私淑語〈ささめごと〉presented by@ちかチャンネル -2ページ目

@雑感




今日の日本に,果たしてどれほどの「アイドルグループ」が存在してるのか正確にはわからないのだけれど,●●48や●●46に代表されるようなネーション・ワイドに活躍中のアイドルグループもあれば,ご当地限定的な小規模なアイドルグループ,さらには地下アイドルまでを勘定に入れるならその数たるや百や二百では済まないかもしれない。これらの中には当然のことにと言うべきか,“怪しい”運営者によって,通常想定されるアイドル活動とは程遠いプロモーションを強いられるようなブラックなものが少なからず含まれているのだと考えられ,明らかに「搾取」という言葉で表現されて然るべき内容を含むケースが存在してるのも,恐らくは事実なのだと考えられる。尤もこの「搾取」は,特定のグループに限定されたものではなしに,今のアイドルグループには極めて一般的な事象なのだとも考えられる。このことをもっと具体的な例を通して考えてみたいと思うのだけれど,今さら説明するまでもなく生田絵梨花は,アイドルグループ乃木坂46の1期生メンバーであり,いまや乃木坂46の主要メンバーの1人と言っていい,かなり強い存在感のあるメンバーである。彼女は現在19才の大学2年生でその可愛らしいルックスに定評があるのみならず,バラエティー番組でもしばしば披露される4才から始めたというピアノの腕前についても,相当なスキルの持ち主と絶賛されることが多いようだ。生田が通っている大学は都内の音楽大学とされ,このことからも彼女自身の音楽に取り組む積極的な姿勢を覗い知ることができよう。このように,いわば順風満帆なアイドル音大生としての人生を謳歌しているかに見える生田ではあるが,彼女の現在の活躍が必ずしも彼女の将来を約束するものでないのは,以下の如く説明することができるのではないだろうか。確かに生田自身のピアノスキルは,常人に比べるならかなり高いと言えるかもしれないと。しかしながら,彼女の周囲には明らかに物凄い─いわば超絶技巧的な─ピアノスキルをもつ人たちが少なからずいるはずで,その人たちとの競争に勝てないということになれば,所詮“バラエティー”の域を出ない二流以下のピアノで終わってしまうことが危惧されないわけではない。音大という環境から一歩外に出れば,恐らく彼女の右に出るピアノスキルの持ち主はいないのだと考えられ,ことアイドル界において,ピアノといえば生田が1番という下馬評の下で─それは取りも直さず,周りからちやほやされるということでもあるのだけれど─ピアニストとしての成長が止まってしまうリスクが排除できないことを意味してもいる。仮に生田絵梨花がピアノに関して不世出の才能の持ち主である可能性を秘めているのだとしたら,この損失というのは生田自身にとっても,社会全体にとっても極めて大きいのではないだろうか。勿論,生田の人生についての主権者は生田自身なわけだから,仮に彼女が現状維持的に今のような─すなわち,芸能人とピアニストの“二刀流”的な─在り方を積極的に希望するのであれば,それについて文句を言えるような第三者は恐らくいないのでそれはそれでいいとしよう。むしろ問題なのは,彼女の意に反して芸能人として鳴かず飛ばずで,しかもピアニストとしても亜流みたいな状況に陥った場合である。一般に芸能活動と学業の両立は簡単なことではなくて,とくに彼女が相手にしてるのは楽器なわけだから芸能活動に費やす時間がもろにピアノスキル習得の障害になると考えられないこともないのだ。ここに「搾取」の一つの図式を読み取ることができなくない気がするわけで,ここで搾取されるのは「生田絵梨花のピアニストとしての潜在的キャリア」である。かつてAKB48の“絶対センター”などと称され,その将來を嘱望されつつグループを巣立っていった前田敦子にしても,彼女が現在どれほど“女優”として成功しているかは極めて疑わしい。“疑わしい”というのは,前田自身が今の現状に満足しているのであればそれはわたしの杞憂ということだし,AKB時代の栄光に胡座をかいて努力を怠った結果としての今だとするなら,当然その責任の所在は前田自身にあるという話だ。それにしても,AKB48時代のCDなど“売り上げ”面での運営に対する貢献は多大なものがあったわけだから,そのことを今の前田の現状と照らし合わせるならば,そこにも搾取はあったのではないか?と考えてしまうのは,単なるわたしのゲスの勘繰りというものなのだろうか???


