Nothingness of Sealed Fibs -61ページ目

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

G・オーウェルの『一九八四年』(ハヤカワepi文庫を読んでみた。


この古典的思想小説が描くのは、奇妙な空想の世界である。

主人公の住む世界はビック・ブラザー率いる「党」に支配されている。


相反する二つの信念を、同時に受け入れる「二重思考」という能力。

語彙数を年々減らしている「ニュースピーク」という新言語。

この二つは、どちらも個人から内発的に出てくるなにかではなくて、

外部からの圧力によって強制された「正しさ」を人々が受け入れる

ために採用されている。


そのような世界の中で、人々は「感情」を押し殺し、「正しい」行いだけをする

ように監視されながら生活している。主人公は、「正しさ」を強要する「党」に

対して反発を試みていく。


以上が、この小説の「表向き」の筋書きである。


しかし、この小説には「裏向き」の筋書きがある。

それは、外部から強制される「正しさ」が嘘っぱちであると考えた主人公が、

個人から内発的に出てくる「正しさ」も嘘っぱちにすぎないということに段々と

気付いていく、というものだ。主人公が信頼をおく「人間らしさ」は、「党」に

よって完膚なきまでたたきのめされる。だから読んでいて若干しんどい。

「恐ろしいのは、党の考えに同調しないために殺されることではなくて、党の

考えの方が正しいかもしれないということ。(中略)過去も外部の世界も人の

心のなかにしか存在しないのだとしたら、そしてその心自体がコントロール

可能であるとしたら―」(文庫124頁)

→個人の心は、僕たちの素朴な感覚とは違って、コントロール可能なのか?

この疑惑が、すこしづつ確信を帯びていくのがこの小説の流れである。

「正統は思考することを意味するわけではない。その意味するところは思考

する必要がないこと。正統とは意識のないことなのだ」(文庫83頁)

→なにが正しいかがすでに決まっているのなら、もうその問いを考える必要は

ない。思弁的な思惟を嫌い、体験を重視する宗教の教義とも重なる言葉だ。

この思想は、非常に「正しい」。


「古いものは何でも、いや、美しいものであれば何でもと言うべきだろうが、

つねにどことなく胡散臭さが漂うのである。」(文庫147頁)

→「正しさ」を追求していくと、語彙も世界も痩せていく。「正しさ」を判別する

ために、言語は厳密な使用を求められる。真理を表現する言葉以外は、

不純物・不要物として排除されていく運命になり、言葉は痩せる。同じように、

「正しくないけど、悪くもない」という美的なものは、正しくないが故に不要物

として排除されていく。だから世界も痩せる。


「昔の文明は愛と正義を基礎にしていると主張した。われわれの文明の基礎

は憎悪にある」(文庫414頁)

→どっちもどっちである。どちらも「正しさ」を追い求めている点では、同じだ。


主人公の行為だけでなく、心も「党」によってコントロールされていたことが

明らかになった時点で、この小説は物語としては瓦解する。

なぜなら、主人公の個性と呼べるような要素や意識・感情などもすべて、主人公

自身から内発的に出てきたものではないとき、もはやその主人公は、物語の

主人公として機能できないからである。文章を語っている主体が、その主体性を

失ったとき、物語は崩れる。


しかし、主人公でなくなったウィンストンは、自己としては存在できる。

この意味での自己とは、名前も個性、意識などあらゆる特性を失っているから、

自分にしか捉えられない自己である。当然、歴史の内部には居場所がない。

だから、この意味の自己は、ある種のとてつもなく絶望的な在り方をしている。

むろん、「絶望的」という評価はどこまでも歴史の内部からの評価ではあるが。


だから、この小説が目指しているのは、人間らしさの破壊、つまりは小説自体の

破壊である。


なぜオーウェルがそこまでして小説を葬ろうとする小説を書いたのかは、正直

よく分からない。

おそらくは、「正しさ」への抵抗を、既存の「正しい物語」とは別の物語の提示

という仕方でやってしまうと、結局同じことになってしまう以上、そもそも物語という

土俵をおりるしか方法がなかったのだと僕は思う。

しかし、物語であることをやめてしまったことによって、「正しさ」に抵抗することの

意味もなくなってしまったのだ。つまり、この小説は、ものすごい徒労だったことになる。


だからこそ、オーウェルは、この作品を遺作として選んだのではないか?


