私淑語〈ささめごと〉presented by@ちかチャンネル -4ページ目

@『何度目の青空か?』by乃木坂46を勝手に解釈してみた




〔校庭の端で反射してた だれかが閉め忘れた蛇口〕

校庭の真ん中ではない,端っこに人の注目を集めるかのような反射した光を放ち,しかも水を放つだれかが閉め忘れた蛇口がある光景。物語のスタートを予感させる。

〔大事なものがずっと 流れ落ちてるようで 風に耳を塞いでた〕

水を大切なものの比喩として描写し,なにか大切なものを失おうとしていることには気づきながらも,風の音で水の流れる音が聞こえないかのように装い,喪失する様子を見てみぬ振りをしていることを表現している。

〔僕の心の片隅にも 出しっ放しの何かがあるよ このままじゃいけないとわかっていたのに 見ないふりをしていたんだ〕

そういえば,これまでハッキリと意識しようとはしなかったけれど,なんとなく自分の心の中にも失いかけてるなにかがあるというのであるが,これの主体がだれなのかは不明。すなわち,初めに水の流れる蛇口を見てみぬ振りをしていた人物なのか,またはその人を傍観していた人物なのかはわからない。

〔膨大な時間と 何だってできる可能性 自由はそこにある〕

この表現は,問題意識を持って自己の生き方や人生の目標について考えを深めようと思えば時間はいくらでもあったし,今でもあるのにということを言おうとしてる表現。

〔何度目の青空か? 数えてはいないだろ 陽は沈みまた昇る 当たり前の毎日 何か忘れてる〕

今までをただなんとなく,なにもせず過ごしてきた現実を劇的に表現している。

〔何度目の青空か? 青春を見逃すな 夢中に生きていても 時には見上げてみよう 晴れた空を 今の自分を無駄にするな〕

ぼやぼやしてると,若い時期はあっという間に過ぎ去ることを自戒的に表現し,現実と向かい合うことの大切さを説いている。

〔蛇口の水に触れてみたら その冷たさに目を冷ましたよ ほとばしる水しぶき 与えられた命は 掌〈てのひら〉に重たかった〕

この表現は,実際に蛇口の水に触れてみたというよりは,前のフレーズをうけて,現実と向き合い,自己の内部に問題意識や目標が萌芽したことを詩的に述べていると解釈すべきで,いざ現実と向き合ってみるとそれが非常に重たいものだったことが述べられている。

〔いつかやるつもりと 頭の中で思ってても 永遠は短い〕

目標が萌芽したことを受けて,今この時にどうにかしなきゃいけないことに思いが至るも,なかなか儘ならない現実があることを示唆する内容。「永遠は短い」とは,要するに永遠なんてないということ。あっという間に若くはなくなることを表現している。

〔何度目の青空か? 青春を見逃すな 夢中に生きていても 時には見上げてみよう 晴れた空を 今の自分を無駄にするな〕

リフレインして,与えられている時間の短さを繰り返し強調している。

〔目を閉じてみれば 聞こえて来るだろう 君が出しっ放しにしてる音〕

改めて振り返ってみれば,どれほどの時間を無駄にしてきたかが,今はわかるだろうということ。

〔僕らも空も晴ればかりじゃない〕

世の中,万事が順調にいくとは限らないことを諭していて,だからこそ更に前に進むことを促している。

〔この次の青空はいつなのかわからない だから今空見上げ何かを始めるんだ 今日できることを〕

前の促しを更に進めて,次に物事が順調に運ぶときがいつなのかはわからない。だからこそ,自分たちに今できる最大限のことをやろうじゃないかと訴えかけている。

〔この次の青空は 自分から気づくだろう 涙が溢れてても 太陽は滲まないさ ちゃんと見れば〕

先の訴えに応えて,この次の青空(=チャンス)は自分から積極的に取りに行くという決意を表明している。その結果,仮にうまくいかなくて涙に暮れたとしても,「太陽」,つまり自分が見つけた目標を見失うことはないと,改めて決意を表明している。

