【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年5月7日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回まで、数回にわたっておおくりしてきた碑文谷耕地整理組合に関しての話は終え、それに続くはまた同じような話題にしか見えない碑文谷第二耕地整理組合について、である。食傷気味とは思うが、作図に要する時間を得るには休日の方が都合がいいので、どうしても似た話題が続くのはご容赦願いたい。では早速、碑文谷第二耕地整理組合の施工範囲を示した図から見ていこう。

 

 

場所は、東京都目黒区で左下に見える幹線道路の交差点は柿の木坂陸橋で、目黒通りと環七通りの交叉する道路交通の要衝である。柿の木坂陸橋の上方を走る鉄道は東急東横線で、中央上寄りに見える駅は学芸大学駅、その左下には弁天池を中心とした碑文谷公園である。これらが含まれる地(橙色で囲んだ)が、今回取り上げる碑文谷第二耕地整理組合の施工地域となる。なお、参考までに右下の水色で囲んだエリアが、前回まで取り上げていた碑文谷耕地整理組合地である。

 

つまり大雑把に言うと、碑文谷第二耕地整理組合地は、現在の東急東横線学芸大学駅を中心とした東京都目黒区の西部にあたるエリアとなるが、当時の言い方にすると、東京府荏原郡碑衾町大字碑文谷北西部一帯となる。碑衾町を構成する2大字の一つ、碑文谷地域の碑文谷耕地整理組合に続く、2番目の耕地整理組合だと主張するネーミングということも確認できよう。ちなみに大字碑文谷で施工された耕地整理は、田園都市(洗足)、碑文谷、そしてこの碑文谷第二の3つで、東京市に合併されて以降になってようやく碑文谷地域中心が区画整理されるのは、耕地整理によってではなく土地区画整理によってであった。

 

では、耕地整理施工当時に近い1936年(昭和11年)撮影の航空写真でさらに確認しよう。

 

 

例によって航空写真の都合上、完全に真北を上とせず、やや傾いた上に南部が欠けてしまっている点はご容赦願いたい。碑文谷第二耕地整理組合地は、北(上)は荏原郡目黒町を境界とし、東南(右下)は北側の一部を除き旧目黒通り、西(左)は概ね北側が荏原郡駒沢町、南側を大字衾との境界としていた。

 

碑文谷第二耕地整理組合は、昭和6年(1931年)より事業開始しており、東京横浜電鉄線(現 東急東横線)の開通よりも後であるため、鉄道線路を考慮に入れた道路パターンとなっている(碑文谷公園のあたり)。また、駅周辺は市街地化が進んでいるのに対して、駅から離れた南側はまだ宅地化は進んでいないことも注目である。

 

といったところで、連休明けで時間がないため、今回はここまで。

碑文谷耕地整理組合地の話題は、前回で終了の予定としていたが、おまけにもう一つ。「碑文谷耕地整理組合(東京目黒区ほか)の範囲とその概要」で示した現代の航空(空中)写真に組合地を図示したものと、1936年(昭和11年)当時の航空写真とを比べて、改めて耕地整理の進んだエリアとそうでないエリアの比較を行ってみたい。

 

碑文谷耕地整理組合範囲図(青い部分。なお、赤は三谷耕地整理組合、緑は洗足田園都市)

 

碑文谷耕地整理組合範囲図(水色部分。なお、緑線は目黒蒲田電鉄線、橙線は目黒通り(旧)。1936年撮影)

 

航空写真の都合上、どうしても現在のものと同じようにならないのはご容赦願いたい。特に、南(下)側が欠けてしまう点は、写真原板及び真北を上に合わせるためにどうしても入らなくなってしまう。だが、碑文谷耕地整理組合地と旧目黒通りに挟まれた、碑文谷エリアの中心地がまったく都市化が進んでいないことを確認するには十分だ。

 

