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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

この5月にコロナウイルス感染症は5類に移行した。マスク着用も自己判断となり、約3年間、生活に色濃く影響していた感染症の重みはすこし軽減されたと考えられる。忘れないうちに、自分なりに重要だと思った点を覚書きしておく。

 

(1)約3年間という期間は、長かったのか、短かったのか。

 コロナ流行初期に、「対応が落ち着くまで3年ぐらいかかる」と思った人はわずかだったのではないか。「感染予防策を徹底したら流行を封じ込める」、「現代の科学技術であれば、すぐに治療法がみつかる」と予想していた人が多いと思う。実際には、早期にウイルスの遺伝情報が明らかになり、重症化や感染率を下げるワクチンは流行から1年未満に海外で開発され、集団接種がはじまった。重症例で使用できる抗体療法も比較的早期に開発され、流行3年目には日本でも重症化を防ぐ経口内服治療薬が承認された。それでもコロナの感染流行は続いている。僕は感染流行初期に「2年ぐらいでなんとなかるのではないか」と楽観的に予測していた。だから僕にとって、3年間は思ったより長く感じた。

 あらためて歴史を振り返れば、第一次世界大戦期に流行したスペイン風邪の流行期間は1918年~1920年の3年間であった。ワクチンも抗体療法もない20世紀初頭と、約100年後の現代とで流行期間が約3年とほぼ同じスパンであったということは、今後人類と未知のウイルスが出会ったときに念頭に置いてよいことだと思われる。

 

(2)感染者追跡アプリ

 流行初期に感染既往のある人の近くにいくと通知が来るアプリが開発されたが、あまり役立たなかったのではないだろうか。使っていた個人にとってはひとつの安心材料だったのかもしれないが。感染症流行に無症候性キャリアが寄与していることは、感染症学を学んだ人には常識的な知識である。感染症学的には、このアプリにはお守り程度の意味しか期待できないことは十分に予想できた。今後新たな感染症が出現したとき、同じような対策には限界があることを憶えておきたい。

 

(3)「コロナ、もうかんべん」というクリニックの貼り紙

 首都圏で流行の波がきたときに、クリニックに発熱者が殺到し、とあるクリニックに貼り紙がだされたことが報道された。たしか1回目の緊急事態宣言がでた時期であり、そのころには飲食店で会食するひとたちが感染することが多く、「自粛不足が感染をまねく」という雰囲気が強かった。報道では、「会食をさけてしっかり自粛し、感染を防いで医療現場の負担を軽くしていきましょう」というニュアンスで、この貼り紙が紹介されていたように記憶している。

 医療を職業と選んだ者が「もうかんべん」といってよいのかという意見もあるだろうが、僕はこの貼り紙から、このクリニックだけでなく、医療者全体の本音がうかがえるように感じた。コロナが真に危険な疾病であれば、「もうかんべん」という医療者はモラルを問われるべきである。しかし、多くの医療者はむしろ貼り紙をみて共感していたのではないだろうか。感染対策にかかる手間暇が、実際の感染症に罹患するリスクと釣り合っていれば、現場に「めんどくさい」という感覚は起こらない。しかし、症例がすくなかったごく初期ならともかく、ある程度感染者が増えてきて、基礎疾患のある高齢者以外ではそれほど怖い感染症ではないことが明らかになった後には、感染対策・診断時の届け出・隔離などは、疾病の深刻度にくらべると過剰になっている感覚がでてきた。そうなると「めんどくさい」という実感がでてきてもおかしくないのである。僕は、この貼り紙に、「感染対策が過剰すぎるのではないか」という国の施策への批判的な意図を読み取った。見方を逆にすると、一般人のコロナへの不安感・恐怖感が、医療現場のそれよりも強かったために、政府は過剰な対策を取らざるを得なかったと言えるかもしれない。

 

(4)医療従事者への感謝の動き

 欧米で医療現場が疲弊してから医療従事者への感謝を表明する動きがはじまり、その影響をうけて、日本でも公共交通機関やテレビ・ラジオでそういう言表がなされた時期があった。しかし、そういった動きの前に、看護師さんのお子さんが感染リスクが高いからと保育園をやすむように言われたり、むしろ医療従事者だからこそ警戒された時期があったということも覚えておくべきだろう。

