があることが確実なようである(文書を見れば確実である、と書くところだがあえて)。

 

 

もし、調布大塚駅が昭和8年(1933年)に廃止されたとするなら、そして雪ヶ谷駅と統合(合併)して雪ヶ谷大塚駅になったとするなら、この「雪ヶ谷停車場位置変更及び調布大塚停車場廃止の件並びに線路変更届供覧」なる鉄道局の文書をどう説明するだろうか。もちろん、これは出された文書に対する局内での供覧に関してとあるように、ここに記述される「昭和10年(1935年)9月19日」にこれらが実施されたわけではない。ただ、通常この手の文書が出された後(当日以降)に実施されることがほとんどなので(例外の一例として開業直後の池上電気鉄道がこれにあたるが)、少なくとも昭和10年(1935年)頃までは調布大塚駅は生き残っており、また雪ヶ谷駅も雪ヶ谷大塚駅に改称されることはなかったと読める。

 

これについては、以前に当Blogにおいても取り上げた「東急の駅 今昔・昭和の面影」という書籍に大変参考になる資料が掲載されているので、一部分引用してご紹介する。

 

 

これは本書の見開き(表紙側)に掲載される沿線案内図で、目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道を合併後、奥沢線廃止前の期間に発行されたものと思われる(前回掲載した沿線案内より前)が、ここにも調布大塚駅は掲載されている。つまり、昭和8年(1933年)に調布大塚駅は廃止になったようには書かれていないのである。

 

 

そして本書の見開き(裏表紙側)には、過去の切符コレクションが掲載されており、ここには「雪ヶ谷→大崎広小路 五反田」と記され、昭和16年(1941年)8月31日の日付が刻印された切符が掲載されている。さらに同ページには、

 

 

昭和16年(1941年)頃の車内販売用乗車券も掲載されており、ここでも「雪ヶ谷」表記のままである(さすがに調布大塚駅は未掲載)。

 

以上、これらから考えれば、昭和8年(1933年)6月1日に調布大塚駅が廃止され雪ヶ谷駅と統合(合併)し、雪ヶ谷大塚駅と改称したとする東京急行電鉄50年史の記述は、いったい何を根拠としたのか。こういう疑義を呈しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月26日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

これまで当Blogにおいて、東急池上線の前身である池上電気鉄道に関連した様々なものを論じてきたが、今回もまたそれである。今回のターゲットは調布大塚駅。今はなき、現在でいえば、雪が谷大塚駅~御嶽山駅間にあった駅である。この駅は、これまで当Blogでももちろんだが、通説としては

 

昭和8年(1933年)6月1日、雪ヶ谷駅と統合により廃止

 

とされている。根拠はもちろん、東京急行電鉄50年史である。が、しかし、雪ヶ谷駅に関しては駅の位置異動に関してや、雪ヶ谷大塚駅への改名時期など通説が定まっていなかったり、あるいは誤った説が流布されていることは「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編]」や「初代雪ヶ谷駅の場所を検討する(雪が谷大塚駅の歴史 番外編)」などで検討したとおりである。

 

これらを検討する中で浮かんだ疑義は、雪ヶ谷駅と調布大塚駅を統合したという割には、駅の場所は昭和12年(1937年)前後に行われた線形(曲線)改良工事の結果、ほぼ現在地に移設したことが同時代資料と言うべき「東京横浜電鉄沿革史」で確認できたことで、統合したという表現が正しいのか? ということだった。さらには、雪ヶ谷大塚駅への改名時期が統合したとされる昭和8年(1933年)より、ずっと後であるという事実もこの疑義を深めるものとなった。

 

さらに、昭和8年(1933年)6月1日という時期は、まだ目黒蒲田電鉄の統制を受ける前であり、調布大塚駅を積極的に廃止する理由も見えない。統合により、駅の位置がこのタイミングで変わったというのならまだわかる。しかし、そうでないのだから、なぜこの時期なのか? となるわけである。

 

そして、この疑義を確証に変えるキッカケを得たのは、以前ご紹介した「図説 鉄道パノラマ地図」という書籍である。本書の36~37ページに「昭和12年3月現在」と書かれた「沿線案内 東横・目蒲・玉川電車」が掲載されており、何と本図には調布大塚駅が掲載されているのである。

