哲学者とは、なるものではなく、なってしまうものである。自分の気になるテーマが、哲学というジャンルに分類されうると、他人から誤解されてしまった人のことを言う。
その人にしか問えない事柄を問うてこそ真の哲学者であるが、「その人にしか」という部分の強烈な困難さに挑むのは容易ではない。むしろ、原理的に、いや、端的に不可能ですらありえる。
だからこそ、真の哲学は、その不可能さの記述に終始することがしばしばある。
そうした哲学の思考の営みは、本来なんらかの社会的な意味を持ちようがない。社会というものが、人というものが、自分というものが、一切おぼろげになってしまう地平において、初めて動きうる類いの営みが哲学である。
ゆえに哲学は虚無と直接している。言葉が意味を帯びたときに、自動的になかったことになるような営みが哲学だからである。いわば、虚無の虚無性を語る(あるいは黙る)営みが哲学 といってよい。
であるから、哲学は悩むことではない。戸惑うことでもない。考えることですらないかもしれない。僕にとっては、端的な事柄と言語の間をさまよう試行錯誤である。
「哲学者になりたい」。なるぽど。では「なる」とは?