写経屋の覚書-フェイト「テキストCの内容検証の続きだね」

これら「朝鮮進駐軍」 元締め組織が「朝鮮総連」、ヤクザなどになっていった。

写経屋の覚書-フェイト「これってどういうこと?」

写経屋の覚書-なのは「これ、妥当なところが一ヶ所もない文章なんだよ。まず『朝鮮進駐軍』の元締め組織って何?在日本朝鮮人連盟(朝連)って言いたいのかな?でもそれを証明するものは無いっていうか『朝鮮進駐軍』の実在自体が証明されてないしね。それに後で詳しく説明するけどね、『在日本朝鮮人総連合会』(総連)が1955(昭和30)年5月25日に結成されるまではけっこう複雑な軌跡があるの。不法行為をしていた朝鮮人集団がそのまま総連を結成したとかヤクザになったなんていう単純なものじゃないんだよね」

国有地も、都心駅前一等地周辺も、軒並み不法占拠した。そしてそのまま、パチンコ屋、飲み屋、風俗店等々が出現し、そのまま彼らの土地として登記され現在に至っている。

農家、農協倉庫を襲い、貨車を襲撃、商店街、国の食料倉庫も襲い、食料や商品を根こそぎ奪って行き、それらは全て戦後の闇市で売りさばき、暴利で財を成したのは彼らであった。

写経屋の覚書-フェイト「朝鮮人・台湾人集団が換金可能な物品を奪って闇市で売りさばいて莫大な利益を得てたんじゃないかって看做されていたのも『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(5)の『総監落第記』、農協倉庫を襲うという例も『奈良県警察史 昭和編』にあったね」

写経屋の覚書-なのは「貨車を襲うのは、1945年8月15日に徒党を組んだ三国人が国鉄湊川駅構内の貨車を襲って配給物資を強奪したって話が田岡自伝のp190~191に載ってたね。それと、食糧倉庫じゃないけど国の倉庫を襲った例はCLOで報告されてるんだよ」

CLO904 Mass Korean Theft Case:朝鮮人集団の窃盗事件

1. Date and Time. About 9 o'clock P.M. on November 21, 1945.
2. Place. Warehouse in the former Naval Powder storing Depot, located at Funaoka-machi, Shibata-gun, Miyagi Prefecture.
3. Circumstances. About 200 Koreans at Funaoka-machi broke into the warehouse of the depot to steal casks of methyl alcohol stored there. On receipt of the report, the Ohkawara police immediately called out all their reserves, and at the same time reported the matter to the Local Allies Headquarters. With the assistance of a hundred Occupation Troops, they have so far succeeded in arresting 52 of them.
On this occasion the troops fired upon the Koreans, resulting in three Koreans being killed and another three seriously wounded.

1.日時 1945年12月21日午後9時ごろ
2.場所 宮城県柴田郡船岡町の旧海軍火薬廠の倉庫
3.状況 船岡町の約200人の朝鮮人が、貯蔵されているメチルアルコールを盗むために工廠の倉庫に侵入した。受取った報告によれば、大河原警察は即座に全ての予備を招集し、同時に地方軍政部に事態を報告した。約100人の駐留部隊の協力を得て、今までのところ朝鮮人52人の逮捕に成功した。
 このとき部隊が朝鮮人に発砲し、3人が死亡し他に3人が重傷を負った。

写経屋の覚書-はやて「テキストA・Bの検証時に、そういう事例は存在するけど、全部が全部そういうわけでもないやろってやったやんな。日本人かて闇商売や不法占拠、集団強盗はやっとるんやし」

写経屋の覚書-なのは「自分たちは日本の法律適用範囲にないと考えてた分、朝鮮人・台湾人の方が大胆な犯行が多かったというのはあるんだろうけどね」

財を成したのは彼らは分派し、政治組織として社会主義、共産主義組織へと発展し、政界にも進んだ。

写経屋の覚書-なのは「これも、よくここまで無知な文章を書けるもんだと作者は呆れているんだよね。まず在日本朝鮮人連盟(朝連)も、それに対抗して結成された『朝鮮建国促進青年同盟』(建青)も、『新朝鮮建設同盟』(建同)も最初から政治色が濃いんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「え?え?何かの思想や目的を掲げた団体と、それに反対する団体で2つじゃないの?」