 

 

これを単なる記載ミスとするか、それとも事実とするか。これだけでは何とも言えないので、関連資料を探してみたら、池上電気鉄道合併後それほど経過していないと思われる沿線案内図を見つけることができた。

 

 

全体を載せると字が小さすぎるので、一部を拡大すると、

 

 

ご覧のとおり。しっかり調布大塚駅が掲載されており、しかも田園調布駅と連絡バスが運行されているように書かれているのである(これは先の「沿線案内 東横・目蒲・玉川電車」にも掲載されているが)。ここまで書いておいて、記載ミスはさすがにないだろう。池上電気鉄道を合併して、おそらく最初期に作られた沿線案内図であることは、各路線の記載されている駅名を列挙すればわかるだろう。

 

目蒲線

目黒、不動前、武蔵小山、西小山、洗足、大岡山、奥沢、田園調布多摩川園前、沼部、鵜ノ木、下丸子、武蔵新田、矢口渡、本門寺道、蒲田

 

東横線

渋谷、並木橋、代官山、中目黒、祐天寺、碑文谷、府立高等、自由ヶ丘田園調布多摩川園前新丸子、元住吉、日吉、綱島温泉、大倉山、菊名、妙蓮寺、白楽、東白楽、新太田町、反町、神奈川、横浜、高島町、桜木町

 

大井町線

大井町、戸越、蛇窪、中延、荏原町、東洗足、洗足公園、大岡山、緑ヶ丘、自由ヶ丘、九品仏、尾山台、等々力、上野毛、二子玉川

 

池上線

五反田、大崎広小路、桐ヶ谷、戸越銀座、荏原中延、旗ヶ岡、長原、洗足池、石川台、雪ヶ谷調布大塚、御嶽山、東調布、慶大グラウンド、池上、蓮沼、蒲田

 

さらに、本図には奥沢線が記載されていない。もしかしたら意図的に掲載していないだけ(どうせ廃止するつもり)かもしれないが、時系列として、

  • 昭和9年(1934年)10月1日、池上電気鉄道を合併。
  • 昭和10年(1935年)11月1日、奥沢線廃止。
  • 昭和11年(1936年)1月1日、戸越→下神明、蛇窪→戸越公園、洗足公園→北千束、本門寺道→道塚、東調布→久ヶ原、慶大グラウンド前→千鳥町、と6駅の駅名を変更。

となっているので、ほぼ昭和10年(1935年)中に作成されたことは間違いないだろう。もし、奥沢線廃止後に作成されたのであれば、さらに範囲を狭めて特定可能になるが、どちらにしても昭和10年(1935年)頃までは調布大塚駅が存在していたように書かれている。

 

この事実をどう受け止めるか。いずれも単なる記載ミスと片付けるのは簡単だが、本図上では池上線の主要駅として五反田、洗足池、雪ヶ谷、池上、蒲田と並んで調布大塚が表記されているのだ。昭和8年(1933年)に廃止となった駅に対し、いくら合併した他社線の駅だからといってこのようないい加減な記載をするだろうか。

 

現時点における私の推論は、調布大塚駅は昭和12年(1937年)前後の雪ヶ谷駅~御嶽山駅間曲線改良工事頃、おそらく雪ヶ谷駅が調布大塚駅寄りに(ほぼ現在地に)移動した時点をもって廃止になったと思われる。昭和13年(1938年)の3,000分の1地形図には、線形(曲線)改良後の路線等が掲載されているが、ここに調布大塚駅はない。そして、これ以降の民間企業等が出版した地図においても調布大塚駅は見えなくなっているものが多い。さらに、先にふれたように池上電気鉄道が昭和8年(1933年)6月に調布大塚駅を積極的に廃止する理由が見えないことも併せ、調布大塚駅昭和8年廃止説を否定する、となるわけである。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月24日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回の補足です。モノクロ画像では分譲地の判別が困難かと考え、色つきのものを作成した。

 

 

色付けしたところが、田園都市株式会社あるいはそれを引き継いだ目黒蒲田電鉄田園都市部が分譲した宅地である。洗足駅周囲の第一期と分離しているが、第二期においても…というよりは第二期だけでなく複数期に分かれていた可能性もあるが、大井町線の北側と南側に分離していることが確認できる。そして、北側は分譲地番号として394~471番と数字かつ第一期との通し番号になっているのに、南側の分譲地番号はイロハ順にイ~ソとなっているのも疑問である。

