@安倍晋三の唱える「女性活用」
仲秋も過ぎ,すっかり秋めいてきたことを実感しつつも,まだ夏には去ってほしくないような感傷的な気分が漂う昨今ではあるんだけど,日中は今なお蝉が囂〈かまびす〉しく鳴いている声を耳にすると,却って去り往く夏が最後の短い火花を散らしているようにも聞こえて,なにか「もののあわれ」を感じずにはいられないのが日本人の「風流心」でもある。蝉の鳴き声に情趣を感じるのは日本人に特有なことらしく,欧米の人にとって蝉の鳴き声ってのはただの騒音でしかないらしい。この現象ってのは,日本人と欧米人の自然観の違いに由來しているのであり,なにか“優劣”を競うような性質のものではない。基本的にキリスト教という「一神教」に根差した文化や国民性がバックグラウンドになっている欧米人と,生き物はもとより嵐や雷のようなあらゆる自然現象に対してすら「神」の存在を認め,俗に「八百萬〈やおよろず〉の神」と呼ばれるような「多神教」を信奉する日本人とでは,自ずと精神的基底を流れる美意識や自然観に違いが生ずるのは半ば当然なのであって,その結果が蝉の鳴き声の捉え方にも投影されているだけの話なのだ。
ところが最近,日本の至るところであまり好ましくない事態が発生しているという。隣接する保育園や幼稚園から漏れ聞こえる音がうるさいと,クレームを言ってくる住民が増えているのだという。子どもの出す音には様々なものがあるとは思うんだけど,泣き声もあれば奇声を発することもあるだろうし,喚声もあるに違いない。先週には兵庫県で,慰謝料等を保育園側に求めて住民が提訴するような事案も発生している。今までにも,マンションやアパート自室の上の部屋に子どもがいて,その足音がうるさいというので訴訟沙汰になるようなケースはあった。実際,下の階の住人にしてみれば我慢しがたいって場合もあるに違いない。その一方で,子どもってのは泣き喚き,大声で笑うのが自然な姿でもあって,走ってる電車の中で赤ん坊が泣き出したからといって,それを咎めるような人ってのはまずいない。だが,幼稚園くらいの子がつり革をおもちゃ代わりに列車内で遊び始めたとしたら,そして親と思しき大人がそれを制止しようとしなかったら話は違ってくる。明らかに「マナー違反」なわけだから,注意するのがむしろ自然で,親子ともどもきつく注意しなきゃいけないと思う。赤ん坊が泣くのはマナー違反でもなんでもないわけだから,『泣く子と地頭には勝てない』ということで寛容な気持ちになるのが大切だと思う。それでは,保育園や幼稚園から漏れる音がうるさいってのは,果たして「マナー違反」に該当するのだろうか?なにか悪意をもって音を出してるようなケースは別として,一般にはマナー違反には該当しないのだと考えられる。どの程度の音が許容できるかは人によってかなり個人差がある。「蝉時雨」ってのは結構音が大きくて,60デシベル─ちなみに,電車通過時の高架下での音量が100デシベルくらいといわれている─くらいは優にあるだろう。それに比べれば,足音なんてのは微々たるものなんだけど,なぜか耳につく。しかもいっぺん気になり始めると,とことん気になるという悪循環。これが,自分家の二階で孫なりが出してる音だとしたら,恐らく全く気になることはないのだと考えられる。孫でなくても,自分がよく知ってる子どもならほとんど気になるってことはないのだと考えられ,近隣住民との間にほとんどつき合いがないという,現代の人間関係の希薄さがかなり影響しているのだと思われる。保育園や幼稚園にしても,全く自分と接点がない存在であって,日常的に騒音だけを吐き出すのだとしたら,疎ましく思うのも或る意味,当然の成り行きなのかもしれない。だが,こういう有り様が社会全体にとって健全でないのは明らかで,保育園や幼稚園にも近隣住民を取り込むための,なにがしかの取り組みが必要なのだと考えられる。
