つづき
この年になって、短い時間で読める新書を手に取る機会が増えてきた。だが、新書といえども歯ごたえのある作品が多く(特に古い本ほど)、2016年も新書から得た刺激は多かったような気がする。昔はさっぱり興味のなかった歴史や政治に関する本がなぜか多くなってきているのは、年を取ったせいだろうか。
○北山修『帰れないヨッパライたちへ 生きるための深層心理学』NHK出版新書、2012年
精神科医北山修さんのフォーク・クルセイダーズ時代の回想から「嫉妬」をめぐる心理学的考察が展開される。フロイト、ウィニコットといった精神分析医の系譜にある北山さんの文章は分かりやすく、特に「日本社会が汚いものを体の中に保持することや見かけの清潔を大きな課題としているため、それに失敗したものは辱められやすい」(103頁)という視点から有名人の失言を分析するくだりは面白く読んだ。ただ、精神分析の今後の課題は、これまでの蓄積から得られた洞察と発生学・生理学的な知見をどう結び付けていくかという点にあると思われる。言語の分析は大切ではあるけれど、語っている患者さんのしぐさ、姿勢、顔色、トーンといった身体の生理学的状態や脳の発生学的な階層構造と結び付けていかなければ、やはり「達人の見出した有効な仮説的理論」の域をでないと個人的には思う。もちろん、ある種の「あやしさ」が心理学、精神分析の魅力であることは否めないし、人生にも「あやしさ」があったほうが面白いと思う。だが、医療者としては、もうすこししっかりとした根拠がほしいところ。僕はざっくりと、陸と海の境目に波があるように、本能的な古い脳(中脳、間脳、辺縁系)と文化的な新しい脳(大脳皮質)の機能のせめぎあいが感情になると考えている。だから、○○コンプレックスは、古い脳を新しい脳が抑え込んだときにおこる「もやもや感」のことだと勝手に思ってるのだが・・・。
○橋爪大三郎・佐藤優『あぶない一神教』小学館新書、2015年
ともにキリスト教徒でもあるお二人の対談本。アメリカ独自のキリスト教「ユニテリアン」についてはしっかりと書いてある本はなかなかなくて参考になる。西田幾多郎の哲学とカール・バルトの神学のもつ類似性を二人に師事した滝沢克己から指摘するというくだりは、滝沢克己に私淑する僕としてはうれしい箇所だった(決して滝沢克己が肯定的にとりあげられているわけではないが、すこしでもその名が人口に膾炙すればという意味で)。バルト神学ではイスラム教とキリスト教が永遠の平行線をたどるという批判的な指摘もその通りかなという気がしないでもない。しかし、ナチスが危険だ、ナチスに対抗したバルトも危険だということになると、毒を持って毒を制するという話になってしまい、じゃあナチスがない今、バルト神学は不要だという結論になりかねない。橋爪さんはバルト神学には論理のジャンプがあり、むしろハイデッガーのほうが理性と根拠に基づいて議論していると評している。確かにそのような面もあるのだが、神について論理的に語れるのであれば、論理が神より上に来てしまう。だが、バルト的には神こそが論理を根拠づけるのであって、その逆ではない。この辺が説明するとなるとややこしいところだが・・・。バルトがナチスに反対したのに対し、バルトを高評価した西田幾多郎やバルトに師事した滝沢克己は戦時下の日本で天皇制という装置をサポートする(とも読みうる)言説を展開した。だから、ナチズムと天皇制には、どこか決定的に違いがあるはずなのであるが、その探究は今後の課題か。
○内田樹・中田考『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』集英社新書、2014年
2016年はイスラム国、シリア情勢などイスラムに関連したニュースの多い年だった。イスラムついても少しは知っておきたいと思って手に取った本。井筒俊彦のイスラム研究が重要であることはもちろんだが、井筒さんは中村元とならんで、比較思想の大家としての側面が強く、結局のところ、ムスリムではなかった。中田考さんはムスリムとして発言している数少ない学者であり、カリフ制度再興を主張していることで知られている。「日本の場合は、欧化がすなわち民主化であり近代化であったりしましたけど、イスラーム世界は真逆で、ヨーロッパ的なるものを排除して本来のイスラーム的なるものを取り戻すことを民主化と言っている側面が大きいのです」(167頁)。なぜアラブ諸国が独裁制になりやすいのかという内田先生の問いに対し、族長と西欧的な国民国家という法人概念が結びついたからと中田先生は答え、さらに「私、イスラームにとって法人概念が最大の敵、最大の偶像だと思っているのですよ」(186頁)と指摘している。中田先生は、国民国家という法人概念のかわりに、カリフという個人をもってくることでイスラム世界が安定化するのではないかと主張しているわけだが、もしかするとカリフ制とは、日本における象徴天皇制みたいな仕組みなのだろうかと思ったりした。
