@『命は美しい』by乃木坂46を解釈してみた
月の滴〈しずく〉を背にうけて
一枚の葉が風に揺れる
その手放せば楽なのに
しがみつくのはなぜだろう?
なんのために生きるのか
なん度問いかけてはみても
空の果てまでも
暗闇が黙りこむ
夢をみられるなら
この瞼を閉じよう
悩んでもやがて夜は明けてく
命は美しい
はじめて気づいた日から
全てのその悲しみ消えてゆくんだ
永遠ではないもの
花のはかなさに似て
その一瞬一瞬が
生きてる意味
地平線から射し込んだ
藍色の陽〈ひ〉が語りかける
きのう途中で諦めたこと
今日もう一度始めよう
なんのために生きてるか
その答えみつからなくたって
目の前にある真実は一つだけ
それが幸せだと教えられるよりも
足下に咲いた花をみつけろ
命は逞〈たくま〉しい
この世に生まれてから
どんなに傷ついても
立ち上がろうか
棄〈す〉ててはいけないんだ
人は約束してる
みんな一人 そう一人 次の未來
命は美しい
はじめて気づいた日から
全てのその悲しみ
消えてゆくんだ
永遠ではないもの
花のはかなさに似て
その一瞬一瞬が
生きてる意味...

〔月の滴を背にうけて 一枚の葉が風に揺れる〕
*月の滴=月のきらきらした光
*一枚の葉は,不安定な立ち位置にいる人を象徴していて,「死にかけている人」と言い換えてもいい。
*ここの件の目線はストリーテラー的な第三者
【月の輝く光を背中に浴びながら,風に揺れる一枚の葉っぱのように(月の明るい光とは対照的に暗い)不安定な人間が独りここにいる】
〔その手放せば楽なのに しがみつくのはなぜだろう?〕
*ストリーテラー目線がつづく
【葉っぱが枝から吹き飛ばされて散ってしまうように,この際こいつも一思いに死んでしまえば楽なのに,人が死に切れずに生に執着するのは一体なんでだろう?】
〔なんのために生きるのか なん度問いかけてはみても 空の果てまでも 暗闇が黙りこむ〕
*人の目線に代わる
【自分がどうして,こんなに苦しい思いをしながら生きてなきゃいけないのか,その理由を繰り返し自問自答しても,暗黒の雲が空一面に垂れ籠め,視界が広がらないまま沈黙していて,生きてる意味なんて皆目見えてはこない】
〔夢をみられるなら この瞼を閉じよう 悩んでもやがて夜は明けてく〕
*人の目線がつづく
*この「夢」が「現〈うつつ〉」,すなわち今の自分の苦しい立場の対極に位置するものであることを意識させる。
*「夜は明けてく」には,自分が寝て目覚めたときには,悩みも一緒に解決されてればいいのに,という淡い希望を読み取ることも出來なくない。
【苦しい現実が忘れられるような素敵な夢がみられるのなら,瞼を閉じて眠りにつこう。一晩中悩み明かしても(寝ても,どっちにしても)いずれ必ず夜は明けるのだから】
〔命は美しい はじめて気づいた日から 全てのその悲しみ消えてゆくんだ〕
*この部分から先は,天の使い(=天使)目線に代わるも,「ストリーテラー=天使」であるかどうかは微妙。
【命は美しい(=生きてるって素晴らしい)とわかって初めて,(おまえは)これまでの全ての苦しみ・悲しみから解放されるんだよ】
〔永遠ではないもの 花のはかなさに似て その一瞬一瞬が 生きてる意味〕
*永遠ではないもの=人(の命)
【花が盛りである時間は短くて,一瞬一瞬が花にとって大切になってくるように,人にとっても一瞬一瞬が大切な,(その中で実際なにが大切かを判断するのはおまえ自身だけど)生きるに値する意味をもってるんだよ】
※たぶん普通は,「その一瞬一瞬が生きてる意味」の件は,「一瞬ごとの一挙手一投足に意味がある」,或いはアンジェラ・アキ風に「全てのことに意味がある(≒無意味なものなんてない)」と解釈する方が自然なんだろけど,わたしはそういう考え方は嫌いなので,そうは解釈しなかった。というのは,要するに人の全ての行動,或いは全ての出來事に意味があるという考え方は余りに窮屈すぎて,そんなら鼻くそを穿〈ほじ〉る行動や,なんとなくとった行動の全てに意味があるということにもなり,堪ったもんじゃない。
〔地平線から射し込んだ 藍色の陽が語りかける〕
*ストリーテラー目線
