つづき。
○小熊英二『社会を変えるには』講談社現代新書、2012年
2011年3月の原発事故後に盛り上がった脱原発運動をうけて書かれた社会運動(思想)史。
鋭利な分析と重厚な文献資料の読み込みで知られる小熊氏の500頁を超える骨太な新書である。脱原発運動で改めて人口に膾炙した「民主主義」の歴史を勉強する本としても読める。
「原発のコストは社会のリスク感によって変化します」(51頁)という至極まっとうな指摘や、「戦争とひもじさだけはもうごめんだ、という気持ちが強くて」(109頁)という60年安保に参加した大学の自治会委員の言葉も興味深い。今の平和運動が第一に人命尊重がいわれるのとは異なり、「ひもじさ」という身体感覚がまず語られているというのが面白い。「お金というものは、人間関係が希薄になると、かかるようになります」(115頁)、「過去の成功経験を、時代や社会条件の違うところに持ち込んだときには、たいてい失敗する」(484頁)、「デモ後の打ち上げのさいに、デモ参加者には割引する飲食店を宣伝する「デモ割」という試みも行われました」(489頁)という指摘も今後記憶にとどめるべき文章だと思われる。
社会を変えるために、社会運動が盛り上がる必要がどれほどあるのか僕にはわからない。ただ、社会運動が続いていくためには、ある意味では社会運動の先輩ともいえる大きな神社の祭事を参考にしたらよいと思う。地域に根差し、言葉に頼りすぎず、身体を動かし、期間限定で行う、など祭事はいろんなポイントを満たしているからこそ、現代においても継続している。その継続の秘訣から学ぶことは少なくないと思う。
小熊さんの分析に対しひとつ異論を出すとすれば、社会を変えようとしているのは中央政府のほうではないかという点である。基本的に政治家は、「○○を変えます」といって立候補する。「○○は変えません」ということを前面に出す政治家は稀ではないだろうか。僕からみると、脱原発運動は、政府によって変えられてしまった社会を元に戻そう、元々は社会を変えないでいようという方向性を持っていたのではないかと思われる。
○内田樹『街場のメディア論』光文社新書、2010年
内田先生の講義録。舌鋒鋭い話術を堪能できるが、内田先生のカミュ論にはちょっとを異論を呈したい。カミュは『シシフォスの神話』の書き出しで「真に深刻な哲学的問題はただ一つしか存在しない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否か。それは哲学的な根本的な問いに答えることである。」「ガリレオは重要な科学的真理を主張したが、命が危うくなると知るやたちまちそれを否認した。ある意味で、彼のふるまいは適切であった。こんな真理は人ひとり火刑にするには値しないからだ。」(104頁)と記しているらしい。そこから内田先生は、「自分の語っている言葉の中に「命が危うくなると知るやたちまちそれを否認する」ような言葉がどれくらい含まれているか(中略)ときどき自己点検するくらいのことはしてもよいのではないか」(106頁)とおっしゃる。ジャ-ナリストにむけた苦言としてなら内田先生の意見も納得できる。しかし、僕はカミュに反して、いかなる意味でも、命を賭すべき真理は”この世には”存在しないと思う。真理は、それを主張する人が生きていようが、死んでいようが関係なく厳然と在るはずである。人の手でいかんとも変えがたいことであるからこそ真理といえる。逆に、死をもってしても訴えるべきと思われるような事柄は、正義ではあっても真理ではない。僕はそのような真理観をもっている。だから、僕はガリレオが宗教裁判で自分の科学的主張を否認したのは妥当な判断だと思う。むしろ、カミュの問いのほうが、哲学的には成り立たない問いではないか。それは「死は死に値するか」という問いが奇妙に聞こえることからも分かる。人生が生きるに値するか否かという問題は、生きてみなければ解くことができない。「私たちは、まず生きている。まず死んでいるのではない」ということをカミュは見落としているのではないか。
○内田樹・釈徹宗『日本霊性論』NHK出版新書、2014年
『現代霊性論』の続編となるリレー講義録。内田先生が、一神教や儒教に深く通底する言葉として、「立ちなさい」「歩き始めなさい」を挙げている箇所(150頁)が興味深かった。それと、釈先生が「かつて哲学者の久松真一が百七十則の公案を全部突き詰めたら、「何もできないときに何をするか」に行き着くんだと語りました」(278頁)というくだりが面白かった。おそらく、宗教的な真実はその真実にとどまるだけでは生きていくことができないような何かなのである。その真実から歩み出さねばならない。しかし、究極的に正しい歩き方(振る舞い)はない。にもかかわらず、振る舞わなければ生きられない。そして、たとえ間違った振る舞いをしたとしても、真実に立ち返ることができる。それがこの本から僕が読み取った人間の特徴である。
○木村敏『あいだ』ちくま学芸文庫、2005年
