日本の三大コーラスグループ、ダークダックス(1951年結成)、デューク・エイセス(同1955年)、ボニージャックス(同1958年)は、戦後の男声コーラスブームを支えてきた草分けで、60年以上現役で活躍してきた。このうちダーク・ダックスは同じメンバーを続けた世界記録で、1987年、ギネスに登録されたこともある。
彼らの主な経歴を表にしてみた。
結成時から生き残っているメンバーは、みんな80歳を超えた。喉を鍛えるとこんな歳になるまで歌えるという、見本のような人たちだ。
今回はその内、デューク・エイセスについてお伝えしたいが、どうしてこのテーマを記事にしようかと思ったのかについては前作「第78話:テレビと生活」で述べたところだ。最近、3時台という、朝早い時間に目が覚めたところ、テレビが点いていて、「NHKみんなのうた」を2曲放送していた。1曲は「川はだれのもの!」(みなみらんぼう作詞・作曲、1996年、東京放送児童合唱団)で、もう1曲は、デューク・エイセスで、「今日も茶ッピーエンド」という初めて聴く曲を歌っていたので、おやっと思った。まさか新曲ではないよね。彼らは既に解散したではないかと思って調べてみたら、2002年発売の曲だった。
拙ブログには頻繁に登場しているグループだが、2017年の解散時にはスルーしたので、また久しぶりに彼らのことをテーマにして投稿して見たくなった。
デューク・エイセスは何度もメンバーが交代した。解散時はこんなメンバーだった。写真左から、大須賀ひでき(現在63歳)、岩田元(同50歳)、谷道夫(同85歳)、槇野義孝(同83歳)だ。
自分の記憶では、次の画像の3番目(1964年~1990年)から彼らのことを知ったはずだ。
解散時は大須賀ひでき(63歳)だが、デューク・エイセスは、どうもトップ・テナーが鬼門のようで、和田昭治→小保方淳→谷口安正→飯野知彦→大須賀ひできと、これまで5人も入れ替わった。
そのうち、谷口安正(写真左)はデューク・エイセスの黄金期の1964年から1990年を支えたが、脳溢血で同年、51歳の若さで亡くなった。
そして、谷口に代わった飯野知彦(写真右)も2009年11月に胃がんで死去した。彼もまだ56歳の若さだった。
●「夢であいましょう」にレギュラー出演
デューク・エイセスの最初の出会いはNHKの人気バラエティ番組「夢であいましょう」(1961年~1966年)だった。
同番組は、毎週火曜日(のち土曜日)夜10時台に生放送され、映像にある司会の中嶋弘子が番組冒頭で上半身を右に傾けてお辞儀をおこなう挨拶が話題になった。なお、彼女は途中から産休のため降板し、黒柳徹子に司会を譲っている。
●「にほんのうた」シリーズ
彼らの人気を決定づけたのは、やはり永六輔と、いずみたく(1992年、62歳で没、写真)が、日本各地を二人で旅をして作った「にほんのうた」シリーズだろう。
このシリーズは、第8回日本レコード大賞の企画賞(1966年)および特別賞(1969年)を受賞している。
セカンドテナーの吉田一彦のソロによる 「京都 大原 三千院」という歌詞で始まる「女ひとり」 は、そのうちの代表曲だが、自分の最も好きな曲の一つだ。
彼の伸びやかなソロの声。作詞・永六輔の着物に対する・愛着と造詣の深さ。いかにも古都・京都らしい、琴の伴奏。どれをとっても素晴らしい音楽に仕上がっている。カラオケの持ち歌で、よく歌った曲でもある。
「にほんのうた」シリーズは、1966年から1969年にかけてLPアルバムが4集発表されたが、自分はそのダイジェスト20曲を集めた1986年発売のCD盤を今でも持っている。(写真)
次の日本地図に印をつけたところが、その20曲のご当地である。
その中では、ザ・ドリフターズがカバーで歌った「いい湯だな」(群馬県)が一番有名だろうが、上図で青で囲った曲を独断と偏見による「マイ・ベスト5」とした。前記の「女ひとり」(京都府)と、映像にはないが、「岬に来ました」(和歌山県)、「別れた人と」(兵庫県)及び、次の「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)、「筑波山麓合唱団」(茨城県)である。
さらに、1962年、当時皇太子だった上皇陛下と上皇后さまが宮崎をご訪問。ご成婚からまだ3年だったこともあり、宮崎の人気が一気に高まったという。
■「筑波山麓合唱団」の歌詞は、カエルの合唱を主題としており、筑波山の名物であるガマの油で有名な四六のガマが登場する。メンバーがカエルに扮したユーモラスなコーラスが特徴だ。
●最後はこの2曲
最後は、彼らのコーラスの真骨頂ともいえる名曲を。
デューク・エイセス/ドライ・ボーンズ
デューク・エイセス/キャラバン