@無題
ほぼ一年ぶりのエントリーになってしまったわけなんだけど,もっとコンスタントにエントリーしたいという個人的希望はたしかにあると。なんだけど,正直な話,なに事につけても最近の世の中の動きが目まぐるし過ぎて,わたし自身の情報処理能力のキャパを超えてしまっていて,適切に解釈なり分析なりできないような現実に直面していて,わたし自身エントリーを億劫に思ったり,或いはなにか特別にやらなきゃいけない,優先順位第一位の切迫したプライオリティーがあるわけでもないんだけど,気力が充実してなくて今まで放置しつづけていたというのが,正直な言い訳ということにもなる。それで今回,こうして力を振り絞ってエントリーしてみようと思ったりのは,余りにも不可解過ぎる世の中の現実にわたしなりの反駁を試みるとともに,西暦二〇一七年という年をわたし自身はもとより,人類全体が破滅─と言ってしまうとかなりオーバーなんだけど─の危機からむしろ『災い転じて福と成す』ことができるような,なにか前向きな提案ができないものかと思っての更新であることを,先ず以って告白しておきたいと思う。
最初に「森友学園問題」なる疑獄事件について触れてみようと思うのだけれど,なにしろこの騒動をめぐっては,有象無象の登場人物が入れ代わり立ち代わり登場してきては去っていく中で,登場人物たちはこの問題の事件性を否定する言説を展開し,問題の「本質」が一体なんなのかさえ闇から闇に葬り去られそうな,まことに以って溜飲の下がることのない状況が継続している。この森友問題を一つ一つ秩序立てて,一体どんな疑惑が存在してるのかを具〈つぶさ〉に眺めてみると,国有地払い下げをめぐり,土地の価格がタダ同然にまで下げられてしまったことの不可解さ。学校法人としての森友学園の公金不正受給問題。さらには法令を遵守しようとする規範意識が,元理事長夫妻の双方がそもそも希薄であること等々,枚挙に遑〈いとま〉がない中で,これらの問題行動を誤解を恐れずに一言で述べるとすれば,「詐欺行為」に匹敵する人倫に悖〈もと〉る行為をなんの憚りもなしに,やすやすとできてしまう籠池一家のモラルの欠如という,この一点に集約されることになるのだと思う。籠池氏が国会の証人喚問で,いわば自らが刑事訴追されるかもしれないリスクを背負いながらも,暴露に近い陳述を次々に行った事実は,見方によっては『ひょっとしたら、籠池さんこそがほんとのことを述べてるのでは?』というような,籠池氏に対して同情的?な感覚を抱いた人も少なくないんだろうとは思うも,実はそれこそが「詐欺師」の常套的手法なのであって,人心を惑わす詐欺師特有の鮮やかな手口を,わたしたちはテレビごしにまざまざと見せつけられたということになるのではないだろうか?仮にあの証人喚問によって,籠池氏に対する同情心みたいなものを煽られた人がいるのだとしたら,それってのは極めて短絡的かつ軽率で,大変に危険なことだと警鐘を鳴らす必要があるのだと考えられる。
その一方で,この森友問題と内閣総理大臣たる安倍晋三とその夫人である安倍昭江の責任はホントに皆無なのか?という疑惑も依然として残されている。タダ同然に森友学園に国有地を取得させるべく,安倍晋三が某かの便宜供与を自身が行ったり,部下に指示したりした事実が現実にあるのだとしたら,この問題はまさに疑獄事件の域に突入することにはなるのだろうが,所謂「忖度」レベルの話でもって,木っ端役人があれこれ画策していたというだけの話なのだとしたら,恐らく安倍晋三夫妻の責任を追求し咎めることには無理があるのだと考えられる。すなわち,安倍晋三夫妻がこの森友問題に具体的にどのような役割を果たしたのか?が明らかになり,それが客観的証拠から立証されない限りは,結局この問題も闇から闇に葬り去られる運命にあるという既定路線を辿るに違いない。