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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

先日フィンランド映画『ヤコブへの手紙』をみてきた。


盲目の老牧師ヤコブのもとに、恩赦で出所した元殺人犯の女性がやってくる。

彼女は、老牧師のために手紙を読んで聞かせ、返事を代筆するるという仕事の

ためにやってきたのだった。しかし、突然手紙がこなくなり、ヤコブは自分の

使命を失ったように思い、苦しむ。

はじめは、悩みを相談する手紙に対して、ただ祈りの言葉を返信するヤコブを

懐疑的にみていた元囚人の女性だが、苦しむヤコブ牧師をみて、心を開き始める。


1時間強の短い作品だが、不要なものを一切省いた淡々としたショットが重厚さを

生みだしている。画面構成も秀逸で、不要なものを一切映そうとしない。

足だけ、顔だけ、ベッドだけを映し出すショット。そうした細かい注目の力が画面に

直接映らない物語を浮かび上がらせる。


すなわち、この映画は、直接画面に映されていない現象を観客が補うことによって

成立している。そのような観客の参加がなければ、映画の意図は達成されないのだ。


僕はあまりにも当たり前のことを言っているのかもしれない。


しかし、良質な作品ほど観客側の参入を促すものだと僕は思っている。

これは、映画に限らず、小説でも言えるのではないだろうか。


作品は、スクリーンに映っているもの、文章になっているものですべてではない。

観客は、情報を自分で補いながらこの映画を観賞するだろう。


その時、観客は、人が別の人を理解するときと、ある意味で同じ作業をしている。

現象として顕れてはいないことを補うことで、人は他者に到達することができる。

同様に、画面に映っていないことを補うことで、人は物語に到達することができる。


見えないもの、いや見えないだけでなく、そもそもそんなもの無いものを補うことで

人は、自己という枠から溢れて他者へと通じることができる。


この映画の最後で、ヤコブ牧師は、この「無いもの」を神だと思っていたのではないか。

もしそうなのであれば、僕は、このヤコブ牧師の感覚に共感する。


例えば、ヤコブ牧師は、聖職者として悩み相談の手紙に応えることによってではなく、

自らが誰からも必要とされずに苦しむ一人の人間であることを曝すことによって、

元殺人犯を癒せた。ヤコブ牧師は、聖職者として祈ったことによってではなく、

単なる一人の人であるというそれだけのことで、元囚人の心の支えになったのだ。


人は神によって苦しみから救われるのではない。

そうではなく、人は、神によってはじめて人となるのである。

だからこそ、「人が人である」というただそれだけのことが、最初の奇跡でありうる。


この作品が描いているように思われる小さな奇跡は、

当たり前すぎるために僕らの目には映らない別の奇跡に支えられている。


映画を見ることと、他者を理解すること。この二つは本質的に同じ行為である。

本を読むこともそうだ。

「本ばっかり読んでいると、頭でっかちになる。実践しなければ意味はない」と

言う人がいる。そのような人には、このような映画は理解されないだろう。


「現実を理解するのと、本を解読するのは同じである」ということを知らない人が

不幸なのかどうなのか、もちろん僕には判断がつかない。


ささやかな佳作である。

私ごとですが、2/20に京都府内で引っ越ししました。


そして、2/22に身が固まり、きままな独りぼっちから、あたたかなふたりぼっちになりました。


文字通り責任が増えたのですが、責任感がまだまだ増えてこないあたりが、未熟者な私です。


「身が固まったけれど、なにか特別変わったわけではない」と、感じるかと予想してましたが、


意外にも「結構変わった」感じがしています。そして、その感じ、割と快適です。


あたらしい住処は、京都と大阪の中間にあり便利。


しかも、山が近くて自然も豊富。すてきな場所です。


この新しい場所で、二人で助け合いながら、ささやかに暮らしていけたらと思います。


今後ともよろしくお願いいたします。

町田康の『告白』を読んだ。だいぶ前に買ってあったのだが、見た目の分量に

びびって手を出せず。読み始めたら2日で読めた。


告白


この本の決定的なモチーフは、「言葉」だと思う。

普通であれば、世間と自分の決定的なズレを埋める方向に働くはずの「言葉」が、

主人公である熊太郎の場合、逆に世間と自分の間の溝をどんどん深めていく。


「言葉が自分の本当の姿からずれていく」という感じが主人公に常に付きまとう。

言葉が空回っているという感覚が、この小説全体に妙な疾走感を生んでいる。


そう。この小説にはグルーブがある。加速度といってもいいかもしれない。

もはや「文体のリズム」という生易しいものではない。

リズムが軽々とぶっとばされたあとの荒廃した無の世界に響く地響き。

そんなようなものが確かにあるように感じられる。


「思弁と言語と世界が虚無において直列している世界では、とりかえしということが

ついてしまってはならない」(中公文庫758頁)


