写経屋の覚書-フェイト「今回はどうするの?」

写経屋の覚書-なのは「私立学校に関する史料の整理中に見つけて気になったことを取り上げるんだけど…まずその史料、1909(隆煕3・明治43)年10月6日付の憲兵報告『憲機第1949号』をあげるね」

憲機第1949号 排日派李東暉の私立学校巡徊演説要旨報告件(十月六日附元山内報)

     京城 李東暉 四十四年
 右者排日派にして各地方の私立学校を巡視し排日を鼓吹する者なる由なるか近来財産を失ひ衣食に窮したる為め今回在城津某宣教師の聘に応し同地に赴く途中客月二十七日顕益丸にて元山に来り本月五日迄滞在同日出帆の俊昌号にて城津に向けけ出発せり依て其滞在中に於ける行動に注意したるに韓人の有力者及私立学校教師等と往復したる外別に過激なる行動を認めすと雖とも本月二日元山里倉前洞耶蘇学校に於て左記要旨の演説をなしたり
 而して該演説を聴く為めに集りたるものは各耶蘇学校生徒約三百名耶蘇信者百名(内女約五十名)にして該演説は聴衆一般に感動を与へたる状ありたり
   左記(演説要領)
 我韓国は今日に至る迄未開国てありて諸外国と対等の交際をなす能はさるは勿論他国の保護に依らされは一国を支ふる能はさるの窮境に陥りたるは誠に残念否な憫然てありませんか之れは我国民の凡てか文明を見習はんとするの感念なく唯た旧慣のみ保守せは足れりとし夫れを甘して居るからてあります現に教育の如きは如何試みに見よ今尚旧慣に依り多くは漢字を学ひつゝあるに非らすや又就学者を見るに如何之れも実に少数なものてあります田舎に行かは全く西も東も又は自己の姓名をも書き得ぬものか多ひのてあります故に文明の域に進むのは甚た遅々てあります否進まぬのてあります我々の如きも四、五年以前迄は頑迷て我国の事は何んても善しと思ふて決して他国の風習を見習はす事に努めしか今となりて大なる者違ひなる事を自覚し後悔に堪へぬ次第てあります故に我国も今後諸氏と共に相一致して英国や米国其他の文明国を師とし善を取り悪を避け開明の域に進まねはなりませぬ
 就ては第一教育の如きもも独り漢学のみに止めす数学、語学、政事、財政、博物、修身其他凡ての学問を子弟や後進会を教育しなけれはなりません斯くするときは後には英国其他文明国と肩を並へて交際する事か出来ます元来何事をなすにも十人か十人各個別にして相一致せさるときは成(ママ)は臨む事は出来す故に協同一致と云ふ事は尤も大事であるから何卒一致して国家の為めに勉励せられん事を望む(中間欠文)
 李東暉は咸鏡南道端川産にして現に西北学会々員たり元陸軍参領なり目下は基督教に身を置き教育家を以て自任し時に田舎に出張演説す排日的の似而非慷慨家なり(本部主任附記)

写経屋の覚書-はやて「李東暉いう人の活動の話やな。どんな人なんかな?元陸軍参領ちゅうたら陸軍少佐に相当するんやろけど……」

写経屋の覚書-フェイト「困った時は獄長日記に立ち戻って検索っと…あ、このエントリーがヒットしたよ」

三派合同(九)

一.在上海閔泳翊、在浦鹽李相卨(咼の上にト)、李範晋等は、安重根の弁護費用として上海、浦鹽在留韓人より義捐金を募集しつつありとの説あり。
又間島に在る李範允も、目下咸鏡北道に滞在せる李東暉をして、安重根の為めに義捐金を募集せしめつつありと云ふものあり。
尚ほ内偵中。