〔君はもっと強くなれるよ 今を生きるんだ〕

決意表明を受けて,儘ならない世の中をガンバって生きていけとエールを送っている。

〔時は流れても 僕は流されない〕

最後に,もはや目標を見失うことがないことを自身に確認している。尚,「何度目の青空か?」と曲のタイトルにもなっている通り,青空が「何度目の青空」というフレーズで用いられるとき,そこには「過去から現在までなんべんもチャンスはあったのに…(ムダにしてきた)」という,後悔にも似た含みがあることを付け加えておきたいと思う。


以上,徹頭徹尾わたしの主観&独断と偏見にもとづいて解釈を試みてきた。果たして,この詞を書いた秋元康がどのような思いを込めたのかは,それこそ本人に訊いてみなければわからないし,実際に曲を歌っている乃木坂46のメンバーたちがどんな気持ちを込めて歌っているのかも,メンバーのひとりひとりに確認してみないことには全くわからない。しかし,情感豊かにこの曲を歌い上げている彼女らの姿をみるとき,感動なしには曲を聴くことができないことからしても,彼女たちのパフォーマンスはこの曲の意味内容を的確に表現しているに違いない。そこに敢えてわたしが解釈を加える意味なんてあったのかも,今や疑問でさえあるんだけど,なんとなくな気分に任せて解釈なんかをしてみた。【『何度目の青空か?』by乃木坂46】


@嘘と真実の境界




わたしたちは,物心がついた頃から両親や学校の先生たちに繰り返し『嘘はついてはいけない』と教えられる。『嘘つきは泥棒の始まり』なんて格言も日常生活ではしょっちゅう引用されるくらい,「嘘」ってのが邪悪なものの筆頭のように扱われたりもする。だが,わたしたちが生活する現実世界において,『アナ雪』張りに「ありのまま」を貫くのだとしたら,そこに円滑な人間関係の構築を期待することは恐らく不可能だと思われる。不味い料理を食わされて,率直に『まずい』と感想を述べるのだとしたら二,三日は口を利いてもらえない事態を招いたりするかもしれないし,まして性格や身体的な欠点についてズバズバ指摘するようなことにもなれば『おまえはデリカシーがない』と謗〈そし〉られもするだろうし,それどころか最悪の場合,絶縁される憂き目を見ることにすらなるかもしれない。実際問題が,どんな嘘にしても,なるべくなら回避することが望ましい。なぜならば,一つの嘘を守るために第二第三の嘘を次から次に繰り出す必要性に迫られ,常にいつかバレるんじゃないかという不安がつき纏って,決して気持ちのいい状態とは言い難いのだ。とはいえ,人間社会を生きてく上で「社交辞令」としての嘘ってのが,必要欠くべからざるものである現実が存在してるのも間違いない。『嘘も方便』ということだ。したがって,わたしたちが戒めなきゃいけない「嘘」として物心ついた頃から教わるべきは,他人を貶〈おとし〉めるような嘘であり,他人を騙して利鞘を稼ぐ詐欺行為のような嘘なのであり,コミュニケーションのツールとしての嘘は濫用しない範囲で許容されるのだと考えられる。

他方で,わたしは過去にこんな経験をした。都内の或る金券ショップでもって金券の買い取りを希望したところ,住所・氏名を訊かれた。わたしはそれこそ“ありのままに”住所・氏名を書いたのだったけれど,ショップの男性店員はパソコンの地図機能を活用してまで,わたしの申告した住所に実際に建物があるかを念入りに調べる始末だった。正直,気分が悪かった。また或るとき同じ系列の金券ショップで金券を買い取ってもらう際に,わたしは前回の不愉快さから今度は嘘の住所を告げたところ,なんの追及も受けることなく,あっさりスルーした。真実の住所を申告しては訝〈いぶか〉られ,嘘の住所を申告すれば不愉快な思いをしなくて済むというこの矛盾(&理不尽)。恐らく人間として立派な人は,たとえいやな思いをさせられたとしても,その次も正しく申告するんだろけど,わたしはそこまで出來た人間ではないから,やなことをされたらそれなりにということになるらしい。それにしても,このエピソードに類似する経験をしたことがある人ってのは,恐らくかなりの多数に上るに違いない。自分が正しいことをした結果いやな目に遭ったから,次からは適当で済ますように努めると。たとえば,近所で発生したなんらか事件に絡んで,捜査に当たる警察に協力したところ,却って犯人扱いされて不愉快だったから次回からは警察に協力しないと。心情的には十分に理解できるケースではあるんだけど,警察も仕事でやってるわけだから,事件を解決しようと懸命に捜査してるのだとしたら,警察を咎めることはできないのかもしれない。その結果,冤罪みたいなものが発生したとすれば話は別なんだろけど,捜査の過程で人を疑うのは警察の“職業病”みたいなものだと思うので,自分が犯人にされないためにも,ほどほどに協力はした方がいいのだと考えられる。

