@公文式の功罪
二〇一四年のFIFAワールドカップがリオ・デ・ジャネイロなどを会場に始まった。日本時間の六月十五日午前十時から《日本vsコートジボワール》の試合もNHKでライブ中継されたのを,なんらかの形で観た人はかなりの多数に上るものと思われる。試合の結果というのは,日本国民にしてみれば,大変に残念な結果になってしまったと言っていいのだと思うも,まだ予選リーグ敗退が決定してしまったわけでもないので,次のギリシャ戦では選手&サポーターが一つになって捲土重來を果たしてくれるのではないかと,逆にギリシャ戦への期待が高まりをみせるような気がしてくるわけだ。実はわたし自身は,裏番組のニュースで日本が逆転負けを喫してしまったことを知って,或る意味,失意のうちに寝落ちしてしまって,再び目覚めたのが午後四時過ぎと。一応,試合のあらましだけでも確認しようと,CXの某番組を視聴し始めた。元Jリーガーによる解説を交えながらの放送で,そう言われりゃそうなんだろな~ぁと,敗因の説明なんかを自分的に納得しながら視聴した。一通りワールドカップの総括が終わって,話題は次へと移ったのだけれど,わたしとしてはワールドカップの試合解説以上に面白い内容で,よくこういうネタを拾ってくるものだと,或る意味,非常に感心しもした。それってのが,今現在,当のワールドカップ開催中のブラジル国内に日本で始まった「くもん」に通ってる子どもたちが十四万人以上いて,全世界では四百万人を超える子どもたちが通っているというお話。因みに,ブラジル国内には約千六百教室を展開中とのことだった。番組のインタビューに応えて,教室に通ってきていたブラジル人の少年が『サッカーで身を立てることは難しいが,くもんで勉強すれば学問で身を立てることができる』と語っていたのがとても印象的だった。この少年の言葉からもわかるように,くもんで学習することが実際に成績アップに結びつくという社会的認識がブラジル国内でも醸成されていて,「公文式」という学習法が一定の「市民権」を得ていることが見て取れる。わたし自身が公文式学習を直接体験したことはないのだけれど,わたしの身内は小学生の或る時期に近所の教室に通っていたので,実際の教材というのを見たこともある。番組でも「反復学習」という言葉で説明していたんだけど,たとえば算数・数学の教材の場合,小学1年生から高校3年生までに習う膨大な内容を,易しい方から「レベルAの教材」,「レベルBの教材」,「レベルCの教材」,…,「レベル●の教材」という具合に幾つかの階級にわけて,ひたすら印刷されてる問題と格闘するというシステムである。恐らくは,レベルAがさらに「レベルA‐a」,「レベルA‐b」,…,「レベルA‐z」のようにもっと細かい階級に分けられていて,「レベルA‐a」の教材に関して,常に百点とれるような計算力がつけば「A‐a」は卒業して,今度は「A‐b」の卒業目指して同じことを繰り返すと。これを連続しながら,最後の階級の教材卒業まで同じような作業が繰り返されるのだ。この仕組みのいいところは,達成感が得られやすく目標が設定しやすい点だと考えられる。たとえば,小学3年生の子に『一学期終了までに二学期までの内容を終わらせよう』とか,もっとできる子なら『三年生が終わるまでに小学校は卒業しよう』とか,本人の能力とやる気に合わせて,どんな風にも目標を設定することができるのだ。したがって,もの凄くできる子の場合,まだ小学6年生なんだけど、やってる教材は高校1年生レベルなんてことは実際によく聞く話でもあって,ひょっとすると,中学生なのに「微分・積分」の計算ができる子なんてのも,中にはいるのだと考えられる。まあ,「飛び級」とかが認められてない日本の学制みたいな教育システムの中では,中学生が微分の計算ができたからといって,高校入試に有利に作用することなんてのはまずない。なんだけど,機械的にとはいえ,f(x)に対してf'(x)が求められるのだとしたら,それはそれでなかなか面白いことなのだろうと。
