★第80話:和楽器が伴奏する曲(1) | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

 前作でデューク・エイセスが歌う「女ひとり」を紹介したが、筝の序奏が印象的で、素晴らしい曲だった。今回はカラオケで聴いてみよう。

ふゆ

 

 突然ですが、ここで問題です。前曲をはじめ、京都の夜(愛田健二)、京都の恋京都慕情(渚ゆう子)、京のにわか雨(小柳ルミ子)。京都に関する歌謡曲、いずれも箏(琴)の序奏があるのは何故でしょうか。ー うーん答えは「古都(こと)」だからです。ーお粗末ウインク

 

愛田健二/京都の夜(1967年)

渚ゆう子/京都慕情(1970年)

小柳ルミ子/京のにわか雨(1972年)

邦楽の現状

 

 たまたま、今こんな本を図書館で借りている。「なんたって邦楽 おもしろ日本音楽」釣谷真弓著、東京堂出版、2019年、画像)

 次の様に、和楽器のうち、主に箏(琴)、三味線、尺八のことと、日本の邦楽事情が書かれている。
 
第1章 コト・琴・箏
第2章 おこと「箏」について 歴史編
第3章 おこと「筝」について 楽器編
第4章 アジアの筝・民族音楽体験記
第5章 三味線
第6章 尺八 
第7章 邦楽界のいま
 
 今や邦楽は、海外における若手の活躍の一方で、国内は衰退の一途を辿っている。邦楽器店の売上が全盛期に比べて2割以下という報告もあるそうだ。著者は、その原因とされる学校の授業のありかたや、明治維新と敗戦をきっかけにした西洋文明の偏重に嘆き、疑問を投げかけている。 
 脱亜入欧の極致というべきか、情けない話だが、戦後ある小学校の音楽の授業で、教師がその土地の民謡を歌わせていたら校長先生が飛んできて、「そんな低俗な歌を学校で歌うとは何ごとか!」と怒鳴ったそうだ。
 ただし、学校教育で邦楽がなじめなかった理由も彼女は冷静に分析している。
 明治維新のころ、邦楽の伝承には流派、会派が存在し、それぞれの流派で独自の楽譜を使用していたことや、曲目、演目のほとんどが男女のラブストーリーが題材だった。特に三味線などは花街で発達していた。
 大戦後については、ようやく2002年度に中学校の音楽授業で必ず和楽器を習得することが文科省で決定したものの、肝心の音楽教諭がほとんど日本音楽を勉強していないことだ。
 ワシントン条約以来、象牙など楽器の素材が手に入りにくくなったという問題もある。
 そしてあとがきには、2020年のオリンピックや、2024年の大阪万博のことに触れている。
 東南アジアでは、空港やホテルのロビーで、民族楽器の生演奏が迎えてくれる。韓国の平昌オリンピックの際の紹介デモンストレーションには伽耶琴(かやきん、写真)が登用された。
 日本が世界に誇る文化、中でも言葉の不要な伝統音楽。この機会を通じてもっと世界に発信をと願う著者の気持ちに全く同感だ。
 
邦楽鑑賞の経験
 
  そういう自分も、和楽器の演奏会を見た経験は少ない。
 今でも思い出すのは次の三つだ。時系列順に記載してみた。
 
 1.転勤先の松山市で聴いた初代高橋竹山の津軽三味線の公演(1970年代後半)
 
 初代・高橋竹山(1998年、87歳で没、写真左)は、幼少に失明し、15歳より門付け芸の坊様芸人に入門。津軽民謡の伝説的名人、成田雪竹の伴奏者に選ばれ竹山を名乗る。一彼は、地方の芸であった津軽三味線を全国に広めた第一人者だ。北島三郎が歌った星野哲郎作詞、船橋徹作曲の「風雪ながれ旅」(1980年)は、その彼の生涯を元にした作品である。
 ところで、当初歌唱者は村田英雄を想定していたが、「私は三味線で世に出た人間、浪曲出身だが、こちらは津軽三味線(が題材)だから」と難色を示し、北島にお鉢が回ったという。なお、後年アルバム用に村田も録音している。(Wikipedia参照)
 この高橋竹山の公演は40年も前の話だが、そのとき二代目・高橋竹山(写真右、当時は内弟子の「高橋竹与」)も一緒に出演していた。
北島 三郎/風雪ながれ旅(1980年)

 

 2.高校の同期会を京都で開催した時の越天楽の鑑賞(2008年)
 
