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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

名作、『ロミオとジュリエット』を再び見返す機会があった。

1968年のバージョンである。


前回みたときは、僕も中学生だったので、全然気がつかなかったのだが、

今回は、冒頭のキャピュレット家のチンピラがみんな麗しきタイツをつけている。

タイツの上からズボンをはくわけでもなく、そのままタイツ。

むこうからやってくるモンタギュー家のチンピラもみんなタイツ着用ということで、

なんか、こそばゆい。


中世のイタリア、ヴェローナが映画の舞台。

当時は、伸縮性のある素材がなく、タイツといっても、1人1人のサイズをはかって

オーダーメイドで作っていたらしい。だから貴族やお金持ちしか身につけられなかった。

正式には、そのタイツ/股引らしき着衣は、「ホース」と呼ばれるものらしい。

今のタイツよりも、だいぶ厚い素材でできていたのだろうと思われる。


と、ふざけるのはこのへんにして。


久々に見直して感じたのは、ジュリエットはなぜ死んだのだろうかということだった。

普通は、死んでいるロミオを目の前にして絶望からナイフをとったと考えられる。


しかし、今回、みていると、ジュリエットが命を絶った理由は、別にあるように思われた。


ロミオがティボルトを殺した罪で追放されてしまった後、ジュリエットは父から

伯爵と結婚するようにと強く言われ、悲嘆にくれる。

ジュリエットは信頼する乳母に、「どうしたらいいの?」と相談する。しかし、ここで

乳母は、「ロミオのことは忘れて、伯爵と結婚しなさい」と、ジュリエットを裏切る。

乳母はそれまでロミオとジュリエットの仲を取り持つ役目を果たしていたのにである。


この乳母のセリフを聞いたジュリエットの表情の変化は、恐ろしく鮮やかに撮られている。

大人の世界に触れ、一瞬で凍りついた衝撃が、よく伝わってくる。


死んでしまったロミオを目の前にして、ジュリエットは嘆く。たしかに嘆きはする。

しかし、彼女がナイフをとったのは、”人の声が聞こえてきたから”なのである。

もし、人さえ墓堂内へとこなかったら、ジュリエットはロミオとふたりきりのままで、

心おきなく嘆き続けたに違いない。


第三者がやってくることによって、ジュリエットは、このまま生きていると、

ロミオや自分を裏切りながら、嘘をつきながらやっていかねばならないと感じたはずだ。

だからこそ、死を選んだのだと思う。


人の声は、人に死を選ばせることができるのだ。


大人として生きていくということは、どこかしら嘘をつくことである。

自分は嘘なんかついていないという嘘すらも必要とするほどに。


そのような大人の生き方はいやだという命がけのジュリエットの訴えに、

僕は、聞く耳を持ち続けられるような大人でありたいと、ひそかに願っている。


あけまして、おめでとうございます。


「新年」よりは、「信念」が好きなもので。


とはいうものの、どちらかというと、「信念」は嫌いな言葉です。


こんな適当な私ですが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。


今年も、中身の充実した一年になりますように。

だいぶ更新が滞ってしまった。

12月になって初の記事である。いかんいかん。


12月はいろいろあった。


まずは、11日、12日の週末は二年ぶりの鳥取コンサート紀行。

今年もトップテナーで参戦。一日目のコンサート後はしし鍋でうはうは。

翌日は、コンサートの後、京都にとんぼ返り。大学生に有給はない・・・。


翌週の週末は、大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団のクリスマスコンサート

@いずみホールに相方さんと行ってきた。

木下牧子さんが客席にいらしていて、びっくり。いいものをみさせて

いただきました。

演奏は、さだまさしの「遥かなるメリークリスマス」が出色。

相方さんとふたりで、静かに涙した。いい曲だ。


翌週は、月曜日が助っ人で行ってる合唱団の忘年会。

一次会で後輩のはたらくイタリアン食堂でたらふく食べた後、

二次会は大先輩のおごりで祇園へ!!

