私淑語〈ささめごと〉presented by@ちかチャンネル -5ページ目

@尾木ママ




日本列島に暮らす以上,避けては通れないものがいくつかある。地震(&それに伴う津波),台風,火山被害などがその代表だといっていいだろうか。いまもまた台風19号が列島縦断の可能性を孕〈はら〉んで北上を続けている。この前はなんの前兆も告知されることなしに,いきなり御嶽山が噴火して,なん十人もの人が亡くなったり瀕死の重傷を負ったりもした。その際の行方不明者の捜索も未だ終結を見ていないところにもってきて,今度の台風というなんとも皮肉な事態にもなっている。これってのは,ホントに不可避的なことではあるんだけど,考えてもみれば,こういう自然災害みたいなものってのは,日本列島に人が住み着いて以來なん千回も繰り返されてきたわけで,それにもかかわらずこの小さな島国に,一億人を超える人たちが暮らしているというのは,或る意味,実に不思議で奇跡的なことにも思われる。前回のブログで触れた日本人のノーベル賞受賞にも微妙に関係してると思われるのは,多くの犠牲者を出す甚大な自然災害を跳ね返す“バネ”のように機能しながら,日本人の「知恵」というのは脈々と受け継がれ,進化して「ものつくり」技術の礎になっているということだ。仮に日本列島が自然災害とは無縁の楽園みたいなところで,人々がそれこそのんびり呑気に暮らしていけるような土地柄だったとしたら,今のような技術力が構築されることはなかった。それは,楽園に必要のないものであるからにほかならず,まさに『必要は発明の母』というこの格言を地で行ってるのが,われわれ日本人なのだ。

ところで,尾木ママこと尾木直樹という人は,日本国内にあっては「発信力」のある人のひとりだと思うわけなんだけど,この人が台頭して來た当初,正直わたしはこの人の話に共感することができなかった。それがなぜだったのかも,正直はっきりしない。ただ一般に「●●評論家」という肩書きを持つ人は,「●●を現に実践してる人」とはしばしば対立する。たとえば,音楽評論家と呼ばれるような人たちは,或る演奏家の演奏や楽曲の解釈について論評するのが仕事でもあるわけなんだけど,『その解釈は間違ってる』とハッキリ言われるのだとしたら,演奏家的にまずいい気はしない。評論家というのは,理念とか理想的な状態を尊ぶわけだから,その理念や理想から外れた「現実」に対しては,『それはおまえが悪い』とハッキリ言うのが“商売”でもある。言われ方にもよるんだろけど,言われた側の当事者は当然ムカつく。なにかを実践するに当たっては,お手本があってほしいのは当たり前で,それが体系化されたものが「理論」である。理論は理念や理想をまとめたものだから,この三つの言葉─理論・理念・理想─は,ほぼ同じことを言っていると考えていい。同じような例として「歴史哲学」と「歴史学」という概念もまた,互いに衝突しやすい。世の中に歴史哲学者と呼ばれる一群の人が果たしてどれほどいるのか判然としないのだけれど,わたしにおいては慶應義塾を出て,そして慶應義塾を教えた歴史哲学者の神山四郎氏を抜きにしては,この話を語ることはできない。わたしは神山先生に直接教えを受けたことはないのだけれど,その著書やメディアを通して先生の「思想」に触れた経験がある。神山先生はその人生のほとんどを慶應義塾に注ぎ,教授,名誉教授となり,最晩年に慶應義塾から千葉市にある神田外国語大学に移り,教授として最後の教鞭を執り,一九九七年に77歳でその生涯を閉じられた。いまとなっては,先生の著作を手にすることもなかなか難しくなっているのだけれど,『講談社現代新書[歴史入門]』でもあれば,中古書として比較的容易に入手可能でもあるかもしれないのだけれど,ここで書かれている内容というのは,『歴史哲学vs歴史学』のまさにその“歴史そのもの”だといっていい。より具体的に言えば,「歴史学というのはかくあるべし」という歴史哲学的考え方と,実際の歴史学(者)が実践してきた歴史研究の方法論の「断絶(または対立)」について書かれたものである。いかなる学問にしろ,サッカーや体操の技術習得を目論むにしても,初めはあらまほしき(=あってほしいと願う)なんらか「お手本」ではあるんだけど,やがて自分が実践してるうちに『なんか,違うんじゃないか?』と感じる瞬間が訪れる。その流れってのは,或る意味至極当然で,そもそも「お手本」自体が他人が考えたり実践したものをまとめた結果なわけだから,『他人=自分』ではない以上,必ずどこかで破綻が生ずる運命にある。それこそが『理論⇔実践』という対立の構図でもあるんだけど,破綻の局面に瀕したときに,どう振る舞えるかがその人間の能力を表していると言っても,恐らく言い過ぎではないだろう。敢えて喩え話に置き換えて説明を試みるとすれば,体操の選手が《理論⇔実践》のディレンマに陥って藻掻き苦しんでいるような場合に,結局が三流以下のアスリートで終わってしまうのか,白井健三のように新しい妙技「Shirai」を編み出すことが出來るのかという“雲泥の差”の展開があり得るということだ。