荏原郡碑衾村、明治22年(1889年)に碑文谷村と衾村が合併して誕生し、被合併村はそれぞれ大字として東京市に合併されるまでの間、存続した。このうち、大字碑文谷を構成した碑文谷村の中心は、碑小学校や碑文谷八幡等のあるあたりであった。現在の東急目黒線、東急東横線は碑文谷の中心地域から離れた辺境に開通したが、関東大震災後の人口郊外移転と耕地整理事業の進捗によって、10年も経たずに一気に市街地化が進行する。

 

また、東横線側でも耕地整理組合が結成され、この航空写真撮影当時には耕地(区画)整理も完成し、市街地化が進んでいた。つまり、かつては碑文谷村の辺境に過ぎなかった地域が、鉄道の開通によって市街地化が進み、村の中心だったはずの地域が完全に開発から取り残されてしまったのである。

 

この状況は、戦後になってもしばらく続き、区画整理事業が完成した昭和30年代以降になって、ようやく市街地化が進む。この頃には、既に車社会の到来がはっきり見えていたので、戦前に施工された耕地整理組合地よりも道路が広いことがメリットであり、結果として良好な住宅地を形成しているが、皮肉なことに開発から取り残されたのが原因であったのだ。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年5月3日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

碑文谷耕地整理組合地における地名(字名、町名)変遷の経緯も、一応今回が最終回(の予定)。今回は、これまでの新字名→新町名(目黒区成立時)とは逆の流れ、新字名→旧字名がどうだったかを示す。なお、言うまでもないが、耕地整理(区画整理)を実施すると、従来の道路や河川・水路などが大きく変更されることで、土地の区画や境界もそれに合わせて多くが変更となる。今回示すのは、耕地整理前の境界線ではなく耕地整理を行った後、区画し直された土地と暫定的に振られた地番に基づいたものとしている。よって、耕地整理前の境界とは異なっている点について了解いただきたい(要は、明治や大正前期の逓信省地図等とは違うということ)。

 

 

碑文谷耕地整理組合地に隣接する、碑衾町大字碑文谷に属する字名まで含めて記載した。なお、荏原町(現 品川区)との境界は、昭和4年(1929年)12月19日に確定した変更後のものとしている。耕地整理前は荏原町(平塚村)との境界線も、現在のように直線状ではなく曲がりくねったものだったが、耕地整理によって直線状に確定された。つまり、少なくともこの時期までには、上図のような字境界になっていたと見込まれる。

 

では、以前に示した昭和5年(1930年)に新設された字名及び境界と比較すると、いくつか消えた字名があることが確認

できる。以下に列挙すると、

  • 法界塚下
  • 金杉下
  • 十羅刹下
  • 下山
  • 中丸
  • 大門東
  • 寺前
  • 子ノ神下
  • 三合塚

たまたま洗足田園都市区域に「池ノ谷」が残ったことから、上に示さなかったが、碑文谷耕地整理組合地に限れば、この池ノ谷を含めて10の字名が消滅したことになる。その大半は立会川流域にあたっており、なるほどと思わせるが、法界塚とか、十羅刹とか、いかめしい名前が消えているところに別の意図も感ずる。

 

一方で「原」の拡大は注目点だ。「中丸」「下山」「池ノ谷」をほぼ丸呑みし、「大門東」などを加えて、原町一丁目~三丁目となった。「子ノ神下」が高木町一丁目、「三合塚」が高木町二丁目となったのと比較をすると、強い「原」推進者がいたことを窺わせる。

 

といったところで、今回も簡単にここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年4月30日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回の話題の続き(続くと明言していなかったが)。荏原郡碑衾町で新たな字名として昭和5年(1930年)に正式に起立したものが、そのわずか2年ほどあまりで消えたものがあるとしたが、それを図で示すこととしたい。早速、以下をご覧いただこう。

 

 

昭和7年(1932年)10月1日、東京市は周辺の5郡82町村を合併し、いわゆる大東京が誕生したが、この時、荏原郡碑衾町は隣接する同郡目黒町と合併し、東京市目黒区を構成する。この新たに成立した目黒区と周辺区の境界を赤い線、橙色の点線を碑文谷耕地整理組合施工地の範囲、黄色い線は目黒区内の町丁境界線を示す。前回示したものと大きな違いは、