○加藤典洋『日本の無思想』平凡社新書、1999年
繰り返される政治家たちの失言、前言撤回から、「タテマエ」と「ホンネ」の底に「どっちだっていいや」というニヒリズムを加藤さんは読み取る。そこから「タテマエ」と「ホンネ」は第二次世界大戦後に多く使われるようになったという指摘に進み、最後には現代日本の思想を蘇生させるために、「この憲法が、戦後の日本人の発意になるものでなく、僕たちのいま「善」と考えているものが、もとをただせばさまざまな仕方で「おしつけられ」たものであろうと、そのような事実を何ら回避することなく、そのマイナスをマイナスとして、それでもそこから憲法をわがものとし、外来の言葉と論理の意味するところをわがものとし、さらにその当初の認識を、より深く更新することが可能です」(286頁)と論じる。なんだか○○コンプレックスに近い話だなというのが、率直な印象。僕自身は「タテマエ」と「ホンネ」のズレは、世界に唯一の「私」が同時に社会に生きる「人間」でもあることから生じると考える。だからこの本質的なズレはどう頑張っても解消しえないと思う。「どっちだっていいや」と投げやりになったとしても、そのように投げやれる視点は肯定されている。だから僕は、加藤さんみたいに真面目に日本の無思想を嘆く気にはなれなかった。
○多木浩二『戦争論』岩波新書、1999年
「戦後50年以上たった今、多くの日本人は、金正日率いる北朝鮮を異様なものを見る思いで見ている。しかし、かつて外から見た日本はそれに似たものではなかったかと、想像力を働かせる人は少ない」(85頁)という文章にはハッとさせられた。トランプ大統領の過激な発言を連日ニュースで取り上げているメディアは、某国現首相や閣僚メンバー、某国首都の前知事が、(トランプさんにくらべればだいぶ小粒にしても)アジア諸国から危険視されている可能性についてはあまり取り上げない。また、ユーゴスラヴィア内戦のさなか、戦闘がおこなわれるサラエヴォで発行された冊子『サラエヴォ旅行案内』(1993年)の紹介も興味深かった。観光ガイドブックの形式を真似ながら、インフラや商店、情報や電気なしでどうやって生き延びるかを教える冊子!!。「市民がポリタンクをもって水のあるところに走ればそれが狙撃兵の標的になるような境遇におかれたら、冗談をいってみる他になにができるか?」(152頁)という文章が突き刺さった。
○福田歓一『近代の政治思想 -その現実的・理論的諸前提-』岩波新書、1970年
冷戦真っ最中に出版された政治思想史家・福田氏の講演を書籍化したもの。中世の政治体制がどのように解体され、近代の主権国家というしくみが生まれ、現代に至っているかを政治思想の観点からたどっている。「現代という時代は、近代を前提にして、まさにこの近代の解放した人間の巨大な能力によって、それまでの人間の全く知らなかったような巨大な既成事実を生みおとし、それによって人間が身動きのできなくなった、そういう息苦しい時代であります。(中略)ここでしっかりと目を開かなければ、人間は自分でつくりだしたものに圧倒されて、逆にこの自分でつくりだしたものを拝む。いわば未開人の偶像崇拝にまで戻ることによってこの不安をのがれようとするような、みじめなことになりかねません。しかし、くり返して申し上げましたように、近代とはまさにそういう偶像崇拝をうちこわし、人間をおさえつけている事実のカラクリを見破ることによって開かれた時代でありました」(24-25頁)。「バートランド・ラッセルが、自由・平等から出発した工業社会がますます軍隊的な組織になるのを皮肉った」(176頁)、といった文章が気になった。冷戦は終結したが、イスラエルやアラブ地域の紛争など「巨大な既成事実」が生み出したひずみの弊害はまだ続いている。むしろ、工業社会はいまや人工知能を生み出し、「巨大な既成事実」はますます増大してきているのかもしれない。
○久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想 -その五つの渦-』岩波新書、1956年
