Nothingness of Sealed Fibs -37ページ目

Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

つづき。

 

○小熊英二『社会を変えるには』講談社現代新書、2012年
2011年3月の原発事故後に盛り上がった脱原発運動をうけて書かれた社会運動(思想)史。
鋭利な分析と重厚な文献資料の読み込みで知られる小熊氏の500頁を超える骨太な新書である。脱原発運動で改めて人口に膾炙した「民主主義」の歴史を勉強する本としても読める。
「原発のコストは社会のリスク感によって変化します」(51頁)という至極まっとうな指摘や、「戦争とひもじさだけはもうごめんだ、という気持ちが強くて」(109頁)という60年安保に参加した大学の自治会委員の言葉も興味深い。今の平和運動が第一に人命尊重がいわれるのとは異なり、「ひもじさ」という身体感覚がまず語られているというのが面白い。「お金というものは、人間関係が希薄になると、かかるようになります」(115頁)、「過去の成功経験を、時代や社会条件の違うところに持ち込んだときには、たいてい失敗する」(484頁)、「デモ後の打ち上げのさいに、デモ参加者には割引する飲食店を宣伝する「デモ割」という試みも行われました」(489頁)という指摘も今後記憶にとどめるべき文章だと思われる。
社会を変えるために、社会運動が盛り上がる必要がどれほどあるのか僕にはわからない。ただ、社会運動が続いていくためには、ある意味では社会運動の先輩ともいえる大きな神社の祭事を参考にしたらよいと思う。地域に根差し、言葉に頼りすぎず、身体を動かし、期間限定で行う、など祭事はいろんなポイントを満たしているからこそ、現代においても継続している。その継続の秘訣から学ぶことは少なくないと思う。
小熊さんの分析に対しひとつ異論を出すとすれば、社会を変えようとしているのは中央政府のほうではないかという点である。基本的に政治家は、「○○を変えます」といって立候補する。「○○は変えません」ということを前面に出す政治家は稀ではないだろうか。僕からみると、脱原発運動は、政府によって変えられてしまった社会を元に戻そう、元々は社会を変えないでいようという方向性を持っていたのではないかと思われる。
 
○内田樹『街場のメディア論』光文社新書、2010年
内田先生の講義録。舌鋒鋭い話術を堪能できるが、内田先生のカミュ論にはちょっとを異論を呈したい。カミュは『シシフォスの神話』の書き出しで「真に深刻な哲学的問題はただ一つしか存在しない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否か。それは哲学的な根本的な問いに答えることである。」「ガリレオは重要な科学的真理を主張したが、命が危うくなると知るやたちまちそれを否認した。ある意味で、彼のふるまいは適切であった。こんな真理は人ひとり火刑にするには値しないからだ。」(104頁)と記しているらしい。そこから内田先生は、「自分の語っている言葉の中に「命が危うくなると知るやたちまちそれを否認する」ような言葉がどれくらい含まれているか(中略)ときどき自己点検するくらいのことはしてもよいのではないか」(106頁)とおっしゃる。ジャ-ナリストにむけた苦言としてなら内田先生の意見も納得できる。しかし、僕はカミュに反して、いかなる意味でも、命を賭すべき真理は”この世には”存在しないと思う。真理は、それを主張する人が生きていようが、死んでいようが関係なく厳然と在るはずである。人の手でいかんとも変えがたいことであるからこそ真理といえる。逆に、死をもってしても訴えるべきと思われるような事柄は、正義ではあっても真理ではない。僕はそのような真理観をもっている。だから、僕はガリレオが宗教裁判で自分の科学的主張を否認したのは妥当な判断だと思う。むしろ、カミュの問いのほうが、哲学的には成り立たない問いではないか。それは「死は死に値するか」という問いが奇妙に聞こえることからも分かる。人生が生きるに値するか否かという問題は、生きてみなければ解くことができない。「私たちは、まず生きている。まず死んでいるのではない」ということをカミュは見落としているのではないか。
 
