【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年5月12日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回(その2)は、山手線が日本鉄道から国有化されるところまで話を進めたので、今回はその続きから。

 

1906年(明治39年)11月1日に国有化されて以降の大きな異動は、1909年(明治42年)に電車運転(電化)が開始されたことで、同年、大崎~品川間も複線化がなり、この電車運転のタイミングで代々木駅が開設される。既に代々木駅は甲武鉄道によって開業されていたが、電車対応となったことで駅間が短くても対応できるようになったことが大きいだろう。そして翌年(1910年)には目白~新宿間に高田馬場駅、赤羽~板橋間に十条駅、田端~巣鴨間に駒込駅が開業し、さらにその翌年(1911年)には目黒~大崎間に五反田駅が開業する。電車運転開始によって、明治末期には旅客鉄道としてのウェイトがさらに高くなってきたことがわかる。

 

(この写真は記事転載時に追加したものです。)

 

国有化後、明治までの間に新たに開業した駅が所属する当時の町村名を列挙すると、

  • 代々木(東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字千駄ヶ谷字新田)
  • 高田馬場(東京府豊多摩郡戸塚村大字戸塚字清水川)
  • 十条(東京府北豊島郡王子町大字下十条字仲道)
  • 駒込(東京府北豊島郡巣鴨町大字上駒込字伝中)
  • 五反田(東京府荏原郡大崎町大字上大崎字子ノ神下)

以上のとおりとなる。

 

まず、代々木駅については、既にあった甲武鉄道(日本鉄道と同様に国有化された)の駅との乗換駅として開設されたため、ネーミングについてはそのまま継承している。よって、甲武鉄道の駅ができた当時の町村名が重要だが、山手線の代々木駅開業時と異なるのは千駄ヶ谷町が町制施行する前だったのみで、府郡大字小字については変わりがない。つまり、代々木駅の場所は千駄ヶ谷村(町)にあり、本来なら千駄ヶ谷としたかったところだが、同時期に隣駅に千駄ヶ谷駅を設けていたため、隣接地名となる豊多摩郡代々幡村大字代々木の名を拝借したというわけである。

 

そして高田馬場駅。これは当局もかなり悩んだのではないか。というのは「戸塚」といえば、やはり東海道の宿場町だった戸塚が有名であり、既に鉄道駅も存在していた。村名も大字名も戸塚であるので、残るは字(小字)名となるが、これも清水川と今一つ。戸塚村内の隣接大字も「諏訪」であり、長野県がイメージされるので、他に…となると神田川が当時の北豊島郡と豊多摩郡の境界(今でも豊島区と新宿区の境界)であったので、北側の有力名も採用しがたい。そこで出てきたのが、堀部安兵衛の高田馬場の決闘で巷間流行っていた「高田馬場史跡」に因んだ「高田馬場」であり、戸塚村の顔も立つ(高田馬場史跡は戸塚村内にあった)という流れである。今では、駅含めた周辺の町名として高田馬場(一丁目~四丁目)となっているが、そもそも高田とは豊島区側にあった村名に由来し、川の上流には上高田(中野区)がある。なので、様々な意味で拝借地名採用と言えなくもない。

 

そして十条駅については、所属する北豊島郡王子町の王子は既に採用駅があったので、大字名から採用。駒込駅についても北豊島郡巣鴨町の巣鴨は既に採用駅があり、大字名からの採用となった。

 

残る五反田駅については、なかなか珍しいケースとなっている。町名も大字名も大崎なので、既にある大崎駅からどちらも採用しがたい。とはいえ、字(小字)名ではあまりに範囲が狭く、実際採用例も路面電車(馬車鉄道)レベルでごくごくわずかに見られる程度。加えて「子ノ神下」というのは、さすがに当時でも躊躇したようである。しかもこの地は、大崎町の中心で町役場などもあったことから、ここを大崎駅とすべきと言う地元の強い声(だからあのとき大崎でなく居木橋にしておけば…というような)もあったが、国営化されたことで御上と喧嘩するわけにもいかず、結局、隣接字名である五反田が採用された。実際の字五反田の地には鉄道院の官舎が建てられ、五反田官舎を名乗ったが、これは駅名から採ったのか、それとも字名から採ったのか…。また、余談となるが、池上電気鉄道(東急池上線)の五反田駅は、字五反田の地につくられている。

 

以上、いずれも大字名ないし字名が当地ないし隣接地から採用されたことが確認できる。隣接地の場合は、どちらも先行して使用されていたためやむを得ず、という形である。高田馬場駅と五反田駅は、それぞれ両極端な駅名採用となったが、地域特性(有力者の意見)というものを考慮したことは疑いない。

 