写経屋の覚書-なのは「まず、朝連は1945(昭和20)年10月15日に結成されたんだけど、結成宣言に『吾等は総力を尽して新朝鮮建設に努力し、関係当局と緊密な連絡のもとに日本国民との友誼関係を保全、在留同胞の生活安定、帰国同胞の便宜を企図せんとするものなり』って書いてるように、最初は穏健な感じだったんだけど、日本共産党党員が加入することで赤化してしまうの」

写経屋の覚書-はやて「内部から乗っ取られたような感じやね」

写経屋の覚書-なのは「そんな感じかな。で、その赤化過程で脱退した人たちが、1945(昭和20)年11月16日に建青を結成して反共産主義と民族主義を強調して、朝連を切り崩すために実力行使をしたの」

写経屋の覚書-フェイト「ここまでは納得できるけど…」

写経屋の覚書-なのは「そして、その建青の朝連に対する過激姿勢に反対する穏健派と、朝連の不満分子が合流して1946(昭和21)年1月20日に建同を結成したの」

写経屋の覚書-はやて「ややこしいなぁ」

写経屋の覚書-なのは「結局、朝連は北朝鮮政府支持・支援や日本共産党の実行部隊として過激行動をやりすぎたので、1949(昭和24)年9月8日に解散を命じられたの。当時の報道はこんな感じなんだよ」

写経屋の覚書-490909朝日(東京)_朝連解散

写経屋の覚書-はやて「あれ?どこかで見たような写真があるで。拡大してみよか」

写経屋の覚書-朝連本部写真_拡大

写経屋の覚書-フェイト「これって『朝鮮総連本部を警備する短銃を所持する在日朝鮮人警備隊』ってキャプションで、大阪の在特会が配布してたビラに載ってた写真じゃない?」

写経屋の覚書-なのは「うん。既に何名かの方が指摘・ツッコミをしているように、朝連解散指令時に本部周囲を警戒する警官の写真を朝鮮人集団としているんだよね」

写経屋の覚書-はやて「要するに、「土匪之為惨殺サレタル鮮人ノ幼児」・「鉄嶺ニテ銃殺セル馬賊ノ首」いうキャプションのついた写真を「5.30間島事件、朝鮮人虐殺の惨状」として『朝鮮人強制連行の記録』に載せた朴慶植と(おんな)しことをやったわけやなw」

写経屋の覚書-なのは「そう考えて問題ないよね。で、朝連の構成員は『在日本朝鮮民主女性同盟』『朝鮮解放救援会』といった朝連の下部組織を受け皿にして『在日本朝鮮統一民主戦線』(民戦)を1951(昭和26)年1月9日に結成(その下部組織となった『祖国防衛委員会』(祖防委)は1950年7月結成)して、さらに『在日本朝鮮人総連合会』(総連)を1955(昭和30)年5月25日に結成したの」

写経屋の覚書-はやて「これが今もある総連いうやつやな」

写経屋の覚書-なのは「一方、建青は、建同が在日朝鮮居留民団(民団)となって勢力を伸ばすと、逆に勢いが衰えて民団の同盟者になったんだけど、最後は吸収合併されたんだよ」

写経屋の覚書-フェイト「姿勢自体はかぶってるから、結局は穏健な方が在日社会にうけたんだね」

写経屋の覚書-なのは「その建同は最初盛り上がらなかったんだけど、1946(昭和21)年10月3日、反共と同胞の生活安定を基本目的にした居留民団の在日朝鮮人居留民団にリニューアルして、建青を同盟者にしたの。これが1948年に『在日本大韓民国居留民団』(民団)に改称して現在の民団になったんだよ」

