@小保方問題を斬ってみる
四月九日の小保方さんの反論会見を受け,今日あたりも朝から,ワイドショーなどでは識者の見解を交えながら様々な分析を試みている。中には,彼女の服装や容姿の変化なども話題に取り込んでる番組もあったりして,話の本筋からは逸脱するも,ワイドショーの企画としてはそれもありなんだろうと。ただ結局のところ,科学〈サイエンス〉の手続き論としては,この問題の本質ってのは二点に集約される。すなわち,①ネイチャー掲載の論文に,果たして捏造や虚偽の記述はあったのか?②スタップ細胞は実際に存在するのか?という二点である。そもそも,今回の反論会見というのは,理化学研究所が①に係わる問題点を「不正」と認定したことを受けての反論の場であって,②については全く以って議論の俎上に載せられてないのだけれど,やはり①との絡みでもって,どうしても気になるのが人情ということにもなろう。理化学研究所が①に係わる問題を指摘するのは,或る意味では至極当然の流れでもあって,小保方さん本人が『悪意はなかった』という言葉で片をつけようとしているその「内容」というのは,一般に科学に携わる者であれば,経験の深い,浅いを問わず禁忌〈タブー〉とされる「切り貼り」や「画像の加工」を含むものであって,この時点でこの論文の価値というのは,著しく失墜しており,その価値はゼロに等しいと言われてしまっても,文句は言えないようなお粗末ぶりを露呈している。喩えるならば,コレクターが挙〈こぞ〉って欲しがるようなコインがあると。だからといって,普通にある十円玉を“加工”して,そのコインに似せるような行為ってのが許されないことは,まともな人なら容易に認識できる性質の話なわけだから,彼女がいくら悪意が存在してないことを強調しても,『おまえはそこまで無知(或いは幼稚)なのか』と,逆に咎められることになるだけなのだ。もっとも,彼女が早稲田大学に提出した博士論文の冒頭の20ページというのが,だれ憚ることなしにアメリカの保健機関のホームページからパクったものであるという事実を踏まえるとき,ひょっとすると,彼女の場合というのは,ホントに全く罪の意識なしにそういうことをやってるのであって,彼女の頭の中は「引用」とか「盗用」という基本的な概念が抜け落ちてると考えられなくないのも確かで,だとするならばなおさら,こういう人に重大な研究を任せていいのか?という,また別な疑義が生ずることになるのではないだろうか。
さらに問題だと思うのは,彼女の科学者としての「心構え」の在り方である。彼女は,論文に不手際があったことを認めた上で『だけど結論は間違ってはいない』と主張し,だから論文は撤回しないと言っている。これってのは,結果が正しければ結果に至るプロセスはどうでもいいって話をしていることになるわけで,科学者の姿勢としては非常に問題がある。たとえば,数学で『A=Bを証明せよ』と問題が与えられたときに,(左辺A)=…=…=(右辺B)となるプロセスの「…」の部分が重要なわけで,常に「同値」であることを満たしつつ,式変形しなければ数学的には満足いくものにはならない。なのに,なんだか知らないけど,適当に式を捏ねくり回してたらAがBになっちゃった(テヘペロ,というレベルでは説得力がまるでないわけで,そんなことは,恐らく中学生にも理解できる話に違いない。ところが彼女の場合は,プロセスは兎も角,結果としてスタップ細胞は実在するんだから,その現実を認めろと主張しているわけで,プロセスがいい加減なモノってことは,それが一体なに由來のモノなのか正体が知れないわけだから,そんな海の物とも山の物ともわからないモノを受け容れることができる人ってのは,普通はいない。そういう「当たり前のこと」に思いが至らない小保方さんという人は,科学者として云々以前に,人としてどうなのかと,人間的な資質を疑わなきゃいけないってことになるのではないだろうか。山梨大学の若山氏が論文撤回を促すのも,その辺の事情を危惧したからに違いない。