だれもお咎めを受けることなく,一件落着になる公算が極めて大きいという話だ。日本は法治国家であって,刑事裁判の建前は「疑わしきは罰せず」という絶対命題があるわけで,それは「法の下の平等」の名の下に全ての国民に等しく当てはまり,首相のような権力者も例外にはならない。ただし国民感情のレベルでは,それでは納得がいかない。権力者だからこそ,誤解を招くような行為は慎んでほしいし,疑惑があるのだとするならば,自らが積極的に潔白を示す努力をしてほしいというのが国民的心情ではあるわけなんだけど,この点については伝統的に臭いものには蓋とばかりに,まともに説明を果たされた例はないし,加えて『人の噂も七十五日』という日本人固有の精神構造もあって,真相が解明されることなく有耶無耶にされるケースはものすごく多い。権力者ほど謙虚でなければならない理由の一つが,この辺りからも垣間見えてくる気がするわけだ。
ところで,国会議員みたいな政治家を選挙でもって選ぶのは国民なわけだから,政治家として不適格と思しき政治家に対しては,次回の選挙において投票しなければ済むような,たったそれだけのことであるように思われるんだけど,どうもそんなに単純な話にはならないらしい。安倍晋三以下の自民党国会議員が,説明責任は果たさないは,不適切な言動・行動は多いは,共謀罪に関わる法案を通そうとはしているはというように,諸々問題を抱えていて,一票を投じたくなるような高潔な政治家とはとても言いがたいのは間違いないんだけど,だからといって仮に民進党政権が誕生したときに,トランプやプーチンみたいな一癖も二癖もある人物と渡り合えるような人材がいるのか?と見回してみると,残念なことに民進党内にそんな気の利いた逸材は見当たらないし,国民の中にはかつての民主党政権のトラウマが依然としてあって,今般民進党政権を歓迎するようなムードには全くなっていない。それどころか,トランプやプーチンみたいな癖の強い連中から,日本にとっての核心的利益を引き出せるのは安倍晋三しかいないのでは?みたいな根拠があるのかないのかさえ不確かな風説が,今の世の中には広く流布しているとさえ言えよう。すなわち,国会議員みたいな政治家を選ぶにあたっては,国内事情のみならず国際情勢までを見渡して一票を投じないことには,我々は枕を高くして寝られないという現実が横たわっているのだ。トランプやプーチンのみならず,ヨーロッパ全体に目を転じるならば,フランスやベルギーなど,比較的多くの国々で極右勢力が台頭し,日本国家の近代化黎明期において,それこそ民主国家のお手本として,数多くの制度やシステムを提供してきたはずの国家群が今や,二百年前のあの当時とはまるで対極的な政体を志向し始めているという現実は,たとえばフランス革命以來連綿と継承されてきた,一つの民主国家像の終焉を宣言し始めているということに他ならないのだろうと。こうした流動的な動向の中で,我々の日本社会の行き着く先が,果たして前衛なのか頽廃なのか,正直わたしには予測不能なのだけれど,これこそが全世界を巻き込んだ価値の体系の大転換─パラダイムの刷新─みたいな現実が,物凄い勢いで差し迫っているということに他ならない。
とかく日本の政治家は,国内事情にのみ目を奪われ,国内での足場固めに汲汲としてるわけなんだけど,広く国際情勢に目を向けることができるような政治家はまずいない。これでは日本が世界の流れに取り残されるのは半ば自明の理なわけでもあり,翻ってみるならば,それこそ明治期の伊藤博文のような国内情勢と国際社会の動向を同時並行的に見渡すことのできる時代感覚の鋭い,卓越した複眼的視覚を持ち合わせた政治家が,時代の要請から再び必要とされるようになってきてるのではないだろうか?
@アイドルとは何か?