しかし,公文式の限界というかは,当然のことながら存在していて,小学生にして微分や積分の計算ができるってことなら,日本中に“天才”みたいのがいてもいいはずなのに,現状そうはなっていない。そこに公文式の限界の一つを見て取ることができる。どういうことかというと,くもんの教室の指導者ってのは,そのほとんどが普通の“おばちゃん”なのであって,大学の数学科を出てるわけでもなければ,中学・高等学校の数学教員の免許をもってるわけでもないから,仮に生徒に『ここはどうしてこうなるのか?』みたいな質問をされても答えられなくて,困ったことになってしまうと。なので,そういうことにならないように,逆に質問が出てこない(=おばちゃんでも教室が経営できる)ようなシステムとして“計算問題に特化した”プログラムが提供されているのだ。微分や積分を数学の学問として理解しようとしたら,ニュートンやライプニッツがなにをしようとしたのか?ってことに始まって,「関数の連続性」やら「リーマン和」やら膨大な知識の蓄積を必要とするのは明らかで,これらの内容ってのは現役の大学生にとっても難しい抽象的な概念を含んでいる。そこから,それこそ抽象性を捨象して具体的な内容だけを拾い集めて体系化した結果が「計算問題」の演習だと言っていい。いくら厳めしい演算子〈Σや∫など〉があったにしても,その計算のルールさえ呑み込んでしまえば,あとは「計算力」の問題に帰着されるってことになって,まさに反復練習の成果の見せどころということ。その一方で,捨象されてしまった抽象性をもっかい抽出し直す努力なしには,本來の意味での天才が出てこないのは当然なのであって,見たことも聞いたこともないモノの存在を推測し,予言できることが天才と呼ばれる人たちの「第一義的能力」にもなっている。それには,抽象的な思考力が絶対に必要不可欠なのだ。したがって,積分の計算はできるんだけど,その計算力を活用して抽象性を伴ったなにか別な要素─たとえば空間における面積や体積─が計算できないってことになると,まさに『仏作って魂入れず』といった事態を惹き起こすことにもなり,ここに公文式の限界を見ることにもなるのだろうと。
それならば,『公文式ってのは悪なのか?』みたいな素朴な疑問が浮上してもこようが,恐らくそうではないのだろうと。世の中─或いは宇宙全体─を貫く法則を発見するための方法としてその昔,F.ベーコンというイギリス人は「帰納法」という考え方を提唱し,一方でデカルトというフランス人は「演繹〈えんえき〉法」なる考え方を提唱した。帰納法というのは,人間が経験的に認識してる事実を集めてきて一つの法則を導くやり方で,たとえば《ソクラテスもプラトンもアリストテレスも死んだ》という事実から『人間は死ぬ』という法則を導く。これに対して演繹法の場合は,逆に人間が理性にもとづいて法則を一つ導くと。それを個々のものにあてはめて事実化していくというやり方で,たとえば《人は死ぬという理性的な判断》からして『ソクラテスもプラトンもアリストテレスも死ぬ』という考え方。デカルトという人は,兎に角人間の理性に対して全幅の信頼を置いていた人なので,こういう論法に辿り着いたわけなんだけど,現代からみれば帰納法だけでも演繹法だけでもいけなくて,両者相俟って世の中を貫く法則ってのは発見されるのだと気づかされる。そのいい例が「数学的帰納法」という考え方で,はじめにデカルト的に理性で推論した内容を,次にベーコンの言う帰納法に拠って検証し,事実であることを確認するという数学的手法がある─たぶん公文の教材にはとりあげられてない─のだ。具体と抽象ってのも,やはりどちらか一方があればいいというものではなくて,具体から抽象,抽象から具体と常に行ったり來たりを繰り返す関係でなければいけないのだろうと。そうすると,計算問題を解いて計算力を養うという具体的行為が,全くの無意味でないことが理解してもらえるとは思うんだけど,それならば,そのことをいかにして抽象的思考に結びつけるかについては,依然としてかなりの断絶が両者の間に横たわっている気がするわけで,いくら計算問題を解いたからといって,それだけでは抽象的思考力をアップすることにはならないし,したがって,空間把握みたいな抽象的思考力を必要とする問題(≒難しい問題)は解けないと。やはりどこかで,その断絶を飛び越えるだけの,それこそ“具体的な”跳躍が必要になるということ。それってのは,取りも直さず,公文式に拠らない,紛れもなく抽象的な思考力を必要とする問題を実際に解いてみることに外ならず,これを避けては本來必要とされている数学の力が身につかないのは自明である。