さて、その3まで進めてきて今さらの注意点(苦笑)。JR山手線というと、一般的には東京を一周する環状運転のあれを指すと思われるだろうが、実際の山手線は「田端~品川」間のみであり、歴史的経緯で赤羽線(これも多くの人が埼京線の一部としか思っていないだろうが)「赤羽~池袋」間を併せて採り上げている。なので、「田端~品川」間は今シリーズでは採り上げないのでご容赦願いたい。

 

では話を戻して、大正時代の山手線に話を進める。その前に明治までに開業した駅を確認しておこう。

 

今日の赤羽線部分

 赤羽

   十条

 板橋

 

今日の山手線部分

(田端)

   駒込

  巣鴨

  大塚

  池袋

 目白

   高田馬場

 新宿

   代々木

  原宿

 渋谷

  恵比寿

 目黒

   五反田

  大崎

(品川)

 

ある程度、東京の地理に明るい方でも、現在の駅と比べて何が足りないかは気付きにくい。1914年(大正3年)、高田馬場駅~新宿駅間に新大久保駅が開業するが、これですべて出揃う格好になる。山手線はまだ環状運転どころか、いわゆる「の」の字運転すらしていない時代に駅の構成は完成していたのである。

  • 新大久保(東京府豊多摩郡大久保町大字百人町字仲通)

新大久保駅は「新」と冠称した最初の駅名(新宿等は除く。「新」+「既存駅名」)であるが、中央線大久保駅の所在地も新大久保駅とまったく同じ「東京府豊多摩郡大久保町大字百人町字仲通」であるので、町村名からの採用は不可能。大字(百人町。大正元年に町制施行する前までは大字大久保百人町だった)名から採用しなかったのは、調査し切れていないが、それ相応の理由はあったと見る。

 

山手線の駅名について考察してみた。こうして眺めてみると駅名改称が一度もないことに気付くが、それだけ定着しているという見方が適当だろう。むしろ、駅名に引っ張られる形で町名変更が成された数を慮れば、その影響力は計り知れないという方がいいだろうか。駅名については、基本は当該町村名が採用されているが、ただ単に当該地としてはおらず、周辺に著名なものがあればそれが採用されるなど、時代背景によって様々な形が見える。中でも、高田馬場駅については明治末期という時代でなければ、別名が採用された可能性が高いだろう。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年5月11日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回は、日本鉄道の支線(品川線)の開業当初の駅(赤羽、板橋、新宿、渋谷)とその直後に開業した目白・目黒両駅まで見てきた。その後、品川線は1901年(明治34年)に開業前の豊島線と合併し、山手線と改称する。豊島線は現在の池袋駅~田端駅間に相当するが、開業までに紆余曲折があり、品川線との接続が目白駅から変更になった点が大きなもの。ということで、19世紀までは品川線として7駅(品川駅を含む)のまま大きな異動はなく、20世紀最初の年に山手線と改称されたことが大きな異動というわけである。

 

(この写真は、記事転載時に追加したものです。)

 

さらに同年、目白・目黒の開業以来の新駅、大崎と恵比寿が開業する。大崎は旅客も扱ったが、恵比寿は当初貨物専用、いや恵比寿麦酒専用駅と言っていい扱いだった。大崎駅は、官営鉄道との接続短絡線の結節点としての役割も与えられており、当該場所に設置されたものである。1901年に起こったことを整理すると、

  1. 大崎・恵比寿(貨物専用)駅開業。
  2. 大崎~大井連絡所間(貨物専用)開通。
  3. 品川線と豊島線(未開業)を合併し、山手線と改称。

と、山手線の歴史の中でも異動の多かったことが確認できる。

 

その翌年(1902年)には、旧豊島線として計画されていた旧品川線との接続先として池袋信号所が設置され、またさらにその翌年(1903年)になってついに旧豊島線、田端駅~池袋信号所間が複線で開業。このタイミングで池袋信号所は、池袋駅に昇格する。途中駅は、巣鴨・大塚が同時開業。なお、それまでの山手線(赤羽~品川間)は単線であって、田端~池袋間が山手線にとっての最初の複線区間である。

 

続く、1904年(明治37年)には複線区間を新宿まで延ばし、田端~新宿間が複線となり、翌1905年には渋谷まで、さらに1906年には大崎までの複線化を実現する。しかし、同年11月1日に日本鉄道は国有化され、日本鉄道としての歴史に終止符が打たれる。この2日前、日本鉄道としての最後の開業駅として原宿駅が誕生し、同時に恵比寿駅も旅客営業を開始した。

 

以上、日本鉄道が国有化されるまでの流れを簡単に確認したが、ここで目白・目黒開業以降に開業した駅について整理しよう。

 

1901年

 恵比寿(貨物専用)、大崎。

1903年

 巣鴨、大塚、池袋。

1906年

 原宿、恵比寿(旅客取扱)。

 

