宣伝を頑張るのも、
クラウドファンディングするのも、
豪華な特典を用意するのも、
名前に小ネタを仕込むのも
別にいいんだけど。
肝心の中身が細かく丁寧に作られていないとただただ滑稽になってしまう。
具体的に言うと、まずラストに至る構成が効果的に見えない。
終盤に入るまで女学生や男性陣の一対一のシーンが続きその中でそれぞれの関係性がはっきりしていくのだけど、
物語の終わり方がある種投げっぱなしというか、突然抽象的な終わり方をしてしまう。
全員死んだの?みたいな。
それまで同じような構図をとって、我慢強く並行的に関係を見せていたのに、そこに至るまでに個々のドラマが語りきられていないまま強引に物語がひとまとめに回収されてしまうと、じゃあ今までひたすら見せられてきたものはなんだったのかという気持ちになる。
え、あの人とかあの人の話これで終わり?っていう。
一応、ラストに向けて何人かは破滅に向かって行く様相は呈していた気もするが、かなり悲惨な状態になっている人達もいればそうでもない人もいたりして、それぞれの状況がバラバラでものすごく中途半端。そんな段階で、すべてをあのラストで一元的にまとめるには収束感やグルーブが全く足りず、ぶつ切り感が強く、違和感と不条理さだけが残った。これじゃ女子校の登場人物がただ多いだけでその数が何の意味もなしていない、むしろその数を持て余してるように感じた。
次に脚本であるが、この物語の基本構造は
「合宿に集まった女子校の演劇部員(とその他2名)が、一人の不在をきっかけに、小さな嘘や歪んだ恋心、劣等感などが暴走して狂気的な状況に陥っていく」
だと思う。少なくともあのラストにたどり着くには、逆算していくとそうなる。
ただ、その狂気に陥っていく過程にかなり無理があるように見えた。
なんというか、人物が状況によって必然的にそうなっていった、というにはそこまでの理由が見えなくて、台本がそうなっているからそうなった、または最初から病気の人達が集まってたから必然的にそうなった、に見えた。
まあこちらが勝手に
・(普通の)女子校の演劇部員
という前提で見てしまっていたので、最初から
・(サイコパスや発達障害や境界性人格障害の)女子校の演劇部員
という話だったならそれはそれでいいと思うけど。いいのか。
またシーン一つ一つに関しては、細かいところに目の届いていない雑さがかなり気になった。
倉庫を模したセットはかなり簡素で、劇場そのままの壁に平台や箱馬、灯体などが(舞台装置として)並べられているのみである。照明もかなり明るめで蛍光灯色に近く、なぜか客席の方まで明るかった。
つまり舞台全体がプレーンであり、雰囲気みたいなものはほぼ無い。これは場の手助け無しに、純粋に俳優と演出のみで勝負することを意味している。気分はラーメンズだ。
まず一対一の俳優同士のやり取りに、「作品全体のための統制」という意味での効果的な演出がなされていないように感じた。
個々のやり取り自体はそれぞれ個性的で面白いのだが、間やセリフ、動作全てに少しの冗長さがあり、それ自体は味付けとして悪いことではないが、あくまでもそれが見えた上で統制しているのか、それを同じような構図で繰り返すことがどのような効果を生むのかが意識されていないように感じた。
少しの無駄は繰り返されることで大きな雑味になっていった。比較的のんびりした序盤、緊迫していく中盤、狂気的な終盤と空気が変わっていくに連れて、それらの緩かったものがどんどん削ぎ落とされてシャープになっていくのなら良い効果になっていたと思うのだが、そうではなく、むしろ緩さや雑味が残ったまま無理やり緊迫や狂気を出そうとしているように見えて、意識して統制されたものではないのだろうと感じた。
あと気になったのは階段へのハケ。
片方のハケ口は下りの階段なので(しかもたぶんけっこう急な)、
そこにハケていく人はけっこうもたつく。焦ってハケていかなきゃいけない人ももたつくし、2人でハケるときはさらにもたつく。
それ自体はしょうがないと思うのだが、気を使って降りていくのが見えてしまっていたし、降り始めたところで演技が切れてしまっているように見える人もいた。そういうところに細部への演出の意識の無さを感じた。
舞台に残っている俳優が、もたついてる人をどういう扱いにするのか、というところについても工夫無く。だいたい次のシーンは前の人がハケた前提で進むのだが、役者が階段を降りきるのを待って気配が無くなってから進めるならかなり待たなければならないし、少し早めに、俳優が階段付近に行ったら進めるだと人の気配がなかなか消えないし。
これは基本的に一対一のシーンの連続で、更に言うと「前のシーンが終わったら少し落ち着いて次が始まる」の繰り返しである構造上の弊害でもあると思う。
階段にハケるシーンの度に、なんとも言えない締まりのない時間が流れていた。
また舞台となっている場の必然性があまり無いのか、総じて人物の出ハケに都合感が強い。
人物が、そこにきた理由を言いながら出てくるというのは、脚本の不出来を自分から告白しているみたいでかなりダサいと個人的には思うのだが、そのへんこだわりないようで何度も繰り返されていた。
例えば見に行く劇団の名前が「20歳の国」だったなら、
あんまり細かいことどうこうも気にならないと思う。それは20歳の国が雑っていう意味じゃなくて、そういうのじゃないって色がはっきりしているという意味で。
ただこの団体は「日本のラジオ」で、これは自分の感覚だけど、いかにも濃密で緻密な舞台を作っていそうな名前だったのでいろいろ気になってしまった。