しかし,よくよく考えてみればFacebookにしても,このアメーバブログにしても,一般にSNSと呼ばれる媒体ってのは匿名性が高く,虚構と真実の境界が極めて曖昧な存在である。これを利用するユーザーの多くは,そのことを十分承知して利用してるんだとは思うも,現実社会における人間関係が希薄な人などは,時としてそのことを忘れて,この世界に真実性を求めてしまうことにもなるに違いない。もっとも,そのことが一概に悪というわけではなくて,他人に迷惑の掛からない使い方をする分には許容される範囲も広がるのだと考えられる。それに関連して先日,“十歳の中村”を名乗る人物のネット上への書き込みが話題になった。これは,今回の衆議院解散・総選挙の意義を問う書き込みで,小学生に成りすました大学生の書き込みであることが後に判明した際に,内閣総理大臣の安倍晋三は自らのFacebookで,この大学生を批判した。ネット上で大学生が小学生に成りすまして,解散・総選挙の意義を問うという行為が,果たしてそれほど悪質な行為なのだろうか?今回の突然の解散をめぐっては,多くの国民が戸惑っているのは間違いなくて,それに対する納得いく明確な説明もない状況下では,この大学生のような手段に訴える人が出てきても不思議でなくて,それに対してむしろ明快な説明をすることが出來ない安倍晋三の焦燥感が,Facebookでの怒りに表れていると見ることも出來るような気がするわけだ。古い話にもなるのだけれど,平安時代に『土佐日記』という文学作品を書いた紀貫之〈きのつらゆき〉という人は,この作品を書くに当たり,当時の貴族階級の男性というのは漢字を多用するのが流行りというか,権力を誇示する象徴的な行為として漢字を用いたのだったけれど,あえて女性が用いた仮名文字を多用してこの作品を書き上げた。文学史ではこのことを指して「仮託」と説明される。要するに,男性である紀貫之が女性に成りすまして作品を著したということだ。今回の大学生の成りすましを古代の紀貫之の成りすましと同列に扱うことには,ひょっとすると無理があるのかもしれない。だが,この年末の意表を突く解散に関しては,大人たちはもとより中学生や高校生にさえわかるような,理路整然とした説明責任を果たす責任が内閣総理大臣たる安倍晋三にはあるのではないかと思えて仕方がない。

ところで,最初にも述べたように世渡りしてく上では,嘘を完全に排除して生きてくってことは難しいし,処世術として嘘の一つもつけなきゃいけないのだと思う。けれども,直ぐにバレるような嘘ってのは,処世術にならないどころか却って人間関係をギクシャクさせる元凶ともなり得るわけだから,初手からそんな嘘はつかない方がいいし,つくべきではないだろう。逆に,ついてしまったからには最後までつき通すくらいの覚悟と決意をもって嘘をつくべきで,詭弁にもなるかもしれないけれど,バレてない限り嘘は嘘ではないのだ。とはいえ,繰り返しにもなるわけだけれど,嘘をつき通すというのはもの凄いエネルギーを必要とし,たった一つの嘘を守るためになん百もの嘘を並べなきゃいけないってことだってあるわけだから,その重圧に堪えかねて,大方の嘘ってのはバレるのが落ちでもある。嘘がバレた後に待ってるであろう“修羅場”を思うと,嘘のもつ「罪深さ」みたいなものが実感されもしよう。もっかい言うけど,他人を欺くことで相手を傷つけたり,経済的損失を負わせるような嘘でない限り,一定の節度をキープして止むを得ず発動する嘘が許容されるのであり,具体的に言うなら社交辞令的な嘘や自衛のための嘘がそれに該当する。“自衛のための”嘘とは,たとえばあんまり関わり合いになりたくないような人に対して,ホントは横浜に住んでるのに,相模原に住んでるみたいに言う類のことではあるんだけど,拡大解釈してなんでもかんでも「自衛のための嘘」ってことでいい加減なことを言い始めると,習慣化してそれこそただの「嘘つき」みたいになってしまうリスクが常につきまとい,最悪の場合,どこまでが真実でどこからが嘘なのかさえわからなくなるほど,自分の中で混乱を來たすような事態さえ惹き起こしかねない。その意味でいえば,嘘が齎〈もたら〉す快楽というのは,麻薬や危険ドラッグから得られる快楽に匹敵するとさえ言えるかもしれない。こうして,嘘と真実の境界が判然としなくなり,虚構の世界と現実世界の区別が曖昧になって,重大な事件に足を突っ込んでしまうのが,今日的ネット犯罪というものの本質だと言っていい。つい最近も芸能関係者をネット上で脅迫したとして逮捕者を出すような事件が複数発生した。過去には他人のパソコンを遠隔操作したとして逮捕・起訴され,最近の公判で実刑判決を受けた男もいる。これらの事案てのは,なにか自分が“支配者”や“権力者”にでもなったかのような倒錯した陶酔感のなせる業であり,その陶酔感てのは嘘や虚構が現実を否定することで齎らされる“歪んだ”快楽そのものである。自分は絶対にそんなバカな真似はしないと高を括ってる人が大多数だとは思うんだけど,実はたった一つの嘘から始まる,だれしもがはまり得る危険な快楽が存在してることを,わたしたちは十分警戒しなきゃいけないのだと思う。