実は搾取というのは,生田や前田に限られた話ではなく●●48や●●46に所属するメンバーであればだれしも,なにがしかの搾取を“求められて”いるのだと考えられる。これらのグループに共通する“鉄の掟”ともいうべき「恋愛の禁止」も或る意味,自由に恋愛する権利を搾取されていると解釈することができよう。アイドルと呼ばれる人たちが,所属する事務所から恋愛禁止を求められるのはなにも今に始まった話ではなくて,一九七〇代や八〇年代のアイドルたちもそれは求められていた。というのも,恋愛する権利の名の下に自由に恋愛されて変なのと交際でもされた日には,営業的にかなりのダメージを來たすのは火を見るよりも明らかなことだから,運営サイドとして予防線を張るのは当たり前のことなのだと考えられる。それに従來このことが重大な人権蹂躙に該当するものとは捉えられてはこなかったし,現在でもそうなのだと思う。ただ指原莉乃のように,アイドル自身が自分たちの自由恋愛する権利を積極的に訴えるようになるのだとしたら,今後はアイドルたちを取り巻く環境も変わる可能性が高いのだと考えられ,搾取の構図も変化するに違いないんだけど搾取そのものがなくなるわけでは決してないとわたしには思われる。結局,搾取は存在するのだ。存在はするんだけど,翻って考えてみれば搾取の一方では,●●48や●●46というグループに属していなかったならば決してできないような経験も数多くあるわけだから,それらの経験を自らの人生に還元できるのだとしたら,搾取され失うよりも却って得られるものの方が大きいということにもなり得るわけだから,アイドルというのは封建社会に生きた農奴〈Serf〉とは違って,領主による一方的な搾取を被る存在でないということは言えそうだ。因みにではあるが,乃木坂46の1期生メンバーの中には仮にオーディションに合格してなければ,看護師になっていたであろう人が実は複数いる。もしも彼女らが乃木坂46の活動を終了して看護師になったとき,果たして世間はどのような反応を見せるのだろうか?巡り巡って終着点が看護師であることに対して,だったら最初から看護師への道を歩んでれはよかったわけで,乃木坂46としての活動は「貴重な時間の搾取だった」と捉える見方ができる一方で,紆余曲折を経ながらも看護師という終着点を選んだことは,乃木坂46の活動を通して「得られた所産であり,アイドル活動をしていなければ得られることはなかった」という捉え方もできるだろう。要は本人がどう考えるのか?という部分が一番肝心なわけだから,本人が納得できるものであるなら一周回って看護師に辿り着いたとして何も問題ないのだと思われる。


