拙ブログ、神奈川のおきて【その1】神奈川県とはでお伝えしたが、もう25年間も横浜に住んでいる。ちょうど四半世紀である。
生まれてから大学卒業までずっと広島県育ちで、何の疑いもなく「広島県人」を自称してきたが、年数だけ見るといつの間にか22年間の広島県を追い越してしまった。
「広島県人」を返上し「神奈川県人」と呼ばなければいけない時期が来たのかもしれないが、まだ広島県に対する想いは強く、プロ野球は横浜スタジアムでは1塁側(横浜ベイスターズ)に座るつもりはさらさらなく、アウェイの3塁側に陣取り、広島カープを応援している。
横浜ベイスターズ
その県下唯一のプロ野球団「横浜DeNAベイスターズ」は4月を8年ぶりに勝ち越し、5月4日現在、貯金を4つに増やして、1位の巨人に0.5ゲーム差で肉薄している。
しかし、優勝から長く遠ざかっているので、ある種の悟りの境地でペナントレースを眺める癖がついているのはカープと同じか。
何しろ1998年の権藤博監督(現在76歳、写真)の下での押さえのハマの大魔神・佐々木主浩を中心とした投手陣と、鈴木尚典、ロバート・ローズ、駒田徳広のクリーンナップを軸としたマシンガン打線の活躍で、優勝と日本一奪取には全国の野球ファンが驚いた。
でも、一番驚いたのは当のベイスターファンで、なにしろ前回優勝が38年前と、ほとんど歴史上の出来事だったからである。
その優勝もはや17年前の昔話。以来ずっと低迷を続けるベイスターズだが、2012年のDeNAが親会社になって以来、横浜スタジアムの観客動員数は増加し続けている。
親会社の変更で練り直された球団歌「熱き星たちよ」の2012年バージョン(右映像)は、元々「横浜」だった部分を無理やり「ディー・エヌエー」に変えて歌っているので若干歌いにくそうだ。
この音源には、就任したばかりの中畑監督や三浦大輔、ラミネスらが歌い手として参加しているが、みんな意外に上手いようだ。
今年は中畑清(現在61歳、写真)にとっても監督4年目の正念場。果たして優勝に手が届くか、けだし見ものである。
現在横浜市の人口は371万人(2015/2/1推定人口)で、東京23区の916万に続く第2位の大都市。ちなみに、3位:大阪市(269万人)、4位:名古屋市(228万人)、5位:札幌市(194万人)。横浜市と3位の大阪市との人口の差は100万人以上だ。
しかし、横浜は昔から大都市だったわけではない。
横浜村
横浜の歴史は室町時代の1442年の文献に「横浜村」として描かれていたのが初出といわれる。(図)(http://www003.upp.so-net.ne.jp/newyork/yokohama-rekishi.htm参照)
この横浜村があった辺りは半島状に突き出ていて「宗閑嶋(しゅうかんじま)」と呼ばれ、その地面は砂でできており、すなわち砂州だった。この宗閑嶋は「洲干嶋」と書くこともあり、こちらは読んで字のごとくカッサカサな土地柄を表現している。
そして、図を見れば分かるように、この「浜」が陸地から野毛方面に向かって、まるで入海にフタをするように「横」に突き出している。
そして、図を見れば分かるように、この「浜」が陸地から野毛方面に向かって、まるで入海にフタをするように「横」に突き出している。
「横」に伸びた「浜」…これがズバリ「横浜」と名付けられた理由である。
この場所は、今の中区本町通りに当たるそうだが、江戸時代末期までの横浜村は、戸数わずか100戸足らずの砂州上に形成された半農半漁の寒村であった。
ペリー来航
その運命を一変させたのは、当時国交を持たなかったアメリカのマシュー・ペリー(1858年、63歳で没、写真)率いる黒船の来航であった。