人生の中で,ひょっとすると自分は数学的センスがないんじゃないか?とまず最初に感じる瞬間は,中学2年生になると出てくる「合同の証明」で躓〈つまず〉くときかもしれない。あれは本当に厄介で,いかに計算力が「無力なもの」であるかが思い知らされる。なにが厄介なのかといえば,そもそも日本語の運用力も関係してくるんだとは思うも,なにか「逆接」の接続詞を用いて文と文を繋がなきゃいけないところに,「ゆえに」みたいな「順接」の接続詞をもってきて平気でいられるようなケース。だが,なには兎も角文章が組み立てられればまだマシな方で,『△ABC≡△PQRを証明せよ』と問題が与えられたときに,その瞬間に固まってしまって先に一歩も進めないような中学生が,実は結構いるんじゃないかと。だから,試験のときには真っ先に「捨て問」にされ,教える先生たちの中にもそれを奨励する先生が少なからずいたりする。さらに質〈たち〉が悪いことには,中学校で散々な目に遭わされながらも,どうにかこうにか切り抜けて高校に進学した次の瞬間には,あれほど悩みの種だったあの手の「図形の証明」は,未來永劫二度とお目に掛かることはなくなるのだ。あの自分たちの苦労は一体なんだったの?って話にもなるんだけど,要するに中学校の「図形の証明」ってのは,高等学校以降で学習する数学において,より高度で一般的な証明を文章化する際の「雛形」に,三角形や四角形が利用されているだけの意味しか持ち合わせていないという現実があるのだ。だから先生たちも,結構気楽に,本番の試験では捨てていいみたいなことが平気で言える。たしかに三角形の「合同条件」や「相似条件」は大切な内容だし,平行四辺形や菱形の「定義」も重要だとは思うんだけど,こうした“ぞんざいな”扱いを受けるみたいな環境下で教えられても,教わる生徒にも迷惑だし,なにより三角形や四角形が気の毒な気がするわけだ。
じゃあ,一体なんでこういうことになっているのかといえば,結局それ以前において,計算力偏重というか,抽象的な思考を回避する教育が施されてきた結果なのだろう。わたしたちは小学校5年生のときに(四角柱の体積)=底面積×高さ,(四角すいの体積)=底面積×高さ÷3であることを習い,なんの疑いもなしにそれを受け入れるんだけど,よくよく考えてみれば,四角すいの体積が四角柱の三分の1になってるという事実は,実はなかなか不可思議なことで,あらためて訊かれりゃ,きっと『え゙ーーーッ!!!なんで?なんで???』みたくなるに違いない。高校で,それこそ積分でも学べば,底面積S,高さhの四角すいの体積Vが,V=1/3hSで与えられることが計算で求められて,一応納得もできるんだけど,小学生相手に積分てわけにはいかないから,高さと底面積が等しい四角柱と四角すいの升を用意して,実際に水を入れて検証した(事実を確認した)上で,あらためてなぜ四角すいの体積は四角柱の体積の三分の1になるのかを考えさせただけでも,恐らく抽象的思考力が涵養されるに違いないのだけれど,手間が掛かることは否定できない。しかし,「手間が掛かること」と「抽象的思考力を涵養すること」を天秤に架けたとき,一体どっちが重たいかを,今こそだれかが正しく判断しなきゃいけないのだと,わたしには思われるのだ。
@雑感
先達て教育界,のみならず社会全体をも震撼させる─まあ,この表現はややオーバーかもしれないんだけど─事件が各メディアを賑わせたのは記憶に新しい。福岡県春日市立小学校の現職校長が,覚醒剤の所持・使用に関係した廉〈かど〉で高知県警に逮捕されるに至ったのだった。なんでまた、福岡県職員の校長先生が高知県警に逮捕なの?ってことを説明すると長くなるからそこいらへんの事情については説明を割愛するも,現職の校長先生が“クスリ”に絡んで逮捕ってことになれば,やはり世間的には,心穏やかならざる一大事ということにならざるを得ないのかもしれない。よくよく聞けばこの校長先生ってのは,五十歳のときに最初に校長職を拝命し,福岡県教育委員会も大変に活躍を嘱望していた所謂“エリート教員”だったらしいので,今回の件を受けての教育委員会の落胆ぶりたるや,想像を絶するものがあるに違いないし,ひょっとすると上層部には,責任転嫁問題の一つも持ち上がってる可能性すら排除できない。