○内田樹・釈徹宗『日本霊性論』NHK出版新書、2014年
『現代霊性論』の続編となるリレー講義録。内田先生が、一神教や儒教に深く通底する言葉として、「立ちなさい」「歩き始めなさい」を挙げている箇所(150頁)が興味深かった。それと、釈先生が「かつて哲学者の久松真一が百七十則の公案を全部突き詰めたら、「何もできないときに何をするか」に行き着くんだと語りました」(278頁)というくだりが面白かった。おそらく、宗教的な真実はその真実にとどまるだけでは生きていくことができないような何かなのである。その真実から歩み出さねばならない。しかし、究極的に正しい歩き方(振る舞い)はない。にもかかわらず、振る舞わなければ生きられない。そして、たとえ間違った振る舞いをしたとしても、真実に立ち返ることができる。それがこの本から僕が読み取った人間の特徴である。
 
○木村敏『あいだ』ちくま学芸文庫、2005年
精神医学界の泰斗木村先生の小著。ヴァイツゼッカーのゲシュタルト・クライス、西田幾多郎の「行為的直観」を緩用しながら「あいだ」について思索を重ねる木村先生の博識には脱帽なのだが、ブーバー解釈については疑問が残る。木村先生はブーバーの理論を評して「私が「汝」を相手にしているか「それ」を相手にしているかの違いは、私と世界との一般的な関係の中で、ノエシス的な契機とノエマ的な契機との重点配分がどうなっているかの違いとして記述できるのではないか」(120頁)とおっしゃっているが、この解釈は不十分だと思う。「汝」と「それ」はブーバーにおいては質的な違いと同時に量的な同一性をもち、いかなる意味でも木村先生的な「あいだ」は持っていない。鈴木大拙的に言えば、「汝」と「それ」は「即」の関係にあると僕は理解している。おそらく木村先生は「我∸汝」を西田哲学の「純粋経験」のアナロジーで考えているのではないか。であるからこそ、木村先生はブーバーの「我-汝」に対し、「それは必ずしもブーバーの書いているような崇高で美わしい、我々の心を浄化してくれるようなものとは限らないのではないか」(121頁)という評価に行き着いてしまう。しかし、西田哲学における純粋経験と行為的直観には見逃せない違いがある。木村先生がよく例にひく「合奏」の例えは純粋経験の例えとしては適切であるが、行為的直観の例えとしては不適切なのではないかと僕は思う。西田の行為的直観は、自己と絶対無が「あいだ」なくして絶対矛盾的自己同一となっていることを示すと僕は思う。ゆえに、木村先生の「あいだ」では鈴木大拙の「即」や西田幾多郎の「行為的直観」には届かないと思うのだが、どうだろうか。
 
○津田一郎『心はすべて数学である』文藝春秋、2015年
カオスを武器に脳に挑む生物物理学者の知的刺激溢れる一書。この本の豊饒な内容を論評する力は僕にはない。ただ、身体、心の動きがすべて数学で表記できるようになる可能性はあると思うし、その方面の研究は医学にとっても非常に大きな武器となるだろう。ただ、「自己」とほかの「自己」の関係を数学で記述できたとしても、「自己」そのものを数学が表現できるようになるかというと、それは無理なのではないかと僕は考えるが、果たしてどうだろうか。
 
○今西錦司『生物の世界 ほか』中公クラシックス、2002年
今西錦司の業績は、今西自身の言葉で生物学、人類学を包括した「自然学」と呼ばれる。種の進化、群れ(人間を含めた生物社会)の形成に通底しうるロジックとして今西さんは「棲み分け原理」を提唱する。ダーウィンの進化論がもつ「生存競争」というニュアンスにたいし、今西の「棲み分け原理」は共存原理とされる。「われわれの見る生物的自然は、生存競争の場ではなくて、種社会の平和共存する場であると見るから、私に進化とは種社会の棲み分けの密度化である、という言葉も生まれてくるのである」(277頁)。ほかに印象的だったのは、今西さんの学問に対するスタンスである。「自然学にかぎらず、学問といえばすべて実益につながらないものである。親の残してくれた身代を蕩尽しても顧みない馬鹿息子のやる仕事である」(282頁)。産学連携・補助金といった今西さんが聞いたらびっくりするだろう概念が大学をがんじがらめにしつつある現在、医学研究も果たして本当に患者さんを癒しうる研究になれているのか、心もとなく感じられて仕方ない。
 