*藍色の陽=垂れ籠めた暗雲の隙間から射し込む淡い太陽の光。夜が明けたことを告げている。
【夜が明けて,相変わらず空は雲で覆われているが,語りかけるように雲の隙間から仄暗い光がかすかに射し込んでくる】
〔きのう途中で諦めたこと 今日もう一度始めよう〕
*「途中で諦めたこと」は,自分の生きてる理由を繰り返し自問自答しても,結局わからなかったことを指している。
*人の目線
【きのう結論が出なかった,自分が生きてる理由を,今日もういっぺん考えてみよう】
〔なんのために生きてるか その答えみつからなくたって 目の前にある真実は一つだけ〕
*この件は,結局なんで自分が生きてるのかなんてわからないんだけど,それでいいやという開き直りを表明している。
*目線は人
【自分がなんのために生きてるのか,結局その答えは見つからないとしても,自分がこうして現に生きてるという真実だけは否定しようがないのだから,それがわかっただけでいいじゃないか】
〔それが幸せだと教えられるよりも 足下に咲いた花をみつけろ〕
*開き直りをみせた人に,ストリーテラーがもっと開き直れと煽っている。
【だれかに,幸せってのはそういうもんだと教えられるよりも,自分自身の幸せ(=足下に咲いた花)を自力でみつけろ!】
〔命は逞しい この世に生まれてから どんなに傷ついても 立ち上がろうか〕
*再び天使の声
【人の命は逞しくて,この世に生を受けたからには,人生においてなんべん傷ついたとしても,その度に,さあ立ち上がろう】
〔棄ててはいけないんだ 人は約束してる みんな一人 そう一人 次の未來〕
*天使の声がつづく
*ここでの「棄てる」対象は未來であり,それは人生そのものと置き換えていい。
*「約束してる」とは「■■を予約してる」という感覚。一歩進めて「約束されている」ということ。つまり,人は(●●によって)将來(=■■)が約束されているということ。●●とは神や宇宙のような人を超越した存在。
*「次の未來」とは,これまでの苦悩に満ちた人生とは違う,希望に満ちた将來のこと。
【人は人生を放棄してはいけないよ。人は(神によって)輝かしい将來が,一人一人に確実に約束されているのだから...】
(以下リフレイン省略)
今回の『命は美しい』は,詞のテーマには一貫性がみられるものの,前作の『何度目の青空か?』に比べて,かなりシリアスな世界観が描かれていて,また曲のモチーフも手伝って,かなり「大人の」内容になっている。当初,下手な解釈を披露するよりは,各自自由に解釈してもらって,楽曲のもつ個性を楽しんでもらった方がいいと思ったものの,いざ自分で歌ってみると,曲に詞がついてこなくて,「全てのその悲しみ」と歌わなきゃいけないところを「その全ての悲しみ」と歌ってみたり,「どんなに傷ついても」がなかなか口をついて出なくて結構苦労したので,詞の意味内容のイメージを掴んでおいた方が却って歌いやすくなるかなと思いupしてみました。リクエスト有り難うございました♪
それで,この曲をカラオケなんかで歌う際には,兎に角,歌詞をしっかり頭に叩き込んどかないと,曲のよさを台無しにしてしまうので,最初に集中して覚えてしまいたいところ。PVなり映像や音源をなんべんも繰り返し見たり聴いたりすると。その際に『みおな,可愛い~ぃ
』的に映像に見惚れてしまうと聞き流しになってしまうので,集中して聴くと同時に,思い立ったらまた聴いて歌うと。しばらくは,これを繰り返すしかない。曲を歌う際に音がとりにくく,歌いにくいと思われるのが「花のはかなさに似て」からの「一瞬一瞬が生きてる意味」だと思われる。とくに「はかなさに似て」は「人は約束してる」を参考に,十分に歌い方を研究しないと音を外しやすい。大サビの一番大事な部分をしっかりとした音程で表現することが,曲全体の完成度を高める上で大変重要である。【『命は美しい』by乃木坂46】@理想と現実