早いもので,2016年も梅雨の季節に突入しようとしている。毎年そうなんだけど,1年がスタートする1月頃というのは,今くらいのことまで考える余裕がないというべきか,今年の夏がどんな感じになるのかなんて気にならないのがむしろ普通なのであって,ようやく夏が気になりだすのは、5月の連休が過ぎてからのことにもなるのかもしれない。その間にも,当然のことながら世の中は目まぐるしく動いていて、今年は2020年の東京オリンピック競技場建設案の撤回,エンブレムの撤回となにやら訃報めいたニュースが続き,2020年の開催を4年後に控えて,かなりのケチがついた格好になってしまったことは否めない。そこにもってきて,2020年東京大会を主催する東京都の責任者ともいうべき都知事舛添要一の常軌を逸しているといっても過言ではないような醜聞が,『週刊文春』誌上で次々に暴露される始末で,公用車の使い方問題に始まり,饅頭の大人買い,果ては愛人問題まで引っ張り出されそうな様相なのだと専らの噂だ。ここまで來てしまうと,さすがに2020年のオリンピックで盛り上がれるような状況ではない。オリンピック歓迎ムードも,相当なダメージを受けたに違いない。ここでは,これ以上のことを語ろうとは思わないけれど,オリンピックや舛添要一を巡っては,この先まだ一波乱二波乱ありそうなのは,ほぼ確定的だ。
最近一番ショッキングだったのは,アイドルだった現役女子大生が,ファンからストカーみたいなものに変容してしまったかにみえる男によって刺されるという事件だった。滅多刺しされた彼女は,首の静脈を切られて損傷し,体内にあるはずの血液の2倍に相当する量の血液を輸血したのだという。未だに彼女の意識は回復しておらず,生死の境を彷徨う大変に陰惨な事件が起きてしまった。アイドルをターゲットにしたこのような事件は,今に始まったものではなくて昔からあった。ただ,その犯行の動機というのは,昔は著名人を傷つけることで自分が目立ちたかったというのがほとんどだった。ところが今回の場合は,アイドル個人に対する怨恨という,ちょっと異質な理由からの犯行だった。この「怨恨」というのは,まさに『可愛さ余って憎さ百倍』的に増幅されたもので,それが滅多刺しという尋常ならざる結果からも読み取ることができる。これは報道などでも言われているように,SNSなどを介することで,アイドルとファンの心理的距離が以前より相当近くなった結果の一つの顕れであるのは間違いない。それは,SNSというもの自体が存在していなければ,恐らくこの事件は起きなかっただろうから、そのことからして逆説的に報道の主張は正しいのだといえよう。だが,問題の本質はそこではない。いくらSNSみたいなものが発達しようとも,正常な人─どこまでを正常と定義するかは議論の余地があるのかもしれないが─がそれを活用する分には,「現実」と「非現実」の区別はつくのだと考えられ,普通アイドルなんてのは疑似恋愛の対象にすらならない─最近ではスマホなどにアプリケーションをインストールして,アイドルたちとの疑似恋愛ゲームを楽しむ人もいるのだけれど─のだと思われる。それをどこで血迷い,倒錯したのかはわからないけれど,どっぷり感情移入し,そもそも始まってもいない恋愛で振られたと勘違いする。この種の人は「メディアリテラシー」になんらか欠陥があるには違いないのだけれど,それ以上に実生活において容易に情に絡んで問題を起こし易い連中なのだと考えられ,今回のような事件が現実に起きてしまうのは半ば防ぎようがないのだ。むしろ実生活においてまともな人間関係を構築できないが故に,ネットに依存した結果がもたらした悲劇と捉えることもできよう。この話の冒頭で,「変容してしまったかに見える…」と表現したのは,そうした背景を踏まえてのことではあるのだけれど,だからといって,これらの人種を社会から隔離したり強制的に入院や通院させることは民主的な社会では許されないから,どうしてもこのような事案が不可避的に発生してしまうのだ。