それで,去る九月三日に内閣総理大臣安倍晋三は内閣を改造し,その目玉として女性閣僚を五人に増やすなど,長期安定政権を狙う布石を打った。かねてより安倍晋三は『女性の活用』を標榜し,今回の閣僚人事もその線に沿うものとして理解できるんだけど,ホントに安倍晋三が唱えるような女性活用が可能なのか,わたしにはかなり疑わしい。第二次大戦後に日本においても徐々にではあるけれど女性の社会進出が進み,女性が男性の部下を従えるようなシーンを多く目にするようになった。その結果,動〈やや〉もすれば,『男にできて女にできない仕事なんてない』みたいな勇ましいセリフを耳にするようにもなったんだけど,子どもを産むという行為が女性にしかできないように,男でなければできない仕事,女でなければできない仕事というのは厳然と存在しているのだと考えられる。最近話題に上ったのに「ドボジョ」というのがある。これは「土木作業に従事する女性」─要するにガテン系女子─ということなんだけど,明らかに体の造りや体力が男性と比べて劣る女性が,男性と全く同じ内容の作業をすることはできないし,恐らく,その必要もない。男に負けまいとガンバることは悪いことではないが,無理してまでやるのは賢明でなくて,そのために女性としての機能が失われる事態─たとえば月経の停止とそれに伴う不妊─に至るのだとしたら,その代償はあまりにも大き過ぎる。わたしは今,鉄筋や鉄骨みたいな重たい資材を運んだり組み立てるイメージで話をしてるんだけど,これが現場監督みたいな肉体労働とはまた違う仕事でもあれば,それこそ性別に関係なく全く同じ仕事内容をこなすことも可能なのだろう。現場監督ってのは,資格の一種だから,資格さえ取得できればいいという意味では“頭脳労働”と言ってもいいかもしれない。女性がそういうところで活躍するのであれば,それってのはまさに女性活用に当てはまるのだと思う。とはいえ,肉体労働でなくても長時間勤務や夜中の勤務が女性の肉体に与える影響というのには未知数の部分があり,その結果として《月経の停止⇒不妊》みたいな最悪の結果を惹き起こさないまでも,肌の潤いがなくなったりする所謂“劣化”が進むのだとしたら,女性本來の魅力ってのは完全に置き去りにされることになり,それはそれで本末転倒的に大変困ったことになるのだと考えられる。
そもそも,「男女同権」や「男女平等」というのは,本來は法の下での扱いを対等にすることを意味しているわけで,たとえば,パートタイムであれば男女で時給に差をつけるようなことはしないとか,正社員なら一日あたり●●時間働いたら同じ給与を支払うことを意味していて,必ずしも職務の内容に関して男女が全く同じことをやるってことを意味してはいない。よくあるパターンとして,総合職で採用された新人女性社員にお茶を淹れてくれと頼んだときに『わたしはお茶汲みするために入社したわけじゃありません!』みたいに鬼の形相で反駁する人がいると。しかしこれってのは,仮に新人男性社員にお茶の美味しい淹れ方を心得てるのがいるのだとしたら,そいつに頼む方が合理的かもしれないんだけど,そんな男性社員なんてのはまずいない。ひょっとすると,日本茶の淹れ方すら知らない男性が大半でもあるかもしれない。そうした状況下では,女性にお茶を淹れてもらうのがかなり合理的だといえる。人に頼まないで自分でやればいいという意見もあるだろう。多分わたしならそうする。それは,お茶の淹れ方に対する「こだわり」があるからでもあるんだけど,一般に一つの職場でお茶汲みを拒否してたら,その職場にアットホームな雰囲気はなく,むしろぎすぎすした雰囲気が漂うことにもなるだろう。お茶汲みレベルの話にとどまらず,やはり男でなきゃできない仕事,女でなきゃできない仕事ってのは実際にあるのだと思うわけで,ヤクルトを配達するのは未來永劫女性に違いない。
安倍晋三は今回の内閣改造で新たに小渕優子を経済産業大臣に任命し,福島第一原発の廃炉作業の重責を担わせることにした。この人事が非常に問題なのは,この福島第一原発事故が発生して以來三年以上も日々汚染水が太平洋に流出しつづけている現実を全く重く見てないというか,一体どんだけ悠長に構えているのかという憤りや,所詮が“人気とり人事”ではなかったのか?という疑惑が払拭できない点にある。仮に小渕優子でなく他のだれがこの重責を任されたとしても,日々汚染水が流出してる現状を劇的に好転させることはできないに違いない。なんだけど,だからこのポストはだれでもいいんだってことになるのだとしたら,このいい加減さは政府として無責任極まりない姿勢だと,厳しく糾弾されるべき性質の話だ。政治家としての小渕優子がどれほど希有な人材なのかは知らないけれど,わたしたち日本国民や世界中の人が望んでいることは,今すぐにでも汚染水の海への流出を止めてくれることにほかならない。それには“てっぺん”の強力なリーダーシップが発揮される必要があるわけで,そのためにはこの分野について─精通してないまでも─或る程度の知見をもつ“技術者”がそのセクションを束ねる必要があるのだと考えられる。その意味では,経産大臣の職掌とは切り離して廃炉専従の大臣ポストを別途新設して,強力なリーダーシップを発揮できる人材を登用すべきだったのに,にもかかわらず今回,ずぶの素人にも等しい小渕優子をこの任に当たらせるのは誠に心許ないというのが,率直なわたしの所感でもある。