人が生きていく道のりにおいては,当然のことながら様々な艱難辛苦〈かんなんしんく〉に出遭うことが予想されるわけで,恐らくそれらを完全に排除した生というのは有り得ない。どんなにお気楽な生き方をしてるように見えたとしても,その通りにお気楽な人生を歩んでる人なんてのは存在しない。もちろん,人生でなにが一番辛いかってことは人によって違う。日常的にガールフレンド(またはボーイフレンド)がいないのが一番辛いって人もいれば,病によって痛みが走るのが最も辛いって人もいるだろうし,どうガンバっても体重が全く減らないのが辛すぎるという人もいるだろう。どんな内容にせよ,当の本人にしてみるとそれが死ぬほど辛いわけで,第三者が勝手に判断して,あゝだこうだ言うのは筋違いであって,余計なお世話ということにもなるのかもしれない。
しかしながら,どういうケースにしても,自分が思い描いてきた理想と,今の現実に著しいギャップがあるとき,人は最も悩ましくなるのではあるまいか?だいたい小学校中学年くらいにもなると,人は自分の人生の青写真みたいなものを思い描き始める。たとえば《●●高校⇒◆◆大学⇒■■会社》みたいな青写真があったとして,仮に●●高校に行けなかったからといって,◆◆大学も■■会社もダメになるわけではないので,その段階で自棄〈やけ〉を起こすのは単なるワガママであり,要するに努力をしたくないというだけの話だ。大切なことは,理想と現実のギャップを埋める努力をするということ。もう少し具体的な話をするならば,ここに将來的にアイドル活動したいと願う小学4年生の女子がいると。彼女は飛び切り美形というわけでもなければ,楽器が弾けるわけでもないしダンスが出來るわけでもない,どこにでもいそうな極普通の女の子である。小学4年の彼女に今出來ることはなんだろうか?見て呉れをよくする整形,ピアノ教室に通う,子役養成所に入る,どれもお金の掛かる話で,経済的に物凄く余裕のある家庭ならいざ知らず,普通以下の家庭にはどれも厳しい相談だ。差し当たり,だれにでもできることとして,自分と同じような条件でアイドルになった人の伝記(というとオーバー)を読んでみると。そして,ファンレターの一通も書いてアドバイスをもらうと。こんな簡単なことが出來ない,或いはいまいち腰が重たいようならアイドルは諦めるのが賢明だと判断せざるを得ない。この段階がクリアー出來たなら,次にヲタ活をしてみると。AKBでもハロプロでもなんでもいいからコンサートに出掛けてみることで,自分に求められてるものが一体なんなのか体感出來もしようし,場合によっては会場でスカウトされるラッキーもないとはいえない。いえるのは,ヲタ活しないことにはラッキーもないということ。オーディションを受けることもヲタ活の一部と言っていいかもしれない。まだ小学4年ということもあって,エントリー出來るオーディションというのも多くはないかもしれないんだけど,オーディションは夢実現の大きな一歩である。仮に落っこちたとしても,克服すべき問題点が明らかになるという意味で,オーディション参加から得られるものってのは少なくない。繰り返しにもなるけれど,まだ4年生ってこともあり,落ちたとしてもチャンスはゴロゴロ転がってるし,しかもこの先,中学・高校生になる間に容姿もかなり変わるはずなので,そういうことも踏まえて息の長い挑戦が可能にもなる。さらに,現代社会においては“JKビジネス”なんて言葉もあるように,時代が若い女の子を必要としてもいる─もちろん,サービスの内容によっては規制されるべきではあるんだけど─ようで,アイドルの口というのは想像以上に多いと考えられる。だが,大切なことはアイドル活動の先を考えて行動することだと思うわけで,さもないと『アイドルにはなったけど…』みたいなことにもなりかねず,そこではまた「理想⇔現実」の悶絶を経験しなきゃいけないことにもなるのだ。この一連の流れというのは,冒頭で挙げた例にも当然のことながら当てはまるわけで,ボーイフレンドやガールフレンドがいないと嘆く以前に,ちゃんと求めようとしたのかが大問題にもなる。それをしもしないで,「理想⇔現実」を云々するのだとしたら,それは宝くじを買いもしないで七億円が当たらないと嘆くようなものだ。そして,ボーイフレンドやガールフレンドを常にキープできたその先に何を期待するのかが明確になってないことには,ゆくゆくは「現実⇔理想」の悶絶を再度味わうことになるのは,もはや既定路線だと言っていい。