すべてが徒労だったという厳粛な事実を受け止められるとすれば、それは最期を

覚悟しているときだけではないだろうか。


その意味で、この古典的小説は、最も深い意味で、オーウェルの私小説であった。

先月になってしまうが、姉が二人で行ってきなよとチケットをおごってくれたので

相方さんと連れだって劇団四季の大阪公演『ウィキッド』に行ってきた。


ストーリーは、「オズの魔法使い」の裏ストーリーという感じ。

「オズの・・・」で悪者として描かれていた緑の魔女の若いころのお話。

実は、緑の魔女は世界を守るために犠牲になって、あえてドロシーにやっつけられた

という段取りになっている。


鑑賞してみて、なによりもおどろいたのは、歌が非常に力強いことだ。

まるでゴスペルのような張りのある声で高音を伸ばすシーンには、背筋がぞくぞくした。

いままで見たことのあるミュージカルとは段違いの迫力で、圧倒された。


曲も素敵で、いや~よかった!!


観終わってから調べたら、主役の緑の魔女はなんと韓国出身の女優さんが演じていた。

木村智秋さん。完璧な発音、力づよくて伸びのある声、とても素晴らしかったと思う。


脚本はアメリカの正当性があやふやになった湾岸戦争をヒントにしているらしい。

湾岸戦争では、フセイン大統領の位置づけがアメリカとイラクで真逆だった。

善悪の判断が視点によって簡単に左右されてしまうという風刺がこの作品を創り出した。


緑の魔女は、「オズの魔法使い」では悪、『ウィキッド』では善である。

しかし、善悪の枠組みだけで考え続けようとすると、あらゆるものごとは善でも悪でもある

というアンチノミーに陥り、そこから先に思考が進まない。


善と悪とを相対化する立場、すなわち善悪の彼岸は善なのか悪なのだろうか。

この問題は、世界が真実なのか虚構なのかという問いと類比的であるように思えるのだが、

どうだろうか。


例えば、真実であろうと、虚構であろうと、人間が認識できるという意味でなら「本当」なのだ。

だから、真か偽かという区別は、大きな「本当」という肯定された枠組みの中で始めて成り立つ。


同様に、善だろうと悪だろうと、その物事が存在するということは確かである。

善悪の区別は、すでにこの世界の中に存在する物事に対してしか意味をなさない区別だ。

つまり、善悪は、この世界に在るという意味で肯定された枠組みの中で始めて成り立つ。


おそらく、どんなひどくて悪いことが起こったとしても、「そういうこともある」と、

大きな意味で肯定すること、それが善悪の彼岸に立つことになる。


しかし、この善悪の彼岸という立場からでは、あらゆる法律も相対的なものになってしまい、

世界の内部でどのように行為したらよいのかという問いへの絶対正しい答えがなくなる。


カントやヘーゲル、プラトンなどはどのようにこの法律の相対性を処理していたのだろうか。

この問いは、今人気の「ハーバード白熱教室」のサンデル教授が見事にスキップしている問題だ。

法哲学は苦手だが、頑張って勉強してみようかという気になった。


ありふれた日常に退屈する前に、考えないといけないことは本当にたくさんある。

先日、3D版の『海猿』三作目を相方さんと見てきた。

THE LAST MESSAGE 海猿


第一作、第二作につづいて、良質なエンターテイメントになっていて楽しめた。

多少ベタな展開だが、仙崎くんと環菜さんの絆を中心としたストーリーには

相変わらずの説得力がある。


今回は、炎上する天然ガスプラントに閉じ込められる人々のやりとりがおもしろい。

加藤雅也、吹石一恵、濱田岳が演じるコメディが、緊迫した映画の中で、絶妙な

アクセントになっていて楽しめた。


濱田岳の不思議な演技はみていて驚愕である。彼の間合いだから笑いになっている

シーンが確実にあった。脚本を書いた人は本当に濱田岳のキャラクターを理解して

セリフを書いているように思える。これからも彼の演技には要注目だろう。


この物語は、仙崎くんと環菜さんの三回目の結婚記念日に起きた事件を描いている。

仙崎くんは、ここぞとばかり、ものすごい仕掛けやプレゼント攻勢を用意していて、

環菜さんいわく、「ものすごいばか」である。

とてもいいシーンで、隣に座っていた相方さんは、見ながら号泣していた。


しかーし!である。

この映画は、純粋に楽しかったけれど、男子諸君にとっては非常にハードルが

上がってしまう作品ではないだろうか!男子諸君、要注意!!!