これらの駅が開業した当時の町村名を確認してみよう。

  • 巣鴨(東京府北豊島郡巣鴨町大字巣鴨二丁目)
  • 大塚(東京府北豊島郡巣鴨村大字巣鴨字宮仲)
  • 池袋(東京府北豊島郡巣鴨村大字池袋字蟹ヶ窪)
  • 原宿(東京府豊多摩郡代々幡村大字代々木字外輪)
  • 恵比寿(東京府豊多摩郡渋谷村大字下渋谷字広尾向)
  • 大崎(東京府荏原郡大崎村大字居木橋字辻田)

まず、注意点として巣鴨駅の所在地である巣鴨町と大塚駅及び池袋駅の所在地である巣鴨村は、名前は同じ(町と村の違いのみ)ではあるが出自は大きく異なる。もともと江戸初期ではどちらも巣鴨村であったが、元文二年(1737年)に町屋起立許可され、巣鴨村から分離して巣鴨町となる。以降、昭和7年(1932年)に東京市に合併されて豊島区が起立されるまでの間、紆余曲折はあったが巣鴨村と巣鴨町は完全に別物として存在した。ちなみに巣鴨村が町制施行の際は、同じ巣鴨町となるのを避けるために西巣鴨町と名乗った。なので、巣鴨駅の名称が採用された地が巣鴨町であったのは当然と言える。

 

では、大塚駅はというと、隣接する東京市小石川区にあった大塚を拝借したもので、いわゆる隣接地名の採用と言える。今では大塚駅を含めた周辺も大塚を名乗る町名となっているが、本来の大塚は現在の文京区側にあるというわけである。

 

そして池袋駅。これは順当に当該地名が採用された。明治22年(1889年)までは池袋村であったので、歴史的にも順当と言える。裏を返せば、他に有力なものがなかったとなるわけで、豊島線の計画変更によって大きく運命が変わった地域だとなるだろう。

 

そして原宿駅。実は、代々幡村と千駄ヶ谷村(さらに渋谷村)との境界に位置し、隣接する千駄ヶ谷村大字原宿からの隣接地名採用である。代々木は、原宿駅が開業する1か月ほど前に、先に甲武鉄道による代々木駅が開業していたので選択肢から外れた。

 

そして恵比寿駅。先にもふれたとおり、恵比寿麦酒の需要に応えるために開業したので、地名など一切考慮に入れない会社名を採用。現在は町名にまで昇格しているが、これも先行して渋谷駅が存在していたからとも言える。

 

そして大崎駅。大崎村内には既に目黒駅が存在していたが、ここでようやく村名を駅名として採用した。だが、本来の大崎の地(大字上大崎及び下大崎)ではなく、もと居木橋村だった場所に設置されている。

 

といったところで、今回は国有化される前までを眺めてみた。その3は国有化して電化されたあたりまで進めてみようかと考えつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年5月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「目黒駅って目黒区にないんだってね。これってヘンじゃない?」という話をよく聞くが、善かれ悪しかれ地名原理主義とも言うべきものが蔓延していると強く感ずる。目黒区と目黒駅に関しては、目黒区という名称が起立したのは、1932年(昭和7年)に東京市にこの一帯が編入された折、目黒町と碑衾町が合併した際であり、一方の目黒駅(停車場)は1885年(明治18年)に日本鉄道株式会社が目白駅と同日開業した際である。つまり、この間に47年の歳月が流れており、目黒区よりも目黒駅の方がはるかに古いと言うわけだ。

 

(この写真は、初代目黒駅付近を撮影したものです。転載時追加。)

 

だが、目黒区は1932年成立には違いないが、合併以前の目黒町、さらに町制施行前の目黒村、さらには市制町村制施行前の上目黒村、中目黒村、下目黒村、もっと以前には上中下とわかれていない目黒村まで遡ることが可能であり、目黒という地名は江戸期以前からの由緒あるものだという意見もあるだろう。まったくそのとおりである。とはいえ、目黒駅が目黒区にない、という話についてのみ言えば、これが本末転倒であることは明らかである。そして今日的には「目黒駅は品川区にある」となるが、1932年以前では大崎町、そして大崎村、さらに目黒駅成立時には市制町村制以前であり、上大崎村であった。この点のみから言えば、「東京府荏原郡上大崎村に目黒駅(停車場)が開設された」というのが適切となる。

 

しかし、駅名は必ずしも地名から採用されているわけではない。日本鉄道株式会社が赤羽~品川間を開通させたのが1885年(明治18年)3月1日で、この時、新設された駅は分岐点の赤羽、そして板橋、新宿、渋谷、官営鉄道との接続駅となる品川の5駅。これに遅れること二週間あまりの同年3月16日、目黒と目白の2駅が開業した。注目は、目黒と目白がセットで開業した点である。その後、赤羽~品川間は、1901年(明治34年)の大崎、恵比寿の開業まで駅の新設はなかったので、当初はこの7駅体制であったとなるのである。この7駅を列挙すると、

