小川修パウロ書簡講義録刊行会編『パウロ書簡講義録6 コリント後書講義』リトン、2017が発刊された。
2011年に帰天された小川先生の講義録は、これまでローマ書講義、コリント前書講義、前期論文集と出版されている。個人的には6巻目である本書がもっとも自分の問題意識と関連していて、グッとくる箇所が多かった。
これまでブログでは、小川修先生の講義録についてさらっと触れるだけですませていた。というのも、小川先生の講義録は、僕にとって非常に根幹の部分に触れるところがあり、たやすく批評めいたことが書けない感覚があったからである。批評は、対象と距離をとって読むから可能となる。自分にとって本当に重要で大切な本は冷静に読めないので、批評するなど本来無理である。大切な本は、ただ繰り返し大事に読み直すことができるだけなのではないか。僕はそう思っている。しかし、このコリント後書講義には、内容的に是非いろんな人に触れてほしいという部分があるので、冷静な記述にはならないかもしれないが読書記録を残しておくことにする。
本書に収録されているのは、2010年に同志社大学大学院神学研究科で行われた小川修先生のコリント後書講義の様子である。内容は、授業資料として配布されたギリシア語本文、小川氏による味わい深い日本語訳文、録音から書きおこされた講義形式の釈義、学生との質疑応答からなる。末尾には同志社で行われた講義のまとめとして「パウロと死の問題」が扱われている。題材として、コリント前書15章50-58節、ローマ書14章7-12節、ピリピ書2章6-11節を取り上げながら、復活(パルーシア:臨在)を「生きているときの〈からだ〉の甦り」と捉える小川神学の見方が解説されている。
既刊のローマ書講義、コリント前書講義において、小川先生は「神の(第一の)ピスティス〈まこと〉から、人の(第二の)ピスティス〈まこと〉へ」という定式でパウロを理解してこられた。「ピスティス」は一般的には「信仰」と訳されているが、小川先生は、一貫して、ピスティスを人間の営み・思いとしての信仰ではなく、「信実」「まこと」「真」というような日本語訳を当てながら、「人間が認識しうる根本的な事柄」という意味で解釈されている。この解釈を一言で表現する「エン・クリストー(キリストの中に)」、「人基一体(人とキリストが一体である)」といった小川神学のキーワードは本書でも堅持されている。
また、本書では2007年に発表された田川建三氏の『新約聖書 訳と註 3 パウロ書簡その一』が幾度も参照されている。小川先生は田川氏の訳業を高く評価しつつも、田川氏のパウロ批判に対しては率直な反論を展開しておられるので、田川氏の著作に親しむ方にとって刺激的(挑戦的な!)な講義になっていると思う。また、小川先生の翻訳・釈義の底流にはカール・バルトや滝沢克己への肯定的共感があり、両者に親しむ読者にとっても興味深い講義となっている。というか、滝沢克己の神学的な見方をしっかりと継承しているのは、管見では小川先生しか見当たらないのだがどうだろうか。
小川先生は随所で自分の解釈を相対化するような発言をされている。「僕がこれがパウロだと勝手に受け止めてるだけで、(中略)こういう解釈は絶対正しいとは言いませんよ」(本書338頁)、「これから申し述べるのは、あくまでも私のあれ(解釈)ですから間違っているかも知れません」(本書254頁)など。一読すると小川先生の謙虚な発言ともとれるが、僕は小川先生の語りに、謙虚さよりも、なにか根本的な事柄をつかんでいるという確信に基づく精確さを感じとりたいと思う。
例えば、コリント後書10章7節について小川先生は、「これすごく重要な科白ですネ。(中略)もし、もし人がですよ、わたしが、自分がキリストの中にあるということがちゃんと分かったならば、わたしは当然、君たちもまたキリストの中にあるということが見えて来なくちゃならない」(本書131頁)、「極めてパルーシアというのは個人的な出来事ですが、そこが分かると、すべての人がそのキリストの中にあるということが同時に分かるんです。それは、その意味ではネ普遍的な出来事ですネ」(本書260頁)と話されている。すなわち、小川先生の解釈では、パウロの言葉を理解することは、解釈者自身が「キリストの中にある」ことを認識するという、他の人に代わってもらうことのできない、その意味で極めて個人的な営みを要求するのである。だから、一人の人間が為しうる最良のパウロ解釈とは、「これが私の理解するパウロである。あなたはどう考えるか」という形式にならざるを得ない。小川先生の控え目にみえる発言は、この機微を精確に反映していると僕には思われた。
他にも、「しかし今多くの日本の神学者、あるいは世界の神学者もそうですけれど、霊ってよく分かんないままに神学的な書物をかいているというような人が多い―実際はネ―と僕は思う。じゃお前が霊って分かってんのかといわれると、それは分かって(いる)なんてことは誰もいえないんですけれど。(中略)ただ、言えるのは、パウロはこのような一種の亡霊というか、幽霊というか、そういうようなものを霊と言ってるじゃありません」(本書271頁)という発言などは、神学界の現状への真摯な問題提起にもなっている。心に留めておきたい言葉である。
小川先生の訳文も味わい深い。とくにローマ書14章7‐8節の日本語訳文はすごい。