『ミシュランガイド』で★★★を獲得するようなシェフがつくる料理はたしかにうまい。料理の世界には男性のシェフもいれば女性のシェフもいるわけで,この世界では男女の分け隔てなしに活躍できるチャンスが用意されている。けれども,普段の生活においてわたしたちが,或る時突然食べたくなるのは,そんなシェフが作った“高級な”料理ではなしに,母親手作りの素朴な料理ではないだろうか?この「おふくろの味」というのは,自分の母親でなければ作ることができない,余人を以って代えがたい,まさに唯一無二の存在だ。安倍晋三が標榜する「女性活用」が,なにか胡散臭くて,いまいち共感することができないのは,耳に心地よいことを言いつつも,女性活用を担保するような社会基盤を整備することなしに,言葉だけが独り歩きをしていて,言葉に重みがまるで感じられないからでもあろう。女性が活躍するための大前提の一つは「待機児童ゼロ」が担保されることでもあると思うんだけど,現状そうはなっていないし,地域によってはそうなる気配すらない。さらに言えば,女性の能力を活用する場面てのは,必ずしも会社や公共の社会空間である必要もなくて,家庭において妻や母親として,むしろ能力を遺漏なく発揮するってことだってあるわけだから,そういう女性を無理に家庭から社会に引き摺り出す必然性もない。安倍晋三の念頭にあるのは,女性が社会で活躍すれば給与としての所得が増えるから,必然的に国庫に入る所得税も増えるという,安倍晋三流に“好ましい”循環を期待しての「女性活用」に相違あるまい。その一方では,「専業主婦」と呼ばれる人たちに対してはその処遇をめぐって,却って生活を厳しくするような政策を立ち上げ,実行したりしている。どうしても,家庭から引き摺り出して,給与所得者として税収増実現の“駒”にしたいということなのだろうか?
@雑感
夏の甲子園も大阪桐蔭高校の2年ぶりの優勝で幕を閉じた今週というのは,これまでの茹〈う〉だるような暑さが継続してる地域も確かにあるんだけど,北海道の旭川市近郊では日中の最高気温が5℃を記録したとかで,既にストーブを炊かなきゃないけないような,同じ日本列島でも,なにか別天地を思わせるような感じにもなっている。東京でも水曜日の気温は十月並みの涼しさというので,街中を歩いてても,カーディガンみたいなものを羽織ってる女性に結構遭遇した。もっとも,三陸地方でアワビなんかを採って生計を立ててる漁師の人なんかは,真夏でも普通にストーブを炊いてるという話を聞いたことがある。これは,この地方独特の局地風である「やませ」に対する対抗措置でもあるんだとは思うんだけど,今更ながら日本列島がいかに南北に長い「非等温線国家」の“代表格”であるかをあらためて思い知らされるエピソードだと思う。
それで,今週もう一つ,極めて重要な裁判の判決言い渡し公判が福島地方裁判所であった。二〇一一年三月,例の東京電力福島第一原子力発電所の事故が原因で避難生活を余儀なくされ,このことから体調に異変を來たし,自殺してしまった或る女性の自殺に至る経緯をめぐって遺族が,彼女が自殺するに至った原因は東京電力にあるとして,損害賠償を求めて起こしていた民事訴訟の判決で,福島地裁は原告の主張を全面的に認め,東京電力に約五千万円の損害賠償の支払いを命じたのだった。この判決ってのは極めて画期的なもので,過去に身内が避難中に自殺するに至った原因が東京電力にあるとして賠償を請求した民事訴訟では,悉〈ことごと〉く原告の訴えは退けられ,東京電力に賠償の支払いが命じられるケースってのはなかったのが,今回は一転して裁判所が賠償の支払いを認めた点が非常に画期的だったというわけだ。