○村瀬雅俊『歴史としての生命』京都大学学術出版会、2000年
細胞、個体、種、社会、歴史をひとつの語り方で言い表せるのではないかという今西の洞察を、既存の科学的知見をまとめなおし、解釈しなおすことで検証しようとしているのが村瀬さんの著書である。村瀬さんの「自己∸非自己循環理論」は、平たく言ってしまえば、先天的な要素、後天的な要素から相互に影響を受け、反応する生命の姿を言い表している。老化、認知症、神経変性疾患についての新たな解釈も提言されていて、非常に面白く読んだ。僕なりに言い換えれば、村瀬さんは陸地と海のはざまにある「波のような存在」として生命を考えているのではないか。このアイデアに僕は深く共感する。
 
○藤田一照・永井均・山下良道『<仏教3.0>を哲学する』春秋社、2016年
この本では内山興正という禅匠の存在をしった。トークイベントを書籍化したもので、非常にわかりやすい。個人的に「マインドフルネス」という言葉が流行っているので、それについても知れたらなと思い、読み始めた。一部議論がすれ違っているところがあるが、そのすれ違いは論者の前提が異なっていることの証でもあるので、興味深く読める。藤田一照さんの議論は、西田哲学でいうところの純粋経験のところからスタートしているので、「青空としてのわたし」を提唱する山下良道のほうが、議論としては深いところに達していると思うのだが、真相は如何。

○P・F・ドラッガー『プロフェッショナルの条件』ダイヤモンド社、2000年
上級医から貸してもらった一冊。生産性革命を提唱したテイラーという人物の存在を知った。マルクスの理論に生産性の改善という論点が抜け落ちていたという指摘にびっくりした。この手の本を読むと、どうしてこの世界はこれほど働きたい人で満ち溢れているのだろう、クレバーに働ける人が期待されているのだろうとやや重たい気分になる。
 
以下のやたらと面白いミステリー(?)も読んでしまった。面白いものは面白い。
○奥泉光『ノヴァーリスの引用』新潮社、1993年
○京極夏彦『鉄鼠の檻』講談社ノベルス、1996年

2016年はあっという間にすぎてしまった。研修医向けのマニュアル本を読むことが多かったのだが、合間をみてなるべくいろんな分野の本を読もうと心がけてみた。

 

○西岡常一『木に学べ 法隆寺・薬師寺の美』小学館ライブラリー、1991年

薬師寺金堂、薬師寺西塔の再建を担当した宮大工西岡棟梁の語りをまとめた本。「無になって伽藍を建てるわけですな」(12頁)、「古代建築は相撲の横綱で、日光は芸者さんです。(中略)室町時代以降、構造を忘れた装飾性の強い建築物が多くなってますな。そやから、何回も解体せなならんのですわ」(26頁)、「釘は木を組んでいく途中で仮の支えですな。建て物が組み上げられ、組み合わさってしまったら、各部材が有機的に結合され、機能的に構造を支えあってますから、釘はそんなに重要なものではありません」(81頁)、「終戦直後に、聖徳太子のデザインがお札にのったんです。飛鳥に帰るべきやというので聖徳太子にしたんです。それが又、変わって明治維新の”学問のすすめ”やろ。終戦の時の政府の要人の考え方ちゅうものは正しかったと思いますよ」(228頁)、などの味わい深い言葉が満載である。熟練した宮大工の目から「飛鳥時代」「法隆寺」「木」のすごさが語られていてやたらとおもしろい。現代は古代よりも進んでいると思われがちだけど、西岡棟梁の目からみれば、鉄の質、木材の質、木造建築の質は悪くなっているとのこと。すごいものをすごい人が語ると、すごい言葉が出てくる。飛鳥時代の木の質をみる力・木を組みあげる力がどれだけすごかったかを、僕は恥ずかしながらこの本を読むまで思い浮かべることすらなかった。コンクリート建築の寿命は50年。飛鳥時代の木造建築は1500年以上たち続けている。木の力も、それを見出す人がいなければ活用されない。そして、木材としての能力とは、木からすれば思ってもみなかった力ではないだろうか。僕は、患者さんの力を、それも患者さん自身が気づいていないような力に気づけるような人でありたい。そう思わせてくれた一冊だった。