これに関連してひと言触れておきたいのは,相手がどんな人間であるにせよ,その言説の中になにがしかの“教示”があり得るということだ。たとえば或る高校生にとって,やることなすことが気に食わない国語の教師がいると。授業の中味もちんぷんかんぷんで,人間的にもまるで尊敬できないいわば“ダメ教師”と思ってた人が,或るとき授業中になに気なしに自分に放ったひと言が,そのときの自分にとっては,他のだれのどんな言葉よりも,自らの琴線に鋭く触れる言葉だったりすることってのは実際にある話だ。そのひと言だけでもって,従前の好ましくない評価がドラスティックに変化するとはなかなか考えにくいにしても,琴線を激しく揺す振ったその言葉だけは,無意識のうちに一生涯心に深く刻まれる。その意味では,先に述べたような尾木ママの話に共感できなかったという文脈も,たしかにマクロな視点からすればそうだったのかもしれないんだけど,ミクロな視点では共感できる部分てのが実はあって,それがいまも尚,心の奥底に深く刻まれている可能性が排除できないということだ。

さて,悲しいことではあるけれど,この世の中には多くの「理不尽」が満ち満ちていて,余りの理不尽さに自暴自棄的に暴力みたいな手段に訴えたくなるような体験てのは,人生において一度や二度ではないかもしれない。だが,理不尽に対して暴力を以ってどうにかしようとする行為ってのは,理不尽に対してまた理不尽で片をつけようとする明らかな愚行である。相手が人の場合でもあれば,殴られたから殴り返すというのは,手っ取り早い憂さ晴らしとしては,たしかに一定の有効性をもっているかもしれない。しかし,相手が「自然」だったとしたらどうだろうか?自然の理不尽さ─御嶽山の噴火も収まらないうちに台風か來る─に対して,なにがしかの理不尽さで対抗したとしても,自然はびくともしないし,ひょっとすると,さらに理不尽な手段に訴え,わたしたちを脅かしさえするだろう。この場合,わたしたちはこれまでに蓄積された叡智を結集して,極めて冷静かつ合理的な方法で自然の脅威を出來得る限り減らすしかないのだ。それが新たな「日本人の知恵」としてこれまでの蓄積に上書きされることで,日本(人)のもつ技術力は一層精緻なものとなり,日本国内のみならず,世界中の国々の救世主にもなり得ることを,わたしたちは決して忘れてはならないのだと思う。その一方で日本の周りには,それこそ評論家のように,日本に対して悪意ある論評や主張を突きつけてくる国が存在していて,それはそれは鬱陶しくて腹も立つ。ここでも《理論⇔実践》というディレンマが存在していて,「善隣友好」みたいな近視眼的な理論に囚われ過ぎると,日本は「Shirai」のような技を編み出せない三流アスリートで終わってしまうのだ。いま日本が置かれてる「内憂外患」の立ち位置というのは,とくに“外患”の部分では,まさに《理論⇔実践》の瀕死の局面に立たされているのだと言っても差し支えない。仮に政治が間違ったことをやらかすのだとしたら,日本は確実に破綻への道を歩み始めることになるのは,もやは否定しようがない,それほど重大な局面に立たされていることを果たしてどれほどの政治家が認識しているのか,極めて謎だ。

@雑感




二〇一四年十月七日の日本時間19時直前に,スウェーデン王立アカデミーは二〇一四年のノーベル物理学賞を三人の日本人研究者─赤崎勇〈名城大学教授〉,天野浩〈名古屋大学大学院教授〉,中村修二〈カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校教授〉─に授与すると発表した。ノーベル賞のひとつの部門において,同時に授賞できるのは最大三人までと決められている関係から,今回の物理学賞は日本人が「独占」する形となり,これは今から6年前の二〇〇八年に南部・益川・渡辺の三氏が,ノーベル物理学賞を授賞され,日本人が独占したとき以來の喜ばしい話題だといっていいように思われる。ただし,南部さんは既にアメリカ合衆国国民としての市民権を有しているという事情もあって,アメリカ合衆国が「アメリカ人」として南部さんを扱いたいということを熱狂的に主張するようにもなれば,その図式が変わることが余儀なくされる事態も想定できないわけではないのだけれど,ここでは南部さんは「日本人」ということで話を進めていきたいと思う。