もっとも,過去の水俣病訴訟にしても,HIV感染をめぐる訴訟にしても,被害者である原告の全てが裁判によって損害賠償を得られたわけではない。賠償が認められた人と認められることがなかった人の間には,物理的になにか明らかな「隔たり」ってのがあったとは思えない。にもかかわらず,一方は賠償が認められず,他方では賠償が認められるというこの現実は,当事者たちにしてみれば「理不尽」以外のなにものでもないのだと考えられる。実は,「裁判」というシステムが必ずしも弱者の味方ではないって現実を,わたしたちは十分に理解しておく必要がある。“法治国家”日本では,裁判官が判決を下すに際しては,法律と自己の良心にのみしたがい,その他のあらゆる圧力というか,煩悩というかに影響されないことが求められている。だが,裁判官も人である以上は,完全に煩悩を捨て去ることなんてのは不可能だといわざるを得ない。自分が担当する事件に関するテレビ報道や雑誌・新聞記事を見聞きするとき,それこそ様々な思いが彼らの脳裏を過るに違いなく,その際なんらか先入観を植えつけられないとも限らない。こうした状況で下される判決というのは,いってみれば「当たるも八卦,当たらざるも八卦」的な,占う人によって結果に違いが出る占いのように,担当裁判官によって判決内容が大きく変わるような性質のものだと言わざるを得ない。ただ,これってのはどうすることもできない側面をもっていて,個々の事案の判決は違っていたとしても,全体として「バランス」がとれているのだとしたら,裁判というシステム全体の中では,それこそが最も重んじられなきゃいけないことにほかならないのだ。これはどういうことかといえば,裁判官にも様々なタイプの人がいて,初めて裁判そのものが機能するということなのであって,厳格な人から寛容な人まで一通り揃って,初めて一つの裁判所として機能するということなのだ。ちょっと考えてみればわかるように,そこの裁判官みんながみんな寛容な人だったとしたら,極悪人に対しても死刑を宣告できないような弊害が懸念されもするだろう。それゆえに,裁判に訴えるにしても,だれが担当裁判官になるかでもって,「当たり外れ」が出るのは避けられないということは,押さえておくべきことのように思われる。
次に,話はがらっと変わるのだけれど,いつだったかテレビの夕方のニュース番組を観ていたら『女子刑務所特集』なるものが20分程度放映された。そこに収監されてる人たちの一日の生活の様子や,なん名かの人に個別にインタビューをして,刑務所に収監されるに至る経緯を訊いたりしていた。その中の一人というのが,三十代で以前は学校の先生だか塾の講師をしていた女性だった。収監に至った罪状は「万引き」だったという。わたしは,果たして万引きで収監に至るってのは一体どういうことなんだろうか?と一瞬訝〈いぶか〉しく思ったんだけど,本人の口から『やめなきゃとは思ったものの,なん度も繰り返してしまった』という説明を聞かされて所謂“常習犯”だとわかって合点がいった。万引きみたいな,それほど重罪とは思えない犯罪でも,中味は「窃盗」だから繰り返せば刑務所に収監されることも当然あり得るに違いないは違いないんだけど,仮にも子どもらに勉強を教える職業の人が,一体なんで最悪の結末を迎えることになったのか,その辺りがわたし的にはかなり理解不能だった。人間のすることだから,たとえ先生であったにしても,いっぺんくらい過ちに手を染めることってのはあるに違いない。しかし,そこで更正してれば刑務所送りになるってことはまずなかったわけで,この人は犯行に及ぶ瞬間に,自分が面倒をみてる子どもたちのこととか,全く頭に浮かばなかったのだろうか?もしも犯行が発覚して警察沙汰になれば,こんだけネット上には個人情報が曝露されてる御時世にあっては,直ぐに子どもたちの知るところとなって,先生に対する敬愛の情ってのは,容易に侮蔑の思いに取って代わられるに違いなく,そういう最悪の事態を想像できるのだとすれば,どこかで歯止めが掛けられたような気がしてくるわけだ。それができなかったとすれば,よっぽど万引きに対する依存性が高かったということなのだろう。そういう人たちのことを「クレプトマニア」と呼んだりもするんだけど,比較的社会的な地位の高い人が陥りやすい傾向があるという話もある。