★第78話:テレビと生活 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

テレビは切っても切り離せない人生

 

 ラジオの全盛期(写真)は音楽を聴きながら受験勉強に励んだが、「ながら族」の癖は続いている。

 今は家にいるとほとんどテレビを点けっぱなしにしている。特にBS放送が好きで、いまだに情報源としても最大のものだ。

 

 何気なしに見たテレビがブログになることはこれまでもたくさんあった。

 最近では1月15日(水)の19:30に見たBSプレミアム「旅ラン 東京富士見ラン!」(写真左)を参考に、仮題「東京で見る富士山について」を近いうちに投稿するつもりである。

 そして、朝3時台に目が覚めてテレビを見ると、NHKみんなのうたを放送していたが、デューク・エイセス今日も茶ッピーエンド」(写真左)という歌を歌っていた。待てよ、彼らは既に解散したのではないかと思って調べてみたら、2002年の発売の曲だった。何度も登場しているグループだが、また久しぶりに彼らをテーマにして投稿して見たくなったところだ。

 それでも、テレビなしで過ごした時期もあった。まずは学校を卒業し、社会人になって集合寮に入居したとき。相部屋の狭い所で、薄給の身ということもあり、テレビは買えなかった。(1971年~1974年)

 

 また、2011年7月24日の地デジ全面移行(画像)以来、「地デジ難民」を自称してテレビ無しの生活を続けたが、2016年5月連休から再びテレビを見るようになったこともある。その期間は5年間だけだったが、家に帰ればテレビのスイッチに手が伸びるほど習慣性が高かったのに、テレビを見なくても生きていけることがわかったのは大きな収穫だった。

 

他人の家で見ていた時代

 

 ところで、テレビの本放送開始は1953年だが、初めてテレビを見たのはいつか記憶はない。

 テレビの初体験とすれば、一般的には街頭テレビ(写真)だろうが、田舎に住んでいたせいで、多分それではない。

 覚えているのは、小さな村から小学校2年生の3学期に引っ越した隣の町のお金持ちの家に行って見ていたテレビだ。そうすると1957年(昭和32年)頃。(写真左はイメージ)。そのお金持ちとは「質屋」だった(写真右はイメージ)。どうして、馴れ馴れしく見に行くことが出来たのかはこれまで謎だったが、つい最近姉に電話して聞いたところ、母が生活に困ったとき、その質屋をちょくちょく利用していて旧知の関係だった。父にはそのことを知らせていなかったようで、引っ越し先がその隣家と聞いて、少しバツが悪かったそうだ。

 しかし、隣の町と言っても歩くと距離がある。前述では3学期から引っ越したと言ったが、バスも通っていないところで、3年生になるまで、3ヶ月ぐらいだったが、片道2キロの道を歩いて前の学校に通っていた。小さな子どもの足では大変だった記憶が残っている。

 それにしても、昔は今と違って貧乏人もお金持ちも、片や卑屈にならず、片や偉ぶらず、お互いが協力し合う時代。学校などに提出する連絡帳の電話の欄には「呼び出し」という文字が最初から書かれてあり、近所のお家にある電話(写真はイメージ)を貸してもらうことは至って平気だった。貸す方も手慣れたもので、使いやすいように、必ず電話は玄関に置いてあった。

 ズカズカと他人の居間に入って、勝手にテレビを見る。これって、今の若い人には信じられないことだろう。

 当時のテレビ番組で覚えているのは、戦争で負けた宿敵アメリカの選手を得意の空手チョップでバッタバッタとなぎ倒す力道山(1963年、39歳で没、写真左)の「プロレス中継」や、「月光仮面」(1958年~1959年、写真中央)、「快傑ハリマオ」(1960年~1961年、写真右)などだ。 

三橋美智也/快傑ハリマオの歌(1960年)

 

テレビを購入

 

 ときは、西岸良平のマンガ「三丁目の夕日」そのものの、古き良き時代。(画像)

 テレビは、総合家電メーカーの市場参入による量産効果で低廉化し、1958年の東京タワー竣工(写真左)と、1959年の皇太子ご成婚(写真右)を境に急速に普及したテレビは、1962年に受信契約数が1,000万件を突破、1964年の東京オリンピックでその勢いはさらに加速した。


 初めてテレビを買ったのがいつかは忘れたが、電気店が持って来た日のことは覚えている。東京オリンピックでは、家族みんなテレビの前で熱狂していたので、その前だったのは間違いない。(写真左)

 当時は14インチ(対角線の長さが35センチ)程度の画面なので、それを大きく見せようとする拡大鏡(写真右)を画面の前にセットしていた。以来、親子や兄弟のテレビチャンネル権の争奪戦が始まることになる。

 カラーテレビを買ったときも忘れたが、その普及率が白黒テレビを上回ったのは1973年だというから、ミッチーブームのご成婚パレードも、東京オリンピックの開会式で日本選手団の着ていた赤いブレザーも、モノクロで見ていた。

 

西部劇に夢中

 

 芦原伸「西部劇を読む事典」(2003年、生活人新書、写真)によると、
 当時の少年たち(団塊の世代)は西部劇のヒーローから多くを学んだ。たとえば、独善的で言葉少なく一人勝手にどんどん物事を進めてしまう気質は、明らかに西部劇のヒーローたちに共通している。「カウボーイ民主主義」とも「いうべき多数決で押し切るやり方も団塊の世代に共通している。そこには少数派に耳を傾けようとはしないタカ派の世界観がある。かつて世論に背を向けて、自分たちだけが正しいという理念を押し通した全共闘の世代と共通している。しかし、一方で女性に対する優しいふるまいや、互いの反目を腕力で解決するという手法も学んだ…。

 

 底抜けに明るいアメリカ映画と、西部劇は娯楽が少ない少年時代のあこがれだった。テレビ創世記の頃は多くはアメリカのテレビ映画を吹き変えて放送された。日本のドラマが始まるのはそのあとからである。1960年代前半、アメリカ製テレビ映画が全盛の頃、西部劇はテレビの主役であり、毎日、どこかのチャンネルで必ず西部劇が放送されていた。
 写真左から、ローン・レンジャー(The Lone Ranger、日本の放映期間:1958年~1963年、KRT→フジテレビ)、ライフルマン (The Rifleman、日本の放映期間:1960年~1963年、TBS)、ララミー牧場(LARAMIE、日本の放映期間:1960年~1963年、テレビ朝日)、ローハイド(Rawhide、日本の放映期間:1959年~1965年、テレビ朝日)、ボナン(Bonanza、日本の放映期間:1960年~1962年、日本テレビ)
 

ローン・レンジャー/ウィリアムテル序曲

小坂一也/無敵のライフルマン

デューク・エイセス/ララミー牧場

フランキーレイン/ローハイド(1958年)

アルカイオラ楽団/ボナンザ

 テレビの思い出は尽きない。ところが、これだけでもう字数がオーヴァーしたようだ。今回はこのぐらいで。