写経屋の覚書-はやて「その発展過程で建青も吸収したんやね。それにしてもほんまややこしいなぁ…」

写経屋の覚書-なのは「こんなに複雑な経緯があるのに、各団体の成立と展開、終焉について粗雑で乱暴な説明をしてるのはどうみても妥当じゃないよね」

「朝鮮進駐軍」と名乗る在日朝鮮人暴徒たちは、通りすがりの市民に言いがかりをつけ集団暴行をはたらく。無銭飲食は当たり前、白昼に目に付いた婦女子を路上で集団強姦するなどを、日常茶飯事に繰り返した。
在日朝鮮人は「朝鮮進駐軍」部隊と名乗り、武装して、町をのし歩いた。
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ、徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩した。
腰には拳銃をさげ、白い包帯を巻きつけた鉄パイプの凶器を振り回しては、手当たり次第に日本人を殺傷、暴行し、略奪の限りを尽くした。
通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難くせをつけ、無銭飲食をし、白昼の路上で婦女子にいたずらをした。
善良な市民は恐怖のドン底に叩き込まれた。
こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた。
袖に腕章をつけ、半長靴をはき、純白の絹のマフラーを首にまきつけ、肩で風を切って街をのし歩いた。
警官が駆けつけても手も足もでない。
終戦後の警官が、一切の銃器の所持が許されていなかったのをよいことにして、
「おれたちは戦勝国民だ。敗戦国の日本人がなにをいうか」
と、丸腰警官を殴り、ド突き回し、警備用の木刀や飾りのサーベルをヘシ曲げた。

写経屋の覚書-フェイト「これは私にもわかるよ。ほとんど田岡自伝の丸写しだね」

写経屋の覚書-はやて「そやけど、田岡自伝には『朝鮮進駐軍』いう言葉は全然出てこおへんかったよ。要するに田岡自伝は朝鮮人・台湾人たちの不法行為を描写することはできても、『朝鮮進駐軍』の実在を担保することはでけへんってことやん」

写経屋の覚書-なのは「そうだね。あと、警察官の拳銃所持が許されてなかったのは終戦直後から1946年2月末までなんだけど、兵庫県警察ではそれより先に神戸憲兵司令部の許可をもらって拳銃を所持していたんだよ。1945(昭和20)年12月30日、連合軍神戸憲兵司令部から拳銃95挺が兵庫県警察部と神戸市内の7警察署に、1946(昭和21)年1月5日には兵庫県下の14警察署に拳銃120挺が交付されてたんだよね。根拠は兵庫県警察史編纂委員会『兵庫県警察史 昭和編』p456だよ」

戦後当時の「朝鮮進駐軍」は今日の朝鮮総連本部である。

写経屋の覚書-はやて「これ、ぜんっぜん根拠あらへんやんなあ…何べんも言うとるけど『朝鮮進駐軍』と名乗った組織の実在すら証明できひんし、当然それと総連の関係性なんか証明しようがあらへん。大体、総連の成立経緯は前述したとおりやし」

【昭和26年03月22日衆議院法務委員会】
【押谷委員】
お尋ねをいたしますことは、昨朝起りました朝鮮人による米兵に対する暴行事件であります。
昨二十一日の午前三時半ごろに、浅草の千束町の朝鮮マーケット附近におきまして、六名の米兵が多数の鮮人に取囲まれまして、集団的に暴力を加えられて、一名は死亡する、二名は負傷する、自動車も破壞されるというような不祥事を起したのでありますが、わが国の講和を前に控えて、今日日本の置かれたる国際的地位などから考え、この時期を思いまするときに、まことに遺憾しごくな事件だと考えます。

写経屋の覚書-はやて「ん?1951(昭和26)年ってえらい後の方やな。終戦直後とは言いにくいんかもしれへんけど…どんな事件なん?」

写経屋の覚書-なのは「1951(昭和26)年3月21日午前3時ごろ、台東区浅草千束町2の4国際劇場前の「国際マーケット」で、マーケット在住、旅館経営の朝鮮人と、遊びに来た米兵6人が口論になって、付近の朝鮮人も集まってきて米兵を集団暴行して1人が死亡した事件なの」