  1. 目黒区内の耕地整理施工隣接地にあった字名(池ノ上町、門前町、八幡町、寺西町)が、耕地整理未実施地と組み合わされ、新たな町丁名が付与された。
  2. 向原町が旧門前町の一部を町域に加えた。
  3. 金杉町が隣接する東町に合併された。
  4. 高木町一丁目及び二丁目が、高木町及び富士見台に名称変更された。
  5. 原町一丁目及び三丁目が、原町に名称変更された。
  6. 原町二丁目が目黒区内の洗足田園都市地域と合併し、洗足に変更された。

となる(詳細は前回記事などを参照)。他にも細かい点に違いはあるが、今回は時間がないので一旦ここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年4月29日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

 

というわけで、いきなり「碑文谷耕地整理組合地」を示すが、範囲としては前回の図を参照していただきたい。上図の赤い線は碑衾町(昭和2年より町制施行)の境界線、橙色線は碑文谷耕地整理組合の施工範囲、黄色い線は昭和5年に公式となった新設字の境界線となる。碑衾町の境界は、現在の目黒区と品川区及び大田区との境界として大半が引き継がれているので、イメージしやすいだろう。

 

前回にも概要はふれたが、昭和7年に東京市に編入される際、新設字名はそのまま引き継がれたわけではなかった。完全に境界も含め引き継がれたのは月光町だけで、残る新設字は、境界変更がされたり、あるいは字名が変更されたりした。中でも、周辺に耕地(区画)整理が進んだ暁には、字(町)範囲が広がると想定されていた、池ノ上町、門前町、寺西町、八幡町はいずれも名称変更の憂き目に遭う。しかもそれらは旧字名を継承していたものでもあった。

 

また、高木町二丁目は住民投票の結果、富士見台となった。二丁目がなくなったことで、高木町一丁目は単に高木町となった。そして、原町二丁目は洗足田園都市のエリアと合わせて洗足を名乗り、二丁目の失われた原町一丁目と原町三丁目はあわせてこれも単に原町となった。さらに、金杉町は隣接する東町に吸収された。

 

つまり、たった2年ほどで消滅した地名(字名)は次のとおりとなる。

  • 池ノ上町
  • 金杉町
  • 門前町
  • 寺西町
  • 八幡町
  • 原町一丁目
  • 原町二丁目
  • 原町三丁目
  • 高木町一丁目
  • 高木町二丁目

もっとも、昭和7年に東京市に合併される郡部では碑衾町に限らず、このような事例は少なくない。耕地整理によって地番整理がされ、新興住民がなだれ込む、都市化の進展にあわせて田舎風の地名を変えたいという動きは様々なところで起こっている。いずれはこれらも取り上げていきたいとしつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2014年4月27日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、東京都目黒区と同品川区にまたがる地域で施工された碑文谷耕地整理組合の範囲を示しながら、このエリアの歴史などを簡単にふれていく。

 

碑文谷耕地整理組合範囲図(青い部分。なお、赤(右)は三谷耕地整理組合、緑(下)は洗足田園都市)

 

碑文谷耕地整理組合施工地は、現在の東急目黒線武蔵小山駅から西小山駅を経て、田園都市施工地(洗足住宅地)を東南境界、現在の大田区(当時は荏原郡馬込村)を南側境界、現在の品川区(当時は荏原郡平塚村)を北側境界とし、残る境界は荏原郡碑衾村大字碑文谷の半分ほど辺りで犬牙錯綜した格好となっている。施工エリアは、碑衾村大字碑文谷、平塚村大字小山、平塚村大字中延飛地にまたがっており、大字碑文谷以外はすべて現在の東急目黒線(当時は目黒蒲田電鉄線)を境界とした大字碑文谷に接するエリアである。つまり、行政区画よりも鉄道(敷地)という、物理的に明確な境界で施工された点が注目される。