いずれにしても,彼女よりも彼女が関わった子どもたちの方が遥かに気の毒な話だと思う。仮にも先生でもあれば,自分にそういう好ましくない性癖があるという「自覚」はあったんだろから,悪い衝動に駆られるリスクが高い実店舗で買い物するのはなるべく控えて,ネット通販みたいなもので必要なものを買い揃えるくらいの工夫ができなかったもんなのだろうか?通販なら万引きのしようなんてないわけだし,その間に仕事を通して子どもたちと接し,子どもの「思い」に触れるうちに,彼女の中にもあるに違いない「良心」が呵責の念に苛まれ,『子どもたちを悲しませるようなバカな真似はやめよう』という真摯な気持ちが萌芽してきた可能性ってのは十分にあったものと,わたしは推測するんだけど,この女性に限らず盗撮や痴漢みたいな性犯罪に手を染めて捕まるような教育関係者が,最近は異常に増殖しているような気がするのも確かで,こうした人たちの「心の闇」ってのが一体どこに端を発するものなのか,なかなか理解に苦しんだりもする。恐らくは,初めはホントに興味半分・面白半分レベルから始まるんだろけど,気がついてみれば,自分の意思ではもはや後戻りできないところにまで來てしまっているという図式が見え隠れする。この病的とも思える犯意を,教員としての多忙さや煩わしさのせいにするのだとしたら,これまた自分がみてる児童・生徒に対しての重大な裏切りであり,余りにも子どもたちが気の毒過ぎる気がしてくる。
恐らく江戸時代の昔から『職業に貴賤なし』というフレーズってのが日常的に人口に膾炙〈かいしゃ〉されてたんだとは思うんだけど,最近はそんな古めかしいフレーズを耳にする機会はめっきり減ってしまったといっていい。現代社会における親たちの指向としては,派遣社員・契約社員よりは正社員,中小民間企業よりは待遇面で安定してる公務員になってほしいという,我が子に対する切実な願望があるのだと考えられる。これってのは,我が子を思う親の愛情としては必ずしも間違ったことを言ってるわけではない。ただ問題だと思うのは,別に子ども的には,たとえば公務員としての学校の先生に積極的になりたいと希望してるわけでもないのに,親の意向にゴリ押しされる形で採用試験を受けて,たまたま合格して採用されてしまったときに,果たしてそういう人に教員としての職務がきっちり遂行できるのか?という疑問が完全には払拭できないのだ。教員になることを切望して採用された先生でさえ,黄塵に塗〈まみ〉れるうちに堕落していくのが世の常でもあるのに,もともと積極的な気持ちで教員になったわけじゃない人でもあれば,尚更日々の業務遂行の過程で様々いい加減なことを為出かす確率が高いのだ。そのために,県立●●高校への入学願書が正しく処理されてなくて,その子はその高校を受験する機会を教員のミスによって奪われてしまうような悲劇が過去には実際に発生してもいる。こういう,自分に全く瑕疵のない理不尽な扱いに対して,子どもの中に萌芽するものってのは,当該教師のみならず大人全般に対する不信感でもあるわけで,仮にこの子が将來は教員として自分も世の中に貢献したいという崇高な理想をもっていたとして,今は教員というものに対する不信感や失望感のみが残されてるという,実に悲劇的な事態が目の前に横たわってることになるのだろう。これってのは,その子一人の将來の問題というよりは,日本社会全体に対する損失だといってもいいかもしれない。なんだか知らないけど,積極的にやる気があったわけでもないのに教員になれちゃった人と,教員になりたいという夢がありながら自己の責任とは全く違うところで夢を諦める必要に迫られるかもしれない生徒。まぁ,これも人生の中ではありがちな単なる「行き違い」だと説明される場合もあるとは思うんだけど,子どもの怒りや悔しさの捌け口ってのは,多分ない。そういう状況の中で生きてかなきゃいけない現実ってのは,なかなか辛いものがあるに違いなく,こういう子どもたちが未來の出世コースから外れて,むしろ人生の凋落コースを歩み始めることになるのだとしたら,この責任てのは一体だれがどんな形でとればいいのだろうか?教員に限らず,日本には「聖職」と呼ばれるような職業がいくつかある。そういう職業に憧れて,将來は自分もそういう職業に就くことを夢見てる人も少なくないんだろけど,単なる自己満足や,ただなんとなくみたいな軽い気持ちでそこを目指された日には,大迷惑を強いられる人が大量に発生するのは火を見るより明らかだ。