或るワイドショーを観ていたら,小保方さんをして「天然系」と分析する人がいたんだけど,ひょっとすると,その分析ってのは当たらずといえど遠からず的な説得力があるのかもしれないと思ったりした。人間のキャラとしては全然構わない。だがそれを科学の現場に持ち込まれるってことになると,今回のような重大な事態を惹き起こすことにもなるわけで,その意味で,小保方さんにはもっと「人として」しっかりとした認識(&見識)をもってもらわないと困る,というのがわたしの率直な思いだ。その上で,スタップ細胞の研究をすることに対しては,なんら異存はない。彼女は自らを「未熟」と称していた。けれども未熟であることを「免罪符」にしてはいけないわけで,ひと度サイエンスの現場に出れば,意識は常にプロの科学者でなければ研究に携わる資格がない。とくに,バイオテクノロジーに携わる場合ってのは,生命倫理との絡みでもって,より高度な倫理観と規範意識が求められる。より緻密に筋を通さなきゃいけないのであって,ただの自己満足ではいけないという話だ。
@佐村河内守
ここに,1億3千万日本国民を欺き,今なお欺きつづけようとしている一人の男がいる。佐村河内守である。この名を初見でもって読み解くのは,なかなか難しく,実際にワープロ機能による漢字変換を行うときには,「さむらかわちのかみ」とでも入力する方がスムーズに変換できるものとも思われるこの名前は,いまや日本人なら知らない人はいないのではないかと思われるくらい有名な─というよりも悪名高い─名前だ。「さむらごうちまもる」と読むこの名前は,日本国民のみならず,世界中に暮らす70億の民さえも欺き,今も欺きつづけようとしている。“さむらかわちのかみ”にしろ“さむらごうちまもる”にしろ,その立派な響きとは裏腹に,ここ最近で最も忌々しい名前の一つに変容を遂げてしまったのだ。
二〇一四年〇三月〇七日の午前11時過ぎにメディアを通して会見した佐村河内守の様子を,わたしも興味本意でテレビ画面に食らいつくように眺めていた。定刻の11時から僅〈わず〉か数分しか遅れることなしに始まった会見ではあったが,このたった数分の「間」こそが,わたしになにか胡乱〈うろん〉なるものの存在を予感させもした。斯〈か〉くして彼は姿を顕すのだけれど,その瞬間に─厳密には,しばらく時が経過してからのことだとは思うのだけれど─その予感は確信に変わるのだった。会見の冒頭で,彼は自ら持参したカンペらしきものを読み挙げる形で,関係者への「謝罪」の言葉を言い淀むこともなく延々とつづけた。このとき,わたしの中にはイッセー尾形のパントマイムの演目を観ているかのような,なんとも奇妙な感覚─錯覚とでも表現すればいいのかもしれないのだけれど─に襲われた。これこそが,これから二時間半にも及ぶ「劇団佐村河内」によるパフォーマンスの開演を告げるものだった。わたし自身は,佐村河内守の來歴みたいなものってのは,ほとんど見聞きしていないから,一体全体,彼が幼少期からどんな人生を歩んできたのか?については,想像を逞しくするしかないのだけれど,この男の人生の或る時期ってのは,もしかすると,他人の一挙手一投足にビクビクしながなら生きてなきゃいけないような,多分に切ないものだったのではないかと思わせる節がなくはないのだ。人の顔色を見い見い,おっかなびっくり生きてるうちに,実は他人という存在ってのは,自分が●●をアウトプットすることで,◆◆という自分にとって好ましい“報酬”をくれることに気がついたと。具体的な例の一つも挙げてみれば,自分と母親の関係において,「母親が作ってくれた料理を自分は残さず食べる」という●●に対して,「母親の機嫌がものすごくよくなる」という◆◆が得られるということ。《●●⇒◆◆》という図式の存在に逸〈いち〉早く気がついた彼は,この「法則」を巧みに用いる(処世)術を身につけたと考えられる節があるというわけだ。この術を運用すること自体は悪いことでもなんでもなくて,そうすることによって人生の「勝ち組」に伸〈の〉し上がった人─とくに子役の経験がある人など─は少なくないのだと考えられる。