 

○河合雅雄『望猿鏡から見た世界』朝日文庫、1991年

霊長類学者の河合先生の雑誌連載エッセイをまとめた本。「動物はどんなに怒っていても、悪鬼には変身しない。怒りを抑える行動型を、進化の中でそれぞれに創りあげているからである(中略)どうしたことか、人間にはこのような攻撃性を抑制する行動が発達していない。人間はこの意味では、欠陥動物なのである」(30頁)、「私は、人間の破壊活動と平和の関係が同じような構造を持っていることに思いいたっていた(中略)私が今感じている秋の平穏とさわやかさは、台風という暴力がもたらしたものである」(96頁)、「ヨーロッパの動物園園長には、斯界の碩学が就任する」(186頁)、「物質的欲望だけでなく、あらゆる面での欲望が満たされたとき、はたして人間は幸福になりうるのだろうか。人間は地獄は鮮明に描けても、天国や極楽を描くことができるのだろうか。私はいささか悲観的である」(217頁)、といった文章が気になった。

僕自身は、1対1の喧嘩は怒りから生じることもあるのだろうが、多数対多数の戦争では怒りよりもむしろ冷静さが大きく寄与してはいないかと訝しんでいる。傍からみていると怒りにまかせた行動にみえても、当の本人はいたって冷静に合理的な判断だと思っていることはしばしばある。だから、猿の観察結果から人間を逆照射する河合先生の魅力的な洞察を尊重するも、素直にうなづけない点もある。そういえば、先日県立美術館に行った際に、日本中世の地獄絵が、極楽図よりもだいぶディテールに凝っていて生き生きしているのを観てきたばかりだった。苦しみは鮮明にイメージできても、幸福を明晰に描けないのが人間の本質的な特徴なのではないか、とへそがひん曲がってしまった僕は思う。むしろ、天国や極楽を目指そうとする合理性こそが欧米で戦争の発端となったのではないかと僕は考えるが、どうだろうか。

 

○鈴木大拙『無心ということ』角川ソフィア文庫、2007年

鈴木大拙の真骨頂は、禅宗と浄土真宗を統合するような仏教を捉えていたところにあると思う。講演がもとになっているので、見性とは?といったわかりにくい部分の説明が隔靴掻痒なのは否めない。僕は、西田幾多郎、滝沢克己、柳宗悦を読んでからこの本を読んだので、だいぶすんなりと読み通すことができた(そんな気がしているだけかもしれない)。個人的には、尾崎放哉の「入れ物がない、両手で受ける」という句への高評価(99頁)が興味深かった。他には、「神秘的直観または瞑想などと言って、流れを停止してじっと、それを見つめているような考えを、ここに持ち出したら、見性体験は台なしになる。それからまたこの体験を二つのものが一に融合したのだなどと考えてはならぬ。絶対の中に溶け込むのだとか、吸いとられるのだということも、能く話にきくが、それらもはなはだ正鵠を得ない。(中略)ここで自分の言おうと思うところは、一が二で、二が一でそしてその「即」の関係が言語道断であるという、そこなのである」(214-215頁)といった文章も面白い。この大拙の文章は、西田哲学初期の純粋経験論に対する批判と読むこともできる。西田幾多郎は、純粋経験からスタートしたけれど、『無の自覚的限定』以降は、純粋経験という用語を捨てて、さらに一段階考えを深めている(と僕は思う)。しかし、大拙がいう「二つのものが一つに融合した」、あるいは西田的な純粋経験から考えをはじめる論者は依然として多く、やはり西田的な「絶対無」や鈴木的な「即」をつかむことはなかなか困難なのだなと思わせられる。

 

