患者さんとなんで頭で考えることはたまに暴走するのか?という話になった。
暴走は、なにかきちっとした基盤と、なにかゆるっとした基盤とが重なったときにおこる。交通ルールや社会的モラルと、暴走族の主張が重なるとか。何らかの制限と、なんらかの湧出するエネルギーが重なるところに暴走の居場所がありそうだ。
人間の場合はどうだろう。
便宜的に心と身体という二分法で考えてみる。可能性としては、心が制限となる場合と、身体が制限となる場合があるだろう。逆に言えば、心が暴走するときと、身体が暴走するときがある。おそらく、健康な時は、心と身体、どちらを制限として使うか、情況に応じてうまく変えているのではないか。でも、しんどいときは、心か身体が暴走してしまい、その暴走が始まると、なかなかうまく、制限がきかなかったりするのではないか。
制限と暴走は、結局、維持力と変革力、保守と革新、変わらないものと変わりゆくもの、そういった事柄と類比的である。
たぶん、制限も、暴走も、生命にとっては大切な機能なのだろう。
そうした使い分けの調節は、「自分」を「心寄り」に、あるいは「身体寄り」にイメージするかという作業とも言い換えられるかもしれない。そのような調節が起こる場として、あるいは調節する主体として「私」が在る。そのように思われる。不思議なことに、場でありつつ、主体でもありつつ、その意味の「私」に於いては受動即能動である。
暴走即静謐。そのような断定の暴走もまた一興である。そんなところで患者さんとの雑談は終了した。