写経屋の覚書-はやて「あれ?これだけかいな?一緒に出てくる人名を見たら、独立運動とか上海臨時政府の関係者なんかな?」

写経屋の覚書-なのは「うん。それっぽいんだよね。というわけで、フェイトちゃん、ウィキペディア程度でいいから検索してみて」

写経屋の覚書-フェイト「う、うん…あれ?ウィキペディアの大韓民国臨時政府の項目だと、李東暉じゃなくて李東輝って人が出てきたよ」

1919年6月、内務総長に安昌浩が着任し、連通制(朝鮮内地との秘密連絡網)の組織化や機関紙『独立新聞』の発行、各種の宣伝活動が展開された。しかし、臨時政府はシベリア派と上海派の対立、安昌浩等の「民力養成論」派と李東輝等の「即戦即決論」派の対立、さらに李承晩と安昌浩の対立など、指導者間の対立によって混乱し、1923年の国民代表会議の決裂以降は急速に勢力が弱まった。1925年の李承晩臨時政府大統領の弾劾以降、金九が指導者の地位に就く。金九は1932年、相次ぐ抗日武装闘争を実行し、1933年には蒋介石と対日戦線協力で合意した。

写経屋の覚書-はやて「ほんなら、獄長日記を『李東輝』で検索してみよか…あった、あったで」

梁起鐸事件(一)

義捐金の募集状況は、申報にて順次広報されていたが、そのうちに、梁起鐸が国債報償金を使い込んだ形跡があるので、取調べしてくれと言う者が少なくない数出てきた。
後の調査報告には、李東輝・鄭永沢・李星鎬の三名が連署し、内部大臣に調査を請願した事が記されている。
もしこれが本当だとすれば、身内からの告発という事になるであろう。

写経屋の覚書-フェイト「でも、李東暉と李東輝って同じ人なのかな?別人なのかな?」

写経屋の覚書-なのは「今回はここまでにして、それへの解答は次回にするね」
写経屋の覚書-なのは「さて、今回が本題になるのかな。戦後に日本に在留した朝鮮人の法的地位についての話だよ」

写経屋の覚書-はやて「むっちゃ長い前フリやんw」

写経屋の覚書-フェイト「内容としては『戦後朝鮮人の送還について7』の続きと言うか補足発展みたいなものになるのかな?

写経屋の覚書-なのは「そうだねぇ。まず1946(昭和21)年3月~12月の計画送還に参加せず、47(昭和22)年1月以降の個別引揚にも参加しないで日本在留を選択した朝鮮人についてなんだけど、その在留資格を設定したのは昭和27年法律第126号「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律」の第2条第6項、よく短縮して126-2-6って呼ばれる法律なの」

写経屋の覚書-126-2-6

1952(昭和27)年4月28日付官報(号外第48号)掲載
昭和27年法律第126号 ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律

6 日本国との平和条約の規定に基き同条約の最初の効力発生の日において日本国籍を離脱する者で、昭和二十年九月二日以前からこの法律施行の日まで引き続き本邦に在留するもの(昭和二十年九月三日からこの法律施行の日までに本邦で出生したその子を含む。)

写経屋の覚書-はやて「126-2-6ってそういう意味があったんやなぁ…「この法律施行の日」っていつなん?」

写経屋の覚書-なのは「サンフランシスコ講和条約の効力が発生する1952(昭和27)年4月28日だよ。そういうわけで法律126-2-6は戦前からの在住者及びその子孫に対して与えられる在留資格の根拠になるってわけ」

写経屋の覚書-フェイト「あれ?戦前からの在住者の子孫で1945年9月2日から1952年4月28日の間に生まれた人はいいとして、52年4月29日以降に生まれた人はどうなるの?126-2-6の適用対象範囲外になってしまうよ」

写経屋の覚書-なのは「それはね、出入国管理令第4条第1項第16号による在留資格者になるんだよ」

写経屋の覚書-4-1-16-2出入国管理令

1951(昭和26)年10月4日付官報(第4722号)掲載
昭和26年政令319号 出入国管理令

第四条 外国人(乗員を除く。以下この条において同じ。)は、この政令中に特別の規定がある場合を除く外、左に掲げる者のいずれか一に該当する者としての在留資格(外国人が本邦に在留するについて本邦において左に掲げる者のいずれか一に該当する者としての活動を行うことができる当該外国人の資格をいう。以下同じ。)を有しなければ本邦に上陸することができない。
(中略)
十六 前各号に規定する者を除く外、外務省令で特に定める者