 

この分譲地番号について疑義なのは、いくつかある田園都市株式会社名義で作成された洗足住宅地平面図には、493~498番(現 東京都大田区北千束一丁目の一部)が存在しないがイロハ番号はあり、目黒蒲田電鉄田園都市部名義で作成された洗足住宅地平面図には、493~498番が存在する。この事実から、なぜ通し番号の途中になぜイロハ番号が挿入されているのか? という疑義が生まれるわけである。

 

これについて私の予想としては、田園都市株式会社が存在しているときに、目黒蒲田電鉄名義で分譲したもの(あるいは目黒蒲田電鉄の所有地だったもの)にイロハ番号を付け、田園都市株式会社が分譲したものと区別しているのではないかと考えている。その後の493~498番については、田園都市株式会社が消滅(目黒蒲田電鉄に合併)したことで、目黒蒲田電鉄田園都市部が通し番号を引き継いで分譲した、という流れではないか、と。

 

いつも思うことだが、第一次資料を目にすると、これまで頭の中で考えていたことがいかに稚拙であったのかということを痛感させられることが多い。今回、この平塚町第二耕地整理組合第一工区確定図という資料を見て、新たな知見を得ることができそうである。そんなことを記しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

洗足田園都市に関する疑問(列挙型)をあげると、以下のような疑義がこれまでの調査で明らかとなった。

  1. 洗足住宅地第一期分譲地は、田園都市株式会社が耕地整理を一人施行で行ったとされるが、荏原郡碑衾村・荏原郡平塚村、荏原郡馬込村の3村それぞれにまたがっていたにもかかわらず、関連資料が荏原郡碑衾村にしか見られない。これはいかなる理由によるのか。
  2. 洗足住宅地第二期分譲地は、荏原郡平塚村のうち大字中延のみであり、ここは平塚第二耕地整理組合の組合地に含まれているように思われるが、実際は含まれていたのか含まれていなかったのか。
  3. 「東京急行電鉄50年史」や「街づくり五十年」(東急不動産社史)には、洗足田園都市に関する記述はあるが、どちらも資料不足によってなのか調布田園都市(多摩川台。田園調布)の記述よりもかなり薄い内容である。これは本当に資料不足なのか、あるいは社内的な理由で記述することを憚られていたのか。
  4. 洗足田園都市を通過する鉄道計画及び駅(停車場)計画の変遷について、一部調査し切れていない部分がある。一説によれば、洗足五叉路(現在の小山七丁目交差点)辺りに駅ができる予定だったとあるが、収集した資料にはそれを見出すことができない。これは事実なのか。
  5. 洗足住宅地第一期と第二期の間に存在する小規模住宅群(現在の東京都品川区旗の台六丁目1番及び2番ほか)は、どういった経緯で誕生したのか。また、この土地を田園都市株式会社が買収できなかった理由は何か。
  6. 社団法人洗足会の戦後にかかわる歴史。おそらく、戦時中に隣組制度によって町内会が再編成された際、洗足会はその機能を事実上失い、戦後になってこれもおそらく解散命令を受けたと思われる。その後、復活?した経緯、洗足会館等の財産の行方(そもそも社団法人化された理由は、田園都市株式会社が譲渡された資産を引き継ぐためであった)や、3区に分断された洗足会の位置づけ、現行の町内会(洗足二丁目町会、小山洗足町会など)との関連など、社団法人田園調布会との違いについても。
  7. 洗足住宅地の道路パターンなどを設計したのは誰か。

以上の疑義のうち、この10日ほどの間にいくつか解決できたのでご紹介しよう。

 

洗足住宅地第一期分譲地は、田園都市株式会社が耕地整理を一人施行で行ったとされるが、荏原郡碑衾村・荏原郡平塚村、荏原郡馬込村の3村それぞれにまたがっていたにもかかわらず、関連資料が荏原郡碑衾村にしか見られない。これはいかなる理由によるのか。

 