さらに搾取については,ファンの側にとっての搾取というのもあるかもしれない。所謂“AKB商法”と呼ばれるCDと握手券を一体化した抱き合わせ商法は,しばしば論議を呼んでいる。ファンにしてみれば別にCDが百枚欲しいわけではないんだけど,CDを購入しないことには握手券は1枚たりともゲットできないわけだから必要でもないCDのために十万円からの出費を余儀なくされることにもなるのだ。乃木坂46の最新14枚目の『ハルジオンが咲く頃』のCD初日出荷が75万枚だったと聞いているので,仮に80万枚売れたとして約8億円に上る総売上があることにはなるんだけど,著作と制作に係わる経費やメンバー全員の衣装代,ツアーに係わる経費(交通費・宿泊費・会場使用料・警備関連費用等)などなど,14thに係わるプロモーションの全ての経費をこの8億から捻出するのだとしたら必ずしも潤沢な額とはいえないかもしれない。だから,メンバーをテレビCMに起用してもらう,雑誌に取り上げてもらう,歌番組に出してもらう等様々な“雑用的な”活動が必要にもなるわけだけれど... その意味でいえば,問題とされるAKB商法も「必要悪」らしいことは推測できる。また乃木坂を含むAKBグループが尋常でないくらい肥大化してしまったという現実があって,複雑な利害関係が生じていることも見逃せない。ただ実際には,●●48の経営と●●46の経営は全く独立─人的な交流は常にあるわけだけれど─に行われているので,より規模が小さい乃木坂ですら1枚の表題曲に係わるプロモーションの全てを,握手券抱き合わせCDの売り上げだけ賄うのはなかなか厳しい感があるのは否めず,これが結成間もない欅坂46ともなれば尚更だ。それにしても,ファンからしたらCDではなくて握手券がほしいわけだから,握手券を単品で売ってほしいと思うのが普通の感覚だとも考えられ,そこになんらか「搾取されてる」臭いを嗅ぎとりもするわけなんだけど,それならば握手券単品を1枚いくらで売るのか?という別な難しい問題の解決を今度は迫られることにもなる。CDなしの握手券を1枚千円程度で売った場合に,逆に「搾取されてる」気分が強くなるとも考えられるし,仮に1枚を五百円程度に設定すれば単純計算で主力メンバーの1表題曲あたりの握手会総部数が今の倍の60部となり,かなりの負担増となることが予想される。当然のこととして,部数増に伴い押さえなきゃいけない会場も増えるし,スタッフも増員しなきゃいけないことに伴う経費も増えるという具合だ。もっと突っ込んだ議論をするならば,握手券単品で販売する場合メンバーを直接「指名買い」するわけだから,人気メンバーとそうでないメンバーの単価が違ってくることが懸念されもする。乃木坂46でいえば,現在人気を二分していると言われる西野七瀬と白石麻衣が仮に二千円だとしたら,二千円から五百円の幅でメンバーごとに単価を割り振るみたいなことになるのが「市場経済の原理」にもっとも叶った仕組みということになる。そうなったとき,メンバー個人と対価が1対1に結びついてしまって弥〈いや〉が上にもメンバー間の“カースト”が強調されることにもなり,このことがグループ内の不協和音を誘発しかねない。いわば「友情&信頼の搾取」という,およそヲタには有り難くない,なにかきな臭い臭いをわたしたちは嗅ぎとることにもなるだろう。現在のシステムは,CDに対する対価を支払う形になってることで一律の値段で済んでいる。決済のシステムとしてもその方がプログラムしやすく,いわば“安上がり”な勘定システムという点で必要悪としての或る種の合理性を認めるわけなんだけど,実際に同じCDを十枚単位で保有しなきゃいけないとなると,現実には相当しんどい。ここには,なん十枚,なん百枚ものCDをキープしておくスペースが搾取されるという問題がつきまとう。


時間にしろ空間にしろ,さらにはカネやキャリアにしても,だれかがなにかを搾取されることで成り立っているのが,今日におけるアイドルとそれを支えるヲタの関係だとするならば,こうした関係がそんなに長くつづくとは思えない。●●48や●●46の黒幕的存在としての総合プロデューサーを標榜してる秋元康が,一から十まで全部仕切っているわけではないから,仮に今直ぐ秋元がいなくなったとしてもこれらのグループが消滅してしまうことにはならない。秋元のような作風の詩が作れるかは別として,秋元に代わって作詞してくれる人がいれば─いや,確実にいるんだけど─グループは問題なく存続できるのだ。その意味で,秋元がひとりボロ儲けしてるわけでもないのだと思われる。それなのに「搾取」という言葉が払拭しきれないのはなぜだろう?もしアイドルの親というまた別の立場に立つとき,わたしたちには未知の「搾取」の図式を見ることで驚愕さえすることになるのでは?と考えるのだとしたら,これもまたわたしの杞憂ということになるのだろうか?