 

つまり、鉄道を耕地整理施工範囲の境界としたということは、鉄道計画よりもあとに計画されたことは明白であり、また先行する田園都市(洗足住宅地)との境界を区切りとしていることからも、同計画よりも後、はっきり言えば田園都市計画に触発されてのものとなる。

 

このあたりは、以前に取り上げた三谷耕地整理組合と同様の設立経過であり、組合自体もまったく同年となる1923年(大正12年)である。ただし、三谷耕地整理組合地よりも2倍以上広いエリアを持つこと、加えて組合地も西側が犬牙錯綜していることからもわかるように、碑文谷耕地整理組合への反対運動(反対というよりは組合に入る・入らないという話)などもあって、完全な換地処分はやや遅れたが、ほとんどは昭和になった頃には耕地(区画)整理工事は完成していた。これがちょうど、関東大震災による爆発的な郊外移転の受け皿となり、飛躍的な人口爆発となる。

 

碑文谷耕地整理組合は、耕地整理によって地番整理を行っただけでなく、字名を新たに付することとした。一般的には、新たに作られた道路に合わせて字境界変更を行うところが多かったが、碑文谷耕地整理組合は新たな字名を付けるという手法をとった。以下に列挙すると、

  • 東町
  • 金杉町
  • 月光町
  • 向原町
  • 池ノ上町
  • 門前町
  • 原町一丁目
  • 原町二丁目
  • 原町三丁目
  • 寺西町
  • 八幡町
  • 高木町一丁目
  • 高木町二丁目
  • 弁天町(平塚町大字小山)
  • 瀧原下(平塚町大字中延→大字小山)

のように、瀧原下を除けばほぼすべて字名というよりは、市の町丁名に聞こえるネーミングを採用した。これら新字(町)名は、旧字名(東原→東町、金杉原→金杉町など)を踏襲する形であったが、十羅刹下、法界塚下、中丸、大門東、三合塚といった範囲の狭いものや、当時でも馴染みのないものは消えていった。(高木町は高木神社に由来するが、字名としてはそれまで存在しなかった。結果、三合塚が消滅することになった。)

 

これらは、碑衾町の大字碑文谷の新字名として、1930年(昭和5年)11月18日に正式決定するが、碑衾町に属さない弁天町は平塚町から正式字名として認められず、幻の字名となったものの、商店街名としては「弁天通り」として現在まで生き残っている。

 

2014年5月23日追記:東京府広報を再確認したところ、昭和5年(1930年)12月23日に碑文谷耕地整理組合地に属する荏原町の一部が「弁天町」として起立していたことを確認しました。同日には大字中延飛地である字大下等も「瀧原下」として起立しています。よって、正式字名となったと訂正します。

 

なお、1932年(昭和7年)10月1日には、碑衾町は東京市に合併されて目黒区の一部となるが、ここで新たな町名が付されることとなり、わずか2年足らずで消滅した字(町)名は次のとおりである。

  • 門前町 → 碑文谷一丁目の一部
  • 寺西町 → 碑文谷一丁目の一部
  • 池ノ上町 → 清水町の一部
  • 原町一丁目 → 原町の一部
  • 原町二丁目 → 洗足の一部
  • 原町三丁目 → 原町の一部
  • 高木町一丁目 → 高木町
  • 高木町二丁目 → 富士見台

門前町、寺西町、池ノ上町は、いずれも旧字名に「町」と付したもので、碑文谷耕地整理組合地の外にそれぞれ字名が残っていた。原町一丁目と原町三丁目は合併して原町となり、原町だけが洗足田園都市の一部である目黒区に所属する部分と合わせ洗足を名乗った。こうして、田園都市とは無縁の地域に「洗足」と名乗ることが始まり、今でも大半は洗足一丁目として続いている。洗足と名乗っていても一丁目と二丁目の出自は異なり、言葉は悪いが一丁目は偽物なのだ。無論、一部の二丁目も田園都市ではないが、一丁目ほど広いエリアでないので止むを得ないところだろう。