関連資料そのものではないが、大田区史下巻442ページに耕地整理組合一覧に関するデータがあり、ここに「田園都市第一」として「事業面積98.0ha、事業費12万3千円」との記載があるが、これが洗足住宅地第一期分譲地の耕地整理と一致する。つまり、関連資料は荏原郡馬込村(現 東京都大田区の一部)にもあったわけで、碑衾村以外にも見出すことができたことになる。ここでわかったことは、馬込村だけで98.0haとはならない(多すぎる)ので、98.0haとは碑衾村、平塚村と合わせての事業面積であり、耕地整理組合の許認可は道府県が担っていたことを考慮に入れれば、東京府への申請資料を各村が参照したのではないかと考える。以上により、疑義が解消しただけでなく、耕地整理組合の許認可主体が東京府であったことから、各村にまたがる耕地整理であっても組合事業としては単体でなされたと理解できた。

 

洗足住宅地第二期分譲地は、荏原郡平塚村のうち大字中延のみであり、ここは平塚第二耕地整理組合の組合地に含まれているように思われるが、実際は含まれていたのか含まれていなかったのか。

 

これについては、当blogをご覧いただいている方から貴重な資料(写し)をご提供いただき、この疑義は完全に解消できた。その資料とは「平塚町第二耕地整理組合第一工区確定図」と称するもので、この図には換地処分時に確定した新地番が描かれており、当該部分を見ると、

 

洗足住宅地第2期及び第3期分譲地

 

のように整然とした区画に分かれる中、細かく分割されているものが見えるが、これこそ洗足住宅地第二期分譲地とほぼ重なる区域なのである。他の区画は大雑把に言えば、1街区(道路に四方囲まれた区画)が1~4程度に分筆されているが、田園都市株式会社の分譲した街区はそうではなく、また狭いものとなっている。このことから見えるのは、耕地整理組合の事業地に含まれてはいたが、実際には耕地整理組合が耕地整理したわけでなく、既に区画・分譲されたものに対して、後付けで耕地整理組合事業地に組み込まれたということである。つまり、平塚町第二耕地整理組合が示す最低限の減歩率をクリアし、耕地整理組合の事業と一体化した形を採ったということである。

 

ここで新たな疑問が当然わき上がってくる。洗足住宅地第一期分譲地においては、田園都市株式会社が単独(一人施行)で耕地整理組合を立ち上げ耕地整理事業を実施したのに、なぜ第二期においてはそういう形を採ったのか、である。まぁ予想が付かないわけではないが、この話を長くすると本論から思いっきり逸れるので、この辺にとどめておこう。

 

 

こちらは耕地整理前、田園都市株式会社が分譲する前の大正11年(1922年)時の地図。字大原北とある左側(西側)付近が洗足住宅地第二期分譲地にあたるが、当然のことながら耕地整理(地番整理)前後とは大きく変わっていることを確認できよう。

 

洗足田園都市を通過する鉄道計画及び駅(停車場)計画の変遷について、一部調査し切れていない部分がある。一説によれば、洗足五叉路(現在の小山七丁目交差点)辺りに駅ができる予定だったとあるが、収集した資料にはそれを見出すことができない。これは事実なのか。

 

五叉路部分かどうかははっきりしないが、公文書資料を再度洗い直したところ、現在の東急目黒線の線形は工事施工前に変更があった結果によるもので、施工前は若干南寄りの計画だったことが確認できている。推測するに、これは洗足住宅地計画の中心点が北寄りに動いたこと、つまり現在の品川区旗の台六丁目1、2番付近を田園都市株式会社が買収できず、洗足駅を北寄りに異動させる必要が生じたからではないかと考えている。この北側に異動する前の駅計画が洗足五叉路付近であったのなら、これは事実となるだろう。

 