話はいきなり変わるのだけれど,つい最近乃木坂46の2ndアルバム『それぞれの椅子』がリリースされた。その中に収められている『きっかけ』という楽曲は,昨年末のNHK紅白歌合戦で彼女らが披露した楽曲『君の名は希望』を手掛けた杉山勝彦が作曲を担当していて,曲想─リズムはビートの効いたかなりのアップテンポなので,厳密には「メロディー」と書いた方がいいのかもしれない─が『君の名は希望』とオーバーラップしてくる瞬間がある。とりわけ2番のサビメロが終わった直後からの数小節だけを聞くと,『君の名は希望』を聴いている錯覚に襲われさえする。非常にいい楽曲だと思うので,どのメンバーがどのパートを歌唱しているかを聞き分けながら鑑賞してみるのもいいのでは?と思って,ここに紹介してみた。それで,この『きっかけ』の歌唱メンバーのひとりでもある衛藤美彩に関してネットがざわつく出來事があったのだという。衛藤は最近になって日の目をみるようになった乃木坂46の1期生メンバーで,高い歌唱力を持っているだけあって,プロフィールでは将來的に歌手志望ということになっている。そんな衛藤に,京都で今月開催された握手会会場で,罵詈雑言を浴びせる一団が突如出現し,余りの居た堪れなさから彼女が涙するような一幕があったというのだ。この件について衛藤を推してるファンは怒り心頭で,色んな言葉で衛藤を慰め,擁護している。一般に握手会というのは,そのアイドルに対する賛美の言葉や肯定的な内容を伝えるための場でもあるから,よもや自分が否定され,況〈ま〉してや罵詈雑言を浴びせられようとは想像だにしてない,それこそ著しく想定外のことなので,心の準備が間に合わずに泣き出してしまうようなこともないとはいえない。「それってアイドルの在り方としてどうなの?」みたいな厳しいことを言うつもりはないのだけれど,アイドルというのは崇拝〈リスペクト〉の対象となる《偶像》なのだから,強い意志と覚悟をもってアイドルとしての業を遂行することも,実は大切なことなのだろうとわたしには思われたりもする。たしかに,将來的に●●を目指しているという意味では,アイドルという状態は一時的な、苟且〈かりそめ〉のものと捉えることもできるんだけど、握手会や様々なイベントに参加してくれるファンにしてみれば,いま現在のアイドルとしての姿が彼女たちの全てなわけだから,その瞬間においてはアイドル以外の在り方なんてのは存在しないはずで,「たとえアイドルを辞めてもアイドル」くらいのつもりでその場に臨む必要があるのだろうと。これはどういうことかというと,これまでにも「活動辞退」という美辞麗句の下に解雇・馘〈クビ〉にされたアイドルたちってのがたくさんいたのだけれど,アイドルを辞めて,再びアイドルとして復活した人が果たしてどれほどいただろうか?アイドルグループを解雇されて,歌手として出直しを果たした人や女優として出直しを果たした人ってのは結構いるんだけど,極端な話が●●48を解雇されて◆◆48から復活を果たした人はいないと。このことが物語っているのは,要するにアイドルに籍を置くのは一瞬のことで,歌手や女優になれれば別に問題ない的な『アイドル腰掛け』思想とでも言うべき考え方の蔓延ではないだろうか?アイドルで躓〈つまず〉いたら,またアイドルで復活するという気概なんて微塵もないということ。もっとも,わたしはいま精神論─または観念論─的に高邁なストーリーを語っているのであり,現実が相当厳しいことはわかっている。なにしろ理由があって解雇されるのだから,その内容によっては芸能界に留まることさえ難しくなりもするだろう。
松村沙友理もまた乃木坂46の1期生で,これまでリリースされたシングル14枚の表題曲全ての歌唱に参加している数少ないメンバーのひとりだ。松村の明るいキャラクターは,松村推しのファンにとっての福音であり,メンバーにも多大な癒しを与えている。そんな松村を文春砲が狙い撃ちしたのは2014年10月のことだった。松村は当時22才だったが,彼女と妻子もち男性とのキス写真が掲載されてしまったのだ。この件で運営サイドの処分というのはとくになかったのだけれど,そうした運営の姿勢に納得できなかったファンの,松村本人に対するバッシングは相当なものだった。