国内文献における「湘南」の初出は『倭名類聚抄』で、かつて中国に存在した長沙国湘南県である。
中世中国の湘南では禅宗が発展し、そのメッカであった。
現在の日本では「湘南」とは主に神奈川県相模湾沿岸を指すが、うち禅宗を保護した鎌倉幕府の拠点「鎌倉」は、現在も禅宗臨済宗建長寺派および臨済宗円覚寺派の大本山「建長寺」・「円覚寺」の所在地であり、鎌倉時代には夢窓疎石らにより日本の禅宗の中心地ともなった禅宗と非常に密接な関係を有する土地でもある。
江戸期に大磯発祥の命名とされる「湘南」は、明治期に政治結社名や合併村名に用いられた。
当時、相模川以西地域が湘南、相模川以東地域は湘東または新湘南という認識だった。明治期の「湘南」は、山と川が織りなす景観を持つ相模川以西地域に限られていたと考えられる。
明治維新により、当時西欧で流行していた海水浴保養が日本にも流入し、適した保養地として逗子や葉山、鎌倉、藤沢など相模湾沿岸が注目されて別荘地となり、湘南文化が芽生える。
そして、1897年、赤坂から逗子に転居した徳冨蘆花が逗子の自然を國民新聞に『湘南歳余』として紹介する。翌1898年、元日から大晦日までの日記を『湘南雑筆』として編纂して随筆集『自然と人生』(1900年)を出版する。
これを端緒に「湘南」は、当初の相模川西岸から、相模湾沿岸一帯を表すように変化する。
湘南の定義
「湘南」の定義は曖昧だが、鎌倉や江の島などは観光資源が豊富で観光集客力が高く、マスコミによるイメージ作りによって「海」や「太陽」や「若者」などを連想させ、範囲は拡大傾向にある。(Wikipedia参照)
例えば、横浜と川崎が県庁所在地でもめた話を聞いたことがないとか、他県に比べて自治体同士の争いが少ない神奈川県であるが、湘南地域だけは、「真の湘南」を争う危険な紛争地帯だ。
藤沢は内陸奥地まで「湘南台」という地名を付けて、己の湘南性をアピールし、平塚は平塚で「平塚七夕祭り」を「湘南ひらつか七夕祭り」に、サッカーJ1「ベルマーレ平塚」も「湘南ベルマーレ」(写真)にいつの間にか変更してしまった。
なお、湘南ベルマーレは、2000年から広域ホームタウン制度が認められ、平塚市のほかに、厚木市、伊勢原市など、湘南地域の7市3町にホームタウンが広がっている。(Wikipedia参照)
主要大学で「湘南」と付くものはこんなにある。この中で、湘南工科大学だけは正に海を目の前にし、キャンパスでもサーフボードを持った学生がたむろする「湘南ボーイ」たちがいるが、他はみんな内陸だ。
そして、大礒は、江戸時代に建てられた「湘南発祥の地」の石像(写真)を根拠に、歴史的な優位性をアピールする。
それでも、大多数がかろうじて妥協できる湘南があるとしたら大礒、茅ヶ崎、平塚、藤沢辺りになるだろうか。
神奈川県庁の「湘南地域県政総合センター」の所轄地域はこれに、二宮、伊勢原、寒川、秦野が加わる。
それだけではない。自動車の「湘南ナンバー」は、2月5日の全国の新ご当地ナンバーの人気ランキングまとめによると、「品川」に次いで人気No.2だが、ナンバーを取得できる地域が広く、箱根や南足柄辺りまで入って来るのだ。
さらに、厚木には「湘南厚木病院」があるし、座間にも「日産サティオ湘南・座間店」というディーラーがある。
厚木や座間が湘南なら、当然海老名や大和、綾瀬だって湘南を名乗る資格があるに違いない。
これで行くと、湘南の面積は神奈川県の3分の1ぐらいになる。
まとめると左表になる(Wikipedia参照)が、もうここまで来ると、湘南に「海」と「太陽」と「若者」のイメージはない。
ところで、以前「湘南市」として合併の動きがあったことがある。
2000年代始めに練られたその案によると、藤沢・茅ヶ崎・寒川・平塚・大礒・二宮の6市町が一緒になり湘南市を新設。
人口は合わせて97万人になるので、相模原より先に、県で3番目の政令指定都市が誕生していたかもしれない。
だがこのプランは当時の平塚市長だけが張り切って発表したもので、住民たちはほぼ総スカン。
特に隣の茅ヶ崎市の反発は物凄く、何と住民の9割が反対するありさまだった。
その後、合併推進派の市長が落選して話は白紙に戻ったが、もし実現していたら「どこが湘南か?」の抗争だけは鎮静化していたかもしれない。
湘南のイメージの定着
現在のカッコいい湘南のイメージが出来あがったのは映画「太陽の季節」の影響が大きかった。それが「太陽族」を生んだ。
ところが、端役ではあるがデビュー作となった石原裕次郎(1987年、52歳で没、写真)も、彼の兄で原作者の石原慎太郎(現在82歳)も、共に出生は兵庫県だった。(逗子で育つ)