@芦田愛菜




最近めっきり耳にする機会が減ったのではないかと,わたし自身が感じているものに「ステージママ」という言葉がある。これってのは,自分の子ども─主として未就学児から小学校低学年の児童─をステージ─つまりは舞台からの芸能界─で活躍させんがために,決して安いとは言い難い月々のレッスン料やそれに付随する様々な出費も厭〈いと〉うことなしに,我が子の将來の芸能界デビューを夢見て,いわば形〈なり〉振り構うことなしに子どもに“投資”してきた親─もっぱら母親であり“ステージパパ”というのはほとんど聞いたことがないのだけれど─のことを指してしばしば用いられた,世の中的にはわりと知られていた言葉だった。そのステージママの“代表格”といえるのが,つい最近亡くなった女優宮沢りえの母親でもあったかもしれない。彼女は,宮沢が幼いときから自分自身が娘の芸能関係のマネージメントに深くかかわり,今となっては“伝説的な”作品ともなっている宮沢のフルヌード写真集『サンタフェ』の刊行を強力に後押しした功労者とも言われている。当時まだ十七歳の少女だった自分の娘宮沢に,ヌード写真集の刊行を積極的に働きかける母親の気持ちってのは,正直よくわからない。しかしながら,宮沢本人もこの企画に対してはかなりの意欲を示し,結果的には155万部を売り上げるミリオンセラーになる大成功を収め,芸能人の写真集売上としては未だにその記録は破られていない。よく週刊誌などでも,宮沢りえとりえママは「一卵性親子」などと書かれたように,彼女たち親子は他人には計り知ることのできない,強固な信頼関係・強い絆で結ばれていたのかもしれない。ただ一般論としていえば,未成年の娘がフルヌードの写真集を出すってことになれば,たいていの親たち─とくに父親たち─は相当躊躇することを余儀なくされるのだと考えられ,双手を挙げて歓迎できる親ってのはかなりの少数派だと思われる。宮沢の場合も,当時“母ひとり娘ひとり”だったという家庭環境が,結果的にプロモーションを大成功させる一つの大きな要因だったのではないだろうか?