以上、7つの疑義のうち3つについての進捗状況についてお伝えした。といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月10日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「日本鉄道旅行地図帳 4号 関東2 全線・全駅・全廃線」(監修 今尾恵介、発行 新潮社)を見た。このシリーズは書店で気になったものの、手にした感じで購入はしなかったので私的にはぴんと来なかったということだが(過去の自分は今の自分から見れば他人なのでこういう表現になる)、実際に図書館で手に取ってみたところ、やっぱり買うほどのものではないとわかった。生粋の鉄道ファンなら…買うのか? それとも素人さん向け? ま、人のことはさておいて私が買わないとする理由は、単に駅名リストと見にくい地図がくっついているだけで、「正縮尺の鉄道地図」とはいうものの肝心の地図が美しくないため、価値がないと判断したためである。ただ、駅名リストは、各種鉄道資料等の集大成的な趣があって、これに価値を見出すことができれば買うのだろう。とどのつまり、これも集大成に過ぎないもので、既に明るい方であれば買う価値を見出せるかは微妙と思う。

 

そんなわけで見送ったわけだが、「図説 鉄道パノラマ地図」(ふくろうの本)のネタ本になっているということがわかり(前々回記事「「図説 鉄道パノラマ地図」(ふくろうの本)に見る誤り─池上電気鉄道編─」参照)、改めて本書を確認しようと考えた次第である。「日本鉄道旅行地図帳 4号 関東2 全線・全駅・全廃線」の42ページに東急池上線に関するリストが掲載されているので早速確認してみた。

 

 

ああ、やっぱり。

雪ヶ谷から雪ヶ谷大塚への改称時期を1933年(昭和8年)6月1日としている。いわゆる昭和8年統合・改名説という誤った説を採用していることが確認できた。さらにいえば、慶大グラウンド前を慶大グランド前としていること、そしてそれが光明寺を前身としていることも合わせて確認できた。後者については定説となっていないのでやむを得ないが、雪ヶ谷駅の改称はいい加減、昭和8年説を見直した方がいいだろう。集大成と言うことで、誤りの集大成でもあることが改めて確認できたのは収穫だったとなるだろうか。

今日はいわゆるチョコレートの日です。

おいしいチョコが流通するのもこの時期なので、私は積極的に(ほぼ自分のために)おいしいチョコを収集したのです。

 

 

これで全部ではなく、他にもあります(苦笑)。食べる前も愉しいですが、食べる時も食べた後も幸福になれます。

おそらく2月中には全部食べ終わると思いますが、この時期ならではの愉しみ、しっかり味わいます。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月9日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回は、「図説 鉄道パノラマ地図」(編者:石黒三郎+アイランズ。発行:河出書房新社)内の「関東⑦ 東急東横線 東急目黒線」(32~35ページ)に含まれる疑義等について取り上げた。今回は「関東⑩ 東急池上線」(44~47ページ)を取り上げていこう。

 

 

──と書き出してはみたものの、実は目黒蒲田電鉄(東急東横線・目黒線)よりも誤りや気になる点が少ないのである。

 

一応、列挙してみると、

44ページ「五反田駅開業が昭和3年、昭和8年に「雪ヶ谷」が「雪ヶ谷大塚」に改称することからその間の発行だろう。」

以前にも当blogで何度となく取り上げているが、雪ヶ谷駅が雪ヶ谷大塚駅に改称されたのは昭和8年(1933年)ではない。この年は、雪ヶ谷駅が隣の調布大塚駅と合併したとされるのだが、実は「合併」あるいは「統合」したという事実を見出せていない(駅位置がほぼ現在地に異動したのは、昭和8年よりもかなり後の昭和13年頃)。そして、調布大塚駅は雪ヶ谷駅と合併あるいは統合した事実はなく、単に廃止されただけなのではないかと考えている。

(「雪ヶ谷大塚」という駅名がいかにも「雪ヶ谷」と「調布大塚」を合わせたような名前なので、統合・合併したと誤解を招く原因となったのでは? 私の予想では、仮に昭和18年(1943年)に改称された前提とするなら、雪ヶ谷町と調布大塚町にまたがる駅名が「雪ヶ谷」ではおかしいというような風潮となり、地元あるいは当局の要請によって改称されたのではないか、と。)

45ページ「この支線は当初、雪ヶ谷と国分寺間の開通を目指していたが、いち早く目蒲電鉄が大岡山~二子玉川間の新線で線路用地を確保したため、計画は頓挫してしまい、支線そのものが廃止となった。」