だが,非常に問題になってくるのは,自分にとっては“心地のいい”《●●⇒◆◆》を成立せしめんがために,ありとあらゆる手練手管を弄し,平気で嘘をついたり,他人を貶〈おとし〉めるような画策をするようになること。佐村河内守の場合,ただでさえ「術」を体得してるところにもってきて,嘘までを「道具」にするようになった今の状況は,それこそ『鬼に金棒』という話だ。もっとも,「英語ができる(プラスの要素)ところに,フランス語もできる(プラスの要素)」ようなことを普通は『鬼に金棒』と表現しているわけで,「術を心得てる(プラスの要素)ところに,嘘まで道具にしてしまう(マイナス要素)」ようなことを国語の表現として『鬼に金棒』といえるのかはかなり怪しい。いずれにしても,佐村河内守は嘘をついてでも《●●⇒◆◆》を実現させることを「学習」した。その結果,一つの嘘を守らんがために,また次の嘘をつくという,嘘の上に次々と嘘で塗り固めなきゃいけない,今の彼の生き様の確立を見たわけだ。ここでわたしは,いかにも佐村河内守という男が,病的な嘘の使い手であるかのように述べているんだけど,あの会見場での様子から彼が「虚言癖」の持ち主であることは自明である。まさに病的な虚言癖の持ち主によって,世界中を震撼させた今度の『偽ベートーヴェン事件』が惹き起こされたということ。もっとも,わたしなどは佐村河内守なる虚言癖の病人と偉大な音楽家であるベートーヴェンをオーバーラップさせることには大反対で,今度の事件というのは『佐村河内守による猿芝居』とでも呼ぶのがいいのだろうと。
それで,今度の事件というのは,いくつかパートから成り立ち,全体として一つの,いわば『交響曲「嘘」』みたいなものを構成しているのだと見るわけで,第一楽章『聴覚障害者として』,第二楽章『作曲家として』,第三楽章『広島市民として』... のように,“作曲する”人によっていくつもの異なる章立てが可能になるのだろうと。実際に彼と関係した人たちにしてみると,その罪深さに重いも軽いもないわけなんだけど,わたしがもっとも罪深いと思うのは,同じような難聴に苦しみながらも,それこそベートーヴェンが不死鳥の如くに病を克服して『交響曲「第九」』という大曲を作り上げたというエピソードに憧れて,この21世紀に佐村河内守が難聴を克服して大曲を完成させたのだから,ひょっとしたら自分たちも難聴を克服し,佐村河内のような大曲が作れるようになるのではないかという「幻影」,まさに淡い幻影をみせてしまったことは許しがたく,万死に値する蛮行だと厳しく糾弾しなければならないし,これに関連していうと,佐村河内は難聴でもなんでもなかった点,彼が作曲したとされた曲は別人の手によるものであった点からして,少なくとも,一度ならず二度までも,聴覚障害がありながら音楽の道を志してる人たちを欺いてしまった。更に言えば,この男の“偉業”に感化─それは決して邪悪なものではなくて─を受け,『僕も将來は佐村河内さんのような作曲家になりたい』みたいなことを,それこそピュアな気持ちで言った中学生や高校生がいたとして,この子は「佐村河内の嘘塗〈まみ〉れの人生」までも引き受けるみたいなことを言ってしてしまったという「呵責」の重圧に苦しんでもいるかもしれず,この時点で「卑劣」というこの言葉は,佐村河内のためにあるようなものだと言っても,決して言い過ぎではない。