  • 赤羽
  • 板橋
  • 目白
  • 新宿
  • 渋谷
  • 目黒
  • 品川

で、品川は既に官営鉄道によって開業していたので、最初の6駅が日本鉄道によって命名されたわけである。それでは、1885年(明治18年)開業時の所属郡村名はどうだったのか、確認してみよう。

  • 赤羽(東京府北豊島郡赤羽村)
  • 板橋(東京府北豊島郡瀧野川村)
  • 目白(東京府北豊島郡高田村)
  • 新宿(東京府南豊島郡角筈村)
  • 渋谷(東京府南豊島郡中渋谷村)
  • 目黒(東京府荏原郡上大崎村)

村名をそのまま採用したのは赤羽が唯一で、渋谷は準ずる扱い。板橋、新宿、目白、目黒は所属村名どころか小字レベルのものすら採用していない。板橋については、中山道の宿場町として著名な「板橋」から拝借しているが、駅そのものの所在地は瀧野川村に所属していた。ただし、下板橋村(宿)の境界線にほど近く、明治22年(1889年)の市制町村制施行時の町村合併において、鉄道から西側が瀧野川村から分離され板橋町に合併されたことで板橋町に所属。ここではじめて名実共に板橋となった。もし、ここで境界変更が行われなかったなら、その後の異動で板橋駅は北区に所属することとなり「板橋駅は板橋区にない」などとくだらない話の一つに追加されたことだろう(苦笑)。

 

新宿については、甲州街道の新宿(内藤新宿)に由来はするが、最寄りという以上の意味を有しない。目白と目黒についてはどちらも不動尊の最寄りとなる。貨物としての機能を期待された当時の駅としては、どちらも旅客扱いのみというのも不動尊参拝客目的だということで、地名と言うよりはランドマークを駅名に採用したとなるだろう。つまり、駅名は必ずしも地名を採用するわけではなくランドマーク的なもの、もっといえば営業的訴求力の高い名前が採用されると言うわけである。

 

もっとも目黒については、目黒不動尊の位置するところが中目黒村でもあり、地名から採ったと言えなくもない。だが、目黒と目白が同日に旅客専用駅として開業した事実から、同様のネーミングルーツを持つとした方が適当であるだろう。

 

こうしてみていくと、異質なものが赤羽だとなる。赤羽村に隣接する岩淵は岩槻街道筋の有力な宿場であり、駅の所在地である赤羽よりもはるかに著名であったにもかかわらず、岩淵が採用されずに赤羽となった。赤羽は品川までの分岐線を建設するにあたり、本線からみれば新たに設置された中間駅であったので、この位置から分岐することとなった有力な理由の一つが赤羽という駅名を採用する根拠であったと見る。そうでなければ、同日に開業した板橋、新宿、渋谷を採用したのと同様に、赤羽ではなく岩淵が採用されたことだろう。わざわざ赤羽を採用するだけの積極的な理由があった、というわけである。

 

以上、山手線のルーツとなる赤羽~品川間のうち、開通当初の駅と同月内に開業した駅の命名由来について眺めてみた。このことからわかるのは、駅の所属する村名(地名)から採用されるのは例外であって、ランドマーク的なものが採用される傾向が高いという事実である。これは営業戦略から考えれば自明のことであって、衆人に馴染みのある名前であればあるほど価値が高いからである。よって、駅名が当該地名でないという議論はナンセンスであって、むしろ駅名が地名化しているのが実体(実態)である。また、駅名の由来を開設当時よりもさらに古い解釈(江戸期以前)で語る例も少なくないが、その名前そのものの由来であればまだしも、駅名の由来として講釈をたれるのも同様にナンセンスである。一番重要なことは、なぜその名前が採用されたかであるからだ。

 

といったところで、今回はここまで。次回(以降)は、JR山手線の他の駅名について、を予定している。

しばらく過去記事の転載が続いたので、このあたりで戯れ言などを。

いや、前から思っていることですが、最近、特に感ずるようになってきたのが「余裕がなくなると碌な考えが出てこない」ことです。もっと言うなら、真っ当な考えに至らないとも言えますか。

 

 

そもそも余裕がない状況とは。

金銭面、身体面、精神面、時間面(言い方ヘンですが)などなど色々あって、それが複合することもあります。例えば、事故で重傷を負ってしまった場合、身体面においては間違いなく健常時と比べて余裕などありはしません。余裕どころか、状況によっては思うようにすらならない、簡単なことすらできないこともあるでしょう。

 

これまでの人生経験や考え方に左右されるものですが、そこで身体のことばかり考えていてもどうにもなりません。まさに下手な考え休みに似たり、いや休むどころか却ってマイナスでしかありません。いいことでないものを考え続ければ、よほどのことがない限り、いい方に考えが及ぶことなどほぼないので、気分転換ではないですが、それとは別のことを考えて負の面を見ないようにするしかないと思うのですね。