写経屋の覚書-フェイト「外務省令?」

写経屋の覚書-なのは「昭和27年5月12日の外務省令第14号「特定の在留資格及びその在留期間を定める省令」第1項第2号だよ。出入国管理令とこの外務省令を合わせて4-1-16-2って言われるね」

写経屋の覚書-4-1-16-2外務省令

1952(昭和27)年5月12日付官報(第76000号)掲載
昭和27年外務省令第14号 特定の在留資格及びその在留期間を定める省令

二 ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く外務省関係諸命令の措置に関する法律(昭和二十七年法律第百二十六号)第二条第六項に該当する者の子で同法施行の日以後本邦で出生したもの

写経屋の覚書-なのは「だから正確には、戦前からの在住者及びその子孫の在留資格は126-2-6と4-1-16-2の2系統があったってことなの。それ以外にも4-1-16-3つまりこの外務省令の第3号「三 前二号に規定する者を除く外、入国管理庁長官が特に在留を認める者」ってのもあるんだけどね。『在留外国人統計』によると1959(昭和34)年の126-2-6資格者は507,634人、4-1-16-2資格者は89,195人となっているよ」

写経屋の覚書-はやて「この時点で戦前からの在住者及びその子孫は596,829人ってことやな」

写経屋の覚書-なのは「で、1964(昭和39)年には126-2-6資格者は422,368人、4-1-16-2資格者は136,815人になってるんだよ。そういうわけで、1965(昭和40)年までは、法律126-2-6資格者=戦前からの在住者及びその子孫って解釈は概ね正解なんだよ。ほんとは4-1-16-2資格者の存在を忘れちゃ困るんだけどねw」

写経屋の覚書-フェイト「1965年までは?65年に何かあったのかな?」

写経屋の覚書-はやて「これはすぐわかるで。日韓基本条約の締結年や」

写経屋の覚書-なのは「そう。65年の日韓基本条約の締結に伴う昭和40年条約第28号『日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定』で協定永住者ってカテゴリーが設定されたんだよ」

写経屋の覚書-協定永住_日韓条約

1965(昭和40)年12月18日付官報(号外第135号)掲載
昭和40年条約第28号 日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定

第一条
1 日本国政府は、次のいずれかに該当する大韓民国国民が、この協定の実施のため日本国政府の定める手続に従い、この協定の効力の発生の日から五年以内に永住許可の申請をしたときは、日本国で永住することを許可する。
 (a)千九百四十五年八月十五日以前から申請の時まで引き続き日本国に居住している者
 (b)(a)に該当する者の直系卑属として千九百四十五年八月十六日以後この協定の効力発生の日から五年以内に日本国で出生し、その後申請の時まで引き続き日本国に居住している者
2 日本国政府は、1の規定に従い日本国で永住することを許可されている者の子としてこの協定の効力発生の日から五年を経過した後に日本国で出生した大韓民国国民が、この協定の実施のため日本国政府の定める手続に従い、その出生の日から六十日以内に永住許可の申請をしたときは、日本国で永住することを許可する。
3 1(b)に該当する者でこの協定の効力発生の日から四年十箇月を経過した後に出生したものの永住許可の申請期限は、1の規定にかかわらず、その出生の日から六十日までとする。
4 前記の申請及び許可については、手数料は、徴収されない。

写経屋の覚書-なのは「永住許可申請についての法律は、昭和40年法律第146号『日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定に伴う出入国管理特別法』なの」

写経屋の覚書-協定永住申請_法律

1965(昭和40)年12月17日付官報(第11706号)掲載
昭和40年法律第146号 日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定に伴う出入国管理特別法

(協定に基づく永住)
第一条 日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する日本国と大韓民国との間の協定(以下「協定」という。)第一条1及び2に規定する大韓民国国民は、法務大臣の許可を受けて、本邦(出入国管理令(昭和二十六年政令第三百十九号)に定める本邦をいう。)で永住することができる。
2 法務大臣は、前項に規定する者が協定第一条1から3までに定める期間内に前項の許可の申請をしたときは、これを許可するものとする。