 たしかにコロナによって日本の医療従事者の仕事は多少忙しくなったかもしれない。しかし、いまだに理由は分からないもののなぜか日本よりも重症化しやすく感染拡大しやすかった欧米に比べると、日本では流行のピークでも大きな破綻なく医療体制は維持されていた。すくなくとも僕のいる地方の一医療機関では不眠不休で頑張るというような、大災害レベルの状況にはならなかった。この点について、国の施策は評価されてよいと僕は思う。そして、おそらく交替制勤務ができる医療機関よりも激務だったのが保健所である。感染者数の発表、聞き取り、感染経路の特定、療養時の場所・生活物資手配など、仕事は膨大であったと思われる。感謝するならば保健所の職員さんにするべきだと僕個人は当時も今も思っている。

 個人的な見解を一つ。僕が医療従事者としてとあるコロナ陽性患者さんに対応したとき、その患者さんは「コロナなのに診察してもらえるだけでありがたいです」とおっしゃっていた。コロナに感染した人が自分を卑下することなく、安心して医療を受けられる雰囲気や体制があるべきではないかと、そのときに感じた。医療従事者への感謝の動きに対しては、「そのように特別に感謝していただくほどに特別なことはしていない」というのが偽らざる個人的な見解である。

 

(5)専門家の意見はなかなか一致しない

 菅元総理の記者会見で「専門家の意見も参考にしながら」という言葉がなんども言われていた。新型コロナという科学的によくわからない危機に面したとき、専門家の意見を聴くというのは当然の発想である。しかし、たくさんの専門家がメディアに出るようになって分かったことは、「専門家の意見はなかなか一致しない」ということだった。専門家とよばれる人々の多くは研究職についている。研究職は、他人と異なる知見を生み出すことで生活の糧を得ている。専門家の意見が一致しないのはある意味当然なのである。だから、専門家の一致しない意見を踏まえてどう行動するかは、菅元総理にしろ我々にしろ、結局自らの常識によって判断するしかないということになる。コロナ禍により、専門的知識を身につけようとする人よりも、自分の常識を鍛えようと思う人が増えてくれるのであれば、それは歓迎すべきことだと僕には思われる。

コロナ禍中の探訪記録その2

 

□井倉洞(2021年夏)

夏だ、暑いぞ、涼みに行こう。思い立って出かけたのが岡山県新見市の井倉洞という鍾乳洞。鍾乳洞は真夏も10℃ぐらいとひんやりしていて格好の避暑地である。井倉洞にいくまえに近所の満奇洞によってからの訪問。満奇洞は渥美清主演の『八ッ墓村』のロケ地として有名である。たしかに満奇洞は入り口が小さく、怪しい人の隠れ場所に最適である。一方、井倉洞は鍾乳洞を形作る水分が大きな滝となっていて豪快な印象。なかの鍾乳洞の広さもすごく、いろんな形の鍾乳石に名前がついていて面白い。暑さに困ったら洞窟・鉱山系にいってみるという一つのお助けカードを手に入れた。

 

□河内風穴(2022年夏)

井倉洞まで行くと日帰りでは結構体力的なダメージがあるのだが、もうすこし近場の洞窟としていってみたのが河内風穴。有名な多賀大社からすこし車で行ったところになる。道に迷って胡宮神社というところにでたが、気を取り直してやっと到着。すこし道が狭くて運転に気を遣う。入り口に入ると急激に温度が下がり、すこし肌寒いぐらいの温度になる。内部は非常に大きな空間が開けている。蝙蝠が飛んでいたのだが、目を凝らしても蝙蝠の姿が小さい黒い点ぐらいにしか見えないぐらいの広さである。入り口近くのお店でかき氷をいただいてお腹も涼むことができた。

 

□和歌山城(2022年5月)