@諦める選択・諦めない選択




春というのは,別れと出会いの季節でもあって,たとえば学校。学舎を巣立っていく卒業生と,それを見送る立場の教職員や在校生。その場所でもって,密度の濃い時間を共有してればしてるほど,お互いの訣別ってのは辛く切ないものにならざるをえない。ただこの場合も,「送る側」と「送られる側」では,それぞれが感じる気分には微妙な勾配があるように思われる。すなわち,「送る側」ってのは送る前後でほとんど環境が変化しないのに対して,「送られる側」というのは送られる前後で全く環境が一変するのだ。わたしはこの両者それぞれの境遇を指して「停滞」と「進展」と呼んでるんだけど,この停滞には或る種の「虚しさ」さえ伴っていて,できることなら自分も進展したいような,そんな気分にさせるのが別れのシーンでもある。その一方で,進展する側ってのは環境が一変するわけだから,期待と不安が綯〈な〉い交ぜになった,不安定な状態にいっ時身を置くことになる。新しい友だちは作りたいんだけど,果たして出來るんだろうか?都会で暮らせるのは嬉しいんだけど,独り暮らしは初めてだからホームシックになるんじゃないか?こうした,環境が変わることに伴う期待と不安というのは,常に表裏一体の関係にあるといってよく,期待の数だけまた不安があるということに他ならない。多くの場合,不安は杞憂〈きゆう〉に過ぎなくて,期待だけが大きくなるものなのだけれど,なかなか新しい環境に適応できずに苦労する場合もないわけではない。もちろん,個人における性格的な問題─というよりは傾向─のために,積極的に自分から動けないってこともあるんだけど,周りからのサポートが受けられなくて,孤立無援の状態に陥ってしまうことが一番懸念される。ただこの場合でも,最初のアクションを自分から起こさないことには,第三者によるリアクションてのを期待することはまず不可能なわけだから,どういう場合でも,思い切って自分から相手に働き掛けようとする努力ってのは必要なのだと思う。

ところで,「諦める」という─わたしがあまり使いたくない─この日本語の語源を尋ねると「明〈あき〉らむ」に至るという話は,日本(人)の精神文化や古典にちょっとでも触れたことがある人なら知ってることだとは思うんだけど,要するに,最初はそのモノの本質を見極め,明らかにしようとするんだけど,結局それがなんなのかわからないと。そうなったときに,その結論に対しては一定の不明確さや不如意を残しつつも,それとして受け容れようとする姿勢のことを「諦める」と用いるようになったというのだ。だとするならば,わたしたちがその結論を「受け容れる」,或いは「受け容れられる」ためには,どんな要件を満たせばいいのだろうか?たとえば年齢制限が設けられてるような試験やオーディションなら,その年齢を超えてしまえば物理的に挑戦を諦めざるをえない。強制終了ということだ。これってのは,比較的諦めがつき易いというのか,後ろ髪引かれるような思いを長く引き摺らなくて済むかもしれないという意味で有り難い。実際に,強制終了させられるってことになれば,いくら駄駄を捏ねてみても,ごねてもどうにもならないわけだから手を引くしかないんだけど,ホントに「悔い」みたいなものがないのかといえば,そこんとこが正直“?”をつけざるをえないところでもある。最近はそうでもないような気もするんだけど,以前はよく高校球児の「潔さ」や「直向〈ひたむ〉きさ」をプロモーションするために,試合結果を伝える朝刊の見出しに『負けて悔いなし』みたいな文言が多用された。球児たちは,それこそ一球入魂的に試合を闘ってるんだと思うも,懸命に闘えば闘うほど,試合に負けるってことになれば悔いが残るものではないのだろうか?それなのに,なにをどうすりゃ悔いが残らないってことになるの??? わたしはそう思っていた。ところが或るとき,わたしの身内が公務員の採用試験を受けた際にこんな話をしてきた。自分は今度の試験でやれることは全部やったから,これで合格できなくても悔いはないのだと。これってのは,わたしには結構意外な告白で,自分は完全燃焼したから悔いはない,すなわち「焼け棒杭」の燃え止しすら残っていないほど,自分にやれることはやり尽くしたということなのだと思う。それこそ高校球児並みに“潔い”姿勢だと思った。恐らくは,このような心境から生まれる一つの心的な有り様を,まさに「諦め」と呼ぶのだろう。またその一方で,たしかに完全燃焼はしたんだけど悔いは残ると主張する人に対して,それは潔くないことだといってバッサリ斬り捨てる気にも正直なれない。例を替えてみようと思うのだけれど,ここに東大合格を目指して十浪中で,次回受験すれば十一回目になる受験生がいると仮定したとき,この人は間違いなく一回一回の試験で完全燃焼してるに違いなく,にもかかわらず「諦め」の境地に達することが出來なくて,十回も受験してしまったということなのだろう。ノーマルな考え方に従うなら,十年間も「受験生」みたいな非生産的な社会的地位に留まってるのだとするならば,こいつは「俗物の中の俗物」みたいなレッテルを貼られても仕方がないし,十年間という歳月は決して短いとは言い難い膨大な時間の蓄積だから,その間に一貫して非生産者として生きていたのだとすれば,決して誉められた話でないのは間違いない。なんだけど,逆説的に述べるならば,その膨大な時間の中で,常にモチベーションをキープしつつ一貫して「受験生」みたいな,社会的に不安定な地位に留まることが出來る忍耐力というか,精神力の強靭さみたいなものってのは,なかなか凡庸な人には具わってはいないものだと思うので,何か輝きを放つものの存在を予感させないでもない。