他方で「理想⇔現実」をめぐっては,しばしば「身の丈に合った」みたいな言われ方がされもして,荒唐無稽とも思える野望を戒める。東大に受かる実力もないのに『東大受かりて~ぇ
』みたいなことを言うと。言うのは勝手だから構わないとして,問題だと思うのは受けもしないで,『受かりて~ぇ』みたいなことを言うのだとしたら,買いもしない宝くじの話と同じことになる点だ。実力のある/なしってのは,正直どうでもいい。ないならあるように努力するのが第一義であり,仮にあったとしても受からない人だって少なからずいるわけだから,とにかく前を向いて行動する,それが努力というものだ。努力というのは,そもそも報われることを前提にはしていない。いうなれば,「宝くじを買う」行為が努力なのであって,努力には終わりがない。結果が伴うかどうかは,この努力とは全く関係がない(言い過ぎ?)。なぜなら,東大に合格出來る実力があっても合格出來ないというのは,たまたま入試の日に体調が悪かったとか,電車が遅延したとか,努力とは全く関係のない次元で不可抗力的に決まることがほとんどだからだ。このことをして「運」という言葉で片づけるのだとしたら,なんか的を射てない気がするんだけど,要はそういうことだ。病気で躰が痛いのであれば,痛くないように努力する─薬を服用したり医者に診てもらう─ことが大切なのであって,実際に痛くなくなるかどうかは努力そのものとは無関係なのだ。努力というのは「理想⇔現実」というギャップを生み出さないために常にしてなきゃいけない性質のもので,努力と結果を結びつけようとするから,いざ結果が出ないとなると努力をしなくなり,あとは凋落へのデフレスパイラルに一直線に突き進むと。逆に結果が出たら出たで,今度は油断して努力をしなくなる。もっかい言うけど,努力というのは日に三度飯を食うように,当たり前のように不断にしてなきゃいけないものなのであり,結果は全く関係ない。もちろん,いい結果が得られることを期待するのは間違ってはないが,親の子に対する「無償の愛」のように「無償の努力」に思いを遣ることも大切なことだ。そこを取り違えて「努力は報われる」みたいなことを言う人や,逆に「努力は報われない」みたいなことを,色んなとこで軽々しく言う人がいるから困ったことになってしまうのだ。努力というのは,「理想⇔現実」のギャップを回避するための唯一の手段かつ目的である。@雑感
今年もまた三月十一日が近づいてる。忘れもしない今から四年前の三月十一日,東北地方太平洋沖大地震とそれに伴う津波被害,そして東京電力福島第一原子力発電所の事故の発生。地震による人的・物質的被害だけでも甚大なところにもってきて,津波と原発事故が加わることで,その被害は何重にも被災者たち,延いては多くの日本国民を苦しめることにもなった。しかも,その苦しみは今なお現在進行形だ。よく耳にしたりもする表現にもなるけれど,あの日あの時から“時計”が止まったままの人たちがいるのだ。その止まった時計が,再び時を刻み始める目途すら立たない人たちがいるという意味でこの事態は非常に深刻だ。しかも,そのような絶望や喪失感に苛まれ,まさに失意のうちに生を終えなければならない人たちがいることが,一層この現実の厳しさを浮き彫りにする。
137億年ともいわれる,この宇宙の歴史に比べれば人間の一生なんてのは高々百年程度のものであり,今から137億年前が仮に今日の午前零時にスタートしたとして,ちょうど百年間生きた人が今日の24時ジャストにその生を終えるのだとすると,その人が生き存〈ながら〉える時間は,23時59分59秒も回ってからのたったの0.0006秒間に過ぎない計算にもなるのだけれど,宇宙自体にしてみれば瞬〈まばた〉きすら出來ないくらい短い時間に過ぎないこの瞬間も,百年を生きる我々人間にしてみれば,そこには悲喜交々の無数の瞬間があったわけで,その最期を失意のうちに閉じなければならないということが,どれほど虚しいものであるかは筆舌に尽くしがたい。人にとっての百年は膨大な時間の蓄積であり,宇宙がもつ百年の意味とはまるで違う。宇宙に「誕生」があったということは,恐らく宇宙にも「死」が存在しているに違いなく,それが今からどの程度の先になるのかはわからない。