握手会では松村に直接罵詈雑言が浴びせられもした。恐らくこの修羅場というのは衛藤の比ではなかったはずで,松村自身も,それこそ「活動辞退」という言葉が何度も脳裏を過〈よぎ〉ったに違いない。だが、彼女はその場に踏み留まった。アイドル道を全うする選択を彼女は選んだのだった。この一連の騒動を巡っては,今以ってネット上で燻〈くすぶ〉っているほどで,当時としてはベッキーの案件以上のインパクトがあったのだと思う。松村のやらかしてしまったことは,非難を免れない行動だったかもしれない。しかしアイドルとして最後までアイドルにしがみつこうとしたその姿勢は,先ほど來わたしが述べているアイドルとしての精神論に見事に符合する在り方だったといえる。辞めることだけが責任のとり方ではないはずで,却ってそこに居座ることは自らが「針の筵」状態に置かれることを覚悟しなきゃいけない,逃げ場のない強いストレスがかかる選択ともいえる。それに,そうした苛酷な選択をした結果が必ず報われるという保証もないわけだから,アイドルにしてみれば「飼い殺し」状態になるリスクをも孕〈はら〉んだ究極的選択ともいえるのだと思う。松村の場合,ラッキーなことに飼い殺しの憂き目を見ることはなかったわけだけれど,アイドル界で類似の事案が発生するその度に,過去の黒歴史が引き合いに出され,フラッシュバックさせられるという意味では,彼女にとっての針の筵はまだまだつづいているといえるのかもしれない。
さて,松田聖子はかつて間違いなく偉大なアイドルだった。だが50を過ぎて今も芸能活動をつづけている彼女という存在は,果たしてアイドルと言えるのだろうか?アイドルの定義に年齢というのは含まれてはいないから,本人がアイドルを名乗れば50過ぎのアイドルも成立するのだと考えられる。けれども,そもそも松田聖子はアイドルから脱皮することを目指して歌を歌いつづけてきたはずで,その彼女を今さらアイドルと呼ぶことには違和感があるし,仮に彼女自身が自らを『50のアイドル』みたいに僭称するようなことがあるのだとしたら,子ども返りした大人のようで或る種の“不気味さ”すら感じもする。前田敦子や大島優子でさえ既にアイドルの範疇には入ってないような気がするわけだ。AKB48というアイドルグループを卒業した瞬間にアイドルとは認識されなくなり,だからといって一人前の女優として認知されるわけでもないという,或る種アイデンティティー・クライシスにも似た時期が訪れるということなのかもしれない。これはそもそも〈アイドルグループ⇒卒業⇒●●〉みたいな一連の流れを本人も,またわたしたちファンも想定してるが故に発生する問題なのであり,仮に「終身アイドル」みたいな考え方が浸透していれば避けられる性質のものなのだ。もっといえば,「アイドルはいずれ卒業するもの」という考え方をしなくなることが,「活動辞退」みたいな最も安直な策を弄しなくなる,それこそ「きっかけ」になるのではないだろうか?
@新学期に思うのは
今は新年度・新学期ということだから,生活環境が変わったことに伴って,自分の身近に容姿端麗で頭はいいし,おまけにピアノの腕前もスゴいという,まるで前回登場してもらった乃木坂46の生田絵梨花を地でいくような人物が現れたとしたら,大抵の人はなにがしか興味をもつだろうし,それが異性でもあればなんらかアクションを起こしたくなるのが人情というものだ。ところがその後,その彼(女)の性格が人類史上最低・最悪の部類に属することが明らかになったとして,それでも尚も食らいつこうとするのだとしたら,それは,もはや個人の好みの問題なのだと言わざるを得ない。人として相手のなにを重視するかは,それこそ千差万別なようにも思うんだけど,いくら経済力があっても,頭脳明晰でも,ルックスがよくてもハート〈性格〉が最悪ならドン引きされそうなものだ。それにもかかわらず食らいつくのだとすれば,それは俗に言う『蓼〈たで〉食う虫も... 』の世界の話ということなのだと思う。それはそれとして,その一方で性格がとってもいいのに,色恋沙汰がうまいこと行かない人をしばしば目撃する。これは一体どういうことなのだろうか?