ところがというべきか,この校長先生という人の教員としての評判というのは決して悪くなく,むしろ好ましいものですらあった。それこそ『まさか,あんな立派な先生がクスリに手を出すなんて... 』みたいな,まさに想定外の事態に狼狽する関係者の反応が,却って事の重大さを際立たせる結果にもなっている。そもそもこの先生ってのは,音楽の先生だったらしく,一般に校長ってのは授業を受け持つことがないのが普通なんだけど,自ら進んで1年生から6年生までの音楽の授業を受け持っていたという。実際に,学校経営における音楽教育─音楽に限らず芸術教育一般─が果たすべき役割ってのはとても重要で,音楽教育に熱心に取り組む姿勢というのは,率直に評価されていい。ただその一方で憂慮されるべきは,『教育熱心さの余り』という言い方が適切かどうかはわからないんだけど,その教育の在り方ってのが,実は校長自身の「自己満足」の閾を出るもんじゃなかったんじゃないの?という懐疑的な見方との「対決」の図式が常につきまとう,いわば「両刃の剣」であるという,本質的な問題の存在を示唆しているようにも感じられるわけだ。どういうことかといえば,音楽─に限らず美術や書道─みたいな芸術系の教科というのは,児童・生徒の得手・不得手と直結していて,たとえば,好きでもない歌を衆人環視の中で,半ば強制的に歌わせられるってことになれば,その当事者にしてみれば苦痛以外のなにものでもなくて,ますます音楽が嫌いになる一因ともなりかねない。元來,音楽ってのは人類が地球上に誕生して以來,冠婚葬祭はもとより,人生における様々な場面で喜怒哀楽の感情を表現する手段として必要不可欠なものだった。いってみれば,音楽の歴史というのは,人類そのものの歴史と言っても決して言い過ぎではない。それほどわたしたちの生活に密着して存在してきた音楽ではあるんだけど,人類の生活様式が多様化するにつれて,音楽そのものも多様化することが避けられず,AKB48の楽曲にはものすごく共感できるんだけど,音楽史において「音楽の父」と称され,世人の尊崇を集めて止まないヨハン・セバスティアン・バッハの楽曲の方は,なにか辛気臭くて,まるで理解できないって若者も当然存在している。音楽を含むアートというのは,個人の感性に働き掛けるものなので,好き嫌いがあったとして全く構わないし,それこそがアートの本質的な在り方に違いない。だが,ここで問題になってくるのは,児童・生徒の心的な傾向はそれで構わないとして,彼らに音楽を教える教員の心構えとしては,果たしてそれでいいのかという極めて重たい内容を含む問題だ。
そもそも,バッハの音楽が芸術的にいかに優れているかを子どもたちに理解させることは決して簡単なことではない。バッハの代表的な楽曲を聴かせて,『ほら,すごいだろ???』とドヤ顔して済むなら話は簡単なんだろけど,子どもたちにしてみれば,いきなり「名曲」といわれる曲を聴かされても『なんのこっちゃ?』となるのが関の山。この際,この辺の事情について蘊蓄を垂れさしてもらうならば,一般にバッハ─に限らずベートーヴェンでもブラームスでもそうなんだけど─の楽曲を理解できるようになるには時間がかかるのだと考えられる。というのも,バッハという音楽家を一言で述べるとするとすれば,「対位法様式音楽を集大成した作曲家」ということになるんだと思うも,それならば「対位法音楽」とはなんなのか?という説明を,また別途する必要に迫られることになる。対位法そのものを説明すること自体は,さほど難しいことではなくて,わたしたちがピアノを弾くときに,右手と左手で全く異なる旋律〈メロディー〉を奏でる場合を想定すればいいのであって,それってのは普段からごく普通にやっていることでもあり,わたしたちは日常的に対位法音楽に触れていることにもなるのだ。だが,それだけでもって対位法音楽の全体を説明したことにならないのは明らかで,対位法音楽の本質的な理解のためには,西洋音楽史の中で対位法様式がどのように位置づけらるのか?を精査する膨大な作業が必要になる。すなわち,バッハの音楽を正しく理解するということは,西洋音楽史全体を理解する必要があるという話に帰着されるのだ。その意味でいえば,そんな気の遠くなるような作業を小学校や中学校の音楽の先生に期待するのは過酷という話だ。もっとも,わたしがここで述べた内容ってのは,作品を音楽のバイブルともいうべき「楽典」的な解釈をすればの話なのであって,或る音楽家の作品というのは,その音楽家の人生や生き様そのものだと言って差し支えない。したがって,バッハの音楽に共感するってことは,バッハの生き方そのものに共感することだと言ってもいいだろう。その意味では,バッハの人物像や生き様を知らないケースでの作品理解というのも,なかなか難しいものがあるのかもしれない。