精神医学界の泰斗木村先生の小著。ヴァイツゼッカーのゲシュタルト・クライス、西田幾多郎の「行為的直観」を緩用しながら「あいだ」について思索を重ねる木村先生の博識には脱帽なのだが、ブーバー解釈については疑問が残る。木村先生はブーバーの理論を評して「私が「汝」を相手にしているか「それ」を相手にしているかの違いは、私と世界との一般的な関係の中で、ノエシス的な契機とノエマ的な契機との重点配分がどうなっているかの違いとして記述できるのではないか」(120頁)とおっしゃっているが、この解釈は不十分だと思う。「汝」と「それ」はブーバーにおいては質的な違いと同時に量的な同一性をもち、いかなる意味でも木村先生的な「あいだ」は持っていない。鈴木大拙的に言えば、「汝」と「それ」は「即」の関係にあると僕は理解している。おそらく木村先生は「我∸汝」を西田哲学の「純粋経験」のアナロジーで考えているのではないか。であるからこそ、木村先生はブーバーの「我-汝」に対し、「それは必ずしもブーバーの書いているような崇高で美わしい、我々の心を浄化してくれるようなものとは限らないのではないか」(121頁)という評価に行き着いてしまう。しかし、西田哲学における純粋経験と行為的直観には見逃せない違いがある。木村先生がよく例にひく「合奏」の例えは純粋経験の例えとしては適切であるが、行為的直観の例えとしては不適切なのではないかと僕は思う。西田の行為的直観は、自己と絶対無が「あいだ」なくして絶対矛盾的自己同一となっていることを示すと僕は思う。ゆえに、木村先生の「あいだ」では鈴木大拙の「即」や西田幾多郎の「行為的直観」には届かないと思うのだが、どうだろうか。
○津田一郎『心はすべて数学である』文藝春秋、2015年
カオスを武器に脳に挑む生物物理学者の知的刺激溢れる一書。この本の豊饒な内容を論評する力は僕にはない。ただ、身体、心の動きがすべて数学で表記できるようになる可能性はあると思うし、その方面の研究は医学にとっても非常に大きな武器となるだろう。ただ、「自己」とほかの「自己」の関係を数学で記述できたとしても、「自己」そのものを数学が表現できるようになるかというと、それは無理なのではないかと僕は考えるが、果たしてどうだろうか。
○今西錦司『生物の世界 ほか』中公クラシックス、2002年
今西錦司の業績は、今西自身の言葉で生物学、人類学を包括した「自然学」と呼ばれる。種の進化、群れ(人間を含めた生物社会)の形成に通底しうるロジックとして今西さんは「棲み分け原理」を提唱する。ダーウィンの進化論がもつ「生存競争」というニュアンスにたいし、今西の「棲み分け原理」は共存原理とされる。「われわれの見る生物的自然は、生存競争の場ではなくて、種社会の平和共存する場であると見るから、私に進化とは種社会の棲み分けの密度化である、という言葉も生まれてくるのである」(277頁)。ほかに印象的だったのは、今西さんの学問に対するスタンスである。「自然学にかぎらず、学問といえばすべて実益につながらないものである。親の残してくれた身代を蕩尽しても顧みない馬鹿息子のやる仕事である」(282頁)。産学連携・補助金といった今西さんが聞いたらびっくりするだろう概念が大学をがんじがらめにしつつある現在、医学研究も果たして本当に患者さんを癒しうる研究になれているのか、心もとなく感じられて仕方ない。
○村瀬雅俊『歴史としての生命』京都大学学術出版会、2000年
細胞、個体、種、社会、歴史をひとつの語り方で言い表せるのではないかという今西の洞察を、既存の科学的知見をまとめなおし、解釈しなおすことで検証しようとしているのが村瀬さんの著書である。村瀬さんの「自己∸非自己循環理論」は、平たく言ってしまえば、先天的な要素、後天的な要素から相互に影響を受け、反応する生命の姿を言い表している。老化、認知症、神経変性疾患についての新たな解釈も提言されていて、非常に面白く読んだ。僕なりに言い換えれば、村瀬さんは陸地と海のはざまにある「波のような存在」として生命を考えているのではないか。このアイデアに僕は深く共感する。
○藤田一照・永井均・山下良道『<仏教3.0>を哲学する』春秋社、2016年
この本では内山興正という禅匠の存在をしった。トークイベントを書籍化したもので、非常にわかりやすい。個人的に「マインドフルネス」という言葉が流行っているので、それについても知れたらなと思い、読み始めた。一部議論がすれ違っているところがあるが、そのすれ違いは論者の前提が異なっていることの証でもあるので、興味深く読める。藤田一照さんの議論は、西田哲学でいうところの純粋経験のところからスタートしているので、「青空としてのわたし」を提唱する山下良道のほうが、議論としては深いところに達していると思うのだが、真相は如何。
○P・F・ドラッガー『プロフェッショナルの条件』ダイヤモンド社、2000年
上級医から貸してもらった一冊。生産性革命を提唱したテイラーという人物の存在を知った。マルクスの理論に生産性の改善という論点が抜け落ちていたという指摘にびっくりした。この手の本を読むと、どうしてこの世界はこれほど働きたい人で満ち溢れているのだろう、クレバーに働ける人が期待されているのだろうとやや重たい気分になる。
以下のやたらと面白いミステリー(?)も読んでしまった。面白いものは面白い。
○奥泉光『ノヴァーリスの引用』新潮社、1993年
○京極夏彦『鉄鼠の檻』講談社ノベルス、1996年