鑑賞終了後、「すごいよかったよ・・・」と涙を拭きながらいう相方さんに、僕は率直に

「いやー、あの記念日の演出シーンは、男にとってはハードルあがっちゃって・・・」と

申しあげてみた。「なかなかあそこまで、サプライズ連発はきびしいよね・・・?」

相方さんは、「えっ。ポイントそこ?」とややあきれ顔。


僕は、正直サプライズ演出が苦手である。相方さんにとっては、

あまりにサプライズがなさすぎて、そのことが逆にサプライズであるらしい。


一応、記念日には喜んでもらえるようなプレゼントやイベントをしたいと僕も思うのだが、

思いつくアイデアがどれもどこかで見たものの二番煎じ的なものばかりで、なかなか

実行に踏み切れないのだ。これは、単なる勇気不足であるともいうらしい。


今回の『海猿』で炸裂していたサプライズ演出は、すでに僕にとっては「どこかで

みたもの」にインプットされてしまった。だからこそ「ハードルあがった」と感じたのだ。


まぁ、人にはそれぞれのスタイルがある。仙崎くんのスタイルだけが正解ではない。

結婚記念日はとてもうれしい日であることに間違いないのだから、そのうれしさを

素直に二人で分かち合えるように、僕なりのスタイルを見つけられたらいいのである。


いいアイデアが見つかりますように!!もはや祈りに近い思いではあるが、

この身近な「産みの苦しみ」は意外と楽しいような気がしている。

10月1日(金)午前11:05。4人の男が天下一品銀閣寺前店にいた。

アラサー3人に19歳の若者1名。むろん僕はアラサーのうち1名にはいる。


彼らの目的は、「天一祭り」である。

この1日だけは、ラーメン一杯を食べると、1杯分の無料券がもらえる。


アラサーの3名は、一昨年7杯、昨年9杯と順調に食したラーメン数を伸ばし、

おとろえる胃の消化力をよそに、今年こそは二ケタの大台へと挑まんとしていた。

しかも、今年は大学に入ったばかりの若人をたらしこんでしまうという始末の悪さ。

でも、これがやめられない。


天気は快晴。前日の雨模様からまさかの好転である。

メンツがそろうと、4人はさっそく銀閣寺店に入った。すでに店内は満員。

僕はさっそく「こってり並レギュラー麺」を注文。11:18。
Nothingness of Sealed Fibs-銀閣寺前
昔よくいっていた頃に比べると、ちょっと気合が弱くなった気がするが、

ひさびさの天下一品ということで、おいしくいただいた。


お次は自転車を南に30分ほど走らせ、恒例となった知恩院前店へ。

お腹はまだまだ余裕。「こってり並レギュラー麺」を頼むと、とても肌理の

細かいこってりスープがでてきた。これは見た目以上にうまい。11:47。
Nothingness of Sealed Fibs-知恩院前1

「うまいな~」を連呼して食べる。味わって食べれるのも最初のうちだけだ。


次は知恩院からだいぶ南に下って龍谷大学前の竹田店へ。

かなりの列ができていたが、20分ほどまって入店。「こってり並細麺」を注文。13:28。

Nothingness of Sealed Fibs-竹田店
竹田店には黒コショウが置いてあり、これをこってりスープの上にかけると

ラーメン版カルボナーラのような感じになる。これがなかなかおいしい。

おいしいのはいいが、コショウはひりひりするので水をたくさん飲む→

お腹がふくれる→しんどいという悪循環に。黒コショウ要注意!!


