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Nothingness of Sealed Fibs

見た映画、読んだ本、その他もろもろについて考えたことを書きとめてあります。

先日、自分が死ぬときの夢を見た。

原因は分からないのだが、僕は横たわって天井をみていた。頭がモヤモヤしていて考えが進まない。

相方さんが僕のことをのぞき込むようにしていて、その姿がだんだんゆらゆらしてきた。

なんとなく「いよいよだ」と感じ、最期に何を言おうか、まわらない頭で考えはじめたのだがなにも思い浮かばない。

もっと前から考えておけばよかったなと思ったあたりで、いきなり相方さんが覆い被さってきて耳元でささやいた。

「いってらっしゃい」

途端に涙がでてきて、ふいっと言葉が口から出てきた。

「いってきます」

そのあとどうなったか分からないまま夢は終わった。

朝起きて、相方さんに夢の話をしてみた。

「ふーん」とのこと。


夢と現実は近くて遠い。

ある時、「どうしたら深く考えられるのだろうか?」と話を振られた。

 

僕は咄嗟にこんな風に回答した。

 

「考えに深い・浅いはないと思う。あるとすれば、考えの伝わり方が速い、遅いという違いではないか」

 

不思議なことに、聴いたとたんに理解できる考えと、時間をかけてじわじわとしみ込んでくる考えがある。

僕の実感はそう告げている。

 

どうしてある考えを理解するのに時間がかかったり、かからなかったりするのかは分からない。ただ、より公共性の高い考えはすんなりと理解できることが多いが、個人的な経験と照らし合わせなければしっくりこないような考えは理解に時間がかかるような印象がある。はじめは自分から遠く感じられた言葉が、時間とともに、次第に自分に近く感じられるようになる。以前は理解できなかった言葉が、ある経験のあとに「そうだったのか」と腑に落ちることがある。そのような理解のされ方をする言葉を一般的に「深い」と形容しているのではないだろうか。

 

しかし、いったん時間をかけてしみ込んできた「深い」考えは、理解された後は非常に自分に近く感じられるわけだから、その「深さ」を失った形で記憶され、想起されることになる。だから、一旦伝わってしまった考えに、深い・浅いの区別はもはやない。

 

この僕の推測がそれほど的外れでないのであれば、考えの深さや浅さを決めるのは、考える側ではなくて、考えを伝えられる側である。ゆえに、考える側が「深く考えよう」と頑張るのは、頑張り損になってしまうと僕は思う。

 

ただ、最近は、浅い/深いという区別よりも、薄い/濃いあるいは、もっとくだけて「ぼんやり」/「はっきり」という表現のほうが、自分が考えるときの実感に合っている気がしている。

 

なんだかもやもやした記事になってしまった。むろん、三連休のせいである。

今回の衆議院選挙で生まれてはじめて投票に行ってきた。理由は単純。自民党が憲法改正をマニフェストに明記して選挙に臨んだからである。僕は「憲法を現状から批判するよりは、憲法により現状を批判する」ことを志向する者であり、憲法改正問題こそがもっとも緊急性のある争点だと思ったからだ。これまで選挙は結果のみ見るというのがおきまりであったが、ようやっと重い腰をあげて投票所にむかった。

 

某国首相は「国難突破解散」と表現して衆議院を解散した。まさに現在、大変なことが起きていると思ってらっしゃるのだろう。報道によれば、「国難」とは傍隣国のミサイルや少子化であるという。しかし、僕はこの意見には素直にうなずけなかった。傍隣国からミサイルがとんできて本当に怖いのは、原発にミサイルが落ちてしまうことによる被害である。福島であきらかなように、広範囲の土地が住めなくなるということのダメージはあまりにも大きい。だから、ミサイルを打ち落とす設備に投資するよりも、長期的には原発を減らすためにお金を使うほうがよっぽど安全性の向上に寄与すると、僕は思う。少子化対策も、余裕があるならやったらいいことなんだろうけど、出産や子育ては政治がどれだけがんばろうと最終的には当事者次第という面があり、政治にできることには限界がある。「産めよ増やせよ」とは古い標語であるが、現在の与党が言ってることも同じようなことである。ちなみにヨーロッパの友人は、この標語をみて「余計なお世話だよな」と言っていた。僕も同じような意見である。

 