写経屋の覚書-フェイト「?そのマーケットの朝鮮人たちが『朝鮮進駐軍』と名乗ったり、『朝鮮進駐軍』だと確認できる材料はあるのかな?」

写経屋の覚書-なのは「当然ないよ。当時の新聞報道はこんな感じ」

写経屋の覚書-510322朝日(東京)_浅草米兵暴行事件1

『朝日新聞』(東京版)1951年3月22日付
『主犯容疑者捕わる 浅草で一名死亡 朝鮮人の米兵暴行』
(前略)同マーケット内に住む朝鮮人が、乗用車で来た米兵六名を取囲み乗用車をこわし薪割り、コン棒、石材などで集団暴行を加えた。CID、浅草署、第六方面予備隊から係官、警官約二百名が出動、負傷した米兵一名を聖路加病院に収容したが死亡した。警視庁では現場で凶器その他を押収するとともに主犯容疑者として同マーケット内旅館業高浩振(二九)同人実弟高浩福(二五)同、無職金東休(二五)を浅く署に留置、別に三十数名の日鮮人を隣接各署で分散取調べを続行している。当局の調べによると高らは宿を探しに来た米兵と口論、付近の朝鮮人を狩り集めてこの凶行をひき起こした容疑(後略)

写経屋の覚書-510323朝日(東京)_浅草米兵暴行事件2

『朝日新聞』(東京版)3月23日付
『46名を留置 米兵殺傷事件』 

写経屋の覚書-510324朝日(東京)_浅草米兵暴行事件3

『朝日新聞』(東京版)3月24日付
『さらに一名を逮捕 米兵に暴行事件容疑者』
(前略)二十三日までの調べによると、事件の発端は高浩振(二九)方に遊びにきた米兵六名と高がさゝいのことからケンカを始め同町の七二高経営の「ひさご」旅館にいた朝鮮人客引十余名が加勢して自動車に逃込もうとする米兵を追ううちにヤジ馬が加わり、マキワリ、裁断ハサミ、石材などで暴行したものと判った。なお高は同マーケット内に夜の女五名を抱えていた。

写経屋の覚書-はやて「…単に遊びに来た米兵と店主がもめて傷害致死事件になったってことやん…『朝鮮進駐軍』どころか組織の犯行でもあらへん…対日講和締結と独立回復が現実味を持ってきたころの事件やから大きく報道されたんかもなぁ」

写経屋の覚書-なのは「ここからは『南十字星(北斗星)』投稿、つまりテキストBからの転載が続くけど、既に検証しているからとばすね」

終戦後の朝鮮人の横暴は目に余るものであった。
東京のど真ん中、銀座の交番に於いてさえ、朝鮮人を注意した巡査が複数の朝鮮人の襲撃を受け裸にされ警棒を尻に突っ込まれると言う乱暴を受けた。

写経屋の覚書-はやて「…こんな事件、裏付け取れるん?」

写経屋の覚書-フェイト「無理、だよね…」

写経屋の覚書-なのは「うん。無理だった。発生年月日の手がかりすら書いてないしね」

当時の日本警察は拳銃の携帯が許されておらず、朝鮮人の横暴を止められなかった為、政府はマッカーサーに請願した。
これを受けて述べたのが、マッカーサーの
「朝鮮人は戦勝国ではない第三者だ」と言う三国人発言である。

写経屋の覚書-なのは「マッカーサーがこんな宣言をした事実は確認できないって、『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(4)で言ったよね。GHQは1946年1月16日付SCAPIN605『Armament of Police Force in Japan:日本警察の武装』で日本警察に拳銃の携帯を認めてるから、もしマッカーサーがこんな宣言をしたんだったらこのSCAPIN発出以前のことになるんだけど、そんな発表は存在しないの」

1950年にGHQは日本占領を終結し、解放し、実質的に戦後は終わったとされています。
その際に朝鮮人は日本籍を剥奪され、韓国籍として朝鮮に帰れと命令しました。
不要の朝鮮学校と民団総連も廃止し解散請求しました。
すると在日朝鮮人は、なにを履き違えたか
「我々は先勝国民であり日本を統治する立場だ」と叫びだし、革命を叫んで、公共施設の不法占拠し火炎瓶や武器で武装して決起したのです。
警察も拳銃で対抗し射殺された人もでました