やや蘊蓄を垂れ過ぎてしまったのだけれど,だからこそ,バッハ先生の音楽よりもジブリ作品の音楽の方が子どもたちにしてみると取っつき易いということにもなり,例の校長先生もジブリ作品を積極的に取り上げ,指導していたらしい。正直な話,音楽への世界の入り口というのはなんでもいいわけで,ハードロックみたいなものからクラシックに回帰する人たちも少なくない。要は,歌うこと・楽器を演奏すること・音楽を鑑賞することに馴染んでいくことが大切なのであって,こうした活動を苦痛に感じるようになってしまうとすれば,なにかが間違っているのでは?と疑ってみる必要があるのだろうと。その意味でいえば,誠実に音楽(教育)に関わろうとすればするほど,理想と現実の狭間で苦悩することになるのだとも考えられ,この校長先生がクスリに手を染めるに至った事情というのは明らかになってはいないけれど,ひょっとすると,その辺のことと無関係ではないのかもしれない。
それで,今回わたしが書きたかったのは,なぜクスリはダメなのかということなのであって,創作活動に行き詰まったアーティストがいると。だからといって,クスリに手を染めていい合理的な理由にならないことは,たぶん小学生にも“なんとなく”わかるはずだ。その「なんとなく」の部分を明確化するのが今回の眼目ということにもなろう。そもそも,なぜに“ドラッグ”は法的な規制を受けることになるのだろうか?たとえば未成年の喫煙や飲酒について,「自己責任」という言葉を使って“容認”しようとするようなケースを考えたとき,たしかに密閉された空間で一人で喫煙するのだとしたら,まず第三者に健康影響を及ぼすことはなくて,本人だけが将來的に肺ガンみたいなものを発症するリスクに曝露されるだけの話なので,自己責任といわれたならば,まさにその通りなのかもしれない。だが,一般に知られてもいるように,ニコチンという物質は体内に常にサプライしとかないと,禁断症状によってイライラしてみたり,暴力的になったりするような様々な弊害を惹き起こす。これをどうにかする手っ取り早い方法というのは,再びニコチンを体内に摂取することであって,喫煙すればいいわけだ。だが,最近はタバコの1箱が四百円以上もするわけだから,中学生や高校生の小遣いで容易〈たやす〉く買えるような代物ではなくなってきている。そうなると,同級生を恫喝して買わせるとか,タバコ欲しさに万引きをするとか,なんらか犯罪に手を染めることになってしまうのだ。こうなると,もはや自己責任では済まなくて,それどころか社会問題にまで発展してしまうという,極めて由々しい顛末が待ち受けているのだ。このことをドラッグに敷衍してみるならば,覚醒剤使用で本人だけが廃人になるのであればまだしも,購入資金欲しさから新たな犯罪行為に手を染めると。さらには,ドラッグの取り引きそのものが,暴力団のような反社会的勢力の資金源になっているという事実も見逃せない。このように,ドラッグ使用自体が既に個人的問題の領域を越えて,社会全体を巻き込む害悪になっているという現実を忘れてはいけない。当然この中には,自分のみならず,家族や愛する人たちをも不幸にしてしまう悲劇的な現実が含まれていることも忘れてはならないだろう。
人間は生きてる限りなんらかの“病み”を抱えている。経済的な病みもあれば,対人関係をめぐる病みもあるし,健康そのものに対する病みもある。病みと無縁な人なんてのは,恐らくいない。病みを超越した人というのは,もはや人ではなく「超人」だ。翻るならば,病みがあるからこそ人は病みの克服を目指して日々努力を重ねていると言ってもいいだろう。今日の文明が築かれたその陰には,病みとの闘いの歴史があった。仮に人類が,病みとの闘いを回避してクスリに“救いの手”を求めるようなことをしていたとしたら,近代文明もそうなんだけど,バッハの名曲も生まれることはなかったに違いなく,わたしたちはクスリに手を出すことの愚かさを,先人たちに大いに学ぶべきではないのだろうか。
