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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

とある若い女性アイドルが、「将来は哲学者になりたい」とおっしゃっていた、らしい。

哲学者とは、なるものではなく、なってしまうものである。自分の気になるテーマが、哲学というジャンルに分類されうると、他人から誤解されてしまった人のことを言う。

その人にしか問えない事柄を問うてこそ真の哲学者であるが、「その人にしか」という部分の強烈な困難さに挑むのは容易ではない。むしろ、原理的に、いや、端的に不可能ですらありえる。

だからこそ、真の哲学は、その不可能さの記述に終始することがしばしばある。

そうした哲学の思考の営みは、本来なんらかの社会的な意味を持ちようがない。社会というものが、人というものが、自分というものが、一切おぼろげになってしまう地平において、初めて動きうる類いの営みが哲学である。

ゆえに哲学は虚無と直接している。言葉が意味を帯びたときに、自動的になかったことになるような営みが哲学だからである。いわば、虚無の虚無性を語る(あるいは黙る)営みが哲学 といってよい。

であるから、哲学は悩むことではない。戸惑うことでもない。考えることですらないかもしれない。僕にとっては、端的な事柄と言語の間をさまよう試行錯誤である。

「哲学者になりたい」。なるぽど。では「なる」とは?


「病は気から」という諺は、一般的には「気の持ちようによって、病は重くも軽くもなる」という意味である。たしかに、患者さんとお話ししていると、「病は気からですから、病気に負けていられないですね」とおっしゃる方が結構いらっしゃる。

ある程度急性に経過して、回復の見込みのある疾患であれば、そんな風に病気と戦うイメージがプラスに働くことは多いだろう。

しかし、慢性に経過する疾患、特に現在の医療ではなかなかすきっと完治まで持ち込めないタイプの疾患,の場合、「病と戦う」イメージだと、終わりの見えない戦いに直面することで、かえって患者さんの士気がくじけてしまいそうになることがある。

そんなとき、僕はとっさにこんな風に説明してみた。

「病は気からというのは、気持ちが滅入ると治る病も治らないという意にもとれます。ですが、私は、気持ちと身体にズレが生じて、身体が無理といっていても気持ちが無理を承知で突き進むときに調子が崩れやすいという意味ではないかと勝手に思っています。せっかく病気になったのですから、ご自身の身体を気持ちと同じぐらいに大切にされてはいかがでしょうか?」

 

どうだろうか。物は言いようという感じである。

さらに、こんなことを付け加えることがある。

 

「身体を大切にするということは、身体によいといわれている食べ物ばかり食べたり、身体によいといわれている生活習慣を取り入れたりすることではありません。それでは、頭で身体をコントロールしようとしていることになってしまいます。身体を大切にするということは、ご自身の体調の変化をしっかりと観察し、身体の言い分に注意をむけることではないでしょうか?」

 

気持ちも身体も、どちらも自分であるのだから、自分を大切することには、気持ちだけでなく身体を大事にすることも含まれているはずである。

 

自分を大切にできなければ、本当の意味で他人を大切にすることもできないのではないか。

聖書の隣人愛のくだりが大好きな僕は、そんな風に思っている。

 

某国首相の講演会での発言のニュースが目に飛び込んできた。

 

首相曰く、「自衛隊員に『憲法違反かもしれないが、何かあれば命をはってくれ』というのはあまりに無責任だ」とのこと。自衛隊が憲法違反かどうかよりも(いままでの判例では、すでに違憲ではないということになっていると思うので)、発言の後半部分に違和感を強く覚えた。

 

僕は、日本という国は、どんな理由であれ自衛隊員の人に「何かあれば命をはってくれ」といういうような国であってほしくない。自衛隊の活動も、隊員自身の身の安全が確保される仕方でされなければならないと僕は思う。

 

国のために命をなげださなければならないような人々を二度と生み出さないこと。これが先の戦争から僕がよみとる最大の教訓である。そのような犠牲をうまないように努力するのが国の(あるいはその国を構成する人々の)最大のつとめではないだろうか。

 

自衛隊が憲法にきちっと規定されたなら、自衛隊に「何かあれば命はってくれ」と堂々といえるのだと首相が考えているのだとしたら、この首相は自衛隊員の皆さんに対して非常に無責任なのではあるまいか。

 

人命は国よりも大事である。国をもたない人はありえるが、人を持たない国はありえないからである。この単純明快な事実は、どれだけ首相が奇妙なレトリックをもちだそうと変わらない。だから、僕ならば自衛隊員の方々に、「任務だろうと何だろうと、命をかけなくてよいと思う」と言いたい。それが僕の考える責任である。

 

犠牲は悲劇であり、しばしば美しい。だが、同じ悲劇を二回繰り返すと喜劇になる。もうこれ以上、僕は政治家に喜劇役者の才能を求めようとは思わない。

我が家でのとあるやりとり。

私「どう思う?」

相方さん「何について?」

私「うわ、見破られた!」

相方さん「何について?」

私「見破られるに値することが無いことについて」

相方さん「なに?この先の見えないやりとり」

私「何だろう?」

相方さん「何でもいいんでしょ?」

 

私「ほう。そのようにおっしゃる」

 

相方さん「訊いたのは私よ」


一体何がやりとりされたのだろうか? 

たぶん何か意味のあることはやり取りされていない。でも、言葉は話され続ける。

毎度のことであるが、話し言葉は不思議である。

春の古書即売会へ行ってきた。その帰り道に近くのブックオフにも寄り道。

お店にもよるのだけれど、古本にはたいてい裏表紙に値札が糊付けされていたり、

値段シールが張られていたりする。

僕はこの値札や値段シールを剥がすのが大分前から好きである。
別に剥がすのが得意なわけではない。

ただ、うまく剥がせたときのちょっとした嬉しさに味をしめている。

ゆっくりとゆっくりと端から剥がし始め、値札が破れない程度に引っ張りながら、

徐々にスピードを早めていく。これが意外に難しい。

値札を剥がすのは、意外と複雑な作業ではないかと思う。

すくなくともロボットがやってくれるにはまだ時間がかかりそうだ。

ところで、シールを剥がすことは、病から癒えていく過程に似ていないだろうか。
治療とは、破綻しない程度に、しかしながら、なるべく早い快復を目指す営みである。
その意味では、シールを剥がすという行為からも、ある種の治療論を導き出すことができる。

「一事が万事」なのかもしれない。