○竹内敏晴『ことばとからだの戦後史』ちくま学芸文庫、1997年

「ハラが立つ」から「アタマニクル」、「ムカツク」と同じような状態を表す言葉が変化してきているという指摘(35頁)が興味深い。他には、晩年の田中正造が新井奥邃を通してキリスト教に触れていた(53頁)、仮面が憑代だった(179頁)、「世阿弥以来「ものに成り入る」ことが、私たちの演技の伝統であって、近代劇を演じるプロフェッショナルな演技者でも、「役になり切れない」と言い言いするのが日本である。「役の人物になる」などということばはヨーロッパにはない」(187頁)といった指摘も面白い。竹内さんは演劇を通して、他者とはなにか、他者と自己を架橋する「ことば」と「からだ」について言葉を発し続けた人だった。「こころ」が腑に落ちないままに浮ついた影響力を発揮しつつある現代、忘れられつつある「ことば」と「からだ」を見直してみる意味でも、竹内さんはあらためて読まれる価値のある書き手だと思う。

 

○斎藤環『心理学化する社会 癒したいのは「トラウマ」か「脳」か』河出文庫、2003年

精神科医斎藤環さんによる社会評論集。個人的にはカウンセリング理論の父カール・ロジャーズとユダヤ教哲学者マルチン・ブーバーの対話で、ロジャーズが敬愛するブーバーから根本的な批判を浴びていたことをこの本で初めて知った。医療や福祉の業界では、「傾聴」や「受容」の理論的支柱としてしられるロジャーズだが、ブーバーは「相手が希望していないのに、、その人を助けねばならないような場合がある」、「私は個人individualに反対し、個人personにくみしている」と述べて、ロジャーズを批判しているらしい。僕は、ロジャーズは初めからうまくいった経験に基づいて発言している人であり、思索の人ではないと思っている。ロジャーズの方法でうまくいく場合もあるだろうが、かえってまずい場合もあるだろうなと感じていた。極端なことを言えば、ロジャーズの傾聴、受容という手法は、援助者が人工知能でも十分に可能になってしまう。人工知能に癒される人間性とは何か。僕はロジャーズの人間観に虚ろなものをかぎ取ってしまわざるをえない。他にも、ドゥルーズ=ガタリを「ひきこもり系哲学者とじぶん探し系精神科医がユニットとして可能にした、奇跡のような創造性」(230頁)と喝破するあたり痛快に読ませていただいた。

 

○中井久夫『看護のための精神医学 第2版』医学書院、2004年

○中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』医学書院、2007年

○神田橋條治『精神科講義』創元社、2012年

診療の底流にある基本的な姿勢、発想の仕方、工夫の組み立て方は、おそらく医療者それぞれですこしづつ異なっているのだろう。しかし、すごい人の視座をトレースしておくことは自分のスタイルを見直すのに役立つかもしれない。などと、よこしまな気持ちで両先生の本を毎年すこしづつ読んでいる。いつものことだがハッとさせられてばかりで面白い。

暦の上では年末であるが、仕事場は・・・。今年は研修に追われて、記事をあまりかけなかったので、簡単に今年のニュースについてコメントしておこうと思う。

 

(1)ジャーナリストのむのたけじさんがついに亡くなった。僕は90歳過ぎてからのむのさんしかしらないのだが、戦前を知る貴重な書き手がいなくなってしまった。100年以上、日本を見続けてきたむのさんの率直な発言の数々は、ブレつづける日本社会のブレ幅を測る指標となり続けた。むのさんの残した言葉は少なくない。しかし、その言葉はとてもシンプルなところに根差していたように思う。また時折、むのさんの文章を読み直していこう。

 

(2)ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した。僕がディランを知ったのは、一回目の社会人時代の同期に教えてもらってからだった。その後、みうらじゅんさん原作の漫画をもとにした映画『アイデン&ティティー』を観たりして、だんだんディランについて考えこむようになった。ディランの音楽は不思議だ。うまい歌ではない。楽器演奏のテクニックがとびぬけている感じもしない。痩せ細った身体から発せられるしわがれた声で淡々と歌われる彼の音楽は、どこか寂しく、寄る辺のなさがありながら、はっきりと力強い。「All ya can do is do what you must. You do what you must do and ya do it well. 」(『Buckets of  Rain』)。ずいぶん前から受賞するのではないかと言われていたので、少し遅すぎる受賞なのではないかという気がしないでもない。ただ、このタイミングでの受賞となったということは、ある意味興味深い。小説家、文豪の時代が終わりつつあり、再び詩の時代になってきたのではないだろうか。