@二〇一五年大学入試を展望する
去る四月十一日,二〇一四年度東京大学入学式が日本武道館で挙行された。わたしの時もそうだったんだけど,東大の入学式ってのは例年,曜日にかかわらず四月十二日に行われることになっていて,非常にわかり易く予定も立て易かったから,なぜに今年が四月十一日なのか,わたし自身はかなり腑に落ちない。だからといって,その経緯〈いきさつ〉を問い合わせたり,調べたりしようとも思わないし,そもそも卒業してからなん年も経ってるわけだから,入学式にのこのこ顔を出す必然性もないので,明らかに自分とは関係のない「他人事」のはずなんだけど,ニュースなんかでメディアが取り上げると,つい気になるというのか,今年は一体どんな新入生が入ったのかと物見高く野次馬根性を発揮してしまうのだ。もっとも,全国ネットで流れるような大学の入学式や卒業式の風景ってのは,皇室関係者の話題でないとすれば,東大か防衛大学校に限られるのが伝統的なのであって,そんな風景を何気なく目にすることが,東大に進学したいという“野望”を,無意識のうちに刺激することにもなるのかもしれない。
それで,所謂「ゆとり教育」の最後の世代がこの三月に高校を卒業したことを受けて,來年二〇一五年の大学入試の仕組みというのが,大幅な変貌を遂げることになる。この傾向ってのは,数学と理科で著しく,受験生の負担も増えることになる。とりわけ,国公立大学を志望する人が避けて通ることができない「センター試験」では,とくに文系志望者に重たい負担がのし掛かることになる。どういうことかというと,「ゆとり」の期間中というのは,将來的に文系タイプのカリキュラムを選択しようが,理系のカリキュラムを選択しようが3年間で「2単位」に相当する理科の科目を履修しさえすれば,高校卒業の要件を満たすことができた。具体的にいえば,「化学Ⅰ」「物理Ⅰ」「生物Ⅰ」「地学Ⅰ」「理科総合A」「理科総合B」の六つの科目から1科目を履修するだけで,文部科学省が定める卒業要件を満たしたのだ。ここに挙げた科目のうち「●●Ⅰ」というのが1科目が4単位に相当し,「理科総合●●」が1科目2単位相当なので,これらのうちから1科目を履修すれば,それで事足りたわけだ。ただし理系の人の場合は,2単位履修で卒業というのは非現実的なことはいうまでもなくて,実際には上に挙げた「●●Ⅰ」に続く科目としての「●●Ⅱ」という科目を履修するのが一般的で,最低でも,たとえば「化学Ⅰ」+「化学Ⅱ」をセットにした6単位を履修しないことには,国公立大学の二次試験対策にはならないから,文系は2単位で構わないんだけど,理系の場合は最低でも6単位を履修しなきゃいけない現実が存在していた。だが実際に東大の理系を受験するような場合には,センター試験で「化学Ⅰ」「物理Ⅰ」「生物Ⅰ」「地学Ⅰ」から2科目,二次試験では「化学Ⅰ+化学Ⅱ」「物理Ⅰ+物理Ⅱ」「生物Ⅰ+生物Ⅱ」「地学Ⅰ+地学Ⅱ」から2セット選択することが要求されるため,理系志願者の理科の履修に係るコストは6単位どころの騒ぎではないのだ。今回,「脱ゆとり」によって理科の高校卒業要件が4単位に引き上げられた─というか,ゆとり以前に引き戻された─結果として,理系志願者の負担はこれまで通りで変わらないものの,文系志願者の負担が2単位増える格好になった。現行のカリキュラムに即して具体的に説明すると,現在の高校1年生から3年生においては,そもそも2単位の「化学基礎」「物理基礎」「生物基礎」「地学基礎」というのと,4単位の「化学」「物理」「生物」「地学」というものが併存している。「●●基礎」というのは主に文系志願者が履修し,「●●」の方は理系志願者が履修するためのものである。さっきも述べたように,高校卒業のためには理科4単位の履修が必要なので,文系志願者はセンター試験でもって,「化学基礎」「物理基礎」「生物基礎」「地学基礎」から2つを選択の上,受験することが求められることになったのだ。理科が不得意(または嫌い)な生徒にしてみれば,化学だけでもしんどいところにもってきて,生物(または物理,または地学)もってことになると,その負担たるや想像を絶するものがあるように感じられなくもない。