写経屋の覚書-なのは「で、これは自動的に適用されるものじゃなくて申請許可制だったから、126-2-6と4-1-16-2資格者が協定永住資格を得ようとしたら、この協定の効力が発生した1966(昭和41)年1月17日から5年間という期間内に申請しないといけなかったの」

写経屋の覚書-フェイト「ってことは、その期間内に申請しないで資格を切り替えないままでいた人たちもいたんだね?」

写経屋の覚書-なのは「うん。虚偽申請ならともかく申請自体をしないことについての罰則もないしね」

写経屋の覚書-はやて「つまり1965年以降は、戦前からの在住者及びその子孫の在留資格は、協定永住・126-2-6・4-1-16-2の3種類が併存したってことになるんやね」

写経屋の覚書-なのは「そういうことなんだよ。戦前からの在住者及びその子孫=126-2-6・4-1-16-2資格者って無条件に言えなくなったんだよね。結局、1991年の特例法で、協定永住者・法律126-2-6・4-1-16-2資格者は全部一括して「法定特別永住者」カテゴリーに自動的に切り替わったんだけどね」

写経屋の覚書-フェイト「いろんな経緯があるんだねぇ…」

写経屋の覚書-なのは「発端になったtogetterでは、件の代表戸締役氏が『アボジ聞かせてあの日のことを』掲載の統計表を引用して、協定永住許可:87.3% 一般永住許可6.6% 法律126-2-6に基づく資格者(戦前からの在住者及びその子孫)1.8% 不明3.1%だから、126-2-6に基づく戦前からの在住者及びその子孫は総人口の1.8%で約7000人(不明分を含めても最大で4.9%約20000人)、そのうち強制徴用者は245名だけという解釈をしているけど、これは126-2-6と1965年の日韓基本条約に関連して定められた協定永住資格との関係、自動切替じゃなくて申請許可だったっていうファクトが欠落しているの」

写経屋の覚書-フェイト「重要なファクトが欠落してると、正しい思考回路の持ち主でも間違った解を出してしまうって好例だね」

写経屋の覚書-なのは「そうだろうねぇ。こういった経緯に対する知識が欠落してて、戦前からの在住者及びその子孫はずっと法律126-2-6資格者だと考えてると、それ以外の在留資格者は法的根拠に瑕疵があるって結論になっても仕方ない、むしろ論理的展開としては妥当なものになるんだよねぇ…それにね、『アボジ聞かせてあの日のことを』p18の書き方も悪いんだよ。「在留資格は、日韓法的地位協定(1965)による協定永住権を取得している人が一番多く、9割近い。(中略)「法律126-26」に該当する人(戦前からひき続き1952年4月28日まで日本に在住した者とその子で、この時までに日本で生まれた者)は1.8%にすぎない」なんて書くんだもん」

写経屋の覚書-アボジp18

写経屋の覚書-はやて「あー、これは誤解してもしゃぁない書き方やわ」

写経屋の覚書-なのは「『アボジ聞かせてあの日のことを』の元データとなったのは、1910年から1945年8月15日までの間に満12歳以上で渡来した在日一世を対象にしたアンケート調査なんだけど、そのアンケートが実施された1982年10月25日~1983年1月15日と編集出版された1988年当時は、協定永住者・法律126-2-6・4-1-16-2資格者が混在している時代だったんだよ。それなのに、協定永住と法律126-2-6や4-16-2の関係もきちんと書いてないしねぇ。入国管理局の出している『在留外国人統計』を見ていくと、協定永住者・126-2-6・4-1-16-2資格者の変遷はこんな感じなの」

調査年度登録総数在留資格
126-2-64-1-16-2協定永住特定永住
1959(昭和34)年607,533507,63489,195  
1964(昭和39)年578,572422,368136,815  
1969(昭和44)年603,712324,968156,237100,297 
1974(昭和49)年638,806149,076121,217342,366 
1984(昭和59)年687,13539,48316,067350,067 
1986(昭和61)年677,95918,8842,424341,016 
1988(昭和63)年677,14017,5412,207328,934 
1990(平成2)年687,94017,4242,125323,197 
1992(平成4)年688,144   585,170