それでは,俗物とそれを超越した(君子)〈括弧付きくんし〉とを分かつ「分水嶺」になるものとは一体どんなものなのだろうか?明らかに,だらだらと惰性でもって挑戦をしつづけることは賢明でない。たしかに十一回,十二回と回数を重ねていけば,ひょっとすると合格できるってこともあるかもしれないんだけど,一方ではなん十回回数を重ねたからといって,合格できる保証なんてのはどこにもないという現実が横たわってもいる。こういう場合に年齢制限という一つのデッドラインは,一定の効果を発揮したりもするのかもしれないんだけど,この「進むも地獄,戻るも地獄」的な現実の落としどころが,一体どこになるのかは大変に難しい問題だ。しかも(君子)になるにしても,ただ合格しましたというのではなしに,合格したその先のことを見届けないことには,ただの俗物だったのか,或いはそれを超越したのかその判断は出來ない。さっき,人生における十年が膨大な時間の蓄積だと述べたんだけど,零才から十才までの十年間と七十才から八十才までの十年間では,自ずともってる意味が違ってくるわけで,仮に十年間の受験生を経ることで,七十才から八十才までの十年間を彩り豊かに過ごすことが出來るようになるのなら,その十年間も決してムダにはならないはずだ。究極的なものの言い方をするならば,人間なんてもんは息を引き取る三秒前に自分の人生が楽しかったと思えれば,それだけで人生全体がハッピーエンドになるものだと思うので,どんな生き方をしたにしても,人生という全体のストーリーの結末に大差はないというか─これは,所謂「予定調和」とは性質が違うのだけれど─大切なのは,今際〈いまわ〉の瞬間の心持ちなので,その生涯に亙ってどれほど後悔に次ぐ後悔を重ねたとしても,それは大した問題にはならない。ところが,今この時を生きてる生身の人間にしてみると,後悔が次から次と怨念みたいについて回る人生ってのは絶対に有り難くない。然りとて,仙人でもあれば別だとは思うんだけど,わたしたち一般の常人が後悔と無縁な生活を営むことは非常に難しいし,たぶん不可能だ。それってのは,人が煩悩やら物欲の塊であるからに他ならず,仏教みたいな宗教はそういうものからの解脱〈げだつ〉(=解放)を信仰の目標にもしているわけで,そもそも人はそういう存在であることが信仰の前提にもなっている。同様に,儒教においても君子というのは,徳を具えた人間を指していて,凡人とは一線を画す存在とされている。さっき,わたしは俗物と(君子)を分かつものについて考えを進めようとしたんだけど,煩悩や物欲に塗れる俗物で一体なにが悪いんだ?という開き直り方ってのも当然あって然るべきで,繰り返しにもなるけれど,仙人でもない生身の人間は人間でいいんじゃないの?わざわざ,背伸びをして聖人君子に列しようとしなくていいんじゃないの?という素朴な考え方は決して悪ではない。かつては,そうした「自然体」で生きることを徳と位置づける宗教もあったやに思うんだけど,人間の性質として自然(または粗野)から洗練へ流れる指向性というのがあって,それは仏教や儒教のような宗教もまた,人が創り出したものであることからも明らかだし,その意味でいえば,わたしたちは不自然に背伸びしていい人ぶる必要はないし,実は欲しいのに欲しくない振りをする必要もないと。さっきの東大受験の文脈でいえば,受けたきゃ受ければいい,十回でも二十回でも。ただその際に,こういう普通はしない挑戦をする場合には,それ相応の「代償」なくして行えないことは覚悟しておくべきだと思う。三十過ぎて,おまえはなにやってんだ?みたいな世間の冷たい風当たりに始まって,周りの友人たちが結婚して可愛らしい子どもを授かっても,自分は家庭ももてないという現実。それらの代償を甘受しろとはいわないけれど,そういうものが確実に伴うことは知っておくべきなのだと思う。その上で大切なのは,諦めるにしても,諦めないにしても自分が納得した上でのことでないと,後悔の怨念につき纏われる憂き目を見ることになるのを忘れてはいけないということ。或るとき,情に絆〈ほだ〉されて,全てを諦めていきなり結婚するようなことになったとしても,納得尽くの方向転換なら,それをそれとして受け容れることの出來る自分がそこにいるのだろうと。この「納得尽く」というのは強制終了ではないから,自分が納得できるなら,なんべんでも方向転換できることを意味していて,両刃の剣ともいえる。けれども,仮に人生ってのが一度きりのものだとしたらなおさら,そんな生き方もありだと思うわけで,なにしろ,結局おまえもただの俗物だったか... という評価から下に下がることはないのだから。