ちょっと遠出してみようということになり、すこしまえにブラタモリで取り上げられていた和歌山に行ってみることにした。和歌山には以前学会で一度だけいったことがある。そのときは特急くろしお経由で3時間弱かかったが、今回は高速道路で2時間ぐらいの旅程。おっとっとシラス丼をいただき、紀州東照宮、和歌浦天満宮と歴史探訪したあとに、紀三井寺の石段をなんとか登り切り、西国三十三か所の御朱印をゲットした。最後に訪れたのが和歌山城である。天守曲輪を備えた豪華なお城で、さすがは御三家の居城である。石垣に緑っぽい石が多く使われており、全体的に緑色が映えて美しかった。城内が広く、防御も工夫されているため道が入り組んでおり、思った以上に体力を消耗した。城跡近くの和歌山ラーメンで塩分補給し、回復してから家路についた。

 

□御嶽山清水寺(播州清水寺、2022年1月)

寒さのつよまる1月に訪問したのが西国三十三か所の25番札所、播州清水寺。山の中腹に伽藍があり、昔の人は2㎞近くを歩いて登っていたらしい。今は自動車で仁王門のすぐ前まで気軽にいくことができる。コロナ禍の参拝ではあったが、大講堂のなかに入ると、お経を唱えている信者の方々が結構いらして、びっくりした。山の傾斜にそった参道の脇には山城レベルといっても過言ではない石垣があり、見事だった。いままで訪問した西国三十三か所霊場の中では一番山深いところだった。

 

□書写山圓教寺(2022年10月)

姫路城を午前中に回った後、足を延ばして訪問したのが西国三十三か所27番札所、圓教寺である。ロープ―ウェイで上がれるのだが、ロープ―ウェイの駅から伽藍まではひと歩きを要する。軽いハイキングである。山の尾根に沿って、立派なお堂がいくつも並んでいる。魔尼殿の豪快な舞台造りに見惚れたあと、最大の見どころである、大講堂、食堂、常行堂の3堂がコの字型に揃っている場所に向かった。ところが、あいにくクラッシック・コンサートが開かれていて3堂のうち大講堂、食堂は拝観できず、残念だった。足を延ばして奥の院までいってみると、閑かなたたずまいの開山堂が迎えてくれた。ピリッとした緊張感のただようお堂である。帰りにコンサートのお客さんでロープ―ウェイは大混雑。まっている行列の途中で、初老のご夫婦に話しかけていただいた。短い間だったが播磨の文化にまつわるお話をきけて、楽しいひと時をすごした。麓の「御座候」のカフェで一休みしてから、家路についた。なぜか書写山周辺のガソリンスタンドが激安だったのが印象深かった。

 

□酬恩庵一休寺(2022年10月)

高速道路の運転は大分できるようになったので、下道のワインディングの練習かねて、瀬田川ぞいのクネクネ道を経てたどり着いたのが一休寺。禅宗のお寺ということで、豪華というよりも小ぶりだがぴりっと引き締まった総門が出迎えてくれた。石畳の細い参道はあるくだけで、すこしずつ心が落ち着いていく。方丈でむかしの納豆を乗せたアイスをいただいたのだが、塩気がきいていて、普通の納豆とはだいぶ違う味わい。せっかくなので昔ながらの納豆をお土産に買って帰った。お寺の方によれば、常温でいつまででももつとのこと。納豆は化け物クラスの保存食であるということを知った。いにしえの知恵の深さに触れると、人間が進化しているのか、退化しているのか分からなくなる。

 

コロナ禍は、僕にとっては、奇しくも地元の歴史を見直す良い機会になった。

先日94歳になった祖母宅を訪れた。畑仕事を手伝ったのだが、帰りに祖母が冷凍の干し柿を持たせてくれた。亡くなった祖父が毎年の楽しみとして、祖母と二人で作っていたものである。庭の柿の木になった実の皮を二人でむき、干したあとに冷凍していた。それを3年越しに僕がもらったことになる。

 

さっそく食べてみると甘味がおどろくほど強い。祖父は80代後半をすぎてから、祖母と二人で干し柿を作るようになった。亡くなるまでの数年間、祖父母宅を訪れるたびに一つずつ、祖父が大事そうにとりだして渡してくれた。「どや、うまいやろ?」と笑う祖父の姿を思い出しながら食べていたら、ついつい味わうのを忘れてしまっていた。僕の場合、思い出と味覚は、同時に意識できないようになっているらしい。ただ、そう気が付いてからもう一度味覚に集中してみると、さっきの強い甘みが、もっと複雑な味に変化したように感じられた。