さて,ほとんどの日本人&世界中の佐村河内守の悪行三昧を知る人たちは,一連の顛末を見聞きするに及んで,それこそ怒り心頭に発してるに違いなく,一体どのような落とし前をつけさせるのが適当なのかを真剣に,或いは,深刻に考えてもいよう。民事訴訟や刑事訴訟を視野に入れてる人たちも実際にいると聞いている。たしかにそれも大切なことかもしれないんだけど,わたしはこの男には,取り敢えず,一秒でも早く入院してもらうことが第一義だと考える。この病的な虚言癖の持ち主をこのまま放置し,野放しにしておくことは,社会にとっても家族にとっても,いいことはなに一つとしてない〈百害あって一利なし〉。下手をすると,更に─肉体的にも精神的にも─傷つけられる人が大量に出てくる可能性が排除できないのだ。もう少し突っ込んで言えば,マスコミを含め,各方面が佐村河内に翻弄されてるのが今の実情なのであって,彼は会見で『顔を出すのはこれが最後』みたいなことを言ってたわけなんだけど,それが彼の本心だとは到底思えない。突き放せば却って寄ってくる性質が人にはあることを知ってるがゆえに,わざと突き放してみると。マスコミの中には,密かにコンタクトをとってでも他社を出し抜き,スクープしたいという気分があって,そのためには佐村河内の「言い値」のギャラを支払うなんてケースもあるかもしれない。まさに佐村河内の「思う壺」なのであって,当分は佐村河内が話題から消えるってことにはならないし,それどころか彼の一層の「増長」にマスコミが一役買ってしまう危険性すらあるということ。
彼のように,自らの保身のためには,恥も外聞もかなぐり捨てて,「屋上屋を架す」ような真似のできる人間てのは,精神医学的にも扱いにくく,非常に危険な行為も躊躇〈ちゅうちょ〉なしにしてしまう。今回彼は,「(括弧つき)共犯者」のゴーストライターでもあった新垣氏を『名誉毀損の罪で告発する』と堂々と語ったわけだけれど,この言動がなにを意味してるか?の解釈を巡っては諸説あって,新垣氏に対する,これ以上余計なことを言わないよう牽制するメッセージだったと言う人がいる。だが,わたしはそうは思ってなくて,これってのはその場でのアドリブ─すなわち思いつきによる発言─だと見ている。そもそも,佐村河内が自らセットした「場」であるあの会見場ってのは,佐村河内守こそが,スポットライトを浴びる場になるはずだったし,場でなきゃ佐村河内は気が済まなかった。このことは,この猿芝居が顕在化する以前からも,佐村河内という男の「俺様ライオン」的人格の片鱗を垣間見る機会がしばしばあったことからも明らかである。まあ簡単に言ってしまえば,佐村河内にとって居心地のいい「独壇場」になるはずだったのに,いざ会見を開いてみれば,自らの思いとは全く無関係に会見は独り歩きを始めてしまい〈会議は踊る〉,記者たちとの質疑応答を通して繰り広げられたスカーミッシュ〈小競り合い〉から,なにか佐村河内自身にとって居心地のよくない空気が,その場を席捲し始めるのを敏感に察知した佐村河内は,現場における自分自身の「(精神的)劣勢」をなんとか挽回せんと─すなわちこの会見を自分のペースに引き戻そうとして─ものすごい奇策に打って出ることを思いつく。その結果がまさに,先ほど來話題に上ってる「新垣氏告発」という,それこそ場を弁〈わきま〉えることなしに,いきなり突拍子もなく出された,まさに“センセーショナルな”発言ということだ。この会見では,彼が終始劣勢な立場に置かれなきゃいけないことになってるのは,この会見がセットされるに至った一連の問題の経緯からして,折り込み済みの,至極当然な流れではあるんだけど,この流れに佐村河内という男は,鼻持ちならざる苦々しいものを感じるわけで,余りの居た堪れなさから,なんとかこの場における主導権を我が手に取り戻す“起死回生の”逆転満塁ホームランを狙って,ついに「パンドラの箱」を開けることを選択してしまった。要するに,この発言が意味するものっては,繰り返しにもなるんだけど,苦し紛れから「窮鼠猫を噛む」的に,思いつきでもって,後先のことなんかなに一つ考えないで,過激な言説─言葉の暴力─に突発的に訴えただけのことなのだ。決して,緻密な計算にもとづいて,用意周到に準備したというような代物ではないというのが,それこそわたしの見立ての“キモ”ということにもなろう。で,こうした思いつきによる突拍子もない行動ってのが,言葉の暴力に留まってるうちは,まだマシなんだろけど,いつ何どきに,どんな弾み・きっかけでもって,肉体的な暴力に豹変しかねない危うさを,佐村河内守という男はもっているのだ。その意味でわたしは,この男を病院に隔離するなりして,一定の治療を加えることを主張するのであり,訴訟にしても賠償にしても,第二義・第三義相当の話については,治療の経過を観察しながら適切に行うのがいいと訴えたいのだ。