日本の開国を求め、最初に上陸した地は横須賀市久里浜で、そこに今は「ペリー通り」に面した「ペリー公園」があり、その構内の「ペリー記念館」(写真)には黒船来航を再現したジオラマも飾られている。
2度目の来日で上陸した場所は、開港100年を記念して編纂した「横浜市史」を元に1981年に開館した横浜開港資料館(写真、下地図)周辺だった。
近くの「開港広場」には1854年に横浜村で日米和親条約が締結された記念碑が立つ。(写真)
ただし、この時は条約を締結したに留まり、開港するまでには至らなかった。アメリカ側、つまりペリーとしては日本との貿易の自由化を求めていた訳であったが、日本側の強い拒絶に遭ったため、通商を断念せざるを得なかったのである
ペリーが描いていた日本とアメリカの関係を実現するのは、1858年(安政5年)の日米修好通商条約が締結され、横浜が開港されるまで待たなくてはならなかった。
この通商条約に「神奈川」を開港するよう定めたことで、1859年に横浜港を開港し、1889年市制施行とともに横浜市が誕生(当時の人口は12万人)したのが、横浜の都市開発の発端となった。(Wikipedia参照)
「日本初!」の多さ
横浜は開港150年と歴史が浅い。その劣等感の裏返しか、やたらと「日本初!」という碑が多い。
「近代水道発祥の地」(野毛山公園内)、「日本新聞発祥の地」(中区仲通り)、「ガス灯発祥の地」(馬車道)、「鉄道発祥の地」(桜木町近く)。
それから、「塗装業発祥の地」(元町公園内)、「近代街路樹発祥の地」(馬車道)、「トマトケチャップ発祥の地」(新子安駅近く)、「ガソリンスタンド発祥の地」(横浜駅近く)、「西洋理髪発祥の地」(山下公園内、写真)なんてのもある。
横浜のご当地ソング その2009年に横浜開港150周年を記念して「開国博Y150」を実施したものの、入場者数が計画の4分の1と大コケして、当時の中田市長は責任も取らないで任期途中で逃げ出す始末だった。
開幕に先駆け、前年の2008年に横浜市が「好きな横浜の歌」等のアンケートを行った。
横浜にちなんだ歌で好きな曲は?という問いに対して
1位 :いしだあゆみ「ブルーライト・ヨコハマ」、2位: 童謡「赤い靴」、3位: 五木ひろし「よこはまたそがれ」、4位:「横浜市歌」、5位: ダウン・タウン・ブギウギ・バンド「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」、6位:マルシア「ふりむけばヨコハマ」、7位:青江三奈「伊勢佐木町ブルース」、8位:ゆず「桜木町」、9位:サザンオールスターズ「LOVE AFFAIR~秘密のデート」、10位: 美空ひばり「港町十三番地」だった。
横浜ゆかりの有名人は誰?という質問では
1位:美空ひばり、 2位:ゆず 、3位:松坂大輔 、4位:横浜銀蝿、5位:サザン・オールスターズ 。
横浜の未来はどうなってほしい?では
「いつまでも、他の都市に誇れる街でいてほしい」、「流行の最先端と、古い町並みが融合している街」、「明るく、元気で、けんかのない、未来」などが挙がった。
松坂大輔もちょっと過去の人になりつつあるし、このアンケートから7年も経っているので、今やれば少し内容が変わるかもネ。
「ご当地ソング讃」(溝尾良隆著、1998年、東洋経済新報社、写真)によると、横浜は全国第5位だ。そして、そのサブタイトルである「魅力ある”まち”にはいい歌がある」から見ても、横浜市が魅力のある都市だといえ、実際その通りだと実感している。
いしだあゆみ/ブルーライト・ヨコハマ(1968年)
青江三奈/伊勢佐木町ブルース(1968年)
美空ひばり/港町十三番地(1957年)
ゆず/桜木町(1998年)
○美空ひばり(1989年、52歳で没、写真)は、いわずと知れた「歌謡界の女王」。