写経屋の覚書-なのは「あ、4-1-16-3資格者と出入国管理令第4条第1項第14号「本邦で永住しようとする者」に基づく4-1-14資格者、その他の資格による韓国・朝鮮人の数は省いてあるから注意してね。それと『在留外国人統計』の昭和44年版・49年版の実物を見ると、在留資格欄に「不詳」っていうのがあるんだけど、これは登録写票の該当欄に記載がない者であって実質的に126-2-6該当者を指すっていう欄外注釈があるから注意してね」

写経屋の覚書-はやて「不詳やから正当な在住権利資格のないもんや!って早合点しそうな人多いやろなぁw ま、そんな連中はそもそもこういう史料現物を調べたりせえへんかw」

写経屋の覚書-フェイト「126-2-6・4-1-16-2資格者がどんどん減っていって、協定永住が増えていってるね。資格切り替えや死亡による減少が主因だろうけど」

写経屋の覚書-はやて「この変化を見るだけでも、「戦前からの在住者及びその子孫はずっと126-2-6資格者に限定される」いう解釈に疑問を持つと思うんやけどねぇ。正味の話」

写経屋の覚書-なのは「うーん…それ以前に、126-2-6の条文を理解把握していないか、そもそも条文自体を読んでないのかもしれない…あと、『アボジ聞かせてあの日のことを』はアンケート結果を集計したものだから、そこから割り出せる人数は所詮精度の高くない概算でしかないんだし、直接、在留資格別人数の正確な数値のある『在留外国人統計』にあたらないってのもどうかと思うんだけど、これは少し厳しい見方になるかな」

写経屋の覚書-フェイト「そうだね。条文をちゃんと読んでいれば、1952年4月28日以降に生まれた戦前からの在住者の子孫はどうなるのか?とか、協定永住者資格の定義運用ってどうなってるの?って疑問を持って調べていくようになると思うんだけどね…」

写経屋の覚書-なのは「126-2-6とかの基本的用語の説明すらしていない書籍が多いんだし、法律や統計を自分で調べるのがいちばん確実なんだよね」

写経屋の覚書-はやて「そやけど現実にはやな、2ちゃんのまとめサイトを見ると、まだ学習してへんというか、作者の言うたことを何一つ受け入れもしてへんどころか、理解すらもしてへんみたいやねん」

写経屋の覚書-黒なのは「…あーあ、せっかく、最大限に好意的にとって「ファクトが欠落しているだけ」だと考えてあげたのにダメだったみたいだネェ…もう、悪魔らしいやり方で話を聞いてもらうしかないのかな」

写経屋の覚書-はやて「ちゅうか、もう話を聞いてもらう必要もあらへんって思っとるやろ、この作者w」

写経屋の覚書-黒なのは「…ねぇ、少し頭冷やして一次史料読んでみようか…」

戦後の日本在留朝鮮人(1)
戦後の日本在留朝鮮人(2)
写経屋の覚書-フェイト「今回は朝日記事の国民徴用令の箇所についてだったね」

写経屋の覚書-はやて「たしか『国民徴用令は日本内地では昭和十四年七月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ昭和十九年九月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年三月の下関―釜山間の運航が止るまでのわずか七カ月間であった』ってとこやな」

写経屋の覚書-なのは「うん。朝鮮に対する国民徴用令の適用時期の話としてよく出てくる箇所なんだよね。実は国民徴用令が1939(昭和14)年7月15日から内地に施行されたのは事実だけど、朝鮮・台湾等についても同じ年の10月1日から施行されてるの」

写経屋の覚書-国民徴用令_施行時期

写経屋の覚書-フェイト「え?1944(昭和19)年9月じゃないの?」

写経屋の覚書-なのは「うん。正確に言うと、1939年10月1日に施行されたけど、実際にそれを適用して一般民間人を徴用して内地に送り出すようになったのは1944年9月以降ってことなの」

写経屋の覚書-はやて「あ、そやから記事では「朝鮮への適用はさしひかえ」って表現になっとるんやろね」

写経屋の覚書-なのは「多分ね。おそらく記者は正確に把握して書いているんだろうけど、前後で「施行」じゃなくて「実施」って表現を使っているからややこしくなってると思うんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「「実施」だと「国民徴用令に基づく徴用の実施」じゃなくて「国民徴用令そのものの施行」と誤解しそうだよね」