 高校は広島県呉市だが、「還暦」の記念会では、京都に住んでいる同期生が同地での同期会を手配してくれた。
 そして高名な神社の宮司に嫁いだ別の同期生の伝手で、ホテルの会場で雅楽の「越天楽の演奏を、舞いと共に鑑賞することが出来た。名前は失念したが、有名な楽団だったようで、イタリア公演から帰ったばかりとのことだった。
 自分にとっては極めて貴重な経験で、感動の一言であったが、これは生で見るもので、決してCDで聴くものではないなと思ったものだ。(次の画像はそのとき演奏ではない)

 

 3.会社の忘年会で、津軽三味線の奏者をお呼びしたとき(2014年)
 
 毎年8月に開催される八王子祭りの常連である和太鼓集団「祭座」(写真左)は、和太鼓と津軽三味線のコラボが人気だが、当時勤めていた会社の忘年会に行きつけのスナックのママの伝手で、その津軽三味線奏者を招き、同地の割烹料理店広間で演奏をお願いしたことがある。(写真右)
 宴会のざわざわした雰囲気の中でやりにくかったと思うが、「津軽じょんがら節」の演奏を堪能することが出来た。
 
 その、津軽じょんがら節はいろんな人が演奏し、歌っているが、藤あや子が津軽三味線の大部隊をバックに歌っているこの映像が一番好きだ。
 
藤あや子/津軽じょんがら節

 

日本に伝統文化が息づいている理由…パクス・ヤポニカ

 
 和楽器は大陸から渡ってきたが、他の文化と同じように日本で独自で進化して大成した。
 その本家本元の中国では、伝統楽器の古典と言っても数も少なく、せいぜい100年をさかのぼるくらいの歴史しかない。それは、中国の政治的歴史が漢民族と蒙古民族が交代で政権を奪い合ってきたからだ。民族が異なると、前政権の文化を徹底的に否定する。だから、日本と根本的に違って、古いものを尊重することをしない。文化大革命など、歴史がそれを証明している。
 日本が伝統的な文化が残っているのは、ひとえに「平和」の時代が長く続いたからだ。
 山折哲雄の著書「日本文明とは何か」(角川ソフィア文庫、2014年、画像)、副題は「パクス・ヤポニカ(日本の平和)」 
 その本によると、このような現象は歴史上の奇跡といってもいいほど世界的に珍しく、その理由は国家と宗教がかみあった固有の政治システムや、神仏共生に基づく多元主義、独自の貴族趣味にあるという。
 また、別の表現では「わが国には古来、公家的なものによって武家的なものをコントロールする非暴力的な技術の伝統が豊富にあった。身に寸鉄を帯びずして武力の発動を鎮める装置である。長期に渡る「平和」は、その巧みな技術(=人心掌握)によってはじめて可能になった」としている。
 日本は、千年以上にわたって異民族による征服や支配を全く経験することが無かった。こんな国は世界のどこを探しても見つけることが出来ないのではないか。その点では、昭和の敗戦はそれこそ未曾有の体験だった。
 そして、日本は西のイギリスとよく対比されるが、両者の間には重大な違いがあり、それは異民族との峻烈な抗争を経験し、したたかな国際感覚としぶとい外交技術を身につけたイギリスに対し、日本の対外政策は受け身の姿勢に終始し、中心軸が定まらない及び腰であることだ著者の山折氏はいう。
 「パクス・ジャポニカ(日本の平和)」の時代は、平安時代、桓武天皇平安遷都(794年)から保元・平治の乱(1156年・1159年)までのほぼ350年と、江戸時代、徳川家康江戸開幕(1503年)から幕末維新(1867年)までの250年。日本人はこの事実に胸を張って誇るべきである。
 
 他人からいくら「平和ボケ」と揶揄されても、これに屈してはならない。誰が見てもおかしい戦争が続くのも、これで儲ける人間がいるからである。今話題の IR もこれによく似ている。多くの庶民が犠牲になっても、必ず高笑いをする輩が存在する。
 しかも、厄介なことに、愛国心をあおるのか、支持率が低迷した政権の浮上策になるのだ。
 アメリカ43代大統領のブッシュ・ジュニア(現在76歳、写真)は19%という史上最低の支持率を記録したが、2011年の、9・11同時多発テロから2003年のイラク戦争に至るときは、何と91%という史上最高の支持率を記録したのだ。
 パパブッシュ湾岸戦争時に89%という支持率を集めたことがある。
 国内の経済失策の矛先を外部に求めて戦争を始めることは、よくあるパターンで、過去の歴史が証明している。
 
続く。