 

見えないものは存在しない(観測できないものは存在しない)、という考え方はいわゆるコペンハーゲン解釈ともいわれますが、どうにもならない、扱いが困難、無限に発散するみたいな化け物を飼い慣らすには、放棄の原理ともいうべき、こういう考え方を容れてもいいと思います。そんなことを思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2022年1月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、普段調べ物をしている時、さらっと流してしまうようなネタを一本の記事として、まとめて取り上げようという趣旨です。疑義そのものはかれこれ20年程前からのものですが、改めて蒲蒲線(新空港線)ネタで調べている時、やはりこれおかしいと気付いたからです。元情報は国土交通省が提供する国土数値情報のうち、行政区域データに含まれる東京(大正9年)とある情報で、これを数値地図情報として表示できるソフトウェアを利用して表示させると、東京府荏原郡池上村(池上町)の行政区域が誤っているというものです。

 

 

上図は境界線のみ行政区域データ(大正9年)に、OpenStreetMapを被せ、村名を追記したものです。都道府県単位ベースの区市町村行政区域ベクトルデータであることから、細かい部分では省略されたり端折られてしまうのは致し方ないとしても、明らかに違う箇所があるのは問題だというわけです。

 

具体的にどこが問題かというと、池上村と調布村の境界線及び池上村と蒲田村の境界線で、どちらも池上村が関係しています。では、ここで大正6年のいわゆる逓信省地図で池上村を確認します。

 

 

池上村は範囲がそれなりに広いので、一部抜粋という形で掲載します。最初は、池上村と調布村の境界を示す部分を示すと、左上に「調布村」と表記がある右側に「字浅草」とある辺りから、「大字鵜ノ木」と見える右側の「字高谷」、「字南薹」(字南台)とある辺りまでの境界線が、比較するとわかるように数値地図データでは池上村部分が調布村部分となってしまっているのです。

 

実はこの食い違いは、数値地図データのみならず、明治期からの日本帝國陸地測量部が作成した地図からそうなっているのです。

 

 

明治期には、このあたりの1万分の1地図は存在しないため、明治42(1909)年の2万分の1地図で当該部分を示しました。赤色の線が地図に明記された境界線で、数値地図データにもこの境界線が採用されています。一方、逓信省地図における境界線で異なる部分を緑色の線で示しました。明らかに池上村のエリアに調布村が食い込んだ境界線となってしまっています。このあたりは逓信省地図から明らかなように小字ベースで見た境界線でもなく、日本帝國陸地測量部の地図が誤って境界線としたものを、数値地図データでも継承してしまったのではないかと推定できます。ちなみに、明治22(1889)年に池上村が成立して以降、調布村との境界変更は耕地整理以前には成されていません。以上のことから、数値地図データにおける池上村と調布村の境界線誤りは、明治時代の誤った地図情報をそのまま無批判に継承して発生したというわけです。

 

続いて、池上村と蒲田村の境界線誤りは、上記のような過去の地図情報の継承ではなく、なぜそうなったのか疑義があるものです。

 

 

数値地図データでは、池上本門寺の東側(地図では右側。現在の東京都大田区中央五丁目付近)まで蒲田村のエリアが広がっていますが、当然のことながら逓信省地図ではそうなっていません(もっともわかりやすい所で指摘すれば、東海道線の線路を逓信省地図では池上村が跨いでいるが、数値地図データでは池上村は跨ぐどころか引っかかってもいない)。しかもその後の歴史を見れば、池上村と蒲田村の境界はそのまま東京市大森区と東京市蒲田区の境界にほぼ一致しますので、明らかに蒲田村のエリアがここまで進出しているのは完全なる誤りです(上の逓信省地図の右3分の2が数値地図データでは蒲田村となってしまっている)。

 

どうしてこうなってしまったのかは不明です。当然のことながら、先ほどの調布村との境界線と同じく、池上村発足時から蒲田村との大きな境界変更はありません。数値地図データの誤りは、池上村のうち、大字市ノ倉(地図上の名。市野倉とも表記)、大字堤方、大字桐ヶ谷辺りが蒲田村とされてしまっていることです。このエリアを外せば(池上村に含めれば)、ほぼ正しい境界線となります。

 

デジタル化が進むのは良いのですが、それはすべて情報が正しいということに尽きます。誤った情報の再生産は、紙の時代の比ではありません。そんなことを思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年1月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

近々、目黒駅と日本鉄道品川線(現 JR山手線の部分及び赤羽線)の計画変更に関する記事を掲載予定でいるが、その資料(史料)調査の上でいくつか疑問点が出てきている。それが標題に示した問題で、定説に因れば

 

「目黒駅及び目白駅は、品川線開通時=明治18年3月1日に遅れること約2週間後の3月16日に開業した」

 

