@アイドルとは何か?
早いもので,2016年も梅雨の季節に突入しようとしている。毎年そうなんだけど,1年がスタートする1月頃というのは,今くらいのことまで考える余裕がないというべきか,今年の夏がどんな感じになるのかなんて気にならないのがむしろ普通なのであって,ようやく夏が気になりだすのは、5月の連休が過ぎてからのことにもなるのかもしれない。その間にも,当然のことながら世の中は目まぐるしく動いていて、今年は2020年の東京オリンピック競技場建設案の撤回,エンブレムの撤回となにやら訃報めいたニュースが続き,2020年の開催を4年後に控えて,かなりのケチがついた格好になってしまったことは否めない。そこにもってきて,2020年東京大会を主催する東京都の責任者ともいうべき都知事舛添要一の常軌を逸しているといっても過言ではないような醜聞が,『週刊文春』誌上で次々に暴露される始末で,公用車の使い方問題に始まり,饅頭の大人買い,果ては愛人問題まで引っ張り出されそうな様相なのだと専らの噂だ。ここまで來てしまうと,さすがに2020年のオリンピックで盛り上がれるような状況ではない。オリンピック歓迎ムードも,相当なダメージを受けたに違いない。ここでは,これ以上のことを語ろうとは思わないけれど,オリンピックや舛添要一を巡っては,この先まだ一波乱二波乱ありそうなのは,ほぼ確定的だ。
最近一番ショッキングだったのは,アイドルだった現役女子大生が,ファンからストカーみたいなものに変容してしまったかにみえる男によって刺されるという事件だった。滅多刺しされた彼女は,首の静脈を切られて損傷し,体内にあるはずの血液の2倍に相当する量の血液を輸血したのだという。未だに彼女の意識は回復しておらず,生死の境を彷徨う大変に陰惨な事件が起きてしまった。アイドルをターゲットにしたこのような事件は,今に始まったものではなくて昔からあった。ただ,その犯行の動機というのは,昔は著名人を傷つけることで自分が目立ちたかったというのがほとんどだった。ところが今回の場合は,アイドル個人に対する怨恨という,ちょっと異質な理由からの犯行だった。この「怨恨」というのは,まさに『可愛さ余って憎さ百倍』的に増幅されたもので,それが滅多刺しという尋常ならざる結果からも読み取ることができる。これは報道などでも言われているように,SNSなどを介することで,アイドルとファンの心理的距離が以前より相当近くなった結果の一つの顕れであるのは間違いない。それは,SNSというもの自体が存在していなければ,恐らくこの事件は起きなかっただろうから、そのことからして逆説的に報道の主張は正しいのだといえよう。だが,問題の本質はそこではない。いくらSNSみたいなものが発達しようとも,正常な人─どこまでを正常と定義するかは議論の余地があるのかもしれないが─がそれを活用する分には,「現実」と「非現実」の区別はつくのだと考えられ,普通アイドルなんてのは疑似恋愛の対象にすらならない─最近ではスマホなどにアプリケーションをインストールして,アイドルたちとの疑似恋愛ゲームを楽しむ人もいるのだけれど─のだと思われる。それをどこで血迷い,倒錯したのかはわからないけれど,どっぷり感情移入し,そもそも始まってもいない恋愛で振られたと勘違いする。この種の人は「メディアリテラシー」になんらか欠陥があるには違いないのだけれど,それ以上に実生活において容易に情に絡んで問題を起こし易い連中なのだと考えられ,今回のような事件が現実に起きてしまうのは半ば防ぎようがないのだ。むしろ実生活においてまともな人間関係を構築できないが故に,ネットに依存した結果がもたらした悲劇と捉えることもできよう。この話の冒頭で,「変容してしまったかに見える…」と表現したのは,そうした背景を踏まえてのことではあるのだけれど,だからといって,これらの人種を社会から隔離したり強制的に入院や通院させることは民主的な社会では許されないから,どうしてもこのような事案が不可避的に発生してしまうのだ。
話はいきなり変わるのだけれど,つい最近乃木坂46の2ndアルバム『それぞれの椅子』がリリースされた。その中に収められている『きっかけ』という楽曲は,昨年末のNHK紅白歌合戦で彼女らが披露した楽曲『君の名は希望』を手掛けた杉山勝彦が作曲を担当していて,曲想─リズムはビートの効いたかなりのアップテンポなので,厳密には「メロディー」と書いた方がいいのかもしれない─が『君の名は希望』とオーバーラップしてくる瞬間がある。とりわけ2番のサビメロが終わった直後からの数小節だけを聞くと,『君の名は希望』を聴いている錯覚に襲われさえする。非常にいい楽曲だと思うので,どのメンバーがどのパートを歌唱しているかを聞き分けながら鑑賞してみるのもいいのでは?と思って,ここに紹介してみた。それで,この『きっかけ』の歌唱メンバーのひとりでもある衛藤美彩に関してネットがざわつく出來事があったのだという。衛藤は最近になって日の目をみるようになった乃木坂46の1期生メンバーで,高い歌唱力を持っているだけあって,プロフィールでは将來的に歌手志望ということになっている。そんな衛藤に,京都で今月開催された握手会会場で,罵詈雑言を浴びせる一団が突如出現し,余りの居た堪れなさから彼女が涙するような一幕があったというのだ。この件について衛藤を推してるファンは怒り心頭で,色んな言葉で衛藤を慰め,擁護している。一般に握手会というのは,そのアイドルに対する賛美の言葉や肯定的な内容を伝えるための場でもあるから,よもや自分が否定され,況〈ま〉してや罵詈雑言を浴びせられようとは想像だにしてない,それこそ著しく想定外のことなので,心の準備が間に合わずに泣き出してしまうようなこともないとはいえない。