先々月のことになるが『シン・仮面ライダー』を観てきた。この映画を見逃すわけにはいかない。

 

仮面ライダーやヒーロー戦隊は大抵の男児が憧れるいわば通過儀礼のようなものである。いまでこそ週末の朝に放映されているが、僕がガキんちょのころ、ヒーロー戦隊ものだけが平日夕方に放映されていた。仮面ライダーはオダギリジョーさんのクウガで復活するまで新作放送が止まっていたからである。小学校から帰り、再放送の時代劇(水戸黄門か大岡越前)を観たあとに、ヒーロー戦隊ものが放映される時間になる。しかし、大抵の場合、観られなかった。当時姉が『大草原の小さな家』を観ており、親もそちらを推奨していた。テレビ放送で見られないので週末に図書館へいったとき、子供向けのライダー本、戦隊ものの解説本をよく読んでいた。ライダーものでは1号からV3まで、戦隊ものではサンバルカンが気に入っていた。

 

夏休みや冬休みに祖父母宅に遊びにいくと、平日の10時頃から再放送の仮面ライダーや戦隊ものが放送されていた。午前中は勉強時間とされていたのだが、ちょこちょこサボって再放送を観るのが楽しみだった。1号、2号、V3、X、ストロンガー、スーパーワンを観た記憶がある。

 

その頃漫画文庫で、石ノ森章太郎さんの原作漫画『仮面ライダー』が発売され、問題集用のお小遣いをはたいて購入した。これでいつでも仮面ライダーが楽しめると思ったのだが、読んでみてビックリした。だいぶテレビ放送とテイストが違うのである。本郷猛は戦うことに悩み続けていて、サイボーグ009のブラックゴースト編よりあとの作品群に似ている感じがした。テレビ放送でいうと初期のクモ人間編のようなホラーっぽさが、漫画版全体に漂っており、仮面ライダー自体もかっこよさより、異形で不気味な存在として描かれていた。

 

テレビと漫画と、どちらの仮面ライダーも石ノ森章太郎さんが表現したいことだったのだろうが、かなり方向性が異なる。庵野監督はどうまとめるのか、そこに興味があった。

 

結論から言うと、庵野監督の映画版は、ストーリー的には漫画版の悩める本郷猛に比重をおき、キャラクターやマシンの造形はテレビ版に比重におきながらかっこよさが重視されている、と感じた。ライダーキックは、テレビ版ではその威力が伝わりにくい不思議な威力の必殺技だったが、庵野監督版ではその凄まじい破壊力が伝わる表現になっている。サイクロン号もかっこよくなっていて、トンネルのなかでのショッカー・ライダーたちとの攻防戦はアクションとして記憶されるべきシーンになっていると思う。時折、シーンの切り替わりで説明不足でご都合主義に感じた箇所があったが、「説明不足・ご都合主義」はテレビ版の特徴であり、ある意味でテレビ版へのオマージュかもしれないと思い至り、納得した。

 

恐らく、漫画版が色濃く残していた「不気味さ」や「気持ち悪さ」を、庵野監督はもう少し押し出したかったのではないかと思う。流血場面、一対一の対決場面、マスクから頭髪をはみ出させる、爆発ではなく溶解という死に方などの描写でその趣向が試されていると感じた。しかし、いかんせん、ライダーもショッカー怪人もデザインがかっこ良いので、不気味さが出にくくなっているように思った。キャストもデザインもかっこ良いとき、そこから不気味さを出していくのはとても難しいことなのではないだろうか。

 

個人的には本郷猛の抑揚のない口調が、『風立ちぬ』で主人公を声優として演じた庵野監督の口調に似ていたこと、立花のオヤジさんと滝さんの名乗りのシーンも気に入った。そして、◯◯光線もだせず、必殺の武器ももたず、徒手空拳で戦う仮面ライダーのライダーキックに、確固たる説得力を与えてくれた庵野監督に感謝である。がきんちょ時代からもちつづけていた引っ掛かりがひとつスッキリした。面白い作品だった。

 

劇場には40代以上のお客さんが多かったが、若い人にも是非観てもらい、その意見を聴いてみたい作品である。

 