@金八先生はいない




最近,千葉県船橋市にある千葉県立薬園台高等学校で起きた惨劇。この学校に勤務する三十代の男性教諭が,学校の敷地に野良猫が産み落としたであろう仔猫五匹を穴を掘って生き埋めにするという禍禍〈まがまが〉しいと表現すべきか,おどろおどろしいと表現すべきか,それこそ形容する言葉が見つからないこの事件。わたしは,猫や犬みたいな生き物がすきなので,ことさらそう思うのかもしれないのだけれど,猫一匹を殺すのには人一人を殺すのと同じくらいの抵抗がある。だから殺せない。逆に,猫一匹,いや五匹をやすやすと生き埋めに出來る神経ってのが,一体どういうものなのか大変に気になる。

これまでに小動物を殺すことから始まって,その魔の手が軈〈やが〉ては人にまで及んだケースについて前に書いた記憶があるのだけれど,その流れでいくと,この高校の先生もまた,実は容易に人を殺すことの出來る人間であることを暗示してもいるのだろうか?報道なんかをみると,この高校の校長などは『命の大切さを教える教育の現場で... 』みたいなことを述べてるんだけど,それ以前に「一人の人間として」の資質が問われているというべきか,この先生の「生き様」が問われている大問題だ。この人は『どう処理すればいいのかわからなかった』みたいなことを言ってるんだけど,「わかないから生き埋めにする」というのは,どう考えてもロジックに飛躍がありすぎて,大人の考え方としては稚拙すぎる。たぶん,子どもでもそんな考え方はしないと思う。仮に本気でそんなことを言ってるのだとしたら,やはり人として思考回路のどこかに重大な欠陥があると言わざるをえない。そもそも,学校の先生も人なので,人である以上はパーフェクトな人なんていない。だから,わたしたちが世の先生たちに─たとえば高度な倫理観や道徳意識を─過度に期待してる側面があるのは否定出來ない。だがその一方で,そうした期待に応えようとする意識が先生たちに求められるのも,また間違ってはないことのように思われる。ところが,今度のこの先生みたいな「とんでも先生」が時々現れて,世間を震撼させるのは一体どうしたわけだろうか?恐らく,先生という職業柄からして,ニュースソースになり易いという現実を無視することは出來そうもない。同じことをやらかしても,先生と呼ばれる人たち─教師,医者,議員など─と一般の人を比較したとき,明らかにニュースソースとしての価値は先生の側に軍配が上がる。その結果,やけに“やらかす”先生が多いようにも感じてしまう。他方で,先生というのは「奉〈たてまつ〉られる」存在でもあって,いわば小さな世界の君主であるかのような錯覚を見させもする。そのため,遠慮もなしに傍若無人な振る舞いをする手合いが時々出現する。さらに,個人としてみれば立派な先生も,先生たちの組織の一員という立場では,組織防衛に与〈くみ〉しないわけにはいかないという事情も当然ある。かつて武田鉄矢演じる金八先生が人気を博したのは,そもそも金八先生のように組織に立ち向かう先生はいないことが前提にもなっていて,わたしたちは金八先生に理想の教師像の幻影を見ていたに過ぎないのだ。もちろん,あのドラマに触発されて教師を目指し,実際に教師になったという人も少なくないはずだ。若いうちは金八先生を地で行くような先生もいるに違いない。しかし,自分が家庭をもち教師であると同時に子の親という立場になった時,それなりの地位を望むのが人情というものでもあって,組織に刃向かっていたのでは地位は得られないから,若い頃の熱血漢も,いつしか組織に迎合せざるを得ない時が訪れるのだ。