奥沢線の解説(本書もご多分に漏れず「新奥沢線」と表記しているが)だが、いわゆる通説である。これは公文書館等の資料や玉川全円耕地整理組合関連の資料などを確認すると、実際にはそうでないことが確認できている。近いうちに「池上電気鉄道VS目黒蒲田電鉄」シリーズで取り上げる予定であるが、簡潔に記すなら「この支線は当初、目蒲電鉄の田園調布駅に接続させる目的であったが、目蒲電鉄の反対や鉄道省の許認可が得られる見込みがなかった。よって、国分寺駅までの延長線という形を取り、途中で(事実上)目蒲電鉄の駅に接続させることを目指したが、目蒲電鉄は計画線との交叉部分に関する協議に応じず、大井町線(二子玉川線)の計画を変更させるなどして最後まで協議をさせなかった。その間、自由ヶ丘~二子玉川間が開通し、本線に次いで支線まで目蒲電鉄に先を越されたのである」と。

45~46ページ「現在の東急ストアは、当時「白木屋分店」といい、日本橋白木屋が、池上線が全通した年の瀬に駅ビルヂングに開設した。」

本書は今年になって発売されたもので、どんなに古くても昨年に著したものであろう。よって現在の東急ストア、というよりは「レミィ五反田」と表記する方がいい。実際、五反田東急ビル内にまだ東急ストアは健在だが、縮小されて五反田駅と接続する4階にはもうない(3階以下に限られる)。著者の知識が単に更新されていないだけ、というよりは知らないだけなのだろうが。

46ページ「大正12開業 昭和8調布大塚と統合 雪ヶ谷大塚に改称 昭和41雪が谷大塚と表記変更」

先にもふれたように、雪ヶ谷大塚への改称時期を誤っている。

 

以上、というかこれだけしかない。雪ヶ谷大塚への改称時期と奥沢線関連、あとはレミィ五反田くらいのものだが、たったの4ページでしかも半分以上が図版であるので、逆の見方、つまりこんなにあると言えなくもない。

 

というわけで、前回と今回の二回にわたって「図説 鉄道パノラマ地図」(ふくろうの本)における目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道に関連する部分の誤り等を示した。本書のメイン著者(編者)と思われる石黒三郎氏は、鉄道関連(歴史も含む)にはあまり詳しくない…というか、ふくろうの本の性質上、詳しい解説が書けないだけかもしれないが、他部分を読んでも「自分の言葉」で書いているように見えない箇所が多い(だから編者か?)。沿線案内の図版は確かに面白いのだが、解説文が今いちなのである。そして、本書の最後の方には次のようにも書かれている。

126ページ「各駅の開業・移設・改称などの年度および路線距離は、「日本鉄道旅行地図帳」(監修・今尾恵介 新潮社)を参考にした。本書掲載の沿線案内には、発行年が記されていないものが多かったが、「日本鉄道旅行地図帳」の記述によってその多くを推定することができた。」

なるほど。誤りの多くは「日本鉄道旅行地図帳」に起因するのか、ということで近いうちにこの書籍についても、誤り等を調べてみるとしよう。といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年5月8日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

なかなか面白い本が出た。「図説 鉄道パノラマ地図」(編者:石黒三郎+アイランズ。発行:河出書房新社)というのがそれで、鉄道会社が昭和初期に作成した「沿線案内」を紹介したものである。この手のものが1冊にまとまるのはそうないだろうからすぐさま購入したが、読み始めていくと、いくつか気になる点が出てきた。特に、地域歴史研究で取り上げている池上電気鉄道や目黒蒲田電鉄がらみのものは、やはり誤りが多いことに気付き、このことは他の部分においてもそういうものなのかもしれないという疑いを抱かせる(笑)。ま、それはともかく、気になる点を目黒蒲田電鉄に関するところから記していこう。

 

 

まず、「関東⑦ 東急東横線 東急目黒線」(32~35ページ)から取り上げる。本書32~33ページ所載の「東京横浜電鉄目黒蒲田電鉄沿線案内」は大きな特徴、というか問題を孕んでいる。それは、近時開業する二子玉川線(現 東急大井町線の一部)の扱いで、未開業であるにもかかわらず大井町駅~二子玉川駅間が完成したように描かれていることである。この図がおかしいことは、以下の点を列挙するだけで十分だろう。

 