たとえば,「お見合い婚活パーティー」のような短時間で結果が求められてる場では,その人のハートみたいな,それこそ「核心的な」部分をアピールしてる暇なんてのはなくて,むしろ「枝葉の」部分を鮮烈にアピールすることが大切になるのだと考えられる。こういうときに強力な武器になり得るのが経済力であったり,ルックスであったり,或いはピアノスキルであったりと,兎に角「具象化」し易いその人の属性ということだ。すなわち,たしかに性格や人間性が肝心要なのは間違いなくて,一般にそこの部分が劣る人が「人間的に劣ってる人」のレッテルを貼られることにはなるんだけど,なにがしかチョウチンアンコウの「提灯」のように可視化可能なものがないことには,まず相手に興味すらもってもらえなくて話にならないのだ。そんなわけで,取り敢えずは自分に興味を惹きつける,わかり易い「属性」がどうしても必須になってくるという,それこそ極めてわかり易い話だ。思い出されるのは,わたしの大学時代の或る友人が一人の女の子を好きになったと。クラスメイトではあったけれど,お互いに共通の趣味があるわけでもなく,どうアプローチしていいのかもわからなかった彼は,彼女の愛読書ともいうべき『non・no』や『CanCam』みたいな雑誌を読み漁って,共通の話題をつくろうとしたものだった。恐らく藁にも縋〈すが〉る思いでそんなことをしたに違いない。斯〈か〉くして彼は,彼女との恋物語のスタートラインに立つことは叶わず,物語が始まることはなかった。たぶん彼は彼なりに一生懸命だったに違いないんだけど,彼に限らず俄〈にわか〉仕込みのこういうやり方は,凡〈おお〉にしてこのような顛末を見ることが多い。というのも,そもそも自分が今まで全くタッチしたことがない領域を,いっぺん雑誌を読んで浚〈さら〉ったくらいでは,その知識が本人の血となり肉となっているわけではないから,1回目のデートかなんかを段取ることができたとして,なんの安心材料にもならない気がするわけだ。なにしろ問題とされているのは,いかに話を弾ませて,自分に興味をもってもらえるか?ということなのだから,1回目に興味をもってもらえないとしたら,2回目はないという「覚悟」こそが,むしろここでは求められてるのかもしれない。最悪しどろもどろな会話に終わったとしても,次回また会ってみたいと思ってもらえたとしたら最初のミッションはクリアーということにはなるんだけど,果たして会話が弾まないのに2回目があるなんてことが実際にあるのか?という素朴な疑問が湧いてきもする。確かに第一印象におけるトークのクオリティーが占める割合というのはかなりのものがあって,トークが盛り上がらないのに2回目があるってことは通常は考えられない。かなりのレアケースとして,話術の実力は扨〈さ〉て措き,見目麗しく神々しいオーラさえ放つくらいのイケメンならそれもありなんだろうとは思われる。ただなんべんも言うように,普通は─たとえば結婚詐欺師の類いが,与し易しとみた鴨をみつけて誘いをかけてきたのかもしれないと怪しむように─自分はひょっとすると騙されているのでは?と考えなきゃいけないくらいあり得ないことなのだ。やはり全く自分が興味・関心のない分野について,俄仕込みの流儀で手当てしてみたところで,相手の気になってること─たとえば,ファッション─のディープなところどころか,恐らく“いろは”さえちんぷんかんぷんなのだと思う。その結果,相手が一番反応してほしいと思ってる部分に“適切に”反応してあげられなくて,噛み合わないからダメ出しを食らうのが関の山という話だ。わたしの友人も,そもそも女性誌を読むような少女趣味とは全く無縁の男だったから,女性誌を購入することに始まる一連の行為は苦痛にすら感じたに違いない。