石原裕次郎の影響を受けた「太陽族」はいわゆる不良青年が相当含まれ、1970年代から、平塚から厚木を経由して相模原に至る国道129号線や、横須賀から大礒まで海沿いを東西に走る国道134号線などを中心に暴走族が暴れた。
1976年の夏には東京の暴走族と神奈川の暴走族が、湘南の浜辺で大規模な乱闘を繰り広げた「七里ヶ浜事件」鳴る騒動も起きた。
そして、そんな湘南の暴走族を題材にした漫画、吉田聡(藤沢出身)の「湘南爆走族」(写真)や、藤沢とおるの「湘南純愛組!」などを生んだ。
隆盛を極めた暴走族も、取締り強化や若者離れで2000年代には激減している。
映画「太陽の季節」(1956年)
湘南サウンド
そして「湘南サウンド」。拙ブログ、加瀬邦彦逝くでも紹介したが、元祖・若大将・加山雄三やザ・ワイルドワンズなどがその代表格だ。
Wikipediaによると、湘南サウンドとは、1960年代以降、神奈川県湘南(主に茅ヶ崎市)育ちの若者を中心に発表された、海やスローライフを主なテーマとする一連のライトミュージック。
○1961年、東宝で加山雄三の主演する若大将シリーズがスタートし、同時に歌手デビューする。彼の住む茅ヶ崎にも注目が集まった。そして、この年はカリフォルニア生まれのロックの新ジャンル、サーフィンが流行し、一方で藤沢市の鵠沼海岸から日本人によるサーフィンがスタートした年でもある。
○1966年、加山の後輩に当たり茅ヶ崎に住む加瀬邦彦らがザ・ワイルドワンズを結成し、『想い出の渚』でデビューを果たす。(写真は加山雄三と、ザ・ワイルドワンズ)
○1969年、かつて加山父子が経営するパシフィックパーク茅ヶ崎でアルバイトしたことのある茅ヶ崎在住の岩沢幸矢(現在71歳)と岩沢二弓(現在66歳)兄弟が、フォークデュオ「ブレッド&バター」(写真)を結成。
○1976年、茅ヶ崎で生まれ育ち、やはり同所でアルバイトしたことのある桑田佳佑(現在59歳、写真)がサザンオールスターズを結成、1978年にメジャー・デビューする。
○1984年、「Cafeブレッド&バター」でコックとしてアルバイトをしていた平塚市生まれ、茅ヶ崎市育ちのテミヤン(現在58歳、写真)が歌手デビューする。
○1985年、神奈川県北出身のTUBE(写真)が、「ベストセラー・サマー」でメジャー・デビュー。夏をテーマにしたヒット曲が多いことで知られ、江の島、鵠沼を舞台とした湘南My Loveをヒットさせた。
○2000年、ブレッド&バターの岩沢二弓が娘の岩沢シーマと父娘ユニット「mondayz」名義で、アルバム「monday beach」をリリース。
加山雄三/光進丸(1978年)
ブレッド&バター/ピンクシャドゥ(1974年)
TUBE/湘南 My Love(1991年)
研ナオコ/夏をあきらめないで(1982年)
湘南海岸
湘南海岸は、湘南地方のうち神奈川県鎌倉市の材木座から藤沢市の江の島を経て、同県茅ヶ崎市の柳島海岸に至る相模湾に面する砂浜海岸である。
古くから日本を代表する海水浴場が開け、サーフィンの好ポイントとして全国的に有名である。四季を通じてデートスポットとしての賑わいも見せる。なお、湘南海岸に沿って国道134号が通っている。
サザンオールスターズの桑田佳祐が茅ヶ崎市出身で地元湘南を題材とした曲が数多くヒットしていることもこの海岸の知名度を上げる要因のひとつとなった。
江の島を境に東西で景観が大きく異なっており、どちらの地域を訪れるかにより印象が大きく異なる。
江の島より東側(鎌倉市側)は、山が海岸付近まで迫っているため砂浜が狭く、稲村ヶ崎や小動岬といった岩礁も目立つ。海岸沿いには国道134号や江ノ島電鉄線が延びている。また、海岸の砂に砂鉄が多く含まれているため、砂の色が黒ずんでいる。
それに対し江の島より西側(藤沢市、茅ヶ崎市側)では海岸沿いに山がなく、広く白い砂浜が、相模湾沿いに湾曲しながら長距離にわたり続いている。海岸沿いには防風林としてクロマツの松林が設置されている。海岸沿いを走る国道134号は防風林の陸側を走るため、海岸からほとんど見えない。
海を眺める道としては砂浜沿いにサイクリングロードが藤沢市湘南海岸公園から茅ヶ崎市中島迄通じており、サイクリング・ジョギング・散歩をする住民が多い。茅ヶ崎海岸では沖合の姥島(烏帽子岩)が変化を与える。
その、湘南海岸・砂浜のみちは、神奈川県藤沢市と茅ヶ崎市の湘南海岸に沿う自転車歩行者専用道路。関東ふれあいの道(首都圏自然歩道)の一部分にもなっているルートで、東部は湘南海岸公園の「海岸通路」という遊歩道、主要部分は藤沢市鵠沼海岸と茅ヶ崎市柳島海岸間の総延長約8kmの「湘南海岸のサイクリング道路」または「湘南海岸サイクリングロード」と呼ばれる自転車歩行者専用道路区間である。
倍賞千恵子/浜辺の歌
サザンオールスターズ/チャコの海岸物語(1982年)