ところで宮沢の芸能界におけるキャリアは,十一歳のときにモデルデビューしたところからスタートしており,その意味で言えば「子役」経験者とはいえないのかもしれない。そもそも「子役」の定義ってのは存在してなくて,なん歳以下が子役でみたいな約束事も存在してはいない。たぶん今でも,舞台なんかで演技する人の中には成人してるにもかかわらず,十二歳くらいの少女役にキャスティグされてるような女優ってのは少からずいるのだと考えられる。もっとも,このようなキャスティグが可能なのは舞台だからでもあって,テレビの連ドラでこんなことをやった日には,まず視聴者の支持を得ることはできない。それは,ハイビジョンのように画質がよく,細部にわたってクリアに映し出される現代にあっては,十二歳の少女を成人女優が演じるなんてことは“放送事故”にも匹敵するようなタブーと言ってもいいような性質のものなのかもしれない。そうなると,やはり現代のテレビドラマに相応しい“テレジェニックな”子役たちの需要が高まるのは必然の流れでもある。ちなみに“テレジェニック”〈Telegenic〉というのはフォトジェニック〈Photogenic〉─「写真うつりのいい」という意味の英語─から派生した造語で,単に「テレビで見映えがする」という意味だけでなく,「テレビ向きの」とか「テレビで稼げる」みたいなテレビ出演を肯定的に評価する包括的な意味をもつようにもなってきている比較的新しい単語なのだけれど,以前にもどこかで書いたように,子役から一般の俳優に脱皮を遂げるということは,わたしたちが考える以上に難しいものがある。《子役⇒俳優》と見事に脱皮を遂げたと考えられる人を,わたしの独断と偏見で選んでみるとすると前田愛・亜紀姉妹,三倉茉奈・佳奈姉妹,安達祐実,井上真央くらいしか,正直思い浮かばないのだ。ひょっとすると,美空ひばりや松坂慶子なんかもそうなのかもしれないんだけど,そんな昔のことはわたしにはわからない。また,上で挙げた名前は全て女性ばっかりで,男性はいないのか?といわれると全くいないってことはないんだけど(強いて名前を挙げれば,現在再ブレーク中の坂上忍),彼女らに比べると,いまいち鳴かず飛ばずの人が多いやに思われる。なぜこんなにも《子役⇒俳優》がうまくいかないのかというと,まず第一に或るときを区切りに,芸能界を引退するってことが考えられる。もともと子役としてぱっとしなくて,見切りをつける形で引退するケースが圧倒的なんだとは思うんだけど,学問に目覚めるとか,芸能界とは違う居場所を見つけて辞めてく人もいないわけではない。第二に,子役の際の印象が余りにも強烈過ぎて,その印象を視聴者が引き摺ってしまうがゆえに,俳優としてなかなか芽が出ないケース。これまた例を挙げるとすれば,えなりかずきあたりが該当するかもしれない。彼の場合,『渡る世間は鬼ばかり』の中華屋の倅役のインパクトが強すぎて,たとえばテレビや映画の刑事物でもって,刑事役や犯人役を好演するのは非常に厳しいものがあるのだと考えられる。これってのは,視聴者側に問題があるだけでなしに,えなりかずき本人にも脱皮を遂げようとする気概が欠けているという重大な問題があるのだと思う。

それで,最近わたしはNHKの「Eテレ」─もとの教育テレビ─で芦田愛菜を目にする機会があった。毎年NHK恒例の『全国学校音楽コンクール』〈通称Nコン〉という番組だったのだけれど,彼女はその「小学校の部」で司会者として,堂々と番組を仕切っていた。芦田の隣にはNHKの男性アナウンサーもおり,芦田自身のセリフは短いものがほとんどだったのだけれど,それでも全国ネットの生放送であり,会場のNHKホールにはかなりの観客や出場する小学校の児童・関係者も大勢いたわけだから,普通の大人でも物凄いプレッシャー&緊張を強いられるようなシチュエーションだ。このいわば“劣悪な”シチュエーションにもかかわらず,彼女は三時間の番組で,およそ二時間半に亙って,隣の男性アナウンサーが振ってくる話に巧みに合いの手を入れ,最後の三十分くらいはステージに上がって,ほとんど孤立無援なパフォーマンスを見事に披露して見せた。この光景ってのは,わたしにとっては結構衝撃的であると同時に感動的なものですらあり,芦田愛菜がとても神々しく“立派な”人間に見えもした。さらには『ひょっとすると自分はこれまで,芦田愛菜という「人格」を極端に過小評価してきたのではなかっただろうか』という呵責のような感情までも込み上げてくる始末だった。芦田愛菜をめぐっては,ドラマにおける演技力では以前から定評があった。その一方で『所詮は子どものやること』みたいな,彼女の人間性を正当に評価してるとは言い難い言説がネット上などで広く流布しており,わたし自身,我知らず無批判にその言説を我が物として受け容れてしまっていたのではないのか?という疑惑をもつに至った。芦田愛菜はまだ十歳。紛れもない“子ども”である。だから,メンタリティーは子どもそのもので一向に構わないし,他の十歳の子どもと全く同じように振る舞ったとして,なんら問題はなく,むしろ自然でさえある。そのことをよくよく踏まえた上で,彼女がもってるに違いない「志し」というべきか,「崇高な理念」(≒女優としての気概)というべきかに対してわたしたちは,もっと正当に評価してあげなきゃいけないのだと思った。