とはいえ,彼にみられるようなその行為が全くの徒労に終わったのかといえば,必ずしもそうではないように感じられる。なにもなければ女性誌なんか一生涯手に取ることはなかったであろう男が,手に取るだけにとどまらず実際に読んだりするというのは,いわば「革命的な」ことだと言っていい。この体験が彼の次なるステップに生かされるのだとしたら,むしろ彼の人生にとっては願ってもない千載一遇のチャンスを与えられたと言っていいような格好になったのだと思われる。なんでもそうだと思うんだけど,なにか新しい「知識」を吸収しようとするとき,初めはものすごい違和感・抵抗感がある。これらの中には,新しい知見の理解が遅々として進まない焦りみたいなものも当然含まれてはいるんだとは思うも,知識を自らの血肉とし自由に操れるくらい我が物とするのは,一朝一夕にしてなるものではなくて,一般の学習同様に反復・繰り返しが必要な手間暇の掛かるものなので,これを惜しんでいてはなにも吸収することはできない。4月から新しく大学1年生や高校1年生になった人たちには新しい学問の歩みの,社会人1年生には社会人としてのスキル習得の歩みの第一歩が始まるわけなんだけど,そういう人生における節目みたいなものとは関係なしに,趣味や娯楽としてなにか新しいことを始めるってことはあるわけで,たとえばこの4月から趣味に釣を始めたと。釣の初心者としては,釣り堀みたいな場所で,簡単な浮きをつけた竹竿みたいなものでも十分に堪能できるのだと思われる。それがやがて,いわば餌付けされてるみたいな魚を釣るだけでは飽き足らずに川や海,渓流へと足を運ぶことにもなり,そのときの装備というのは,もはや釣り堀のそれとは比べものにならないくらいカネを掛けたものになっているに違いない。このようにして,たとえば川釣りを極めようとするとき,実際に川に出てみないことには学ぶことができない「所作」みたいなものが必ずあるはずで,釣り堀でいくら川釣りのイメージトレーニングをしてみたところで,その所作を体得することはできないのだ。これが,ルアーと呼ばれる疑似餌を用いて行う渓流釣りの場合だと,そのルアーをあたかも生きてる虫のように操って魚を釣るわけだから,尚更だれかから聞いただけでその所作が習得できるはずもなく,様々な文献を読んで研究し,実地に自分で所作についての試行錯誤を重ねることで,やっとこさ一つの高みに到達できる性質のものなのだと考えられる。
いまは釣りを一つの例として挙げたわけだけれど,これは釣りに限った話ではなしに,新しい知識やスキルを習得するということは,体で覚える─すなわち,体得する─べきことが多いのだ。レベルがまだそんなに高くないうちは,それこそマニュアルに従ってマニュアル通りにしてれば問題は解決する。これが釣り堀レベルの話である。しかしながらレベルが高くなり,それこそなにかの奥義を極めようとするような場合は,マニュアル通りにやってるだけでは,もはや得られるものは何もなくて,そこにあるのは試行錯誤を繰り返す,いわば己との孤独な闘いだ。そうした孤立無援的な厳しい環境のもとに自らを投げ出し,修練に修練を重ねることでようやく体得できるものが,マニュアルにもどこにも示されてはいない,真の意味で自らが体得したものにほかならず,それこそがそもそも奥義の奥義たる所以でもあるのだ。思い返してもみればわかる通り,足し算・引き算と掛け算・割り算の間には,越えなければいけないハードルがあったはずで,ものすごい桁数の足し算(または引き算)をどれほど易々と行えたとしても,足し算・引き算をなん万回繰り返したとしても掛け算ができるようにはならなくて,所謂「九九」を体得することで,初めて(煩雑な)掛け算もできるようになるのだ。九九程度のものに敢えて「体得」などと表現する必要もないかもしれないんだけど,この九九が覚えられなくて苦労した人も案外多いのではないだろうか?小学生が扱う内容ですらそうなのだから,それが中学生,高校生…ともなれば,必然的にハードルは増え,高くもなるということにならざるを得ないのだ。この4月から環境が一変した人はもとより,そうでない人にも,是非この九九の話を頭の片隅に留めてもらって,自分が対峙するそのハードルの余りの高さに自信を喪失し,絶望すら感じて挫けてしまいそうなときには,この話を思い出してもらって,試行錯誤と体得することの大切さに,もういっぺん目を向けてもらいたいと希望せずにはいられない。