 

(3)アメリカ大統領選挙が終わった。選挙結果はどうあれ、急にオバマ大統領の白髪が増えたように思うのだが、気のせいだろうか。両候補ともとっても高齢で、アメリカでも政治家の人材不足は深刻なのではないかとうかがわせる。若手候補もいたのだが、党内の候補者選びで脱落してしまった。若手政治家の人気がでてこないというところに、アメリカ政治の制度疲労を感じ取るのだがどうだろうか。そういえば、オバマ大統領が広島に来たり、安倍首相がハワイを訪問したり、日米関係もひとつの区切りのタイミングにきた気がする。

 

(4)喪中のはがきを多くもらった。そういう年齢になったということだろうか。我が家でも大叔母、相方さんの祖母が亡くなった。法事に出る機会も多かった。以前は、四十九日とか、一周忌とか何の根拠があってやってるのかなと懐疑的に思っていたが、最近は、そういった時間の間隔になんらかの生理学的なリズムとの関連があるのかもしれないなと感じる。治療のタイミングを生理学的に考えておられる中井久夫先生の本を読んだ影響だろう。昔の人が時間をかけて決めてきたことにはそれなりの洞察に基づいている、と考えてみてから、法事に臨む心構えがようやくできてきたように思う。

 

(5)アニメーション映画が豊作だった。今年は映画を3本みたが、『名探偵コナン 純黒の悪夢』、『君の名は。』、『この世界の片隅に』とすべてアニメだった。家でDVD鑑賞したのが『怪盗グルー』のシリーズと『ミニオンズ』の3本。こちらもすべて3Dアニメーション。週末にゆっくり映画館に行く時間が少なくなったのは確かだが、時間ができたときに上映されている実写映画に心惹かれる作品が少ないというのは残念。まぁ田舎に住んでいるので、単館系の作品はほとんど観に行けないから仕方ないのだが。ただ、アニメばかりになってしまうのは、「この人がでている作品はみたいなぁ」と思える俳優さんが少なくなっているという感覚がどこかにあるからで。

 

映画館で観た3作品について簡単にコメントしておく。『名探偵コナン』については、もはやご挨拶の感覚で観に行ってるので・・・。『君の名は。』は、『ざ・ちぇんじ』と『海がきこえる』という二つの氷室冴子作品を合体させたところに、宇宙という新海監督得意のテーマを絡めた感じ。RADWIMPSの劇中音楽もよく合っていたし、完成度の高い映画だった。『この世界の片隅に』が個人的には今年観た作品の中で一番良かった。「絵」の力、声優さんの声の力、時代考証(敗戦の日に太極旗が掲げられたり、アメリカの新型焼夷弾への対策をけなげに研究する軍部と民衆の姿など)の力、どれも見応えがあった。戦争、原爆、空襲は実写だとどうしてもキツイ映像になってしまいがちだが、絵によって描かれることで、「リアリティーのある映像」よりも「つい魅入ってしまう表現」になっているように思う。焼夷弾の破片のくだりは爆発の怖さを身近に感じるし、ここまで肌感覚に訴えるアニメーションは個人的には初めてだった。フィクションのほうが真実に迫るということは三木清も言っていることだが、その意味でも、アニメーションが元々持っている虚構性が存分に生かされている作品と言える。もしかすると、『この世界の片隅に』は語り継がれる古典になるかもしれない。

藪医者になって数か月たった。時が過ぎるのは早い。
 
数か月のあいだに担当患者さんが2人亡くなった。
90歳代の陽気なおばあちゃんと
70歳代の野球好きなおじさんだった。
 
お二人が亡くなった日にはどうしても医学の勉強をする気がおこらず、
家に帰って、医学とは関係ない本を手に取った。
 
『日本人の世界地図』潮文庫、1986年である。
おそらくもう古本でしか手に入らない本だが、長田弘さん、
鶴見俊輔さん、高畠通敬さん鼎談が収められている。
ややお三方の話がかみ合ってないところもあるのだが、
おそらは編集の問題だろう。
 