ただ,我々が「太陽」と呼んでいる星の死が五十億年後に訪れると言われているから,宇宙の余命がこれより長いのは確定的だ。いずれにしても,「億」という単位を伴うレベルの話に比べるならば,高々百年程度の人生でもって喜怒哀楽を繰り返す人間という存在は,実に間抜けに見えてくる。宇宙から見た人間なんてのは,人間からみた蟻〈あり〉みたいな存在に過ぎない。仮に全ての人類が徒党を組んでなにかを仕掛けたとしても宇宙自体はびくともしなくて,人類は宇宙の生死を左右できるような存在ではない。しかも,インフルエンザウイルスで人が感染・発症するのに必要なウイルスの数が千個以上と言われているのに対してエボラ出血熱のそれは高々数個程度であり,その結果50㌫以上の致死率で人が死ぬことを思えば,人間と宇宙の関係を「蟻と人」の関係に喩えることすら適当ではないのかもしれない。要するに,いかに人間がちっぽけな存在かということ。そのくせに人は,百年間に地位や名誉,或いはモノ・カネを飽くなきまでに貪欲に求め,日々そのためだけに齷齪〈あくせく〉したりもする。冥土に持参出來るわけでもないのに,なにゆえに人はそこまで欲深い生き物なのだろうか?恐らくは,そういう「求める」という行為が必要であると同時に,楽しいからでもあるのだろう。基本的に,楽しくないことはやらないのが人間でもある。だから,これらの行為は踊りやスポーツ・遊びの楽しみに通底していて,遊びや踊りも技を極めて上達すればするほど,もっと上を目指したくなるのと同じように,地位や名誉もモノやカネも際限なく欲しくなるという寸法だ。
ところで,わたしは最近二月二十二日に西武ドームで開催された,乃木坂46の結成三周年を記念したライブの模様を映像で観たのだけれど─こんなことを書くと,前回の記事も乃木坂46をフィーチャーしたものだっから,『一体おまえは乃木坂のファンなのか?』と不審に思われそうな気もするんだけど,嫌いではないのは間違いがなくて─七時間にも及ぶライブ公演ということもあり興味津々観てると,來たる三月十八日にリリースされる予定の,11枚目シングル『命は美しい』のPV以外での初めてのお披露目となるパフォーマンスを目のあたりにすることが出來た。この曲はそれこそ踊りの音楽であり,一曲フルバージョンで踊り切るとすると,相当の体力が必要な仕立てになっていて,その意味で大曲である。メロディーラインは,確かに今どきのものではあるんだけれど,なにか古典芸能の能・狂言にも通じるリズムが含まれていて,或る種の懐かしさを感じさせもする。今回センターに起用されたのは西野七瀬なんだけど,彼女を左右から橋本奈々未と白石麻衣が固めるスタイルの,実質的なスリートップ仕様だった。PVでもそうだったが,彼女らはなにか鎧〈よろい〉を模したかのような衣装をまとい,兎に角よく動く。そのイメージは妖精(または小人)たちの舞踏会というよりは,なにか魑魅魍魎〈ちみもうりょう〉たちの百鬼夜行を彷彿とさせる強烈なインバクトを放っていた。西野七瀬は無表情な,機械仕掛けのパペットを思わせるダンスを終始展開し,まるで崇拝される偶像にも見えた。全く感情を露にすることなしに,激しく,ひたすら踊っている。その一方でダンスに関して高いスキルをもつ生駒里奈は,感情を剥き出しにする踊りを繰り広げ─ついでに,白石麻衣も途中で感極まった表情を見せる瞬間があって─西野七瀬とはまるで対照的だった。なにしろ,映像だからカメラワークが捉える人物しか見えないので,これが演出によるものなのか,初お披露目の緊張に由來するものなのかもわからない。けれども,彼女らは間違いなく一心不乱に狂喜乱舞していた,生田絵梨花も齋藤飛鳥も。あたかも,舞うことそのものが人生の目的であるかのように。実際に,踊ってる彼女たちの頭の中には地位も名誉もカネもないに違いなく,踊ること+歌うことが自らのレゾンデートル〈存在意義〉を体現しているのだ。そういう,或る意味“純粋な”ものを目のあたりするとき,わたしのように黄塵〈こうじん〉に塗れ,もはや無心に狂喜乱舞する生き方を生きることができない者は,彼女らに自らを投影したくなるのだ。