日本メディアの報道では,今回の新たな三人の受賞者を含めて日本人のノーベル賞受賞者は22人になったのだという。かなり前のブログ【09/02/2011[@ノーベル賞を考える]参照】で,わたしは次のような算式を立式してみた。《σ=(φ÷p)×(λ÷t)×θ》ここでφ=現在のA国の人口(単位は億人),p=基準となる国の現在の人口(単位は億人),λ=A国における欧化の歴史(単位は年),t=基準となる国の欧化の歴史(単位は年),θ=基準となる国のノーベル賞受賞者の総数である。この数式にいま現在の日本(つまりA)の現況を当てはめてみようと思うのだけれど,「基準となる国」としてはアメリカ合衆国を選ぶと,まずφ=1.25,p=3,λ=150,t=1500として,問題はθの値なんだけど,なにしろアメリカ合衆国は多民族国家なので,とりあえずθ=300としてみると,σ=1.25÷3×150÷1500×300=12.5となるんだけど,このσ〈シグマ〉が意味してる値というのが実は,今の日本におけるノーベル賞の「適正受賞者数」を表していて,計算上は12.5人であることがわかった。だが最初にも述べた通り,日本人受賞者の総数は22人であることから,計算から得た12.5人よりも十人くらい開きがあることがわかる。わたしは計算において,日本の欧化の歴史を150年としたんだけど,これは江戸幕府が滅んだ西暦一八六七年を念頭に置いてのことではあるのだけれど,逆にσ=22としてλを未知数とする方程式『22=1.25÷3×λ÷1500×300』を解いてみるとλ=264となり,日本の欧化の歴史が264年だというのだ。今から264年前というのは,西暦一七五〇年でもあり,日本の元号では寛延三年に当たる。因みに翌寛延四年に江戸幕府八代将軍徳川吉宗が66歳で没し,元号も宝暦に改められた。

徳川吉宗という人は非常に学問を好み,中国や日本の古典に限らず天文学みたいなサイエンスに対しても興味を示したという。そのため,所謂“鎖国”の関係で,日本国内に持ち込めなかった洋書も「漢訳洋書」─つまり中国語に訳されている書物─で,キリスト教に無関係なものであれば,国内に持ち込めるように政策を緩和した。この結果,国内では「蘭学」が盛んになり,日本で最新のヨーロッパの知見が研究できる端緒を開いた。その意味でいえば,日本の欧化の歴史は吉宗の時代に既に始まっていたと言ってもいいのかもしれない。だとするならば,日本人ノーベル賞受賞者が22人というのは,まさに“適正な”結果ということになるのではあるまいか?