「それってアイドルの在り方としてどうなの?」みたいな厳しいことを言うつもりはないのだけれど,アイドルというのは崇拝〈リスペクト〉の対象となる《偶像》なのだから,強い意志と覚悟をもってアイドルとしての業を遂行することも,実は大切なことなのだろうとわたしには思われたりもする。たしかに,将來的に●●を目指しているという意味では,アイドルという状態は一時的な、苟且〈かりそめ〉のものと捉えることもできるんだけど、握手会や様々なイベントに参加してくれるファンにしてみれば,いま現在のアイドルとしての姿が彼女たちの全てなわけだから,その瞬間においてはアイドル以外の在り方なんてのは存在しないはずで,「たとえアイドルを辞めてもアイドル」くらいのつもりでその場に臨む必要があるのだろうと。これはどういうことかというと,これまでにも「活動辞退」という美辞麗句の下に解雇・馘〈クビ〉にされたアイドルたちってのがたくさんいたのだけれど,アイドルを辞めて,再びアイドルとして復活した人が果たしてどれほどいただろうか?アイドルグループを解雇されて,歌手として出直しを果たした人や女優として出直しを果たした人ってのは結構いるんだけど,極端な話が●●48を解雇されて◆◆48から復活を果たした人はいないと。このことが物語っているのは,要するにアイドルに籍を置くのは一瞬のことで,歌手や女優になれれば別に問題ない的な『アイドル腰掛け』思想とでも言うべき考え方の蔓延ではないだろうか?アイドルで躓〈つまず〉いたら,またアイドルで復活するという気概なんて微塵もないということ。もっとも,わたしはいま精神論─または観念論─的に高邁なストーリーを語っているのであり,現実が相当厳しいことはわかっている。なにしろ理由があって解雇されるのだから,その内容によっては芸能界に留まることさえ難しくなりもするだろう。
松村沙友理もまた乃木坂46の1期生で,これまでリリースされたシングル14枚の表題曲全ての歌唱に参加している数少ないメンバーのひとりだ。松村の明るいキャラクターは,松村推しのファンにとっての福音であり,メンバーにも多大な癒しを与えている。そんな松村を文春砲が狙い撃ちしたのは2014年10月のことだった。松村は当時22才だったが,彼女と妻子もち男性とのキス写真が掲載されてしまったのだ。この件で運営サイドの処分というのはとくになかったのだけれど,そうした運営の姿勢に納得できなかったファンの,松村本人に対するバッシングは相当なものだった。握手会では松村に直接罵詈雑言が浴びせられもした。恐らくこの修羅場というのは衛藤の比ではなかったはずで,松村自身も,それこそ「活動辞退」という言葉が何度も脳裏を過〈よぎ〉ったに違いない。だが、彼女はその場に踏み留まった。アイドル道を全うする選択を彼女は選んだのだった。この一連の騒動を巡っては,今以ってネット上で燻〈くすぶ〉っているほどで,当時としてはベッキーの案件以上のインパクトがあったのだと思う。松村のやらかしてしまったことは,非難を免れない行動だったかもしれない。しかしアイドルとして最後までアイドルにしがみつこうとしたその姿勢は,先ほど來わたしが述べているアイドルとしての精神論に見事に符合する在り方だったといえる。辞めることだけが責任のとり方ではないはずで,却ってそこに居座ることは自らが「針の筵」状態に置かれることを覚悟しなきゃいけない,逃げ場のない強いストレスがかかる選択ともいえる。それに,そうした苛酷な選択をした結果が必ず報われるという保証もないわけだから,アイドルにしてみれば「飼い殺し」状態になるリスクをも孕〈はら〉んだ究極的選択ともいえるのだと思う。松村の場合,ラッキーなことに飼い殺しの憂き目を見ることはなかったわけだけれど,アイドル界で類似の事案が発生するその度に,過去の黒歴史が引き合いに出され,フラッシュバックさせられるという意味では,彼女にとっての針の筵はまだまだつづいているといえるのかもしれない。
さて,松田聖子はかつて間違いなく偉大なアイドルだった。だが50を過ぎて今も芸能活動をつづけている彼女という存在は,果たしてアイドルと言えるのだろうか?アイドルの定義に年齢というのは含まれてはいないから,本人がアイドルを名乗れば50過ぎのアイドルも成立するのだと考えられる。けれども,そもそも松田聖子はアイドルから脱皮することを目指して歌を歌いつづけてきたはずで,その彼女を今さらアイドルと呼ぶことには違和感があるし,仮に彼女自身が自らを『50のアイドル』みたいに僭称するようなことがあるのだとしたら,子ども返りした大人のようで或る種の“不気味さ”すら感じもする。前田敦子や大島優子でさえ既にアイドルの範疇には入ってないような気がするわけだ。AKB48というアイドルグループを卒業した瞬間にアイドルとは認識されなくなり,だからといって一人前の女優として認知されるわけでもないという,或る種アイデンティティー・クライシスにも似た時期が訪れるということなのかもしれない。これはそもそも〈アイドルグループ⇒卒業⇒●●〉みたいな一連の流れを本人も,またわたしたちファンも想定してるが故に発生する問題なのであり,仮に「終身アイドル」みたいな考え方が浸透していれば避けられる性質のものなのだ。もっといえば,「アイドルはいずれ卒業するもの」という考え方をしなくなることが,「活動辞退」みたいな最も安直な策を弄しなくなる,それこそ「きっかけ」になるのではないだろうか?