 

そして、せっかく高木神社に因んで命名した高木町一丁目と二丁目は、一丁目(高木神社の属する方)はそのまま高木町として名を継承したが、二丁目の方は高木町の名を捨て、旧小字名ともまったく無関係の富士見台となった。この命名は東京市合併騒動の中、住民投票によって決められたもので、地元の人よりも移住してきた人たちの力が強かったことを物語る。しかし、この富士見台も住居表示制度の施行によって、お隣の宮ヶ丘とどちらの名を取るかという不毛な争いによって、結局富士見台も宮ヶ丘も消えて単に南となった。

 

と、字(町)名の話が長くなってしまったが、碑文谷耕地整理組合の話に戻ると、このエリアで大きな事業といえば立会川の整備だろう。曲がりくねっていた立会川上流を直線化した意義は大きい。また、目黒蒲田電鉄の進出によってではあるが、いち早く耕地整理事業を完成させたことも意義深いものがある。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2015年6月7日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

2009年(平成21年)7月31日に閉店となって、その後、建物がそのまま残されていたが、ついに取り壊しが始まった。場所は、東京都目黒区洗足二丁目19番、洗足駅前の一等地(しかも角地)で、かつてここには「洗心堂」という文房具店兼書店があり、戦後まもなく建設され、昭和20年代から地元に長く愛された店舗である。

 

 

ここのかつての店主は、洗足の歴史にも明るく、地元の歴史愛好家が寄稿する「郷土目黒」にも執筆したり、広告をうつなどしていたが、代替わりによって見られなくなり、店舗の方もリフレッシュされることなく、いつ閉店してもおかしくないような状況がしばらく続き、2009年に営業を終了した。店舗兼住宅だった2階からも閉店後すぐに引っ越されたようで、しばらく無人店舗状態だった。駅前の好立地にありながら、このような状況が6年近く続き、ようやく取り壊しとなったのである。

 

 

取り壊しのための仮囲いの中に、建物の外側はまだ残っているが、これも近いうちに撤去され、更地の姿を見せるだろう。この地が更地をさらすのは戦後まもなく以来であり、戦後の洗足田園都市を象徴する存在が消えたことになる。

 

今後、どういうものができるのかだが、洗足駅前に相応しい瀟洒で落ち着いた町並みにあうものを期待しつつ、今回はここまで。

 

2015年6月28日追記

工事の囲いが取れて更地が姿を現しました。更地になると「こんなに狭かったかな?」と思うことが多いが、本件もそのように感じた。

 

 

といったところで、簡単に追記終了。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2015年10月12日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、東京都大田区南端に位置する「六郷」地域を採り上げる。「六郷」とは、「郷」を村落的な意味合いに捉え、6つの村落の集合体的な意味合い(無論、6という数え方の縁起にも由来するだろう)で、多摩川下流の屈曲部を指す地域名称として古くから伝わるものである。江戸期には「六郷橋」やそれに代わる「六郷の渡し」という呼称から、全国にとどろく東海道の宿場名に連なるほどの有名な地域名だったことがわかる。さらに江戸期には「六郷領」という領名にも採用されていた。

 

「六郷」の6つの村落については、八幡塚、古川、雑色、高畑、町屋、そして出村(八幡塚より分離)が数えられ、村という単位では6つでなく5つであり、このことからも「五郷」でなく「六郷」という6に対する拘りも窺えるが、「りくごう」でなく「ろくごう」という読み方なので、この解釈は微妙かもしれない。(道塚村を含めて六郷というのが通説だが、明治期以降の関係性は限りなく薄い。)

 

明治に入り、江戸から東京へ、武蔵国から東京府へ、さらには大区小区制等、行政区域等の変遷は多かったが、末端の村々までは大きな変革はほとんどなく、六郷地域の5つの村はほぼそのまま江戸期から引き継がれてきたが、明治22年の町村制施行によって、大きな変革を迎えた。六郷地域の5つの村々が合併し、新たに六郷村として成立したのである。それまでの村々は六郷村の大字として以下のように位置付けられた。