僕には、長田さんの発言がいちばんしっくりくる。いくつか気に入った部分を覚え書いておく。
 
日本の近代に人々の思想を底から支えてきた一つに独学の思想がある。
(中略)戦後に見失われたのは独学の思想なんだ。(pp.40-41)
 
同じ場所を違った仕方で生きる方法としての言葉のありようが、日本の近代では
和にそむくものとして考えられ、減らそう、消そうとされてきたと思うんです(p.68)
 
インドの音楽、思想にぶつかったことがビートルズ解散の一つの破目になる(p.107)
 
モハンティの『わがふるさとインド』(中略)に「ジャパニーズ・シュガー」というのが出てくる。猛毒の毒薬なんです。p.23
 
「考える」とは激しい静けさにいたることだ(p.151)
 
『レイテ戦記』の主人公は、何より戦争そのものですね。戦争の唯一の主人公として『レイテ戦記』は書かれた。p.196
 
ワルというか、いたずら者の本当の意味は、その行為というより、その行為の伝わり方、
伝えられ方の中に出てくるわけですね。噂が伝説となってゆく。伝説をもつ力、伝説を伝える力、編み直す力をどれだけもっているかに、その時代の活力のメモリが刻まれている。(p.264)
 
一所懸命というのはうっとうしい感覚こそ大切なんだと思う。純粋さぐらい疑わしい観念はない。(p.267)
 
竹内好も武田泰淳も、何が文学であるかはわからない、しかし何が文学ではないかはわかるということから出発した。(p.290)
 
中心があってはじめて円周が決まるというのが西欧のつくってきたものの考え方でしょう。シュバェイクはそう考えない。円周をたわめれば中心は簡単にずれる。(p.317)
 
長田さんの言葉は、自分がすこし弱っているときに、しみ込んでくる。
長田さん自身、奥様を亡くされ、ご自身も癌と向き合われてきた方でもある。
傍からみれば静かであろうが、内に激しさをもつ、そのようなイメージを僕は長田さんに抱く。
それは言葉でもって世界に対する、防人あるいは歩哨のようなイメージと重なる。
 
医学は、強力なようでもあるが、しばしば無力でもある。
患者さんの状態によっては医学ではたちうちできない場合がある。
しかし、医療はその効果うんぬんよりも、続けることに意味のある営みであろう。
患者さんがどんな状態であっても、静かに続けられることは、ある。
 
医療者としてこれから歩み続けるために、僕が頼みとするのは長田さんのように、
生命を歩哨のようにして紡いだ先達らの姿である。
 
 

GWはいくつか法要に出席し、めったにお会いできない親戚の方々と

久々にゆっくりとお話する機会をもつことができた。

 

一番心に残ったのは、88歳を迎えた大叔父(僕の祖父の弟)の言葉だった。

 

大叔父は旧制大学経済学部を卒業したのち、化学メーカーに就職し、

長く企業人として日本の高度経済成長を担った世代に属する。定年後も、

出身企業の顧問を務められていた。

 

「どんな職業でも、人を大切にするということが一番の基本ではないかね。

その基本をおろそかにすると、良い仕事にはならないよ。」

 

「わたしたちは良い時代に生きることができて幸運だったと思うよ。

今の若い人たちのほうが、難しい時代で苦労が多いのではないかな。」

 

「大学を受験した時は、それはもうものすごく勉強したよ。」

 

大叔父の口から聞くことのできた言葉である。

平易であるが、実感がこもっていて自然に聴き入ってしまう話が多かった。

 

真摯に、誠実にというと古くさい気もするのだけれど、

大切なことは時代が変わっても変わらないはずである。

 

「人を大切にする」という表現はちょっと抽象的なので、具体的に何を

どうするのかよくわからないという側面は確かにある。

 

でも、心に刻んでおく言葉は、抽象的なほうがなぜか心に染みるのである。

 

初心に立ち返ったGWとなった。