いつ頃からだろうか,小学生や中学生の「理科離れ」が叫ばれるようになった。実はわたしも,小学校や中学校の理科の教科書に書いてある内容の中に,ちんぷんかんぷんなことが結構ある。高校の教科書はわかるんだけど,小・中学校の教科書がわからないってのは,なんだか奇異な話にも聞こえるかもしれないんだけど,わたしが経験的に思うのは,小・中学校で扱う理科の範囲が広すぎるのではないかということ。たとえば,力学には興味があるんだけど,地質学には全く興味がないという人にとって,岩石の学習なんてのは「苦痛」以外のなにものでもない。わたしもそうだった。なので,いま岩石を分類しろといわれても火山岩と堆積岩に分類するのがやっとだ。それが高校では,一定の制約はあるにしても,或る領域を“専門的に”学習できるようになるから,現象に関する興味が削〈そ〉がれる確率はかなり小さくなる。その結果として,特定領域の知識が確実に蓄積されるという寸法だ。その意味でいえば,高校より前の理科の履修に関しても,「選択」ってのがあってもいいような気がしているのは,果たしてわたしだけだろうか?もっとも,地理・歴史・政治経済・倫理みたいなものが,実は密接に結びついているように,サイエンスにおける事象や現象を一つとっても,化学的アプローチ,物理的アプローチ,生物アプローチが渾然一体とならないことには,解明されないことってのが,実は極めて多いから,一つの領域に偏ることが必ずしも正しいことではないんだけど,そういうことに気がつくには時間が掛かるわけで,小・中学生にそれを要求してもムリだし,それよりも「楽しみ」に特化した指導の方が,はるかに将來の「ノーベル賞」に近づく気がするわけだ。
さて,話を本筋に戻して來年の大学入試を展望してみようと思うのだけれど,今年の受験に失敗して浪人してしまった人に関しては,「移行措置」に伴う配慮がなされる関係で,今まで通りの学習をしてもらえば問題なくて,とくに大学がなにか指定でもしてこない限り,負担が増えるということもない。その意味でいえば,浪人生にとっては有利にこそ作用しても,不利にはならないはずで,次こそ必ず合格の栄冠を勝ち取るつもりで,この一年を有効に活用してほしい。それ以上に,ここでわたしが声を大にして言いたいと思うのは,別にトップで大学に合格する必要はないってこと。たまにトップで合格しなきゃ気が済まない人ってのがいるから,そういう人には是非ガンバってもらうとして,一般には東大みたいなところでも,仮に5割とれれば合格圏内に入ったと考えていい。これは,受験する年によっても変動するものなので一概には言えないにしても,まずは5割とることを目標に勉強するのがいい。たしかに,人情としては5割よりは6割,6割よりは7割ってことになるんだけど,いきなり7割なんてのは無謀だし,第一7割もとれば,それはトップ合格って話にもなるんだろうと。
それから、大学選びの基準としてなにを重視するかは人にもよるだろうし、有無を言わさず●●大学と決めてる人もいるに違いない。その意思ってのは大いに尊重されていいのだろうと。一方で,どうにも志望校を決めかねてる人も数多くいるに違いない。そういう人は,オープンキャンパスでもなんでもいいから,実際に大学に足を運んで,これから最低でも4年間は通うことになるであろう「空間」に身を置いてみるという体験が非常に役に立つ。たとえば,噴水前のベンチに座ってみると。そうこうしてるうちに,なにやらその場の雰囲気に居心地の悪さを感じたり,自分がここにいてはいけないような感覚に襲われたとするならば,恐らくそこは自分の居場所ではないと考えられるのだ。よく『聞くと見るでは大違い』などとも言われるけれど,そこに集まってくる人たちの「気配」みたいなものを肌で体感することでもって,だいたいのことは読み取れるのであって,違和感に圧倒されたような場合は,そこの大学はやめた方がいい。これってのは,大学を選ぶときだけでなく,職場を選ぶときなど広くあてはまる。因みにわたしの友人などは,上智大学と偏差値的にはそれより若干劣るとされるМ大学の両方に合格したのだけれど,上智は雰囲気が悪いと言い切ってМ大学に進学した。当然の流れとして,周囲の人たちからは,なにかある度に『失敗したんじゃね?』と戯〈ざ〉れ言を言われたんだけど,常に自分の判断は正しかったと胸を張っていた。