憲法改正の問題は、憲法に自衛隊について明記すべきかという論点と関連する。憲法は国の設立趣意書である。前文を率直に読むなら、日本はできることなら軍事力がなくても人々が安心して暮らせるような世界を目指していると思われる。僕は自衛隊員のみなさんに敬意を惜しむものではないが、自衛隊はあくまでも国際情勢に鑑みて「軍事力としては一時的に設置されている存在」だと思う。災害援助のために自衛隊は常設すべきというなら話は分かるが、警察や消防が憲法に記載されていないのに自衛隊だけ憲法に記すというのも理解に苦しむ。憲法に自衛隊を記載するということは、軍事力保持を前提とする国を日本は目指していくという宣言である。この宣言が他の国に与えうるメッセージについて、僕は危惧してしまうのである。総じて、自民党の憲法改正案はリスクを増すほうにしか向かってないと僕は思う。

 

選挙がおわって思うのは、小選挙区制というのは落選候補に投票した有権者の気持ちをがっかりさせる作用があるということだ。とくに僅差で競り合った選挙区については、落選候補に投じられた多数の票は、国政に影響を及ぼさないという意味で無駄になる。全体では50%に満たない得票率で70%を超える議席が占有されるという乖離は、無駄となった票の多さを物語っている。投票率低下が近年しきりにいわれているけれど、その原因は、「政治に興味を持つ人が少ない」というよりも、「自分の投じた票が選挙結果に反映された実感を持つ人が少ない」からなのではないか。全くの推測だがそんな風に感じた。もちろん当選候補に票を投じた人はうれしいのだろうし、そういう経験を持った人が毎回選挙に行くのだろうが。

 

それと、いまさら始まったことではないのだが、選挙後に支持者のところにお礼参りする当選者の姿が気になった。日本の議員はいつから有権者に対してこれほど卑屈になってしまったのだろうか。もちろんすべての候補者が全部そうなのではないだろうが。「議員とは地域の代表である」という僕のイメージからすると、「当選させていただき、ありがとうございました」という言葉には違和感を持たざるをえない。候補者と有権者は本来対等だからである。僕のイメージが時代錯誤かもしれないが、「支援者」というのも変な言葉だと思う。候補の意見に賛成し支持するという意味で「賛同者」「支持者」ならまだしも、「支援者」というのはなんだか候補のほうが弱者のようで変な感じである。

 

まぁブーブー言ってもしょうがない。国政がどうなっても大丈夫なように、自分のやりたいことを今のうちからしっかりとやっておこう、などと、多少投げやりになっていたら、事故分析家・柳田邦男さんの言葉を中井久夫先生の著作のなかでみつけた。

 

「迷路というものは入ったらなかなか出られない。しかし、確率的には稀だが、迷路に入って障害にぶつからずに、すっと出られることがある。それが事故である。」

 

最悪の事態を完全に防ぐことは確率論的にできない。しかし、迷路の障害をふやしたり、迷路を通り抜けてしまった場合の被害を最小限に防ぐように試みることは無駄ではない。そのような試みに寄与できるよう、安易な賛同を慎んでいきたい。

 

【2017年11月6日追記】

財務省が大学教育無償化に反対というニュースが流れた。近年の選挙ではまだ無償化されていない幼児教育、高等教育の無償化が与党候補から訴えられていたと思う。教育の無償化は基本的に真っ向から反対する人が少ないし、受け入れられやすい主張なのだろう。しかし、無償化するということは、国の税金が投入され、国がより容易に教育に口を出せるということでもある。また、いろんなところが予算をへらされている現在、無償化されても現在のサービスの質が保たれるのかについては大いに怪しむべきであろう。個人的には「〇〇の無償化」というお話には眉に唾を付けざるを得ない。

今日、患者さんを手術室までストレッチャーで搬送した。

手術室には分厚い自動扉があり、手を近づけると開くようになっている。

しかし、僕が手を数回近づけても、全く扉が反応してくれない。

見かねた先輩が手をかざすと1回で扉が開いた。

 

またもや・・・

 

しばしば、僕は自動扉に認識してもらえないことがある。

スーパーだったり、職場だったり、駅だったり。

扉の前に立っているのに、扉があかないことが結構あるのだ。

もちろん、一歩下がって再び扉の前に立ち直すことを数回くりかえすと

たいていの場合、扉は開いてくれる。

最近は、自動扉が開かなくても、驚かなくなってきた。

それどころか、扉が開かないほうがあたりまえに感じるようになってきた。

一回でスムーズに開いてくれる自動扉に出会うと、「ありがとう」と機械に

感謝してしまう。

 

一方、通勤路の住宅地にいる飼い犬たちは、常に僕を認識してくる。

見逃してもらえたことはほとんどない。毎度吠えられてビクッとしてしまう。

 

自動扉にはあんまり認識されず、犬にはたいてい認識される。

そのような僕とは、いかなる存在なのだろうか。

 

