G・オーウェルの『一九八四年』(ハヤカワepi文庫を読んでみた。
この古典的思想小説が描くのは、奇妙な空想の世界である。
主人公の住む世界はビック・ブラザー率いる「党」に支配されている。
相反する二つの信念を、同時に受け入れる「二重思考」という能力。
語彙数を年々減らしている「ニュースピーク」という新言語。
この二つは、どちらも個人から内発的に出てくるなにかではなくて、
外部からの圧力によって強制された「正しさ」を人々が受け入れる
ために採用されている。
そのような世界の中で、人々は「感情」を押し殺し、「正しい」行いだけをする
ように監視されながら生活している。主人公は、「正しさ」を強要する「党」に
対して反発を試みていく。
以上が、この小説の「表向き」の筋書きである。
しかし、この小説には「裏向き」の筋書きがある。
それは、外部から強制される「正しさ」が嘘っぱちであると考えた主人公が、
個人から内発的に出てくる「正しさ」も嘘っぱちにすぎないということに段々と
気付いていく、というものだ。主人公が信頼をおく「人間らしさ」は、「党」に
よって完膚なきまでたたきのめされる。だから読んでいて若干しんどい。
「恐ろしいのは、党の考えに同調しないために殺されることではなくて、党の
考えの方が正しいかもしれないということ。(中略)過去も外部の世界も人の
心のなかにしか存在しないのだとしたら、そしてその心自体がコントロール
可能であるとしたら―」(文庫124頁)
→個人の心は、僕たちの素朴な感覚とは違って、コントロール可能なのか?
この疑惑が、すこしづつ確信を帯びていくのがこの小説の流れである。
「正統は思考することを意味するわけではない。その意味するところは思考
する必要がないこと。正統とは意識のないことなのだ」(文庫83頁)
→なにが正しいかがすでに決まっているのなら、もうその問いを考える必要は
ない。思弁的な思惟を嫌い、体験を重視する宗教の教義とも重なる言葉だ。
この思想は、非常に「正しい」。
「古いものは何でも、いや、美しいものであれば何でもと言うべきだろうが、
つねにどことなく胡散臭さが漂うのである。」(文庫147頁)
→「正しさ」を追求していくと、語彙も世界も痩せていく。「正しさ」を判別する
ために、言語は厳密な使用を求められる。真理を表現する言葉以外は、
不純物・不要物として排除されていく運命になり、言葉は痩せる。同じように、
「正しくないけど、悪くもない」という美的なものは、正しくないが故に不要物
として排除されていく。だから世界も痩せる。
「昔の文明は愛と正義を基礎にしていると主張した。われわれの文明の基礎
は憎悪にある」(文庫414頁)
→どっちもどっちである。どちらも「正しさ」を追い求めている点では、同じだ。
主人公の行為だけでなく、心も「党」によってコントロールされていたことが
明らかになった時点で、この小説は物語としては瓦解する。
なぜなら、主人公の個性と呼べるような要素や意識・感情などもすべて、主人公
自身から内発的に出てきたものではないとき、もはやその主人公は、物語の
主人公として機能できないからである。文章を語っている主体が、その主体性を
失ったとき、物語は崩れる。
しかし、主人公でなくなったウィンストンは、自己としては存在できる。
この意味での自己とは、名前も個性、意識などあらゆる特性を失っているから、
自分にしか捉えられない自己である。当然、歴史の内部には居場所がない。
だから、この意味の自己は、ある種のとてつもなく絶望的な在り方をしている。
むろん、「絶望的」という評価はどこまでも歴史の内部からの評価ではあるが。
だから、この小説が目指しているのは、人間らしさの破壊、つまりは小説自体の
破壊である。
なぜオーウェルがそこまでして小説を葬ろうとする小説を書いたのかは、正直
よく分からない。
おそらくは、「正しさ」への抵抗を、既存の「正しい物語」とは別の物語の提示
という仕方でやってしまうと、結局同じことになってしまう以上、そもそも物語という
土俵をおりるしか方法がなかったのだと僕は思う。
しかし、物語であることをやめてしまったことによって、「正しさ」に抵抗することの
意味もなくなってしまったのだ。つまり、この小説は、ものすごい徒労だったことになる。
だからこそ、オーウェルは、この作品を遺作として選んだのではないか?
すべてが徒労だったという厳粛な事実を受け止められるとすれば、それは最期を
覚悟しているときだけではないだろうか。
その意味で、この古典的小説は、最も深い意味で、オーウェルの私小説であった。