写経屋の覚書-なのは「うん。きちんと書くなら『国民徴用令は昭和十四年十一月に朝鮮に施行されたが、その適用による徴用実施は昭和十九年九月からであり、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年三月の下関―釜山間の運航が止るまでのわずか七カ月間であった』ってところだね」

写経屋の覚書-はやて「そやけど、記事を読むほうがそこまで読みとれへんかったり、背景の知識がないために「1944年まで朝鮮に対しては国民徴用令は実施されなかった」なんて早合点する人も出るんやろね」

写経屋の覚書-なのは「そうだろうね。それともっと正確に言うと、1944年9月まで差し控えられていたのは『国民徴用令を適用して、一般民間朝鮮人を内地の工場等に徴用すること』なんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「え?どういうこと?」

写経屋の覚書-なのは「軍そのものに直接関係する徴用は1939年から実施されてるし、一般民間人じゃなくて工場等勤務者を朝鮮内の工場等へ徴用することは1944(昭和19)年2月から、一般民間人を朝鮮内の工場等へ徴用するのは8月から開始してるんだよ」

写経屋の覚書-議会説明資料_徴用

(一)現員徴用
重要工場鉱山の一般徴用実施の前提措置たらしむる目的と併せて労務移動防止を期する為本年二月以降鮮内重要工場事業場の現員徴用を実施したるが(後略)
(二)一般徴用
一般徴用は従来に於ては軍要員のみに付発動し来り、其の数十月末現在に於て三一、七八三名に達したるが民間要員に付ては本年八月鮮内鉱山二ヶ所に対し一、二〇〇名の徴用を実施したるを初めとし十月末現在に於ては一〇工場二、五二〇人、一五鉱山七、六〇〇人に達し尚今後順次他の鮮内工場鉱山に対しても徴用を実施する方針なり而して近時内地労務需要急を告ぐるに至りたるを以て内地送出労務者に付ても可及的徴用に依ることに内地側と協議調ひ其の第一として九月以降海軍艦政本部所管海軍管理造船工場二十一箇所の所要員数三九、五〇〇名の徴用を行ひたるを初めとし工場石炭山、金属業等の要員に付ては原則として徴用に依る方針の下に取進め居れり

問答式 第八六回(昭和十九年十二月)帝国議会説明資料 鉱工局、逓信局、交通局
*『朝鮮総督府 帝国議会説明資料』(不二出版 1994)第10巻所収

写経屋の覚書-坪江_徴用18
写経屋の覚書-坪江_徴用19

四.国民徴用令による動員
 日本において国民徴用令が発動されたのは、昭和十四年であり、朝鮮でも仝年十一月一日(ママ)から施行されていたが、それはただ軍用員関係にだけ適用するに止まっていた。
 戦争の最終段階にいたるとともに、日本における朝鮮人労務者の需要はますますつよくなった。昭和十八年末までにはすでに四十万を越える人員が動員されていたが、仝十九年度にはさらに二十九万名が要望され、さらに十万名の追加要求があつた。このほか朝鮮内の労務動員計画をふくめると、合計百二十四万の労務者を必要としており、以上の要求を満たすためには従来のような「斡旋」などのなまぬるい方法では円満な遂行はとうてい不可能であつた。
 そこで総督府は昭和十九年二月に、朝鮮内重要工場事業場の現員徴用をおこない、また従来軍用員のみにおこなつていた一般徴用を、八月以後鮮内鉱山工場に実施し始めたが、仝九月以降は日本おくり出しの労務者も土建関係をのぞき一般徴用によることとなつた。そして第一回として、海軍艦政本部所管海軍管理造船工場二十一ヶ所に三九、五〇〇名の動員がおこなわれたのをはじめ、各工場、炭坑、金属などに陸続として送りこまれた。ただし総督府としては労務管理の悪いところへは、徴用令によることをさける方針をとつた。
(中略)
 戦局の不利は日本の都市の爆撃の激化となり、在日朝鮮人で空襲のない朝鮮へ疎開するものも多くなつたが、二十年三月には関釜連絡船も就航できなくなり、国民徴用令による日本への労務動員も、その以降はまつたく不可能な段階になつていた。