たとえば聖職の代表みたいな医者にやっとの思いでなることができたとして,さて診療科を標榜するに際してどうしたものかと考えると。因みに日本では,医学部医学科さえ出てれば,特殊な診療科─たとえば麻酔科─みたいなものは別として,耳鼻科であろうが産婦人科であろうが内科であろうが,どの科を標榜するかは全く個人の裁量にまかされている。そこで客単価が一般に高い皮膚科を第一標榜科にして開業したと。ところが或る日,折悪しく自分が開業する医院前で交通事故が発生し,道路には血まみれの人が投げ出されている光景を見て救急車が現場に到着する前に,その皮膚科の医者が道路に出てきて,わたしは医者だから外科的処置ではあるんけど,自分が応急処置をしようと進んで言うことができるかが,その人の医者としての使命感&倫理観を測る「物指し」になるといっていい。事故を目撃しながら,建物から出てきもしないで知らんぷりを決め込むような医者では,果たして皮膚科医としてすら大丈夫なのかという医者としての能力─というよりも人としての人間性─を疑われても文句は言えない。実際にそのような医者ってのは少なからずいるに違いなく,挙げ句の果てには,子どもたちの希望や夢までも確実に台無しにしている,全く使えない連中(=バカ医者)という話だ。
@「常識」とは果たしてなんなのか?
わたしたちが日々の日常生活を営む上で,常套句のように口を突いて出て來る言葉というのは,個人によっても世代によっても違うとは思うんだけど,豊富なヴァリエーションに彩られている。たとえば比較的若い世代なら「うざい」「きもい」。年配の人なら「結構毛だらけ猫灰だらけ」「その手は桑名の焼き蛤」のような,なんと言えばいいのか所謂“おやじギャグ”的な言い回しがそうなんだと思うんだけど,実際にそれを若い連中に言おうものならドン引きされる確率がかなり高くなっているのが実情で,年配者が若者に対して喜ばれるような気の利いた洒落をひねり出すのは,大変厳しい現実があるようだ。これはどういうことかというと,今の若者にとっての言葉のスタンダードというのは,きゃりーぱみゅぱみゅであったり,ももいろクロバーZが発する奇妙奇天烈なワードを,そのまま自分たちのボキャブラリーに加えることによって日本中に拡散して定着するような構図になっているので,若者にとっておやじギャグが全く共感することのできない,面白くもなんともないものになってるのは或る意味道理だ。むしろ逆に,若者のスタンダードになってる「激おこプンプン丸」みたいなフレーズを積極的に使う大人が若者受けするのも,これまた道理ということになる。言葉というのは「生き物」なので,流行り廃りが激しいのも確かで,とくに若者が使う言葉というのは,かなりローテーションが速いから,調子に乗って「激おこプンプン丸」をバカの一つ覚えみたいに使ってると,やがてはドン引きされるのが既定路線だといっていい。
ところでわたしたちは,よく「常識」という言葉を日常茶飯事使う。『おまえは常識がない』とか『一般常識を身につける』とか,「常識」という言葉が深くわたしたちの生活に入り込んでいるのは間違いない。ここで例によって手許にある国語辞典で引いてみると『一般の社会人として,だれもが共通してもっている知識や分別』とある。ここに書いてある内容にけちを付けるような人ってのはまずいなくて,まさに書いてある通りだと納得するに違いない。だが,果たしてホントにそうなのだろうか?『日本の常識,世界の非常識』などともしばしば揶揄されたりもするように,わたしたちが「常識」だと思ってることの中には,実はそうではないことが現実に存在してることは疑いの余地がない。一般に宗教や文化が違えば,社会人として押さえておかなきゃいけない知識や分別も当然違ってくるわけだから,そのこと自体になにか不合理があるわけではない。ここでは,内閣総理大臣安倍晋三の行動や言動を取り上げながら考えてみたいと思うのだけれど,既にニュースなどでも繰り返し報道されている通り,広島市の安佐南区と安佐北区を集中豪雨と,そこから派生的に発生した土砂災害が集落を襲い,大勢の死者・行方不明者が出る惨事になっている。