斎藤環さんの本で、M・ブーバー、C・ロジャーズの対話があると知ったので、図書館で斜め読んでみた。
僕はもちろんブーバーの肩をもつ。いくつかブーバーの発言で気に入ったところを書き抜いておく。
以下の引用は、ロブ・アンダーソン、ケネス・シスナ編、山田邦男監訳『ブーバー ロジャーズ対話 解説付き新版』春秋社、2007年より。
二人の巨人の対話は、セラピストがクライエントに援助をすることをめぐって交わされる。
(1)善あるいは善とよばれるものはいつも、ただ方向であると思うからです。善は何らかの実体ではないのです。(ブーバー p.182)
(2)あなたがおっしゃったのは、おそらく、われわれは、個人が「イエス」と言うこと、つまり、人生を拒否するよりも、むしろ人生を肯定する極を強化するのを援助することができる、ということですね。(ロジャーズ p.182)
(3)私は「人生」と言いたくありません。私は人生を客体化したくないのです。私は単純に「イエス」と言いたいんです(ブーバー p.183)
(4)私は彼自身の意に反して、彼を助けなければならない場合が現にあるのです。彼は、自分の意に反して、私の助けを望んでいます。彼は、、なによりもまず、私を信頼したいと望みます。そうです、生というものが彼にとっては基盤を喪失しているのです。(中略) むしろ彼が望んでいるのは、彼に確信を与えてくれる存在、「世界は救われうるのだ。まさにこの信頼があるからこそ私は救われうるのだ」という確信を与えてくれる存在なのです。そして、もしこのことが達成されますと、その時私はこの人を助けることができます。(ブーバー pp.202-204)
(5)私が言う意味での人格personは、ただ現実に世界とともに生きている個人です。いや、「世界とともに」というのは、世界の中で、という意味ではありません。そうではなく、世界と人が出会いうるいたるところで、世界と現に接触し、世界との相互性の中で現に言い切る、ということにほかなりません。(中略)私がある一定の現象にはっきりと「イエス」か「ノー」を言う場合には、私は個人individualに反対し、人格personにくみしているのです。(ブーバー pp.220-221)
ブーバーの『我と汝』という古典的著作では、我と汝の奇跡的な「対話」、あるいは「出会い」が取り扱われている、と一般には理解されている。おそらくロジャーズもクライエントとセラピストの間に、お互いが溶け合うような、一体化するような心の通ったやり取りができることで、クライエントが治癒していくというモデルで、『我と汝』を捉えようとしていたのだと思う。
しかし、『我と汝』では明確な述語として表現されていないものの、ブーバーはもっと後に書いた書物では「原離隔Urdistanz」という表現を用いて、我と汝の原理的な隔たりを強調している。ブーバーの我-汝関係は、ロジャーズのいうようなクライアントとセラピストの一体感、共感ではなくて、むしろお互いが異なっているという側面が際立っている。
そのように、ブーバーのモチーフの根本部分に、全く異なった我と汝が、異なっているにもかかわらず、いや異なっているからこそ成り立つ「対話」「出会い」を読み取るのでなければ、(5)のブーバーの発言は理解できない。「彼は、自分の意に反して、私の助けを望んでいます」というブーバーの言葉は、「彼は本当は生の基盤を欲しているにもかかわらず、それに気づかずに私との表層的な相互承認を求めている」と読むことができる。
クライエントがセラピストに助けを望んでいるという事実が、クライエント自身の意に反しているという指摘には瞠目せざるを得ない。クライエントが本来必要としているのは、生の基盤の回復であり、セラピストからの承認ではないのである。
ブーバーとロジャーズの対比は、そのまま西田哲学の絶対無と純粋経験の対比とに重ねられるかもしれない。西田幾多郎が純粋経験を潜り抜けて絶対無に至ったように、ブーバーからみればロジャーズの立場は、まだ途上にある。
(3)のでブーバーは『私は単純に「イエス」と言いたい』といっているが、このブーバーの発言に主語がないことも西田哲学との近さを感じさせる。西田的には「どこまでも述語となって主語とならないもの」こそが「絶対無の場所」だからである。何がという主語はなく、端的に「よし」といえるような肯定性。ロジャーズの発言からは、そのような根源性への感性を僕は読み取ることができなかった。
おそらくブーバーは、セラピストがクライエントを癒すのではなく、人は本来、生の基盤に癒されて存在するのだという治癒のありかたを考えていたのだと僕は思う。いや、考えていたというよりも確信していたというべきかもしれない。
僕は、ブーバーの確信を受け継ぐ側の戦力でありたい。