「そこに松があることを含めて宇宙そのものが徒労だ。面倒くさい。死にたい。死ね」

(760頁)


久々に小説の地の文でしびれた。


この本の主人公である熊太郎に言わせれば、世界の中で生きるために、

熊太郎自身は他人と言葉でコミュニケーションをとろうとしたのだ。

しかし、出てくる言葉が、ことごとく自分の本当の思いからズレていく。


「すんませんでした。全部嘘でした」(839頁)

そう口にする熊太郎だが、すぐに、

「俺はこの期に及んでまだ嘘を言っている」(839頁)

と思う。そして最後にもう一度。

「本当の本当の本当のところの自分の思いを自分の心の奥底に探った」(840頁)


その結果は、

「曠野であった。

なんらの言葉もなかった。

なんらの思いもなかった。

なにひとつ出てこなかった。

ただ涙があふれるばかりだった。」(840頁)


熊太郎は、自分が本当の思いを人に言っていないと感じていた。

だから自分の言葉はすべて嘘だったのだと熊太郎は懺悔する。

しかし、そのような『告白』すら嘘ではないか。


本当の本当は、すべてが嘘であるという嘘でしかない。

本当には嘘をつくことが不可能であるというのが世界の秘密なのだ。


もっと平たく言ってしまおう。

自分の外面と内面のズレを「嘘」と呼んでしまってはならない。

嘘として認められるのは、外面と外面同士のズレだけにする。

私たちが普段素朴におもっている「内面」とは「外面化された内面」にすぎない。

これが「世界」が成り立つために必要なきまりなのだ。


ハイデガーは人間を「世界内存在」と呼んだ。

世界の中に存在するというあり方をするのが人間だという訳だ。

しかしハイデガーが言ってるのはあくまでも「人間」の在り方であり、

「私」の在り方ではない。


人はひとりでは生きていけないと、大人たちは言う。

この言葉はとても正確だ。というよりも至極妥当である。

「生きる」も「人」もすでに世界内存在にのみあてはめられる言葉なのだから。


熊太郎は、世界に生きるためには捨てなければならないものを捨てなかった。

だから、人間としては最低だ。その一方、どこか高潔なのである。

下劣・極悪がそのままで高潔へと反転する場所を、この小説は明快にえぐり出している。


傑作である、と言わねばならない。面白かった。

昼間、なにげに見ていたテレビで、今はなき大書家、榊莫山先生の

映像が流れていた。


莫山先生の育った旧家のふすまには、蟹を描いた水墨画があったらしい。

その水墨画のはしっこに書かれていたのが次の言葉らしい。


人皆直行、我独横行。


人はみなまっすぐ進むが、私だけが横に進む。

なるほど、蟹らしいユーモアである。


莫山先生は、この蟹の言葉を、「人まねではなく、自分オリジナルの道をいく」と

理解していたらしい。


まわりのことばかり気にしていると、どんどん型どおりの人間になっていく。

それは、無難ではあるけれど、つまらない。


書道という、まずは形からはいる分野を極めた人の言葉だけに、含蓄がある。

莫山先生は、人まねを極めたところから独自の道を拓きはじめた。


僕も、まずは人まねを極めよう。


そんな思いから、書物を開くのもいいかもしれない。

最近でもないが、電車の中吊り広告に宗教団体の宣伝をよく見かける。

今日は「真実はだれも教えてくれない」というコピーが目に付いた。

広告の最後は「だからいま、この世の利害を超えて、本当のことを
あなたに伝えたいのです」と結ばれている。

残念だが、爆笑である。
誰も教えてくれない真実をなぜ彼らは教えてくれるのだろうか?
この世の利害は、真実ではないのか?少なくとも現実ではないか?

疑問噴出。矛盾だらけだ。

真実は誰も教えてくれないことに僕は同意する。
いや、それをいうならば、クリプキが示したように、誰も何も僕に教えることはできない。
言語という壁がある限り、自分で考えたことのあることしか、人間は納得できないからだ。

その意味で、真実は常に自分のなかにある。

真の自己を探求するのではなく、真実を探求ところに自己がある。

従って、この広告は厳密ではないと僕は思う。

むしろ巧妙に正しさを偽装していないだけ良心的なのかもしれない(笑)。
さて学校についた。