@マイナスのエネルギーをプラス変換する
一般に,まるっきり反対─つまり対極─にあると考えられるものの性質を互いに“入れ換える”みたいな操作は大変に難しいと考えられ,ケースによっては,それは不可能という話にもなるのだろう。たとえば,森羅万象の大本になっているのは「原子」と呼ばれる肉眼では到底観察することのできない粒子なのであって,道端や川原に無造作に転がっている石ころも,多くの人の心を惹きつけるであろう百カラットのダイヤモンドも,なによりわたしたちヒトを含む生物の肉体もまた原子によって成り立っている。この原子という粒子は,大雑把にいってしまえば,プラスの電気を帯びた「陽子」とマイナスの電気を帯びた「電子」という,まさに対極の性質をもつ物質が,物理的に釣り合って「電気的中性」という状態を保って成立している。この陽子と電子の性質を互いに入れ換えて,陽子の帯びてる電気をマイナスに,電子の帯びてる電気をプラスに換えるみたいなことは物理的に不可能であり,仮に人為的操作でもってこの両者の性質を入れ換えることができたとするならば,それはわたしたちが原子として認識してるモノとは違う,また別の「物質」の誕生を意味することになる。こうしてできたこのモノは,既に原子とは異質な構造をなし,異質な性質を示す新しい“粒子”ということにもなろう〈実際にこのような粒子は原子力発電の原子炉中に存在し「反原子」と呼ばれる〉。要するに,この喩え話が物語っていることは,いかにプラスとマイナスの性質を入れ換えることが困難であるかということなのであり,これってのはわたしたちが日々過ごしている日常において,しばしば経験する話にもつながるのではないかと思われる。
わたしたちは,日常の生活において“マイナスのエネルギー”を溜め込む傾向が強いのではないかと思うわけで,具体的に申せば,他人に対する嫉妬や怨念などのネガティブな感情ってのは,多分にマイナスのエネルギーを蓄えており,わたしたちは好むと好まざるとにかかわらず,こうした諸々の感情を内面に溜め込み,そのために精神的にはストレスを感じることにもなるのだろうと。こうした一連の流れというのは,説明するまでもなくいいことではないし,或る種の悪循環を形成することにもなり,最悪の場合には精神的な病みを発症することにもなりかねない。けれども,わたしたち人間という生き物には,恐らくは,完全なるストレス・フリーの生き方というのはあり得ない。望みはするんだけど,得ることはできない,まあ“無い物ねだり”ということだ。ひょっとすると,地球上に暮らすほとんどの生物にとって,ストレス・フリーな生き方なんてものは存在しないのかもしれない。そのために,半ば常套句のように『現代社会に生きる人たちは,多かれ少なかれストレスを抱えながら日々を生きている』みたいな言葉が飛び交うことになるのに違いなく,この言葉ってのは間違いではないにしてもその一方では,なんの慰めにもならないし,なんの癒しや福音を与えはしないことも,また厳然とした事実なのだ。このように,或る意味,ストレスみたいな好ましくないモノに満ち満ちた現実世界を生きてかなきゃいけないことを運命づけられたわたしたちにとって,災いを転じて福となし,起死回生を具現してくれる,なにか「ドラえもんの道具」に匹敵するような,魔法みたいなものってのは,果たしてあり得るのだろうか?