この日本列島─北は北海道から南は沖縄まで─に,果たしてどれほどの子役養成所やプロダクションがあるのかはわからないけれど,それらに所属してる子どもたちってのは,きっとなん千人にも上るに違いない。その子どもたちが,数少ない出演のチャンスを求めてオーディションに臨むという,或る種の「競争原理」に幼くして晒される彼ら彼女らは,一般の子どもたちよりも早く「大人社会の原理」を体験することにもなる。それってのは,大人社会がもってる「醜さ」や「汚さ」に曝露されることを意味してもいて,その結果として,本來でもあれば身につける必要がない「悪知恵」みたいなものを子どもながらに体得してしまうようなケースも実際に存在する。それってのが反面教師として作用するのでもあれば,そういう経験も悪いことではないのかもしれないんだけど,大概の場合はそういう風には作用しない。子役養成の一番の問題点がそこにあるのだとわたしは理解していて,加えて是が非でも我が子をデビューさせたいと形振り構わず狂奔するステージママってのは,「我が子の将來の成功」に名を借りて,実は「自己満足」や「売名」,延いては「金儲け」の具現のために只管〈ひたすら〉盲進している可能性に思いを遣ってみる必要があるのだと思う。一般にプロ野球やJリーグの世界で活躍できる人が,それを希望してる人たちのほんの一握りに過ぎないように,芸能界という世界で活躍できる人も,それを望む人たちのほんの一握りであるという現実から目を背〈そむ〉けるべきではないだろう。我が子の「可能性」を信じ,それに賭けることは決して悪いことではないけれど,たとえば,ルールの上では日本人ならだれでも総理大臣になれることになってはなってるんだけど,国会議員になったとして,さらに総理大臣てことになると,現実にだれでも総理大臣になれるわけでないことは明らかであるように,上戸彩や深田恭子のように,だれもが一線級の芸能人になれるわけではないのだ。

今回わたしが芦田愛菜をみて考えたことは,ネット上では『芦田愛菜は小学校低学年レベルの漢字も読めない』みたいに,芦田の“学力”に対して疑問を呈する書き込みが数多くあったりもするんだけど,仮にこれが本当の話だとして,それだけでもって芦田のもつ「人間性」や「人格」を否定する材料には決してならないということ。なにしろ,芸能界ってとこには芦田よりも遥かに年長で,高校や大学を卒業してる人がいるわけなんだけど,そういう人たちの中にさえ基本的な漢字が読めないような人たちってのは少からずいるわけで,だからといって,そのためにその人たちの人間性や人格が否定されることにはならないことと全く同じことが芦田にも当てはまっていいはずだし,これからの彼女の努力次第では将來的に彼女がどうなってるかなんてことは,だれにも予想ができない。実はこれってのは,プラスの可能性もあれば,逆にマイナスの可能性があることをも意味しているわけで,気がついてみれば芦田も『あの人は今』みたいな状態に凋落している可能性がないわけではない。なんだけど,わたしが大切だと思うのは,《子役⇒俳優》が実現できる人ってのは,養成所やプロダクションに所属してボイトレや演技指導など多くのトレーニングを受けることで実現可能になるのではなくて,家庭や学校でもって,学力とはまた違う領域に属する人間性や人格を既に或る程度身につけた子どもが,養成所やプロダクションに所属することを通して,オーディションを受けるチャンスが与えられて初めて可能になるのではないかということだ。逆にいうとすれば,たとえ子どもとはいえど人間的に足りないのは,高額なレッスン料を払って養成所に通いつづけて,どんなにトレーニングを受けたとしても,なんべんオーディションを受けても通らないし,仮に通ったとして《子役⇒俳優》の実現可能性は限りなくゼロに近いということだ。