 

六郷村 = 八幡塚村 + 古川村 + 雑色村 + 高畑村 + 町屋村

  • 八幡塚村 → 六郷村大字八幡塚
  • 古川村  → 六郷村大字古川
  • 雑色村  → 六郷村大字雑色
  • 高畑村  → 六郷村大字高畑
  • 町屋村  → 六郷村大字町屋

なお、各村々の字はそのまま大字の小字として継承されている。よって、部分的に飛地の解消はされたものの、大半は大字内での飛地が散在する形で残った(町村制における新村は、基本的に飛地を認めていなかったが、新村内の大字の飛地は黙認していた)。江戸期のように、土地の売買などまったく認められていなかった時代ならともかく、そうでなければ飛地の散在は不便きわまりない。そこに都市化の波が訪れ、耕地整理(土地区画整理のことだが、耕地整理法によって行われることが多かった)が行われると地番整理だけでなく、大字・小字の境界整理も同時に行われるようになる。

 

明治後期の東京府荏原郡六郷村のエリア(明治45年に神奈川県と境界変更される以前)

 

六郷村の場合、明治初期から鉄道が通ったが、線路が敷かれるだけで村内に停車場(駅)はなかった。川向こうの川崎とはるか数キロ先の大森だけで純農村地帯として大きな変化はなかった。明治後期になって東海道上に京浜電気鉄道(現京急電鉄)が敷設されると、徐々に状況が変わり始め、世界大戦による好景気、関東大震災による郊外移転の加速、さらには大工場の進出などで都市化が急速に進展し、この気運に乗って六郷村のほぼ全域で耕地整理が施行される。

 

耕地整理は、村内の大動脈である東海道と京浜線(東海道本線)、そして主要既存道路の骨格をそのまま活かしつつ、東西・南北に道路を新設し、碁盤のように街区を構成した。よって、六郷村の大字境界とは大半が馴染むものではないので、街区や道路等で新たに再構成するが、ここで六郷村は一つの決断をする。それは町村制から市制への移行である。

 

当時、東京府内では、東京市(15区)外の都市化が進み、例えば豊多摩郡渋谷町の場合、町の人口は新潟県の県庁所在地である新潟市に匹敵するほどになっており、町制から市制への移行を模索していた。しかし、渋谷町は東京市に隣接していたため、東京市への合併という目があったこともあって様子見だった。だが、行政区画は市と同等の構成(町村制における大字を市制における町丁と再定義)を採っていて、独自の上水道等、都市基盤を運営するほどになっていた。六郷村の場合は、ここまでではないが、東京市と離れている(現在のJR品川駅あたりまでが東京市)こともあって独立して六郷村から町、さらには六郷市まで視野に入れていたのである。

 

一方、関東大震災による郊外移転の機運は、東京府の都市計画にも大きな影響を与え、従来の市域をはるかに超えるいわゆる「大東京」というべき、都市計画区域を生み出していた(当初計画は関東大震災目前にできていたが、震災後大きく見直されている)。事実上、この都市計画区域がそのまま現在の東京23区となるが、これによって「都市計画区域=大東京」、つまりは大東京市に向けてのプレリュードとなる。折しも、東京市は当時、日本一の人口を誇る市ではなくなっていた。それは、大阪市が周辺町村を合併し、いわゆる「大大阪市」を実現し、面積そして人口も東京市を大きく上回ることとなっていたのである。首都である東京が大阪の後塵を拝する訳にはいかないとして、「大大阪」を超える「大東京」が目標に据えられた。これは名実共に一等国となっていた日本の首都が、他一等国のニューヨーク、ロンドン、パリなどと比較対象とされていたことも大きい。

 