@一等国への道




つい先日,わたしたちが日常的に「イギリス」と呼んでいる国で,その「イギリス」の一部を構成しているスコットランドが現在の枠組みから抜ける,抜けないで国論を二分する,非常に重要な住民投票が行われた。この話が厄介なのは,さっきわたしが「国論」と表現した際の「国」とは,実はスコットランドなのであって,イギリスではない。既に話がややこしくなってると感じる人もいるかもしれない。この一つの原因は,日本国内における教育やメディア報道,延いては日本政府さえも「イギリス」と便宜的な呼び方を明治の昔から継続的に使用していることにあるのだと考えられる。実際問題が,わたしたち日本人が日本国内で日常生活を営む上では,便宜的な呼称で困るようなデメリットってのはほとんどないし,却ってデメリットを補って余りあるメリットがあると言ってもいいかもしれない。わたしたちが普段無意識的かつ便宜的に「イギリス」と呼んでいる国家の正式な国名は「グレートブリテン・北部アイルランド連合王国」なのだけれど,この名称ってのは英語を日本語に直訳したものに過ぎず,いまいちその実態を的確に言い表したものにはなっていない。それにしても,異様に長い国名であり,これをニュースや日常会話でいちいち口にしなきゃいけないとすると,イギリスという便宜的な呼称がかなり合理的で,いかに有り難みが実感できるものであるかがわかる。日本が北海道・本州・四国・九州という主要な四つの島々から成り立っているように,実はグレートブリテン・北部アイルランド連合王国も,大ブリテン島とアイルランド島という主要な二つの島から成り立っていて,アイルランド島に北アイルランド(首都ベルファスト),大ブリテン島にはウェールズ(首都カーディフ),イングランド(首都ロンドン),スコットランド(首都エディンバラ)という三つ,都合四つの全く違う国家のいわば“寄合所帯”がエリザベス二世女王陛下という共通の君主の下に「連合王国」として,あたかも一つの国であるかのように現在の政体に治まっているのだ。イングランドとスコットランドは,そもそも話す言葉が異なり歩んできた歴史も支配する側・される側みたいに複雑な事情があって,もともと仲がよくないと言われている。そんな背景も手伝って,今回のスコットランドの住民投票につながったのだとは思うのだけれど,連合王国からの離脱が実現をみることはなかった。ウェールズの人もそうだとは思うんだけど,スコットランドの人に“Are you an English?”〈あなたはイングランドの人ですか?〉などと質問した日には,まずいい顔はされないし,即座に“No,not at all!I AM a Scott!”〈イングランド人なんて冗談じゃないね。わたしはスコットランド人だ!〉と憤慨されるに違いなく,わたしたち日本人がどれほど彼らの国民性や民族意識に対して無頓着であるかを思い知らされるエピソードだと思う。さっきも述べたように,これってのは日本における便宜的な呼び方が普及した一つの弊害ではあるんだけれど,グレートブリテン・北部アイルランド連合王国に暮らす人たちみんながみんな「イングリッシュ」ではないことについて,そろそろ明確に認識を改める時期にきているのだと考えられる。いかんせん,日本国家開闢〈かいびゃく〉以來二千年以上の歴史があるわけなんだけど,この間わたしたち日本人はただの一度も異民族からの侵略をうけることもなかったし,植民地化を経験することもなかった世界でも極めて珍しい国家・民族である。それゆえに,侵略と征服の歴史に翻弄されてきた外国人に対する感情移入がまるで出來なくて,とんだ誤解に曝露されてしまうことも日常的な生活のひと齣〈こま〉になってしまっているのだと考えられ,決してこれまでの日本の歴史が世界のスタンダードではないことに,十分に思いを馳せる必要があるのだと思う。

それで,わたしが尊敬する数少ない先達に英米文学者で明治大学名誉教授の越智道雄先生がいる。彼は一昔前には盛んにメディアに登場し,アメリカ合衆国の抱える矛盾などについて鋭い持論を展開したりもしていた。彼の考え方の柱の一つに「多文化主義」─文化相対主義とも─の尊重というのがある。これは,たとえばアフリカのサバンナに暮らす民族とニューヨークの大都会に暮らす人たちが,それぞれ担っている文化に優劣なんてものは存在しないという考え方である。越智先生に限らずこの多文化主義の意義を説く学者は多くて,それに関する論文・著作も大変に多い。わたしも,ひょっとするとそうなのかもしれないと思う一方で,やはり未開民族の文化を,近代の欧米や日本の文化と対等に見るってことにはムリがあるような気がしてならない。たとえば,サバンナではほぼ半裸で日常生活を送ることが普通の彼らが,東京の街中でサバンナでの恰好とおなじような半裸状態で道を歩いてたとしたら─ひょっとすると,法令なんかによる制約もあるとは思うんだけど─警察に検挙される確率が極めて高い。警察署でこれが我々の民族の文化だからといくら説明したとしても,まず納得はしてもらえないだろう。大昔には,日本人もまた半裸に近い状態で生活を営んでいた。それが,やがては衣服をまとう生活様式に変化を遂げることになったように,《裸⇒衣服をまとう》という生活様式の変化の図式は,人類における必然の流れではないかと思うわけで,地球上のいかなる場所に暮らすにしても肌の露出が多いというのは,それだけ生命の危機に直結するような性質の大問題だと言っていい。衣服の問題だけにとどまらず,世界中に暮らす未開民族と呼ばれる人たちの生活様式の行き着く先というのは,時間はかかるんだとは思うんだけど,現代欧米や日本が謳歌している「今の現実」を目指さざるを得ないような気がしてならない。ただ,今の段階で確実に言えることは,今の欧米や日本のファッションを含むカルチャーがどれほど斬新でアヴアンギャルドなものであったとしても,それだけでもって,一等国の要件の全てを満たしていることにはならないということだ。