坪江汕二『在日本朝鮮人の概況』(厳南堂 1965)p18~19


写経屋の覚書-はやて「徴用いうても、きちんと見ていくと細分化されとるんやなぁ」

写経屋の覚書-なのは「そうなんだよね。だから厳密に言うと、国民徴用令自体は1939年から朝鮮に施行されていて軍属は徴用されているし、1944年9月以前にも一般民間人の徴用はあったってことなんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「そうなんだ…「徴用」の定義を一般民間人の内地工場等への動員に限定するなら、世間に流布している解釈で妥当だし、この朝日記事も間違ってはいないってことだね」

写経屋の覚書-はやて「ああなるほど。一般人を狩り集めて内地の工場や炭鉱に送り込む『強制連行』のイメージが頭にあるせいで、無意識のうちにその定義に限定してもおとるんかもしれへんね。肯定派否定派関係なく」

写経屋の覚書-なのは「そうかもしれないね。じゃ次の箇所に行くね」

一、終戦後、昭和二十年八月から翌年三月まで、希望者が政府の配船、個別引揚げで合計百四十万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和二十一年三月、連合国の指令に基く北朝鮮引揚計画で三百五十人が帰還するなど、終戦時までに在日していた者のうち七五%が帰還している。戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。現在、登録されている在日朝鮮人は総計約六十一万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は二百四十五人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留した者である。

写経屋の覚書-はやて「終戦後の計画送還については作者のHPの『戦後朝鮮人の送還について』で見たとおりやしな」

写経屋の覚書-なのは「『History of the nonmilitary activities of the occupation of Japan 1945-1951 vol.16 Treatment of Foreign Nationals』によると、1945(昭和20)年9月から46(昭和21)年3月までの送還者は815,851人、森田芳夫『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(法務研究所 1955 復刊:湖北社 1975)によると1945(昭和20)年8月から46(昭和21)年3月までの送還者は940,438人だけど、これらは自力で帰還した人数は入ってないよ」

写経屋の覚書-フェイト「「政府の配船」での送還だね。自力帰還が「個別引揚げ」になるんだね。そっちのほうは?」

写経屋の覚書-なのは「事情が事情だけに正確な統計は不可能なんだけど、梁永厚『大阪府朝鮮人登録条令制定の顛末について』(「在日朝鮮人史研究」第16号所収)では、日本政府発表・厚生省引揚援護局統計として両者の総計を約130万としてる、つまり個別引揚は40万から50万って見積もる統計はあるんだよね」

写経屋の覚書-はやて「うーん、元ネタが確認取れてへんし、鵜呑みにはでけへんよね」

写経屋の覚書-なのは「でも、終戦当時の在留朝鮮人約200万から46年3月時点の在留者646,711人を引くと約130万になるから根拠のない数字とは言えないし、一応信用していいかなとは思うんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「646,711人?46年3月からの計画送還の希望調査に出てきた在留朝鮮人総数だね」

写経屋の覚書-なのは「うん。北部朝鮮への送還者350人っていうのは、『戦後朝鮮人の送還について6』で見たように正確には351人なんだけど、これも妥当だね」

写経屋の覚書-はやて「そやね。あと245人の話は、徴用で内地に来た応徴者で戦後残留した人が何人かおったけど、その人らは59年時点で245人しかおらへんってことやったね」

写経屋の覚書-なのは「そういうことだね。応徴者は終戦直後の送還でほとんどが帰還してるし、それに参加しないで日本在留を選択した人も何人かはいるけど、46年3月~12月の計画送還と47年1月以降の個別送還で帰還したり死亡してその人数は漸減して、59年時点では245人しかいないってことなんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「ってことで、朝日記事はほぼ妥当な認識を示していると考えていいんだね」

写経屋の覚書-はやて「ま、朝日の依拠した外務省発表が妥当ってことやねんけどねw」

写経屋の覚書-なのは「じゃ、今回はここまでにして、次回からは日本在留を選択した朝鮮人の地位取扱などについて見ていくよ」

戦後の日本在留朝鮮人(1)