写経屋の覚書-なのは「最初から間違ってるよ。GHQの占領統治は1952年4月28日のサンフランシスコ条約発効で終了するんだから。在日朝鮮人の国籍変更については、以前少しやったけど、1951年11月10日に韓国政府が大韓国籍を付与する閣議決定をしてるし、12月の日韓会談で日本国籍の喪失については合意しているんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「日本政府から「朝鮮に帰れ」って命令は出たの?」

写経屋の覚書-なのは「そんな命令が出た事実は存在しないよ。それに関して朝鮮学校閉鎖、民団・総連の解散も要求してないしね。だいたい、この時期に総連はまだ結成されてないし。朝鮮学校に教育基本法・学校教育法に従うよう命じて、従わない学校には閉鎖を通告したってことならあったんだけどね」

写経屋の覚書-はやて「理由が全然(ちゃ)うやんなあ…」

写経屋の覚書-なのは「で、それに反発して1948年4月に起こったのが兵庫・大阪の「阪神教育事件」なの。このとき朝鮮人たちは「我々は戦勝国民であり日本を統治する立場だ」なんて叫んでいないし、革命も叫んでないよ。あくまでも朝鮮学校閉鎖に対しての反発闘争なんだよね」

写経屋の覚書-フェイト「話も全然違うね」

写経屋の覚書-なのは「公共施設の占拠については、閉鎖反対の交渉時に大阪府庁舎と府知事室(4月23日)、兵庫県庁舎と県知事室(4月24日)に乱入して、暴行破壊をしたり、大手前公園(現在の大阪城公園)に集結した朝鮮人集団が、警察の解散通告に反発して棒切れ・投石・唐辛子で抵抗したりしてるんだけど、火炎瓶などの武装はしていないよ。警察側の逮捕鎮圧については、大阪府警が26日に消防ポンプ放水だけじゃなくて拳銃も使用したんで、死者1人が出たんだけどね。根拠史料は大阪府警察史編集委員会『大阪府警察史 第3巻』(大阪府警本部 1973)p246~249、兵庫県警察史編さん委員会『兵庫県警察史 昭和編』(兵庫県警察本部 1975)p654~657、警察庁刑事部捜査課『戦後に於ける集団犯罪の概況』(警察庁刑事部捜査課 1955)p69~86、鈴木栄二『総監落第記』(鱒書房 1952)p91~105だよ」

警察では対処できなくなり、GHQは軍隊の動員をして戦後初の戒厳令を敷いて朝鮮人による暴動を平定しました。

写経屋の覚書-はやて「これも『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(4)で見たなぁ。神戸基地司令官メノア代将が非常事態宣言を宣告して、第8軍司令官アイケルバーガー中将が暴力と強制のもとに行われた知事等との協定・約束は無効やいうて、朝鮮人の行動は占領政策・占領軍の安全に脅威を及ぼすもんやから軍事委員会・軍事裁判所に付すると宣言して、鎮圧処理を命じたんやった。戒厳令なんか出てへんっちゅうねん」

写経屋の覚書-なのは「軍隊も動員してないしね。それにこれ以外の事態に対しても戒厳令が出された事実もないしね」

この戦後初の戒厳令が敷かれた朝鮮人動乱(正式名がない)事件は、日本の歴史からスッポリ抜けています。
死人も出ている事件なのに、日本の教科書には掲載されたことはありません。(日本各地で勃発しました、栃木や浅草などは戦場状態です)

写経屋の覚書-フェイト「…日本の歴史からスッポリ抜けると言うより、事実自体が存在していないんでしょ。これって実在した阪神教育事件を脚色して膨らませているんじゃないかなぁ」

逆に朝鮮民族学校の教科書には差別と弾圧として掲載され教育されています。
勿論、被害者側としてであり、立ち上がったのは国籍条項と朝鮮民族学校の廃校に対する抗議としてであると述べています。
日本人として、在日朝鮮人への危機感は常に持つべきですね。