六郷市か大東京の一部となるかはともかく、六郷村は市と同等の行政区画を目指した。そして渋谷町と同様に小字を廃して大字のみとし、事実上、大字を市の町丁と同様に扱うようにした。これにより、大字区域の見直しと地番整理が行われ、新たに六郷町(昭和3年に村制から町制に移行)は以下のように再構成された。

  • 東京府荏原郡六郷町大字八幡塚
  • 東京府荏原郡六郷町大字古川
  • 東京府荏原郡六郷町大字雑色
  • 東京府荏原郡六郷町大字高畑
  • 東京府荏原郡六郷町大字町屋
  • 東京府荏原郡六郷町大字出村
  • 東京都荏原郡六郷町大字小向(明治45年神奈川県より。河川敷の一部)

ここで大字八幡塚の一部であった「出村」が単独大字として起立した点に注目である。六郷と言いつつ、実際は5村(大字)であったものが、初めて6大字となり(小向は例外)、名実共に六郷(6郷)となったのである。新興住民はこの住所を以下のように通用した。

  • 東京府六郷町八幡塚○○番地
  • 東京府六郷町古川○○番地
  • 東京府六郷町雑色○○番地
  • 東京府六郷町高畑○○番地
  • 東京府六郷町町屋○○番地
  • 東京府六郷町出村○○番地

田舎くさい郡名や大字呼称を外した。これは住所を省略するという意味合いもあったが、それ以上に新興住民は「田舎くさい」ものを排除した。これは六郷町だけではなく、都市化が進む東京府下ではどこでも当たり前のように見られるものであった。この行政区域並びに名称変更等を行って3年後、ついに六郷町は東京市に合併となり、東京市蒲田区の一部となった。この際、行政区域はそのまま踏襲されるが、一部で名称の見直しが行われた。

  • 東京府荏原郡六郷町大字八幡塚 → 東京府東京市蒲田区六郷
  • 東京府荏原郡六郷町大字古川  → 東京府東京市蒲田区古川町
  • 東京府荏原郡六郷町大字雑色  → 東京府東京市蒲田区雑色町
  • 東京府荏原郡六郷町大字高畑  → 東京府東京市蒲田区高畑町(大字小向を含む)
  • 東京府荏原郡六郷町大字町屋  → 東京府東京市蒲田区町屋町
  • 東京府荏原郡六郷町大字出村  → 東京府東京市蒲田区出雲

原則として大字区域はそのまま踏襲されるが、六郷地域で最も影響力のある「八幡塚」が「六郷」の名を継承することで「八幡塚」は消滅。八幡塚の一部であった「出村」(でむら)も、「出雲」(いずも)と改称され「出雲町」となった。無論、「出雲」なる地名は六郷地域にこれまでまったく存在せず、出雲神社などに由来するものもない。いわゆる美称地名として採用されたわけだが、「出村」の「出」だけ残したところにまったく新規で珍奇なものではないとする主張は読み取ることができる。

 

だが、ここで大きな問題が起こる。それは、八幡塚だけが「六郷」を継承し、古川ほかにとっては六郷を継承できない、事実上の消滅である。江戸期あるいはそれ以前から連綿と地域の名称として継承され続けてきた「六郷」が東京市合併と共に消えただけでなく、かつては同レベルの村に過ぎなかった「蒲田」を区名として冠することは、八幡塚及び出村以外の地域アイデンティティを呼び覚ますには十分に過ぎた。ここで、旧六郷町エリアは行政区域の再編がまたもや為される(なお、東京市蒲田区においては、旧蒲田町でも同様の問題が起こっている)。

 

従来の区域とは無関係に、新たに主要道路や鉄道などを境界として町名・地番整理。新たに東六郷、南六郷、西六郷、仲六郷としたのである。これは、東京市側の町名・地番整理方針にもかなったものであり、ここに古川などにとっての「六郷」は復活をはたした。一方で、古川町、雑色町、高畑町、町屋町、せっかく作ったばかりの出雲町は完全に消滅した。そして、戦後になって住居表示制度に合わせて、新たな行政区画と境界変更や町丁名変更などがなされるが、東六郷、南六郷、西六郷、仲六郷はそのまま継承されている。