その真っ只中にあって内閣総理大臣安倍晋三は,静岡県の別荘近くのゴルフ場でゴルフをプレーした後で都内の官邸に戻り,関係するセクションの大臣らに指示を出した後,また再び静岡の別荘に戻って静養に入ったという。このことを受けて,『安倍晋三はおかしいんじゃないか。国の最高責任者だろ?』みたいな意見がネット上にも書き込まれたりもしている。わたしは安倍晋三のファンでもなんでもないことを前置きした上で,仮に安倍晋三がゴルフしないで官邸に戻って,缶詰状態で対応したからといって劇的に効果的ななにかが出來たとは到底思えない。これってのは,現場で対応してる人が一番状況を把握してるわけだから,いちいち官邸から指示を仰がなきゃいけないような性質の話ではないし,ましてやヘリコプターかなんかで,いきなり現場に來られてしまった日には,却って現場に混乱を來す可能性が極めて高い。だがその一方で,今回の災害が広島ではなく安倍晋三の地元である山口県内で発生していたとしたら,恐らく彼はまた別な対応をしたに違いない。直ぐにでも現地に乗り込んで被災者を励ます。そうすると励まされた方は精神的に勇気づけられて大喜びする。このことってのは,一体どう解釈すればいいのだろうか?恐らく安倍晋三は思慮分別(=常識)がないわけではなくて,自分がどう行動するのが自分にとって好ましい結果を齎〈もたら〉すことになるのかを,彼なりに考えて動いているのだと考えられる。仮に今回の災害で,安倍晋三が官邸に籠るなり,被災地に乗り込むなりすれば,広島市民・国民には大喜びはされなくても,小喜びくらいはされるんじゃないかくらいのことは考えたのかもしれない。だが敢えてそうはしなかったのは,彼には彼なりの目算があったからに違いない。逆にいえば,なんの目算もなしに,それこそ行き当たりばったり的にしか行動できないのだとしたら,そのような首相を戴かなきゃいけない日本国民が気の毒過ぎだ。その意味でいえば,安倍晋三は辞書的な意味での「常識」はもっているのだろうと推測される。この際安倍晋三に欠けているものがあるとすれば,それは広島市民や被災者を思う「思い遣り」の気持ちであり「やさしさ」みたいな気持ちではないかと思うわけだ。
また安倍晋三は,事あるごとに東京九段にある靖国神社に参拝したがる。参拝しないまでも,なんらかアクションをおこしては,中国や韓国の猛反発を買う事態を惹き起こしている。安倍晋三自身は,祖国のために戦い非業の最期を遂げた「英霊」に対して哀悼の気持ちを捧げるのは,現代日本に生きる者として当然の行いだと説明する。恐らく安倍晋三の言い分というのは間違いではない。ところが,中国政府や韓国政府は,戦争犯罪人として極刑に処された東条英機らまでもが一緒に祀〈まつ〉られている靖国神社に参拝するというのは,戦犯までも信仰の対象とする行為であり,日本が過去に惹き起こした戦争を反省しないばかりか,かつての植民地支配を正当化しようとする意図さえ感じると主張し,猛抗議をしてくるのが常態化している。日本人の考え方からすると,たとえ極悪人でも死んでしまえば死者はだれでも仏として扱われるような宗教観があって,いっぺんお墓に埋葬した遺体を掘り返すみたいな行為自体が罰当たりな行為とみなされる。ところがヨーロッパでは,気に入らない王様が死んだ後に,わざわざ埋葬された遺体を掘り返して,その遺体の首を刎ねるようなことが実際に行われた。悪人は死んでも悪人という宗教観があるからかもしれない。現代の中国や韓国の宗教観が一体どういうものなのかは知らないんだけど,普通に考えてヨーロッパよりは日本に近いに違いない。にもかかわらず,これだけ問題が尾を引くというのは,第二次大戦前の日本による植民地支配がよっぽど屈辱的だったのだろう。しかも,中国や韓国は戦勝国,日本は敗戦国なのにむしろアジア唯一の先進国として台頭している現実が面白くないということもあるに違いない。それにしても,思想信条の自由はひとまず置いといて,縺〈もつ〉れた糸をさらにこんがらがらせるような参拝を強行する必要性ってのは,果たしてあるのだろうか?ここでも安倍晋三は隣国に対する「思い遣り」や「配慮」が足りないってことにならざるを得ないのだと考えられる。念のために言っとくんだけど,わたし自身は現在中国が東シナ海や南シナ海で展開している「力による現状変更」戦略に危ういものを感じているし,苦々しくも思っている。尖閣諸島をめぐる日中の攻防に関しては,一切妥協する余地はないし,もっと積極的な攻めの姿勢に転じる必要があるとも思っている。しかし,だからといって中国の挑発に安易に乗ることが賢明でないのは明らかで,中国と同じ土俵には上がらないことが大切なのだと思う。それに,靖国神社をめぐる問題と尖閣諸島をめぐる問題をリンクさせて,日本人のナショナリズムを煽るのは,むしろ日本人のクオリティーを貶〈おとし〉める愚行だとも思う。