(14章7節)なぜなら、わたしたちのうち、だれひとり自分によって生きる者はなく、だれひとり自分によって死ぬものはない。
(14章8節)わたしたちは、生きるのも主によって生き(生かされ)、死ぬのも主によって死ぬ(死なされる)。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
口語訳や新共同訳では「~のために」となっている与格を、小川先生は「~によって」と訳している。このわずかな違いだけで印象ががらりと変わる。小川先生の解釈するピスティスは、「~のために」ではなくて「~によって」を厳密に支持する。「~によって」と訳すことによって、はるかにパウロ思想の体系(system)が理解しやすくなっている。
神学とは、神や霊や人の意味やありかたを論理的に探究する学問ではない。そのような探究はしばしば神学論争と呼ばれるが、それは神学への端的な誤解である。そうではなく、神学とは、もっとも根源的な事柄(キリスト、ピスティス)”から”世界と人を説明しようとする学問である。論理で真実を導出することはできない。論理にできるのは真実の分析のみである。論理は前提がなければ始めることができず、真実こそが論理が成立する前提だからである。したがって、神学に求められるのは、真実に基づいて、論理を的確に用いながら(その的確さは常に真実と照らし合わせながら確認していくしかないのだが)考えていくことである。
では、真実とは何か。小川先生の神学思想を僕なりに言い換えれば、「真実とは、自分が生きていること、その生きている根底に自分ではない何か(それを小川神学ではキリストといっていると思う)の支えがあるということ」である。その真実ゆえに自分は自分として在り、他者は他者として在り、世界は世界として在る。その真実が常に人の認識を促すことを第一のピスティス、人がその真実を認識することを第二ピスティスと小川先生はおっしゃっている(と僕は思う)。
根本的な事柄を掴んでいることと、その事柄を精確に言い表すこととは別である。神学の愉しみとは、根本的な事柄をどのように言語的に表現するかという点に、論者の個性が否応なく現れるところに存すると僕は思う。本書は神学的な愉しみに溢れている。また折をみて読み返すことだろう。
以下は、本書読了後の僕の気ままな連想である。
「個人的な事柄が普遍的でもある」ということは宗教思想にとってすこぶる重要である。ブッダは悟りをえてもすぐに布教にむかわず、一人での修行をしばらく続けた。対して、イエスは荒野で40日間修行しただけで、30歳頃になって突然教えを広め始めた(ことになっている)。仏教は「自己」を非常に辛抱強く考えていくが、それによる悟りは「自己は無である」というポイントに到達する。「自己は無」であることが普遍的な真実であるとするならば、仏教の布教は「あなたは無である」という言い方になる。自分で「自分は無である」といっているならばよいが、他人に向かって「自分を無とせよ」となるときに、どこか違和感が生じてくるように僕には思われるのである。ブッダが悟りを得てから布教までタイムラグがあるのに対し、イエスの場合にはタイムラグがほぼない。このことが決定的だと僕は思う。キリスト教神学で宣教(ケリュグマ)が非常に重要なのは、この意味においてである。(僕の理解する)キリスト教では、「布教すべきだから布教する」とか、「よい教えだから宣べ伝えなければならない」という当為はない。「ピスティスは自分だけではなく他者の根底にも厳然として在り、ピスティスが世界を成り立たせている」ということをしっかりと認識することが小川先生の言う第二のピスティスではないかと僕は勝手に咀嚼する。その第二のピスティスからは、喜びをもって他者と語り合うということがそのまま自然に宣教であることになる。すなわち、教会や大学で教義を宣べ伝えるということではなく、ごく普通の会話であってもそれがピスティスに基づいているのであれば、それはそのままケリュグマとなるのである。この意味で、小川先生のピスティス理解は、カール・バルトの「信仰の類比(analogia fidei)」と重なっているのではないか。
ただ一点、僕が小川先生の議論に不満なのは、コリント後書4章12節「こうして、死はわたしたちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのである」(本書51頁)の解釈をめぐってである。この個所について小川先生は「随分これ、初めわからなくて」と述べた後(本書61頁)、田川建三氏の注解「宣教師が苦労して死にかねないような患難にたえてキリスト教を宣教しているおかげで、あなた方信者は永遠の命にあずかっているのだぞ、と恩に着せている」(本書62頁一部表現を改変)をおおむね採用している。しかし、4章12節は、第一人称と第二人称の非対称性という視点から考えると、コリント後書10章7節でいわれた個即普遍と組み合わせて統一的に理解できるのではないだろうか。西田哲学的に表現すれば、「我が物となることで、汝は汝として生きる」とでもなるだろうか。そのように解釈することで田川氏の「パウロが信者たちに恩を着せている」という注解よりも豊かな事柄が浮かび上がってくるように思うのだが、どうだろうか。