 

以上、「六郷」という地名がどのように都市化の過程で扱われてきたかを簡単に見てきた。こういった流れは、多分に新興住民の意向も当然あったことだろう。現在、雑色は京急電鉄駅名など、高畑や出雲は小学校名などに残されているが、町屋や古川は跨線橋や神社などであり、ほとんど知る人はいなくなっている。

 

都市化の過程においては美称もあるが、それ以上に他地域から通用しうる名称が採用される傾向にあり、「六郷」がそれに合ったと結論付けられる。といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2015年11月4日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回、時刻表 大正14年(1925年)4月号の玉川電気鉄道を見たが、今回は時期は10年ほど下るが、昭和10年前後の玉川電気鉄道路線図を見てみよう。

 

 

この4~5年後に、玉川電気鉄道は東京横浜電鉄に合併されてしまうことから、玉川電気鉄道にとっては最末期の自社発行路線図となるが、発行当時は当然、合併されるなどと思っていなかった。路線は随時拡張し、電気事業(当時は統制されていなかった)も順調、渋谷駅には玉電ビルを建設予定と業績に陰りはなかったからだ。

 

しかし、この路線図をよくよく見ると、あって当然と思われるものが記載されていないことに気付く。省線である山手線はもちろんだが、開業直後の帝都電鉄、そして京王電車、小田急、南武電車(まだ私鉄だった)が見えるのに、渋谷から発着する東京横浜電鉄線や玉川で乗り換える目黒蒲田電鉄大井町線が載っていないのだ。無論、渋谷駅直結の東横百貨店もない。そう、五島慶太率いる目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄グループに関係するものが見当たらないのである。

 

このことは、既に玉川電気鉄道が目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄グループを敵視していたものと考えられるが、先にもふれたようにまさか4~5年後に合併されるとまでは思っていなかっただろう。そんなことを路線図から見つつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2015年11月3日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回、前々回に引き続き、今回も時刻表(1925年4月号)をネタに玉川電気鉄道をとりあげる。玉川電気鉄道は、関東最古の私鉄である京浜電気鉄道には及ばないが、それでも明治期に開業した由緒ある路線で、昭和に入って東京横浜電気鉄道に吸収合併され、今日の東急電鉄の一部となっている。もっとも「玉川」線としての名称は玉川線廃止後に新設なった「新玉川」線に継承されたものの、今では田園都市線となっている。路線としては、世田谷線として残ったところが玉川電気鉄道の残滓となるだろうか。

 

 

さて、時刻表を見よう。大正十四年一月十八日改正となっている。駅はすべて掲載されていないばかりか、半分以上が未掲載となっている。ということは、ここに掲載されている天現寺橋、恵比寿駅前、渋谷、三軒茶屋、駒沢、新町、遊園地前、玉川、きぬた、世田谷は主要駅だと言い換えることができるだろう。そして、興味深いのは運転系統で、

  • 天現寺橋~玉川 (27駅)
  • 天現寺橋~世田谷 (21駅)
  • 渋谷~新町 (14駅)
  • 渋谷~三軒茶屋 (8駅)
  • 玉川~きぬた (5駅)

以上、5系統が確認でき、現在の世田谷線にあたるところは、世田谷駅までの部分開業だったことがわかる。また、渋谷駅は主要駅であるものの、扱いは途中駅でしかなく、天現寺橋駅が起点であることもわかる。それにしても、路面電車とは言え、自動車が普及する以前としてみても結構時間がかかることが窺える。天現寺橋~玉川に55分を要すると言うことは、今に喩えると目黒~渋谷~二子玉川に相当するので、高速電車と路面電車であることを差し引いても倍以上かかっていたのだ。(もっとも駅数が27駅──しかも天現寺橋~渋谷で10駅あったので、停車・乗降時間を考えればやむを得ないか。)

 

といったところで、今回はここまで。