とされている。しかし、明治18年(1885年)3月4日発行の官報には、以下の記事が掲載されているのだ。

 

 

 

以上、確認できるように、鉄道新線開業ということで新橋~赤羽間の時刻表が掲載されている。ここには、

 

新橋 ~ 品川 ~ 目黒 ~ 渋谷 ~ 新宿 ~ 目白 ~ 板橋 ~ 赤羽

 

の上り列車3本、下り列車3本の発着時刻が記載され、3月1日より実施しているとあるのだ。つまり、目黒駅も目白駅も品川線開業当初の明治18年3月1日開業というわけである。

 

もちろん、あくまで日本鉄道から工部省への報告に過ぎず、実態は異なる可能性は否定できない。とはいえ、明治中期の官庁社会においてそのような虚偽的なものが通るのかどうかは何とも言えない。そして、目黒駅並びに目白駅の開業日とされる明治18年3月16日以降の官報には、新駅開業の報告はない。

 

それでは、日本鉄道からの報告のレスポンスや工部省の報告に遅延が生じていたかといえば、そういうことはなさそうである。例として、以下の記事をあげておく。

 

 

明治18年3月26日発行の官報には、日本鉄道が今風にいえばダイヤ改正を行った旨の記事が掲載されており、これは官報発行前日(3月25日)に実施したとする報告であることから、事実の翌日であることがわかる。このほかにも、いくつも日本鉄道の報告は官報に掲載されているが、概ね一週間以内(前後)に告知(掲載)されているのだ。

 

これはどういうことなのか。目黒駅及び目白駅の開業日が品川線の開業日よりも遅れた理由は明確にあって、それをお上に対して虚偽報告したとなるのだろうか。そんな疑問を呈しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年9月18日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、これまで当blogにおいて断片的に扱ってきた、JR山手線(現 赤羽線。京浜東北線を含む)の駅名の由来を一覧表でご紹介する。

 

 

ご覧のとおり、初期のものは多くが江戸期よりの宿場名が採用されていたことがわかる。そして時代が下るに連れて、その土地の名が採用されることが多くなるが、五反田駅のように小字レベルのものもある。

 

と、今回は図表に時間を要したので、簡単にここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2013年6月9日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、以前に当blogにおいて採り上げたことのある話題であるが、現在の東急東横線が武蔵電気鉄道時代の計画路線より変更されたことで、どのような影響を他に与えてきたのかを焦点にあれこれ語っていく。

 

武蔵電気鉄道線は、都市間高速鉄道を目指して計画が作られたこと。そして何より障害物が何もない(その土地を利用しているものから言わせればふざけるな、というところだが)ことから、このあたりは直線ルートで計画線が引かれていた。土地の起伏など、何のその(単に無計画とも言う)といった印象である。無論、この計画線は明治末期の基本計画策定時からほとんど変わっておらず、大正期に進められる田園都市株式会社による田園都市計画やその鉄道線(荏原電気鉄道→田園都市→目黒蒲田電鉄)とも無関係であった。むしろ、後発計画であった方が先行計画に配慮するという格好だったのである。

 

ところが、建設資金の目処が立たない武蔵電気鉄道とは異なり、田園都市株式会社は安価に取得していた多くの土地を田園都市住宅地として分譲することで、一定の利益を常に捻出できた。これが目黒蒲田電鉄の設立につながり、建設資金のすべてが賄えるものではなかったが、目黒駅~丸子駅(現 沼部駅)間を第一期工事とし、その翌年までには丸子駅~蒲田駅間を第二期工事として完工し、社名のごとく目黒蒲田間の予定路線を開通させた。

 

 

一方の武蔵電気鉄道は、計画路線(上図の赤い線で示した)そのものの素性はいいが、いかんせんそれを建設することもままならないため、宝の持ち腐れであり、期待された元鉄道官僚の五島慶太には背信行為を浴びせられていた(武蔵電気鉄道の支線であり、中間点からの分岐線という鉄道ネットワーク上重要な位置づけである調布村~蒲田駅間の計画線を目黒蒲田電鉄に無償譲渡させられた揚げ句、五島慶太自身も同社から目黒蒲田電鉄専務取締役に転身)。加えて、関東大震災という郊外鉄道にとっては事業発展のチャンスも活かすことができず、逆に田園都市株式会社は関東大震災によって破壊し尽くされた東京蔵前にあった東京高等工業学校(現 東京工業大学)に対し、移転先として大岡山分譲地を簿価をはるかに超える金額で売り渡した。これを大きな元手として武蔵電気鉄道の株を買収し、田園都市株式会社の支配下におさめた。そして、社名を東京横浜電鉄としたのである。まさに関東大震災という天災によって、時代は大きく動いたのだった。

 