所収されている久野氏の論考「日本の超国家主義-昭和維新の思想」には、明治天皇制のタテマエ(顕教)とホンネ(密教)の区別が指摘されている。伊藤博文は、国民全体には絶対君主としての天皇を信奉させ(顕教)、信奉から生まれる国民のエネルギーを国政に動員したうえで、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説・天皇国家最高機関説(密教)を採用したというわけである。「軍部だけは、密教の中で顕教を固守しつづけ、初等教育をあずかる文部省を従え、やがて顕教による密教征伐、すなわち国体明徴運動を開始し、伊藤の作った明治国家のシステムを最後にはメチャメチャにしてしまった」(133頁)。「北(一輝)のくわだてたのは、密教による顕教征伐であった。上からの官僚的支配のシンボルとなった天皇を、下からの国民的統一のシンボルにたてなおすことであった」(149頁、カッコ内引用者追記)。「(吉野作造の)民本主義と普選運動の大きな波涛も、人口の過半をしめる農村を明治顕教の信仰的支配から解放することができなかった、密教の大衆化による顕教征伐は、民本主義の力をもってしても、ついに不成功に終わった」(166頁、カッコ内引用者追記)。久野さんの議論を僕なりに咀嚼すると、軍部だけが統帥権という形式によって、密教なのか顕教なのかわかりづらい立ち位置にあった。だからこそ、北の思想を運動化できたのは民衆ではなく軍人であったのであり、その運動を弾圧したのも軍人であったということになるのだろうか。顕教化によって戦争に突入し、敗戦によって密教化した現在の天皇制は、ある意味で北・吉野両名が目指した方向性と部分的に重なっているのかもしれない。
○篠原資明『空海と日本思想』岩波新書、2012年
うーん。この本はなんとも評価が困難である。ねらいは分からなくはないが、その説得力はとぼしいというのが率直な読後感だった。空海は仏教僧としてだけでなく、詩・書などに秀でた芸術家だったこと、鎮護国家というアイデアを提出した政治的思想家でもあったことで知られている。宗教と国家というテーマは、太平洋戦争で国家神道という装置の力が憑き物のように落とされてしまった戦後日本において、真正面から問いづらくなっている。しかし、空海において仏教と国家が分かち難く結びついているならば、このテーマをさけて空海を理解しようとしても片手落ちになってしまわないか。篠原さんの本は、そのような問題意識のもとに、宗教・芸術・政治というあまりに広範囲におよぶ空海の業績をなんとか一元的に理解しようとした作品といえる。ヨーロッパ思想の底流にプラトンを見出したホワイトヘッドに対し、日本思想の底流に空海を見出だそうとしたわけである。しかし、議論の説得力については疑問が残る。例えば、空海の行動指針として「四恩(父、母、国王、衆生)に報いる」を『性霊集』から読み取るのはよいが、なぜ空海がそういえたのかは問われないままになっている。そして、篠原さんはいきなり「四恩」から鎮護国家論を導出しているが、僕がこの本から読み取った限りでは、空海の鎮護国家論は政治思想ではなく、災害や飢饉、病気などの人々の苦しみが癒されるように祈る思想、つまり宗教思想としてしか読めなかった。また、この本の後半は空海思想の変奏として西行、慈円、九鬼周造、宗左近らを解釈する作業にあてられている。しかし、篠原さんが宗左近さんの思想に天皇への報恩が足りないと批判的に論じるくだりでは首をかしげざるを得なかった。日本の天皇が和歌・祭祀を通して19世紀まで国家をまとめてきたというのは世界史上稀な事例といえるかもしれない。しかし、20世紀を生きた宗さんにとっての天皇と、空海の時代の天皇とはその役割が違うはずである。「寂」という字が大日如来の意味を含んでいた(54頁)という面白い指摘はあったけれど、総じて空回り感の否めない本であった。
○大野裕之『チャップリン暗殺 5.15事件で誰よりも狙われた男』メディアファクトリー、2007年
○大野裕之『チャップリンの影~日本人秘書・高野寅市』講談社、2009年
チャップリンが5.15事件当日に東京に入り、その夜犬養首相との晩餐会が予定されていたが、急遽大相撲観戦にいったため事件に巻き込まれなかったという裏話を中心に話が展開する。チャップリンの秘書さんが日本人だったことや、その秘書がアメリカで強制収容所生活をしいられたことなど、知らなかったことがたくさんあった。チャップリンの『独裁者』が当初アメリカでも不評だったということにびっくりした。5.15事件を実行した陸海軍の将校たちがイギリス人チャップリンをアメリカ人と考えていたというお粗末振りにも唖然。歴史の歯車は誤解の力が動かしているのかもしれないと憂鬱な気分になった。
○京極夏彦『絡新婦の理』講談社ノベルス、1996年
政治と歴史の本で重たい気分になったあと、気分転換を兼ねてよんだら、すさまじい大傑作だった。読み終わってえーっとなって冒頭からまた読み直してしまった。2度目に読むとちりばめられた伏線の多さに驚愕してしまった。おそるべき長編である。
○鮎川哲也『死のある風景』創元推理文庫、2002年
鮎川さんの作品は鬼貫警部が感じた些細な違和感から謎がほどけていく過程が醍醐味である。丁寧な描写には派手さはないけれど、昭和という時代に女性がなにを命がけで大切にしていたのかがわかって、その意味でも面白い。