  1. 目黒蒲田電鉄二子玉川線(大井町線)の「九品仏駅」が「九品仏前」駅と計画時点での仮駅名となっている。
  2. 中丸山駅の記載がない。

では、本図にかかわる部分の歴史を確認しよう。

  • 昭和2年(1927年)7月6日 大井町駅~大岡山駅間が開通。目黒蒲田電鉄の新駅として、大井町、戸越(現 下神明)、蛇窪(現 戸越公園)、中延、荏原町、東洗足(現 旗の台)の各駅が開業。
  • 昭和3年(1928年)8月1日 目黒蒲田電鉄、武蔵小山駅~洗足駅間に新駅として西小山駅が開業。
  • 昭和3年(1928年)8月3日 東京横浜電鉄、高島駅を本横浜駅と改称。
  • 昭和3年(1928年)10月10日 目黒蒲田電鉄、東洗足駅~大岡山駅間に新駅として池月駅が開業。
  • 昭和4年(1929年)10月22日 東京横浜電鉄、九品仏駅を自由ヶ丘駅と改称。
  • 昭和4年(1929年)11月1日 自由ヶ丘駅~二子玉川駅間が開通。目黒蒲田電鉄の新駅として、自由ヶ丘(現 自由が丘)、九品仏、等々力、上野毛、二子玉川の各駅が開業。
  • 昭和4年(1929年)12月25日 大岡山駅~自由ヶ丘駅間が開通。目黒蒲田電鉄の新駅として、中丸山(現 緑が丘)が開業。

以上のように、大井町線 大井町駅~二子玉川駅間が全通するまでに約2年の歳月を要し、計3回に渡って部分開業を行ったことがわかる。この間、駅名や新駅の開設などの異動もあり、本図が計画時点で作成したとしか思えない記載と疑うに十分であることがわかるだろう。さらに、「九品仏」駅は昭和3年(1928年)後半の高架化工事の後には「衾」駅と改称する予定であり、これを新興住民が嫌った結果が「自由ヶ丘」駅への改称のきっかけであったので、ほぼ確実に昭和3年(1928年)中のものだとなるだろう。もっとも池月駅に関する記載は、開業前か開業後かは定かでない(大井町線の記載そのものがいい加減なため)ので本図が作成された時期は、昭和3年(1928年)10月10日以降と定めるわけにもいかないと考える。

 

よって、多数あるはずの「東京横浜電鉄目黒蒲田電鉄沿線案内」のうち、よりにもよって本図を取り上げたのは、著者の失敗だったと思えるのである。無論、本図の誤り(あるいは歴史的経過)を指摘するのが目的であれば、むしろよくこの図を取り上げたとなるが、本文中にはまったく見えないことから、よくご存じでない著者が無批判に取り上げたと推測できるのである。

 

では、個別に誤りや気になる点について挙げていこう。

33ページ「発行年は記載されていない。高島町まで延伸したのが昭和3年5月(同年8月に本横浜と改称)、また上図の九品仏駅は昭和4年10月に自由ヶ丘と改称するため、昭和3年8月~4年10月までの発行と推測される。」

昭和3年中に新規開業した西小山駅及び池月駅の記載があるので、二子玉川線が計画時のものであるにしても昭和4年10月まで引っ張られることはないだろう。また、34ページに「昭和3年のものと思われる」と発行年についてふれているので、この表記は改めるべきと考える。

34ページ「渋沢は会社の鉄道部門を分離させ、目黒蒲田電鉄を設立する。」

どうだろう? 確かに大渋沢(渋沢栄一)は、表向きは引退しており代表権等は持っていなかったが、実際には大渋沢の承諾無しには「社の大きな決定」はできなかったのは確かだろう。だが、事業そのものにそこまで大渋沢がかかわっていたかといえば、これも疑問符が付けられる。とはいえ、短文の中ではこう表記せざるを得ないのもわかるので、気になる点として掲げるにとどめる。

34ページ「一方、東横線は大正15年、武蔵電気鉄道が丸子多摩川(現・多摩川)-神奈川を開業する。」

これは完全な誤り。正しくは、武蔵電気鉄道ではなく東京横浜電鉄。専務に五島慶太が就任する時点をもって社名が変わることを解していれば、誤りようのないミスといえる。

34ページ「祐天上人の開基。浄土宗の名刹。」

祐天寺の説明だが、正確には祐天上人の開基ではなく高弟の祐海上人が創建した。ただし、祐海上人が祐天上人を開山と仰いだため、祐天寺の名がある。そこまで指摘するか、といわれそうだが。