祇園のカラオケは一曲いくらくらいなんだろう。こわごわと歌う。

かなり酔っぱらって、反省会をバーで行うも記憶なし。


火曜日は、医大の同級生(25歳男)とさし飲み。

すこし雨が降っていたのでズボンがぬれたのは確かだが、座敷で

彼がズボンを脱いでタイツだけになったのにはかなりびっくりした。

他のお客さんがきてもお構いなし。彼はまじで大物だと思う。


水曜日は、年内講義最終日。

五限目が終わってから、医大の同級生10人くらいとお疲れ様会。

四条のおばんざいやさんで飲んで、そのまま四条のHUBへ。

みなさん、それぞれいろんな悩みがあるようで。

人間は、悩むほど青春を謳歌できるようなので、特に僕は口をださず。


翌日からは、ごろごろな毎日。昼にめざめて、夕方に出歩く日々。


土曜日は、相方さんとクリスマス・ディナーのあと、名古屋と京都在住の

精鋭メンバーで京都四条阪急デパート(丸井になっちゃうんだよね)前で

熱唱。とっても寒い夜に、相方さんのもってきてくれたホッカイロをたよりに

4人のアラサーで二時間近く歌わせていただいた。相当楽しい。

精鋭メンバーなので、クオリティーは◎。

人は、多ければ多いほどよいわけでもないのだ。

二時間も聞いてくれた相方さんに深謝。すばらしい相方さんだと心から思う。


明日はばあさんの家でもちつきの手伝い。そのあとは東京へ。

意外にバタバタした年末年始になりそうな予感である。


タイトルは、全く意味なし。

あることないこと、ないことないこと、ないようでないことばかり、これからも

ブログでつづっていたいと思うこの頃である。


かっこよさよりも、なんにもなさを大切にしていたい。


みなさま、よいお年を。


「お迎えください」を言わないのが僕の最近のポリシーである。

先日、血液型の授業があった。

教官いわく、A,B,O,ABという四種類の血液型の人が

まんべんなくいるのはアジアの国々だけらしい。


たとえば、ヨーロッパではほとんどがA型、O型のどちらか。

南米の一部ではO型しかない地域もある。

むろん、そういった地域で血液型占いは成り立たない。


そんな内容の授業を受けていた同級生が、

「血液型占いを信じるなんて非科学的で馬鹿だよね」と言っていた。


「科学的」という言葉に根強い反感を持っている僕は、その同級生

の発言には素直に賛同できなかった。


おそらく、「血液型による性格分析が自分に当てはまっているか?」と

アンケートをとり、ちゃんと統計分析をやったら半分くらいのパーセントの人が

まあまああたっていると回答するという結果になるのではないだろうか?


医学の世界では、1000人に投与して250人ぐらいの人だけ癌の発生率が

下がったという臨床データをもつ薬品でも、薬として認可されているらしい。

医学の世界では、「科学的」とはこのような臨床データをとること、および

その統計分析をちゃんとやることを意味している。


であるならば、ちゃんとした実験をし、統計分析をしてみた結果、

つまり「科学的に」取り扱ってみたら、血液型の性格分析のほうが、

認可されている医薬品よりも高確率で有効だということも、十分あり得る。


「血液型占いは非科学的だから間違っている」という発言は、

その発言自体が非科学的であることを十分に考慮していない点においても

いただけない。


多分だが、血液型が4パターンしかなく、人間の性格にそれほど多くの

類型がない現状では、血液型分析が高確率で的中するのはむしろ当然

ではないか?


だから、科学的に考えたら、血液型占いはかなり信頼できる程度に当たる

とも言えそうだ。


たしかに、巷に流通する血液型占いは、なんの科学的根拠も持っていない。

だからといって、すぐに誤りであるとは言えないだろう。むしろ、ちゃんとした

科学的手続きによって分析してみれば、血液型占いは十分に有効である

という結論が得られるのはほぼ間違いない。


そんなことを考えた。すこし意地が悪すぎるだろうか??(笑)

"If two lives join, there is oft a scar.

There are one and one, with a shadowy third;

One and one is too far."

by Robert Browning, 'By the Fire-side'' from "Men and Women".


英語の授業で、上の詩がでてきた。最後の一行がなかなか素敵だ。


「1人と1人が近くにいるだけでは、遠すぎる」


そんなものかもしれない。


どうしたらもっと近づけるのだろう。

隣を歩いている人に。


よく分からない。というより、どういうことになったら「よく分かった」と

言えるのかすら、よく分からない。


でも、そばにいるということは、遠さとか近さとかとかで測りきれない、

別の距離感に留まることである、というような気がする。


夜が更けた。