武蔵電気鉄道を支配下に置かなければならなかった理由は、田園都市株式会社及び目黒蒲田電鉄にとって、その存在が邪魔だったからに他ならない。というのも、田園都市株式会社の計画、中でも多摩川台住宅地(調布田園都市→田園調布)と目黒蒲田電鉄線(目黒駅~蒲田駅間)が現実のものとなると、武蔵電気鉄道線は明らかに具合の悪いものとなってきたからである。大きな理由は二つあった。

  • 田園都市分譲地が分断され、かつ分譲地そのものも減少(新たな鉄道用地の確保)すること。
  • 調布駅(現 田園調布駅)~多摩川駅間、及び奥沢駅近辺の2箇所で立体交叉化を伴うため、建設工事費の高騰が避けられないこと。

そして、積極的な理由は五島慶太自身が鉄道官僚から武蔵電気鉄道に転身する際、将来性を見たそのものズバリの、東京~横浜間の短絡線(サブルート)という魅力である。我が国最初の鉄道が「東京(新橋)~横浜」だったのは伊達ではない。東京と横浜を結ぶ鉄道計画は、それこそ明治期より数多あったが具体性を持ったものは乏しかった。鉄道官僚として、各地の鉄道計画を総覧する立場にあった五島慶太が武蔵電気鉄道を選択した理由は実際のところ本人にしかわからないが、ここを選択した以上、将来性を見てというのは確かだろう。だからこそ、目黒蒲田電鉄を足がかりにして東京横浜電鉄線を積極的に進めるのもわかろうというものだ。

 

しかし、さすがに武蔵電気鉄道時代の計画線そのままでは先にあげた二つの理由の他にも、次のような問題点があった。

  • 多摩川と直交しないため、橋梁の強度に問題が発生すること。結果として工事費の増大につながること。
  • 奥沢駅周辺が無秩序に住宅地化が進み、用地買収に困難を来す可能性(コストの増)が高くなってきたこと。

他にもあるが、ここでは新丸子~学芸大学間のみを議論の対象としているので、以上の4点が計画線の見直し理由となり、これを再検討した結果が、現在の東横線のルートとなるのである。

 

まず、一番大きな問題である「田園都市分譲地の分断」への対応は、既存の目黒蒲田電鉄線と平行するように変更することで鉄道用地の負担を減らすと同時に、「2箇所で立体交叉」も解消させた。さらに目黒蒲田電鉄の多摩川駅を北側に移設(最初の駅は東急スイミングスクールたまがわの東側にあった)し、多摩川により直交させるように架橋して接続駅とした。この結果、計画線よりも西側に振られることになり、奥沢駅付近との接続をどう対応するかが焦点となった。

 

一つの方法は、奥沢駅付近まで並行し、計画線分岐点から計画線に戻していく方法。しかし、奥沢駅周辺の「無秩序に住宅地化が進み、用地買収に困難」を嫌ってか、あるいは線形を徐々に計画線に戻していくことを狙ってか、さもなくば荏原郡碑衾村の村長 栗山久次郎との密約(衾西部耕地整理組合地に駅を作ることを条件に鉄道用地を安価に譲渡する等)が成り立ったからか。様々な複合する要因から、現在の路線が選択され、衾西部耕地整理組合地に九品仏駅(現 自由が丘駅)が開業する。こうして、奥沢駅は東京横浜電鉄線との接続(可能)駅としての性格を失った。

 

東京横浜電鉄線が西側に振れることで、新たな問題が浮上してきた。それが二子玉川線(当初、二子線)計画との交叉問題である。計画線(下図の橙色の線)は奥沢駅から分岐し、玉川電気鉄道の玉川駅と接続するもので、荏原郡玉川村が計画していた村営鉄道を置き換えるものとして目黒蒲田電鉄が企図した。このため、計画線はすべて荏原郡玉川村内を通ることとなっていた。村内に開通していた玉川電気鉄道と目黒蒲田電鉄線をつなげる役割に加え、東西に長い形状を持つ村内を横断するさらに重要な位置づけを持っていた。

 

 

だが、東京横浜電鉄線が計画線よりも西側に振れたために、わずか150メートルほどの距離で立体交叉を行わなければならない困難に直面したのである。このあたりは両線とも地上をそのまま走っており、立体交叉への対応を図るのは計画が新しい二子玉川線の方であるため、高架あるいは地下化しなければならない。しかし、立体交叉箇所はこの一帯で最も海抜が高く、当時は地下化対応はコストがかかりすぎるために高架化が求められたが、地形上の問題から困難であった。

 

そこで、二子玉川線は接続駅を奥沢駅から九品仏駅(現 自由が丘駅)に変更した。東京横浜電鉄線九品仏駅は地形としては谷底にあたり、どちら側からも坂の上り下りがあった。このため、九品仏駅を高架駅とし上り下りをほぼなくすと同時に、二子玉川線を田園都市株式会社創業時からの計画線である大井線(現 大井町線の東側部分)と直通させる構想が持ち上がった。