左図が彼女の生まれた横浜市磯子区滝頭。正に港町・横浜の落とし子である。
彼女が歌った港の歌はこんなにある。「ひばりのマドロスさん」(1954年)、「三味線マドロス」(1958年)、「哀愁波止場」(1960年)、「哀愁出船」(1963年)、「波止場だよお父っあん」(1956年)、「港は別れに行くところ」(1956年)、「あの日の船はもう来ない」(1955年)、そして「港町十三番地 」(1957年)である。
「港町十三番地」は美空ひばりが生前好んで歌ったマドロス(オランダ語で「船乗り」のこと)曲の一つであり、彼女の故郷である横浜市と隣の川崎市が舞台になっている。タイトルにある「港町」とは、京急大師線港町駅で、十三番地は存在しないが、作詞の石本美由起が語呂の良さから十三番地にした。また、歌詞の中の「銀杏並木の敷石道」は山下公園、「マドロス酒場」は馬車道あたりの酒場がイメージされたものだという。
○ゆずはリーダー:北川悠仁(38歳、写真左)と、サブリーダー:岩沢厚治(38歳、写真右)のフォークデュオ。
ストリートミュージシャン出身で、路上時代は主に横浜市中区伊勢佐木町の横浜松坂屋(2008年閉店)前で路上ライブを行っていた。路上の最終日(1998年)は、台風直撃にもかかわらず、約7,500人が集まったという。
二人とも横浜市磯子区岡村出身。「岡村ムラムラブギウギ」という地元にちなんだ曲も出している。 ちなみに家具販売の大手、「岡村製作所」はここが発生の地。美空ひばりの生家のある滝頭は隣町である。
赤い靴(1922年)
ひばり児童合唱団/かもめの水兵さん(1933年)
○童謡「赤い靴」は、赤い靴を履いていた静岡県出身岩崎かよの娘・きみがモデルとされているが、後に北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた野口雨情(1945年、63歳で没、写真)が札幌市の新聞社に勤めていたとき、同僚の夫・鈴木志郎やその妻のかよと親交を深め、1921年、この話を題材に作詞、1922年に本居長世が作曲した。
横浜では、山下公園に「赤い靴はいてた女の子の像」(写真左)が作られ、市内は「赤い靴号」(写真右)という定期バスまで走り、「赤い靴」はすっかり横浜の街に根を下ろしている。
○きらめく水面に照らされて、白い翼が風を切る… 横浜港山下公園氷川丸の波間に、10数羽のカモメがチャップチャップと浮かんでいる。(写真)
作詞者の広島県・三原市出身の武内俊子(1945年、39歳で没、写真)が横浜港のメリケン波止場でハワイに立つおじ(龍谷大学教授・足利瑞義)を見送ったのは1933年秋晴れの午後のことだ。 ボーッという汽笛を鳴らし、洋行の船が波止場を離れると、たくさんのカモメが夕日を浴びて飛び交う。俊子はさっそく帰路の電車の中で詩を書きとめ、河村光陽(1946年、46歳で没)に作曲依頼の電話を入れ、この詩を受けた光陽は、その日のうちにリズム感のあるメロディをつけ、曲を完成させたそうだ。(福岡県田川郡福智町公式ウェブサイト参照)
なお、武内俊子の生誕地、広島県・三原市で列車入線メロディーに使用され、宮浦公園前には歌詞が刻まれた碑があるまた、横浜市・山下公園にも、楽譜と歌詞が刻まれた碑がある。(写真)
中村雅俊/恋人も濡れる街角 (1982年)
マルシア/ふりむけばヨコハマ(1989年)
松任谷由美/海を見ていた午後(1974年)
「海を見ていた午後」は、ユーミンのセカンドアルバム「MISSLIM」(ミスリム)の中の一曲。
舞台は横浜市中区根岸旭台にあるレストラン「ドルフィン」。(写真)
曲中では山手となっているが、最寄駅は根岸。この曲で一躍有名になり、多くのユーミンファンがここに訪れる。
お店にはユーミン直筆の皿が飾ってある。(写真)
続く