それで,拠って立つ宗教や文化がそもそも違う諸外国の人のみならず,日本国内にあってさえも現代においては多様な価値観が交錯しているわけで,そのような状況下でなにが「常識」かなんてことを一義的に定義することは不可能だし無意味でさえある。『若者の常識,おじさんの非常識』という現実すら日常的な光景になりつつある。そもそも,まともに義務教育を受けてきた人であれば,辞書的な意味での「常識」は弁〈わきま〉えているのだと考えられる。ショップに展示してある鉄人28号のフィギュアを万引きしてはいけないとか,電車内で携帯電話の通話は控えるべきだみたいな「常識」は,恐らくだれもが心得ているに違いない。にもかかわらず,平気で「常識外れ」と思しき行動をしてしまうのは一体どういうことなのだろうか?一言でいってしまえば,それってのは「想像力」欠如のなせる業である。常識がないのではなくて,想像力がないのだ。もし自分がこの高価な鉄人28号をパクったとしたら,防犯カメラで一部始終が撮影されているかもしれない。場合によっては,それがネット上に出回りさえするかもしれないという想像力が働らくのだとしたら,普通の人は万引きみたいな割に合わない行為はしない。また,電車内で通話すれば明らかに周囲には迷惑になるだろうし,ひょっとしたら,この近くにはペースメーカーを入れている人もいるかもしれないという想像力を働かせることができれば,電車内で携帯電話をめぐるトラブルなんてのはおこるはずがないのだ。先に例に引いた安倍晋三の一連の行いにしても,想像力が働いていない結果だと言っていい。もし『いや,わたしは十分に想像力を働かせていますよ』と彼が反論するのだとしたら,安倍晋三の想像力の限界を,わたしたちはそこに見ることになるだろう。同じような学力,同じような生い立ち,同じような見て呉れでもって人間性に差が出るのだとしたら,それこそが「想像力」の差だと言って差し支えない。想像出來ない人には,「やさしさ」も「思い遣り」の気持ちも湧いて來ないのだ。繰り返しにもなるけれど,わたしたちに欠けているは「常識」ではなく「想像力」なのだ。
それならば,この「想像力」ってのは一体どうしたら涵養出來る性質のものなのだろうか?普段,ポケ~ぇっと過ごしてるようでは話にならない。喜怒哀楽の感情がないところに想像力は生まれない。その意味でいえば,小さいときから積極的に人と交わることが非常に有効だとは思うんだけど,核家族の伸張や少子高齢に伴って,ひょっとすると,それも難しくなっているのかもしれない。生き物を飼うってことも有効な手段だと考えられる。犬や猫の温もりに触れ,その時々の気持ちを想像してみる。そして,死に接して涙するみたいな体験が想像力の源泉になるのは間違いないんだけど,犬や猫を飼える環境もまた縮小しているのかもしれない。このように考えてみると,今の日本というこの国が,いかに想像力が育ちにくい状況にあるかがよくわかる。その結果として,通常ならあり得ないような事件・事故が日々日本の至るところで発生するのも,悲しい話ではあるけれど,然もありなんという気がしてくるのだ。その上で,いまわたしが声を大にして言いたいのは,常識という陳腐で無味乾燥な言葉に振り回されるのではなく,想像力を涵養して十分に働かせることを武器に,未知の領域を開拓する進取の気概をもってほしいということ。仮に周囲の人からは白い目でみられ,えげつない言葉を浴びせられたとしても,その想像力が間違っていなければ必ず世の中がそれを受け容れる瞬間が訪れるということ。別な言い方をすれば,自分こそが新たな常識を創り出す「創造者」になるということ。ここまでに至る道というのは決して平坦なものではないけれど,正しい想像力に裏打ちされた取り組みであれば,いずれは必ず大輪の花を咲かせることが出來るのだ。