こうして,金八先生は確かに幻影だったかもしれないんだけど,尊敬に値するような先生ってのは実際に世の中に存在してるわけで,その尊敬の源泉ってのは,なにやら小難しいことを知ってるとか,人が出來ないことが出來るみたいなスーパーマン的才能ではなしに,普通の人が当たり前に出來ることを当たり前にするという,そのことに尽きるのだと考えられる。人と普通に挨拶を交わし,決められた日にゴミを出す。地域コミュニティーの一員として過不足なく暮らしていくことが,当たり前のことを当たり前にすることに他ならない。生きてる仔猫を穴を掘って生き埋めにすることは,明らかに当たり前のことではないし,むしろ当たり前とは乖離したおかしなことでさえある。それでは尊敬されなくて当たり前という話でもあるんだけど,この話がそれだけで済まないのは,この問題が既にこの学校に通う多くの生徒─のみならず地域の大勢の人─に直接・間接に害悪を与えていて,この点の取り扱いを誤ると,もっと大変な事態に陥る懸念が払拭出來ないことにある。翻るならば,当たり前のことを当たり前にするってことが,実は大変に難しいとも言えるのかもしれない。『そもそも,なにが当たり前なの?』という思考が働くこと自体が,日本人の精神構造が破綻しかけていることを意味してもいるのかもしれない。かつて,良寛─越後出雲崎生まれの「良寛さん」として知られる江戸時代の僧─はその死に臨んで,「形見とて 何か残さむ 春は花 夏ほととぎす 秋はもみぢ葉」という辞世の歌を詠んだとされている。この歌に詠まれている情景は,日本人にとって極々当たり前の景色であり,良寛は一体どうしてそんな当たり前のものを「形見」にまでしようとしたのだろうか?川端康成が,自身のノーベル文学賞受賞を記念してストックホルムで行われた「美しい日本の私」と題した講演の中で,この良寛の辞世を引用したと聞いたことがある。聞いたことがある,というのは,実はわたし自身は文学そのものには全く興味がなく,小説みたいなものはほとんど─実際には“全く”に近い─読んだことがない。なので,川端がどういう文脈の中でこの歌を引用したのかさえもわかってはいないのだけれど,良寛の目には,彼が形見として残したいと詠んだ日本の当たり前の原風景こそが,日本人の美意識・アイデンティティーの源泉として,これからも未來永劫継承してかなきゃいけないものに映っていたに違いない。

今日の日本社会は多様な価値観や美意識が交錯し,既に良寛が残そうとした景色すら変容を遂げているのかもしれない。しかし,どれほど価値観や美意識が多様化したとしても,日本人である以上,究極的に回帰すべき「当たり前の価値観や美意識」は確実にわたしたちの精神構造にインプットされているに違いなく,その「当たり前」をそれとして受け容れることが出來ない人は,国籍上は日本人かもしれないんだけど,精神はもはや日本人ではない─すなわちエイリアンと呼んでしかるべき─存在なのだろうと。そういう視点から,今回の高校教師による猫生き埋めを眺めるならば,それはまさしくエイリアンによる仕業だと納得も出來るのではないだろうか?