写経屋の覚書-なのは「阪神教育事件については、たしかに在日朝鮮人側は民族教育への弾圧と、それへの抗議としてとらえているんだけど、国籍条項への抗議については触れてもいないよ。不都合だからじゃなくて最初からそんな事実が存在しないからなんだよね」

言っておくが日本国内だけではない。
朝鮮半島を朝鮮を近代化させて、恩あるはずの我ら先人の日本人を集団で襲って、強姦強盗不動産窃盗と悪の限りを尽したのを皆忘れてしまったのか。
多くの日本人は、朝鮮人に襲われ、無念にも命を落とし、帰れなかった人は数知れない。
彼らの悔しさを思うと、日本人の敵朝鮮人に参政権という言葉は決して出てこないはずである。
このことを誰も伝えようとしないが、事実は決して消える物ではない。
朝鮮人の日本人に対する犯罪は、触れては成らない理由があるのか不思議な日本人達だ。

写経屋の覚書-なのは「これはどうでもいいや。ほとんど主観的感想・述懐に属する話だし、検証する必要はないよね」

写経屋の覚書-フェイト「参政権がどうとか書いてるから、在日外国人への参政権付与問題がクローズアップされたころに、参政権付与反対の立場から作成された文章なんだろうなぁって読み取れて、その作成時期についてのヒントになるかもしれないって程度だね」

写経屋の覚書-はやて「作者としては、最後の一行が韓国語から翻訳機通したような形態・内容っぽいっちゅうのがちょっとおもろかったらしいよw」

写経屋の覚書-なのは「じゃ、そろそろまとめようか。テキストCは『朝鮮進駐軍』って言葉が現れるテキストB2、そして田岡自伝から多くの記述を転載し、更に首相官邸デモ事件、浅草米兵殺傷事件といった朝鮮人の集団不法行為までをも何の根拠もなく『朝鮮進駐軍』の行動として追加し、朝連、建青といった朝鮮人団体の成立展開状況について的外れの説明を盛り込むなどいい加減なものなの。そういうわけで『朝鮮進駐軍』の実在を担保する資料にはならない、と結論するね」

写経屋の覚書-はやて「そうやんなぁ。だいたい、朝鮮人組織が『朝鮮進駐軍』を名乗ったいう根拠史料は全然示されてへんし…朝鮮人の集団不法行為が即『朝鮮進駐軍』の活動いうことにならへんし、『朝鮮進駐軍』いう名称で朝鮮人の集団不法行為をまとめたかて『朝鮮進駐軍』が実在したいう証拠にならへんしなぁ」

写経屋の覚書-フェイト「あれ?実在したものを、強引にひとまとめにして勝手に名付けてしまうのって、どこかで見たことがあるよ?」

写経屋の覚書-なのは「フェイトちゃん鋭いっ!『従軍慰安婦』ってやつと同じ構造だよ。戦場近くで営業する慰安婦は実在したけど、それらを『従軍慰安婦』としてあとから勝手に定義して名付けたのと同じなんだよね」

写経屋の覚書-はやて「思想信条に関係なくバカは(おんな)しことするんやね」

写経屋の覚書-なのは「でね、このテキストが登場するまでは、戦後の朝鮮人の集団不法行為について取り上げたサイト等ではほとんど注目されず、せいぜい朝鮮人組織の一派程度にしか認識されてなかった『朝鮮進駐軍』という言葉が、『ねずきちのひとりごと』で拡散したせいで、朝鮮人組織を代表するばかりか朝鮮人組織の総称とまで認識されることとなったんだよね。じゃ、次は最後のテキスト、以前ウィキペディアに掲載されていた文章を検証するね」

映画『残侠』―『朝鮮進駐軍』検証―

『朝鮮進駐軍』の初出について(1)  『朝鮮進駐軍』の初出について(2)
『朝鮮進駐軍』の初出について(3)  『朝鮮進駐軍』の初出について(4)

『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(1)  『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(2)
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『朝鮮進駐軍』初出テキストの検証(7)

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