34ページ「実際は目蒲電鉄「不動前」が近いが、案内では祐天寺駅を最寄駅としている。発行時は、東横電鉄が開通した直後であったためであろうか。」

目黒競馬場についての説明である。が、単に地図の上から遠近を問うている素人的発想で書かれた文でしかない。これを現在でいえば、東京(府中)競馬場の説明において「東京競馬場の最寄駅は、府中競馬正門前駅、府中本町駅、そして是政駅であり、この3駅はほぼ等しい時間で競馬場まで着く」というようなものである。地図で確認すれば分かるが、府中競馬正門前駅、府中本町駅、是政駅のいずれも東京競馬場から近く、ほぼ等距離に見える(競馬場のコースまで)が、実際に客が利用するのはいわゆるオケラ街道からスタンド(客席)までで、馬が走る場所がいくら近くても、それを最寄りとはしない。要するに競馬場施設として見れば、目黒競馬場は不動前駅側からでは是政駅と同じように近いのだが、実際に客が入るスタンドまでは絶対的に遠い(ぐるっと回っていかなければならない)。目黒競馬場の構造を理解していないだけでなく、単に地図上からの遠近だけでの安易な判断であり、素人的発想としかいいようがないのである。

 

といったところで、今回はここまで。次回は、引き続き本書の誤りを池上電鉄に関する部分で取り上げる予定である。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年4月24日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回、慶大グラウンド前駅についての記事を取り上げたが、実際、今はどうなっているのだろう? というわけで跡地確認である。いきなり、現地写真。

 

 

え~、踏切の遮断機が手前にあって、右に曲がっていく複線鉄路。線路左側には舗装されていない土むき出しの細い道路が…。これでも一応、東京23区の一つ、東京都大田区千鳥一丁目。現在と昭和4年(1929年)の1万分の1地形図(下図参照)と比べてみれば、第二京浜国道(国道1号線)がない以外はほとんど道路パターンが変わっていないので、撮影場所も察しがつくだろう。そう、かつて駅のあった東側道路から撮影したものである。

 

©国土地理院

 

面白いのは、この慶大グラウンド前駅(二代目)の場所。東急池上線(池上電気鉄道線)は耕地整理前に建設されたので、街区パターンと無関係なのは仕方がないが、駅ができたのは当地区を耕地整理することになる嶺鵜耕地整理組合の施行前とはいえ、隣接する地域が耕地整理事業を進めており、道路パターンがどのように作られるかは意図的にかみ合わないようにしない限りは予想がついていた。なので、この駅の場所をみればわかるように、東西を通る道路のほぼ真ん中にあるということは、あえて道路の接続を妨害するようなところに設置したと見るべきだろう。

 

だが、この場所は池上電気鉄道にとってみれば、ここしかない場所ではある。駅東側に接道する南北を走る道路は、南方向に進めば慶應義塾大学運動場(上地図表記では慶大グラウンド)にあたるが、この道路は新田球場と陸上競技用運動場(トラック有)を区切るものであったからである。つまり、どちらにアクセスするにもこの道路に接道させることは「慶大グラウンド前駅」という命名からして、必須要件だと思えるからに他ならない。

 

一方、道路と鉄道の接続上から見ても、道路に対して斜めに入る踏切は、交通安全上あまりいいものとはいえない。よって、いっそのことこの場所に駅を作ってしまい、東西の道路は駅で区切ってしまうという発想だったのかもしれない。まぁ、何とも言えないところであるが、妙な場所に駅があったという事実に変わりはないだろう。

 

 

そしてもう一枚の写真は、慶大グラウンド前駅方面から北側に面する道路、これをまっすぐ進めば久が原方面に行くことができるが、地図を確認してわかるようにこの道路は、耕地整理の道路パターンとは異なり、ここに駅があったことで作られた道路である。上に示した昭和4年(1929年)1万分の1地形図でも確認できるが、この沿道から市街地化が進み始めたことが読み取れるはずだ。

 

といったところで、今回はここまで。