【2024年2月の追記】

テレビ版の仮面ライダーは、一文字隼人の二号ライダーが変身ポーズをはじめたあたりから大ブレイクし、本郷猛の一号ライダーもショッカーで再改造をうけて新一号となってから変身ポーズをはじめる。実は仮面ライダーの決め技はライダーキックなのだが、変身ポーズが登場して以来、ライダーキックの存在感がかなりうすくなってしまった。仮面ライダーにはまるガキんちょが真似をするといえば「ライダーキック」よりも圧倒的に「変身ポーズ」だったのである。対比的なのはウルトラマンシリーズである。ウルトラマンでは変身ポーズは地味なのだが、必殺技の「○○光線」のポーズが秀逸であり、ウルトラマンの真似をするときはみんな「〇〇」光線といいながらポーズをとっていたものである。

個人的な趣味で無理やりヒーローものと時代劇とを比較すると、仮面ライダーシリーズは、変身重視という意味で「水戸黄門」「遠山の金さん」「暴れん坊将軍」と重なる。一方で、ウルトラマンシリーズは、必殺技重視という意味で「眠狂四郎」「座頭市」に重ねるように思われる。

このほかにも、決め台詞の有無などでいろんな作品を見直してみると面白いかもしれない。

覚醒剤についてしらべているうちに、興味がでてきて陳舜臣さんの『阿片戦争』という大長編小説の存在を知った。うーん、さすがにそれを読み通す暇がなかなかないなと思っていたときに知ったのが、『実録・アヘン戦争』(中公新書、1971年)である。この新書は212頁とお手軽な分量。さっそく読んでみた。

 

いくつか気になった部分を抜き書いておく。

 

「日本がアヘンの侵入を食いとめることができたのは、イギリスが大量のアヘンをインドで生産し、その売り込みをはかった時期が、ちょうど幕末という、民族の青春期にあたっていたことも、理由の一つにかぞえられるだろう。(中略)アヘンが東洋人の体質に合っていたことも忘れてはならない。憂き世のことを忘れるためには、西洋人はやはりアルコールである。(中略)アルコールは陽気でさわがしいが、アヘンは静かで、受動的で、瞑想的である。-アルコールは発狂の発作を誘致するが、アヘンは節制の発作を誘致する。しばしば引用するが、右もジャン・コクトオのことばである。」(40頁)

アヘンからの精製物質は現在も疼痛に対する医療用麻薬(モルヒネ、オキシコドンなど)として使われている。アルコールは消毒やちょっとした気分高揚目的に使われる。そういわれてみればコクトオの指摘は至極当然なのだが、アヘンとアルコールを東洋と西洋の対比からみたコクトオの視点は面白い。ミサでぶどう酒をのむキリスト教と、あるべきようをあるがままに受け入れようとする仏教の対比とも重なる点があるように思われる。

 

有名な林則徐が広州に派遣されるきっかけとなる奏文を記した黄爵滋というひとの肖像画(95頁)が掲載されているのだが、この肖像画が非常に下手な出来で、興味をもった。インターネット上に同じ画像があったので、貼り付けておく。この肖像を黄爵滋ご本人はどう評価していたのだろうか。

 

 

もうひとつ、印象に残ったのは帝国主義全盛期のイギリスの野蛮さと老獪さである。イギリスは建前としては清朝の変則的貿易型式(国家間貿易をみとめず、公行という民間組織のみが対外貿易窓口となる)を打破するためにアヘンを口実に使ったのだと主張する。しかし、イギリスの本音は、清朝が欲しがっていない(むしろ嫌がっている)アヘンを無理やり売りつけて得た利益で、中国から茶葉を買いたいということだった。そのような野蛮な動機の一方で、林則徐の毅然としたアヘン対策を高く評価するイギリス人もいたし、イギリス本国の議会でアヘン戦争に反対した議員もいた。イギリスには、野蛮さだけではなく、知的で老獪な奥行きがある。そこがイギリスの魅力であり、ずるい所でもある。

 

陳舜臣さんは、この本の最後で、アヘン戦争中のアメリカの中立的な姿勢が後世にあたえた影響について述べておられる。「中国への親米ムードが瀰漫して、朝鮮戦争にいたるまでそれがつづいたのである」(212頁)。カイロ会談で英米の首脳とわたりあった蒋介石は、どんな気持ちだったのだろうか。