たとえば,十年間も音信不通で生きてるものなのか,死んでるのかさえわからなかったかつての同級生Aが,いきなり大出世をして,いまやメディアの寵児として日々持て囃〈はや〉されているような,自分にしてみれば,それこそ青天の霹靂を目の当たりにしてるみたいな“事件”に直面したケースを考えてみよう。この場合に,やはり重要な意味をもつと考えられるのは,自分とAとの間のそもそもの関係性でもあって,仮に同級生には違いないんだけど,ほとんど互いに行き来することがなかった希薄な関係ってことになれば,Aが時代の寵児になったという現実を比較的冷静に受け止めることができて,Aに対する嫉妬のようなネガティブな感情が萌芽するみたいなことは,むしろ少ないのだろうと。ところが,逆にお互いの関係がそこそこ親しかったときには,Aという人間の性格・得手不得手に始まって,人間性みたいなその人間の評価の根幹にもかかわるような情報に至るまでの「個人情報」が把握できているがゆえに,『なんで,あの数学の門外漢が... 』,『なんで,あんなケチのしみったれが... 』みたいな,それこそネガティブな嫉妬含みの感情が,堰を切ったかのように怒濤の如く噴出することにもなるのだ。
このネガティブな感情を,大量に自己の内部に抱え込まなきゃならないってことになると,それってのは,実はかなりしんどい。具体的には日常生活のあらゆる場面で,Aと自分との今の身の上をいちいち比較しないではいられないような,極めて非生産的な状況を招きかねない。このことが,やがてはコンプレックスを形成し,最悪の場合には,自己嫌悪にさえ曝露されることにもなりかねず,このネガティブな感情に対して,なんらかの“処理”を加えることが必要になる。すなわち,タイトル冒頭でも述べたように,マイナスのエネルギーをプラス変換する操作を施すということにほかならない。差し当たり重要なのは,目下の自分とAとの関係性の中で,自分がAに対して嫉妬みたいなネガティブな感情を抱かなきゃいけない環境が存在していることが問題なわけだから,その環境に代わる新たな“秩序”を構築することが先ずもって求められることになる。どういうことかというと,要するに問題のAを新秩序の中で抹殺してしまうということだ。ずいぶん不穏当なことを言うやつだと訝〈いぶか〉る向きもあろうかとは思うのだけれど,わたしが言うところの新秩序とは「仮想空間」と言い換えてもいいような,現実とは一線を画した「場」のことでもあって,たとえば,いまメディアで脚光を浴びつづけてるAが強盗に殺されてしまったと。そこで自分は,香典持参で葬儀に参列し弔辞を読んできたみたいな,荒唐無稽と言われりゃ,まさにその通りと言わざるを得ないストーリーをわざわざ作り上げ(捏造し)て,Aを一旦は自分の中で殺してしまうことが,実はなににも増して肝心ということ。そもそもAに対するネガティブな感情というのは,当たり前の話だけれど,Aが存在しているがゆえに自己の内部に鎌首を擡〈もた〉げてくる性質のものなので,Aの存在自体を亡き者にしてしまうことにはそれなりの意味がある。
だが,Aを自分の中で葬り去ったことで,全ての作業が終了したかのように安穏としていたのでは,この新秩序の構築はただの「現実逃避」となにも変わらないわけで,その一方では,着々と次の準備に取り掛かることが求められる。それは,自らの中に「心の柱をたてる」ということ。そもそも,なぜに他人の存在のために自らの存在が危うくなったり,いちいち他人の境遇と自分の境遇を比べて,相手に嫉妬しなきゃいけないような羽目に陥ることになるのかといえば,自分の心の中になにも柱がたっていないからなわけで,根無し草や浮き草のような,なんにでも流されるような生き方とはとっとと訣別することが,仮に他人と比較されても一喜一憂しなくてもいい生き方への第一歩ということだ。「心の柱」というのは,あらためて述べるまでもなく,自らの生の根幹をなすものであって,自らの存在意義〈レゾンデートル〉といってもいいものだ。これが希薄なために,人はしばしばネガティブな感情の虜〈とりこ〉となって,非生産的な日常を無限ループのようにひたすら生きていくことにもなるのだと考えられる。