それってのは或る種の現実逃避でもあって,そうしてる自分に対して自己嫌悪する自分がまた別にいて,二人の自分が対立する図式が生まれる。よくよく考えてみれば,彼女らのファンの人たちってのも,その多くが彼女たちに自らのなにかを託しているに違いない。因みに,この楽曲で歌われている内容ってのは,それこそ「人生の儚〈はかな〉さと今を生きることの大切さ」でもあり,それってのは鎌倉時代の鴨長明〈かものちょうめい〉や吉田兼好〈よしだけんこう〉らの著作にみられるような「無常なる世界観」を地で行く内容でもあるんだけど,同時に彼女たちの踊り狂う様子からは「一期〈いちご〉は夢よ,ただ狂へ」というフレーズが頭を過〈よぎ〉った。これは室町時代に流行った小唄を集めた『閑吟集』〈かんぎんしゅう〉に収められた小唄のワンフレーズである。前回の記事では,10枚目シングル『何度目の青空か?』を解釈してみたわけなんだけど,今回また解釈でもしようものなら『芸がない』と言われそうな気がするから,しないんだけど,彼女たちの踊りにはあらゆる解釈を受け付けずに,徹底的に撥ねつける気迫があるように感じられた。『つべこべ言ってないで自分たちの舞いをしっかり見ろ!』と主張してるようにも思えた。さらに震災との関連で言えば,彼女たちのパフォーマンスを見聞きすることで,元気をもらって止まった時計を再び進める原動力とすることが出來る人も実際にいるんだろけど,逆に余りにも境遇が違いすぎることに却って失意を深めて,自ら死を選ぶ方向に動く人も出て來るかもしれない。まるで現実を拒絶してるかのように狂喜乱舞する彼女らとは対照的に,苦しい現実と不断に向き合わなきゃいけない自分とのギャップに,目の前が真っ暗になり衝動的に自殺に駆られる。恐らく,その衝動は一過性のものだから,その瞬間をどうにか遣り過ごせば最悪の事態には至らないのだと考えらるも,春先というのは一年で最も自殺者が多い時季だと言う。たとえば,秋に落葉した枝なんかを見ると何とはなしに物悲しくなって,死にたい衝動に駆られるケースが多いのかと思いきや,そうでなく実は春先に多いというのは,世の中的に春めいてきて,新しい生命の息吹きを予感させる明るい雰囲気の中で,その世の中の流れとは真逆に自分だけお先真っ暗な現実を見なきゃいけないのだとすれば,死にたい気分にもなるだろうし,その結果として自殺者が増えという構図もわからないわけではない。乃木坂46に限らず,自分たちの楽曲を冥土の土産にされた日には,アーティスト的には大変な迷惑かもしれないんだけど,何か曲を聞きながら死んでいくこと自体は珍しいことではない。これってのは,平安時代の末に「末法思想」なるものが日本中に拡散し,人が地獄ではなしに極楽に往生するための最終手段として,念仏を唱えながらずぶすぶと海の中へ入り入水自殺を遂げる光景にも重なる。死ぬに当たり,音によって死への不安を掻き消すという心理的効果があるのかもしれない。
こうして,あらためて『命は美しい』という楽曲が表現しようとしている世界を振り返ってみたとき,あらたに「遊びをせむとや生まれけむ,戯れせむとや生まれけむ,遊ぶ子どもの声聞けば,我が身さえこそ動〈ゆる〉がるれ」というフレーズが脳裏を過った。これは『梁塵秘抄』〈りょうじんひしょう〉という平安末頃に流行った歌─今様〈いまよう〉という─を集めた歌集に収められた歌で,少し前に,日本酒か何かのテレビСМでも引用されたので,ご記憶の方もおありだと思うのだけれど,要するに,子どもたちが無邪気に遊んでるその声を聞けば,もはや子どもとはいえないくらい年齢を重ねた自分も自然に躰が動かないではいられないというもので,まさに乃木坂46のメンバーたちの踊る姿を見れば,我が身さえこそ動がるれということにもなるのだと思う。そして,当初妖精にも妖怪変化にも見えた彼女たちというのは,実はかつてのわたし自身であったに違いなく,世の中のいかなる拘束にも縛られることなしに,自由奔放に生きていられたかつての子どもは既に死に去って,もはや世の中の柵〈しがらみ〉から超然としては生きていけない形で置き去りにされ,残されてしまった自分へのレクイエムでさえあるかもしれない。