次は、北東に向かい山科店へ。ここで福井県からくる後輩Hと合流。14:30。

Hは奥さんに車で京都まで送ってもらって、折りたたみ自転車で参戦。

奥さんは保育園に子供を迎えに行くため、すぐに福井へ戻って行った。

亭主関白とは聞いていたが、想像以上である。


山科店では「こってり並レギュラー麺」を注文。かなりチャリを漕いだ後なのだが

空腹感はゼロ。スープも濃くてうまそうなのだが、いかんせん気分がのらない。

こうなるともはや苦行あるいは修行である。むろん、この苦行に目的などない。
Nothingness of Sealed Fibs-山科店

次は西に移動して二条駅前店を目指すことになったが、ここで27才の後輩がお腹の

限界状況を自己申告したため、途中の「国際まんがミュージアム」により道。

疲れていたのだろうか、座って「天才バカボン」を読みながら眠ってしまっていた。

一時間ほど滞在したが、お腹がまったくもって減らないことに全員で気づいたので、

あきらめて再出発。16:42二条駅前店到着。「こってり並レギュラー麺」を注文。

Nothingness of Sealed Fibs-二条駅前店
チャーシューが他の店にくらべて分厚くておいしいのだが、いくらおいしくても

お腹が気力で耐えているありさまゆえに意味なし。水の清涼感だけが心の支えに。


次の店には、無謀にもすぐちかくの西院店を選択。17:09に西院店到着。

「こってり並レギュラー麺」を注文。ここのこってりは少々うすめ。こしょうがきいてる。

Nothingness of Sealed Fibs-西院店
普段ならば、「スープが薄くて気合がたりん」というところだが、お腹の状態を考慮

すると、むしろ「薄くてありがとう」と言いたいところである。口からでるのは愚痴ばかり

だが、なんとか食べきる。


お腹が限界を越えかけていたため、桂五条店近くのスーパー銭湯にむかうことに。

朝から自転車を40キロ近く漕いでいたので、なんとサドルに接していたお尻がむれて

アラサーメンバー3名のおしりに汗の染みができていることが発覚。乾かすために

立ち漕ぎしてみる。そうしているうちに、ややお腹がすいてきた。銭湯に到着。

すでにあたりは暗くなってきていた。銭湯で体重を計ると朝から2キロ増。せっせと

サウナにはいって汗を流す。


1時間ほど銭湯でくつろいだ後は、桂五条店へ。なんと長蛇の列で一時間待ち。

さすがは人気店。やっと入店して「こってり並細麺」を注文。スープはさすがの濃さだ。

Nothingness of Sealed Fibs-桂五条店

しばらくお腹をやすませていたせいかおいしく感じる。やはり桂五条店はうまい。21:00。


お次は、いままで行ったことのない八条口店へ。しかし到着するとちょっとまえに麺が

売り切れたため閉店とのこと。うぎゃー。残念だがお腹にはうれしい。

いたしかたなく東へ向かって京都南座前店へ。ここで徳島からやってきた後輩Uと合流。

Uは仕事終了後、徳島から高速バスで京都にやってきたらしい。とびっきりのアホである。


京都南座店ではついに「こっさり並レギュラー麺」を注文。「こっさり」は「こってり」と

「あっさり」の中間の味である。ついに連続「こってり」記録が途絶えた。23:05。
Nothingness of Sealed Fibs-京都南座前店

さすがに「こっさり」は食べやすく、意外とすぐに食べ終わった。


Uには自転車がないので、みんなで歩きながら本日二回目の知恩院前店へ。

途中祇園のあたりで、四つ葉のクローバーのランプをつけたヤサカタクシーを発見。

レアなタクシーを見れたので、うれしくなるものの、なにかいいことあるのだろうか?


知恩院前店ではすこし行列にならんだが、23:52に知恩院前店に無事入店。

行列にならんでいるときに、店をまわっていた天下一品の木村社長を間近で目撃。

もしや、これがヤサカタクシーのご利益? 気を取り直して「こっさり並細麺」を注文。
Nothingness of Sealed Fibs-知恩院前2

なんと、うつわの上の方までなみなみとつがれている。普段ならうれしいが、

本日に限っては、食欲がしぼんでしまう。すでに9杯目。麺のすすりすぎで、

ノドのあたりの筋肉が少々痛い。


そして、ついに未体験の10杯目へと北白川総本店に向かうその途中に、

大学時代のサークルBOXに立ち寄って、腹ごなしに4曲ほど熱唱。

総本店には翌日早朝2:07に到着。ラストは「こってり並細麺+ビール」である。


Nothingness of Sealed Fibs-総本店
さすがに総本店のスープはうまい。そして、ビールがなおうまい!!