こうなってくると,他人が羨ましくも見えてくるのも当然だろうし,それが昂じて他人に対する妬みや嫉みの感情が増幅することで,本來の自分の在るべき姿を見失い,なにものか─ひょっとすると神様─によって生かされるだけの,極めて“受け身的な”人生を歩みつづけることにもなるのだ。逆にいえば,それだけ心に柱をたてるってことが簡単ではないことを意味してもいるんだけど,柱がたたないこと自体は必ずしも本人だけのせいではない。よく言われてもいることだけれど,今日の日本社会というのは,画に描いたように尻窄みへの筋道を驀地〈まっしぐら〉に歩んでいる社会でもあって,近い遠いを問わず将來になにか楽しいことが待ってる予感がまるでしない。だが,予感がまるでしないからなにも行動しないのと,予感はまるでしないんだけどなんらか行動するという,この2つの行動パターンの違いには雲泥の差があるのは明らかで,どちらの行動を選択するのかは,その人間が育った家庭環境や受けてきた教育,人生でどんな人たちに出会ったかなどが大きく影響しているのだと考えられる。しかしながら,この段階で行った選択だけでは,所謂「勝ち組」,「負け組」というのは決まらない。最終的に人生の勝ち組,負け組を決めるものは,やはりマイナスのエネルギーをプラス変換できるかどうかに懸かっている。マイナスのエネルギーを溜め込むしか出來ない人ってのは,悲しいかな,人生における負け組への規定路線を歩んでいる人たちだと言わざるをえない。マイナスエネルギーのそのほとんどは,他人との人間関係において発生し,溜め込まれるものだと言っても決していい過ぎではない。人が人以外の生き物─たとえば犬や猫─との関係の中でマイナスエネルギーが発生し,それを溜め込むなんてことは一般にはあり得ない。やはり,究極的にヒトという生き物は,人間関係をめぐって悩み苦しみ,ネガティブな感情を醸成していく“悲しい”生き物にほかならないのだけれど,相手を恨んだり嫉妬してるだけでは,非生産的なだけでなにも解決しないということだ。それに,自らの心に柱をたてるためのいわば“便法”として自分の中で殺したはずの当のその人物が,突如ゾンビのように甦〈よみがえ〉ってきて,甦ってきてはまた殺し,殺してはまた甦ることを繰り返すのだとしたら,それってのはもはや人格上の欠陥を示唆しているとも考えられ,医学的な加療を必要とする“病み”が潜んでもいることを意味しているのだと考えられる。事実,単に「性格が悪い」という言葉だけでは到底片づけることのできない,それこそ人格障害者の片鱗を垣間見せる人ってのがたまにいて,さすがにそういうレベルにまで達してしまうと,これまでわたしが積み上げてきたここでの議論てのが,音を立てて根底から崩れてしまうってことにもなるんだろけど,今日の日本社会にあって,少なからざる人たちに取り憑く可能性を有する極めて憂慮すべき病巣だと考えられるのだ。不幸にして取り憑かれてしまった人たちに対しては,医学的・社会学的・経済的・法的な国家を挙げての実効性のあるアプローチってのが必要になってくるのは火を見るより明かなんだけど,残念ながら未だに有効なアプローチは確立されておらず,彼らの病みは深まるばかりだと言わざるをえない。このような現実を踏まえるとき,ひょっとすると,今日におけるマイナスエネルギー発生源の最たるものってのは,この現代における日本社会のシステムそのものなのではないかという重大な疑義が生じる。しかもこのシステムの中には,そもそもマイナスのエネルギーをプラスに変換する─或いは変換できる─仕組みが実装されていないってことになって,今のままなにも変わることなしに,なにごとかに急き立てられるかのように,この先に進まなきゃいけないってことになるとすれば,この社会ってのはプラスに変換されることがないマイナスのエネルギーで満ち満ちた,いわば混沌〈カオス〉が支配する闇のような空間の中で,将來に対する希望や展望がなにももてない生き方を,この社会に生きるだれもが余儀なくされるようになってしまうことが大変に憂慮されるのだ。