 

 

大井線は、田園都市株式会社創業時よりの計画線だが、その計画はまさに紆余曲折であり、荏原電気鉄道から田園都市に引き継がれた時点では、大井町駅から南側に向かい、現在の品川区と大田区の境を縫うようにして大岡山駅付近に到り、そこから現在の東急目黒線にほぼ沿うような形となっていた。それが山手線とつなぐ方が営業的によいという判断から第二期線として目黒駅~大岡山駅(現在の位置より約100メートルほど北寄り)間が計画され、目黒蒲田電鉄誕生時には、「第二期線(目黒~大岡山)+第一期線の一部(大岡山~多摩川)+武蔵電気鉄道支線(多摩川~蒲田)」をあたかも一路線のように扱い、建設に邁進した。その結果、大井町~大岡山間は放置され、さらに洗足田園都市の発展から計画線用地の買収が困難とわかると、分岐駅を大岡山駅から洗足駅へと変更し、現在の西小山駅付近から大きく東側へ曲げて大井町駅に到るルートへ変更した(上図の赤い線)。つまり、この時点においては大井線と二子玉川線はまったくの別路線だったのである。

 

それが東京横浜電鉄の計画線変更とそれに伴う九品仏駅(現 自由が丘駅)の開設によって、玉突き的に計画変更がなされ、九品仏駅が高架化されることで二子玉川線との立体交叉が実現し、さらに大井線との接続可能性が出てきたのであった。大井線も平塚第一耕地整理組合、平塚第二耕地整理組合、そして大岡山駅付近の用地買収時に困難を極めた馬込村千束内での用地買収も千束耕地整理組合といった各組合の協力を得て、現在の大井町線ルートで確定し、残る大岡山駅~自由ヶ丘駅間の建設も奥沢地区との対立を経ながらも、1929年(昭和4年)までには完成したのだった。

 

以上、簡単に振り返ってみたが、驚異的なのは東横線の計画変更から大井町線の全通まで、わずか5年程度で行われたことである。資金豊富ということもあったろうが、その事業推進力には驚かされる。巷間言われる五島慶太の業績については懐疑的な見方をしている私であるが、この件に関していえば流石の一語に尽きる。そんなこんなで今回はここまで。

今週は失敗を繰り返すなど、仕事は多忙ではなかったが、別の意味では多忙だった。ある意味、バランスがとれていたと言えます。ですが、失敗は…いやもう振り返るのは予想。あれだけ反省したのだから(苦笑)。

 

で、今日は金曜日ですね。先週も愉しくいきたいなということで、美味しいものを食べたいとかぼざいていましたが、いつもと同じで今週も美味しいものを食べたいな、です。若い頃はそんなことを思いもしないというか、むしろ逆の発想でしたが、今では同じことを日々繰り返すことのできる幸せ、というのを切実に感じています。

 

 

そんなこんなで、今日のランチと夕食(ディナーとは言い難いので)どうしようかなと考えつつ、今回はここまで。

失敗を繰り返すのは、気持ちの問題も多くを占めると思いますが、これは当然に各人毎に異なります。つい、自分と同じ尺度で考えがちですが、人それぞれ生育背景があり、また先天的なものもあります。とはいえ、どういう背景があれど、それを反省し繰り返さないという属性を持っていないと、素晴らしい素養があったとしてもそれが機能することはありません。

 

結局のところ、知力や体力などを支える「気持ち」(心の持ちようやそのベースとなる倫理観)がなければ、宝の持ち腐れ、酷いものになるとそれを犯罪などに活かしてしまうことになります。

 

 

ただ、これって、若い頃には全く気付くことができないんですね。いや、気付いているにしても、わかっていないこともあるといっていいでしょうか。知識と経験のバランスが保たれて、初めてわかるものだと。

 

そうなると、若い頃の失敗というのはあって当たり前で、それを赦すというのは必須だとなります。ですが、それも程度問題です。やられた側が赦せばいいのですが、犯した失敗に対して、それに見合うだけの反省(代償)がなければ、なんだこの程度なのかとなり(特に若いうちは)、また繰り返してしまうことにつながることもあります。

 

とどのつまり、若いから赦されるものがあるにしても、あくまで程度問題であって、それをするとはどういうことになるのかなど、いい面ばかりでなく、悪い面も考えることが重要です。それは繰り返しになりますが、知識と少ないながらも経験が必要です。いかに教養を蓄積するだけの知識や経験が大事だということです。

 

とはいえ、これは若者だけの問題ではなく、全世代に言えることであって、私自身も失敗を繰り返してしまった時などは、慌ててしまってこういうプロセスを踏むどころではなかったので、反射的にそれを行うことができるくらいの蓄積が足りなかったということでしょう。そんな便利な転ばぬ先の杖を夢見ながら、今回はここまで。