ここで目を中国・韓国に転じてみようと思うのだけれど,第二次世界大戦後の経済成長の実績を背景に韓国はソウルオリンピック,中国は北京オリンピックなどの開催を実現・成功させ,国力の充実を国際世界にアピールし,一等国として認知されようと様々な手練手管を弄してきてはいるんだけど,両国とも現状一等国には程遠い。近代国家の概念を作り上げたのは,言うまでもなくヨーロッパ人である。様々な思想家たちが「(近代)国家」としての体裁を整えるに当たって必要な要件の提示を試みてきた。その中でわたしがとくに重要だと思うのは,①三権分立の確立,②思想・言論の自由の保障,③国際法遵守を前提に外交権を行使することの三点だ。この基準に照らしてみたとき,中国はどれ一つ取っても満足いく振る舞い方をしてはいない。三権分立というのは,「法治国家」を実現する上での最低条件だといってもいい。中国政府は,欧米諸国や日本などからなにか問題を指摘される度に,自分の国は法治国家であることを強調し,延いては法治国家に対する内政干渉とまで主張して憚らない。そこには法治国家に対する中国政府“独自の”解釈が存在していることを意味していて,その解釈ってのは到底欧米や日本のそれと相容れないものになっている。これってのは,思想・言論の自由の保障,国際法遵守を前提に外交権を行使するという考え方の乖離にも等しく投影されている。現在世界的な関心の的になっている武力を背景にした南シナ海・東シナ海における中国の傍若無人ぶりに関しても,同じ文脈の中で理解できる性質の話だ。こういう横暴な国が国連の常任理事国のメンバーにいることが,そもそも大きな間違いだと思うわけで,その意味でいえば,今から七〇年前に設立された国連の在り方自体が,既に現状に合わないものになってきていることを示してもいるのだろう。所謂“拒否権”をもつ「五大国」を中心とする国連の安全保障理事会も,既に時代遅れなものになりつつあるのだと考えられ,誤解を恐れずに述べるとすれば,国連そのものの解体をも含めた,真に抜本的な改革が求められているのだと思う。韓国についても,まぁ似たようなことが言えるのだとは思うのだけれど,最近でいえば例のセオウル号沈没事件に関連して,船主の責任を明らかにし財産没収のための立法を行う旨を大統領パク・クネは遺族に高らかに宣言したわけだけれど,一般に法治国家であれば『法律不遡及〈ふそきゅう〉の原則』というものがあって,事件発生時に存在してなかった法律を事件後に立法し,過去の事案に適用することはできないという大前提がある。その“掟”を平気で反故にできるような韓国という国は,当然のことながら国際的評価は低い。日本人のアメリカ合衆国への年間留学者は三万人程度なのに対して,韓国のそれは十三万人に上ると言われている。この背景には,韓国人の若者たち─とくに上流階級に属する人たち─の自国に対する嫌悪感─すなわち嫌韓意識─があるとも言われている。他人事ながら端から見ていて『然もありなん』という気がしてくる。

それでは,果たして我が日本はどうなのだろうか?日本が世界に誇る技術力なんてのは世界中の国々が称賛する,たしかに自慢していいものだ。また,マンガやアニメ,最近では日本食に代表されるような日本文化も世界中の多くの人の心を惹き付けているといっていいだろう。その意味でいえば,外国の人から見た日本というのは,或る種の“パラダイス”と言ってもいいような存在なのかもしれない。しかしながら,わたしたち日本人から見た日本は決してパラダイスなどではない。なんべんも言うように,東京電力福島第一原子力発電所からの汚染水の漏洩は,三年六カ月以上に亙ってつづき,収束の目処さえたっていない。この間,東京電力からの電力供給を受けている主に関東地方の人たちの電気料金というのは,消費増税と相俟って留まるところを知らないくらい上昇している。これから寒い冬になれば,エアコンなどの電化製品をフル稼働しなきゃいけなくなるのは既定路線で,とくに病人などを抱える家庭の1ヵ月の電気代なんてのは,ひょっとすると食費を超えて「天井知らず」になる可能性すら排除できない。これは或る意味「生き地獄」と言っていいような大変に忌むべき状況だ。さらに平成27年に消費税率が再度引き上げられて10㌫になるのだとしたら,目も当てられない事態が待ち受けることになるのではあるまいか?内閣総理大臣安倍晋三の政治姿勢については,たしかに評価していいような内容がないわけではない。ただ,それが政治家としての「自己満足」の閾を出るものではないとしたら,安倍晋三の自己満足につき合わされる国民は堪ったもんじゃないし,これでは日本もまた中国や韓国と変わらない三等国・四等国に過ぎないということにならざるを得ないのではあるまいか?日本国家は先に述べた①~③をまずまず満たしているという意味では,さらには世界に誇り得る技術や外国人を魅了する文化の点では,世界中のどの国にも劣らない可能性をもっている。しかしながら,国内政治が政治家の自己満足を充足するための場に過ぎず,場合によっては,国民全体の利益よりも政治家個人の私利私欲を貪るための場になっているのだとしたら,江戸時代の黒船來航以來の日本国家の目標でもあった「一等国」への道程〈みちのり〉は二十一世紀の現在もなお,果てしなく遠いと言わざるを得ないのではないだろうか?