たぶん、僕には「人間としての存在感」が不足しているのだろう。

常日頃「おぼろげに、あるいはぼんやりと生きていたい」と願う僕にとっては、

これぐらいで丁度良いのかもしれない。

斎藤環さんの本で、M・ブーバー、C・ロジャーズの対話があると知ったので、図書館で斜め読んでみた。

僕はもちろんブーバーの肩をもつ。いくつかブーバーの発言で気に入ったところを書き抜いておく。

 

以下の引用は、ロブ・アンダーソン、ケネス・シスナ編、山田邦男監訳『ブーバー ロジャーズ対話 解説付き新版』春秋社、2007年より。

 
二人の巨人の対話は、セラピストがクライエントに援助をすることをめぐって交わされる。
 
(1)善あるいは善とよばれるものはいつも、ただ方向であると思うからです。善は何らかの実体ではないのです。(ブーバー p.182)
 
(2)あなたがおっしゃったのは、おそらく、われわれは、個人が「イエス」と言うこと、つまり、人生を拒否するよりも、むしろ人生を肯定する極を強化するのを援助することができる、ということですね。(ロジャーズ p.182)
 
(3)私は「人生」と言いたくありません。私は人生を客体化したくないのです。私は単純に「イエス」と言いたいんです(ブーバー p.183)
 
(4)私は彼自身の意に反して、彼を助けなければならない場合が現にあるのです。彼は、自分の意に反して、私の助けを望んでいます。彼は、、なによりもまず、私を信頼したいと望みます。そうです、生というものが彼にとっては基盤を喪失しているのです。(中略) むしろ彼が望んでいるのは、彼に確信を与えてくれる存在、「世界は救われうるのだ。まさにこの信頼があるからこそ私は救われうるのだ」という確信を与えてくれる存在なのです。そして、もしこのことが達成されますと、その時私はこの人を助けることができます。(ブーバー pp.202-204)
 
(5)私が言う意味での人格personは、ただ現実に世界とともに生きている個人です。いや、「世界とともに」というのは、世界の中で、という意味ではありません。そうではなく、世界と人が出会いうるいたるところで、世界と現に接触し、世界との相互性の中で現に言い切る、ということにほかなりません。(中略)私がある一定の現象にはっきりと「イエス」か「ノー」を言う場合には、私は個人individualに反対し、人格personにくみしているのです。(ブーバー pp.220-221)
 
ブーバーの『我と汝』という古典的著作では、我と汝の奇跡的な「対話」、あるいは「出会い」が取り扱われている、と一般には理解されている。おそらくロジャーズもクライエントとセラピストの間に、お互いが溶け合うような、一体化するような心の通ったやり取りができることで、クライエントが治癒していくというモデルで、『我と汝』を捉えようとしていたのだと思う。

しかし、『我と汝』では明確な述語として表現されていないものの、ブーバーはもっと後に書いた書物では「原離隔Urdistanz」という表現を用いて、我と汝の原理的な隔たりを強調している。ブーバーの我-汝関係は、ロジャーズのいうようなクライアントとセラピストの一体感、共感ではなくて、むしろお互いが異なっているという側面が際立っている。
 
そのように、ブーバーのモチーフの根本部分に、全く異なった我と汝が、異なっているにもかかわらず、いや異なっているからこそ成り立つ「対話」「出会い」を読み取るのでなければ、(5)のブーバーの発言は理解できない。「彼は、自分の意に反して、私の助けを望んでいます」というブーバーの言葉は、「彼は本当は生の基盤を欲しているにもかかわらず、それに気づかずに私との表層的な相互承認を求めている」と読むことができる。
 
クライエントがセラピストに助けを望んでいるという事実が、クライエント自身の意に反しているという指摘には瞠目せざるを得ない。クライエントが本来必要としているのは、生の基盤の回復であり、セラピストからの承認ではないのである。
 
ブーバーとロジャーズの対比は、そのまま西田哲学の絶対無と純粋経験の対比とに重ねられるかもしれない。西田幾多郎が純粋経験を潜り抜けて絶対無に至ったように、ブーバーからみればロジャーズの立場は、まだ途上にある。
 
(3)のでブーバーは『私は単純に「イエス」と言いたい』といっているが、このブーバーの発言に主語がないことも西田哲学との近さを感じさせる。西田的には「どこまでも述語となって主語とならないもの」こそが「絶対無の場所」だからである。何がという主語はなく、端的に「よし」といえるような肯定性。ロジャーズの発言からは、そのような根源性への感性を僕は読み取ることができなかった。
 
おそらくブーバーは、セラピストがクライエントを癒すのではなく、人は本来、生の基盤に癒されて存在するのだという治癒のありかたを考えていたのだと僕は思う。いや、考えていたというよりも確信していたというべきかもしれない。
 
僕は、ブーバーの確信を受け継ぐ側の戦力でありたい。