ビールを飲むと、身体に溜まりまくった塩分がどんどん薄まっていく気がして

気持ちがいい。久々にすがすがしいお酒を飲んだ。もちろんラーメンは完食。


10杯のラーメンを食べたアホ達は、10枚の無料券をもらって上機嫌になりながら、

それぞれの家路についた。でもやっぱりお腹はきつい。


結局、僕はこの一日で何を得て、何を失ったのだろうか?

おそらく僕は、「結局」という言葉がもつ呪縛から抜け出せたのだ。


人生は、「結局」という言葉でまとめきれない何かであるはずだ。

だから、人生に考察はあっても、結論はない。天下一品もまた然りである。


ちなみに僕は、この3日後に最初の無料券を使い、見事、こってりラーメンが映る

プロジェクターライトを当てたのだが、それはまた別の話ということで。

唯一の心残りは、「こっぴりのある北野白梅町店に行けなかったことだが、

また無料券を持って行ってみれば良いだけのことだ。来年はどうなるだろうか。

ちょっと前になるが、『インセプション』を相方さんと見てきた。


この映画のアイデアはまちがいなく映画史に残ると思う。

夢を見た状態でさらに夢を見ることができる、つまり夢には階層構造があり、

階層の深い夢ほど時間がゆっくり進むという条件設定のアイデアは卓抜だと思う。


ストーリーのテンポもよく、アクション・サスペンス映画として非常に面白いと思った。

ただ、ディカプリオの死んだ妻がからむラストの部分で、ストーリーがややこしくなって、

わかりにくくなっているのが残念だが、緊張感が全編通して維持されるのは素晴らしい。

いずれにしろ、鑑賞前に糖分をたくさんらないと頭がオーバーヒートするので要注意。


個人的に面白かったのは、「夢の世界の中で死ぬとどうなるのか」という問題である。

たとえば、夢の世界の中で重傷を負って意識が遠のくとする。

そのまま死んでしまえば、映画の設定上、見ていた夢よりも一つ浅い階層で目が覚める。

だが、その意識の遠のきが「眠り」であれば、さらに一つ深い階層で夢を見始めることになる。


つまり、死か眠りかによって、夢の階層が深まる、浅くなるの違いが生じる。

このことを、別の言い方で、下のように表現してもいいかもしれない。

死はひとつ浅い階層での目覚めであり、眠りはひとつ深い階層での目覚めである、と。


おそらく、映画のストーリーの中でも、この死と眠りの区別は錯綜している。

なぜなら、死と眠りは、外見からではすぐに区別できないからだ。

だから、観客は映画の登場人物が死んだのか眠ったのかという判断に迷う。

そのために、観客はすこしストーリーの展開に乗り遅れがちになる。


これが、この映画の筋書きを分かりづらくしている原因ではないだろうか。


階層を世界と言い換えてよいなら、死と眠り、夢と現実の区別は、

複数の世界を行き来できる存在にとって初めて意味を持つ、

という洞察をこの映画は提供しているように思える。

この洞察は、映画自体の分かりにくさに反して、動かしがたく明瞭だ。


この洞察は同時に、今僕が生きているこの一つの世界のなかだけで考えるなら、

死と眠り、夢と現実の区別は意味をなさないということも告げている。


だから、夢と現実を正確に区別することは、僕にとってはそれほど真剣な問いではない。

僕が今見たり聞いたりしている世界が、全部夢であっても、あるいは、死んだあとに

神様から「あなたの人生は全部うそっぱちでした!」と言われても、別に僕は構わない。


なぜなら、僕が夢の中の世界にいたとしても、現実の世界にいたとしても、

すくなくとも今の僕にはちゃんとこの世界の中で生きているという実感と記憶があるからだ。

この記憶と実感がある限り、別に今いる世界が夢の中であっても問題ないと僕は感じる。


ややこしくなるのは、他人の心が、僕にとって「この世界ではない別の世界」なのかという点だ。

もしそうであれば、僕は、他人の心の中の世界では、死ぬか眠るかしなければならない。


この方向性で考えていくと、ある一つの倫理に行きあたるのだが、それはまた別の機会に。