2016年はあっという間にすぎてしまった。研修医向けのマニュアル本を読むことが多かったのだが、合間をみてなるべくいろんな分野の本を読もうと心がけてみた。
○西岡常一『木に学べ 法隆寺・薬師寺の美』小学館ライブラリー、1991年
薬師寺金堂、薬師寺西塔の再建を担当した宮大工西岡棟梁の語りをまとめた本。「無になって伽藍を建てるわけですな」(12頁)、「古代建築は相撲の横綱で、日光は芸者さんです。(中略)室町時代以降、構造を忘れた装飾性の強い建築物が多くなってますな。そやから、何回も解体せなならんのですわ」(26頁)、「釘は木を組んでいく途中で仮の支えですな。建て物が組み上げられ、組み合わさってしまったら、各部材が有機的に結合され、機能的に構造を支えあってますから、釘はそんなに重要なものではありません」(81頁)、「終戦直後に、聖徳太子のデザインがお札にのったんです。飛鳥に帰るべきやというので聖徳太子にしたんです。それが又、変わって明治維新の”学問のすすめ”やろ。終戦の時の政府の要人の考え方ちゅうものは正しかったと思いますよ」(228頁)、などの味わい深い言葉が満載である。熟練した宮大工の目から「飛鳥時代」「法隆寺」「木」のすごさが語られていてやたらとおもしろい。現代は古代よりも進んでいると思われがちだけど、西岡棟梁の目からみれば、鉄の質、木材の質、木造建築の質は悪くなっているとのこと。すごいものをすごい人が語ると、すごい言葉が出てくる。飛鳥時代の木の質をみる力・木を組みあげる力がどれだけすごかったかを、僕は恥ずかしながらこの本を読むまで思い浮かべることすらなかった。コンクリート建築の寿命は50年。飛鳥時代の木造建築は1500年以上たち続けている。木の力も、それを見出す人がいなければ活用されない。そして、木材としての能力とは、木からすれば思ってもみなかった力ではないだろうか。僕は、患者さんの力を、それも患者さん自身が気づいていないような力に気づけるような人でありたい。そう思わせてくれた一冊だった。
○河合雅雄『望猿鏡から見た世界』朝日文庫、1991年
霊長類学者の河合先生の雑誌連載エッセイをまとめた本。「動物はどんなに怒っていても、悪鬼には変身しない。怒りを抑える行動型を、進化の中でそれぞれに創りあげているからである(中略)どうしたことか、人間にはこのような攻撃性を抑制する行動が発達していない。人間はこの意味では、欠陥動物なのである」(30頁)、「私は、人間の破壊活動と平和の関係が同じような構造を持っていることに思いいたっていた(中略)私が今感じている秋の平穏とさわやかさは、台風という暴力がもたらしたものである」(96頁)、「ヨーロッパの動物園園長には、斯界の碩学が就任する」(186頁)、「物質的欲望だけでなく、あらゆる面での欲望が満たされたとき、はたして人間は幸福になりうるのだろうか。人間は地獄は鮮明に描けても、天国や極楽を描くことができるのだろうか。私はいささか悲観的である」(217頁)、といった文章が気になった。
僕自身は、1対1の喧嘩は怒りから生じることもあるのだろうが、多数対多数の戦争では怒りよりもむしろ冷静さが大きく寄与してはいないかと訝しんでいる。傍からみていると怒りにまかせた行動にみえても、当の本人はいたって冷静に合理的な判断だと思っていることはしばしばある。だから、猿の観察結果から人間を逆照射する河合先生の魅力的な洞察を尊重するも、素直にうなづけない点もある。そういえば、先日県立美術館に行った際に、日本中世の地獄絵が、極楽図よりもだいぶディテールに凝っていて生き生きしているのを観てきたばかりだった。苦しみは鮮明にイメージできても、幸福を明晰に描けないのが人間の本質的な特徴なのではないか、とへそがひん曲がってしまった僕は思う。むしろ、天国や極楽を目指そうとする合理性こそが欧米で戦争の発端となったのではないかと僕は考えるが、どうだろうか。
○鈴木大拙『無心ということ』角川ソフィア文庫、2007年
鈴木大拙の真骨頂は、禅宗と浄土真宗を統合するような仏教を捉えていたところにあると思う。講演がもとになっているので、見性とは?といったわかりにくい部分の説明が隔靴掻痒なのは否めない。僕は、西田幾多郎、滝沢克己、柳宗悦を読んでからこの本を読んだので、だいぶすんなりと読み通すことができた(そんな気がしているだけかもしれない)。個人的には、尾崎放哉の「入れ物がない、両手で受ける」という句への高評価(99頁)が興味深かった。他には、「神秘的直観または瞑想などと言って、流れを停止してじっと、それを見つめているような考えを、ここに持ち出したら、見性体験は台なしになる。それからまたこの体験を二つのものが一に融合したのだなどと考えてはならぬ。絶対の中に溶け込むのだとか、吸いとられるのだということも、能く話にきくが、それらもはなはだ正鵠を得ない。(中略)ここで自分の言おうと思うところは、一が二で、二が一でそしてその「即」の関係が言語道断であるという、そこなのである」(214-215頁)といった文章も面白い。この大拙の文章は、西田哲学初期の純粋経験論に対する批判と読むこともできる。西田幾多郎は、純粋経験からスタートしたけれど、『無の自覚的限定』以降は、純粋経験という用語を捨てて、さらに一段階考えを深めている(と僕は思う)。しかし、大拙がいう「二つのものが一つに融合した」、あるいは西田的な純粋経験から考えをはじめる論者は依然として多く、やはり西田的な「絶対無」や鈴木的な「即」をつかむことはなかなか困難なのだなと思わせられる。
○竹内敏晴『ことばとからだの戦後史』ちくま学芸文庫、1997年
「ハラが立つ」から「アタマニクル」、「ムカツク」と同じような状態を表す言葉が変化してきているという指摘(35頁)が興味深い。他には、晩年の田中正造が新井奥邃を通してキリスト教に触れていた(53頁)、仮面が憑代だった(179頁)、「世阿弥以来「ものに成り入る」ことが、私たちの演技の伝統であって、近代劇を演じるプロフェッショナルな演技者でも、「役になり切れない」と言い言いするのが日本である。「役の人物になる」などということばはヨーロッパにはない」(187頁)といった指摘も面白い。竹内さんは演劇を通して、他者とはなにか、他者と自己を架橋する「ことば」と「からだ」について言葉を発し続けた人だった。「こころ」が腑に落ちないままに浮ついた影響力を発揮しつつある現代、忘れられつつある「ことば」と「からだ」を見直してみる意味でも、竹内さんはあらためて読まれる価値のある書き手だと思う。
○斎藤環『心理学化する社会 癒したいのは「トラウマ」か「脳」か』河出文庫、2003年
精神科医斎藤環さんによる社会評論集。個人的にはカウンセリング理論の父カール・ロジャーズとユダヤ教哲学者マルチン・ブーバーの対話で、ロジャーズが敬愛するブーバーから根本的な批判を浴びていたことをこの本で初めて知った。医療や福祉の業界では、「傾聴」や「受容」の理論的支柱としてしられるロジャーズだが、ブーバーは「相手が希望していないのに、、その人を助けねばならないような場合がある」、「私は個人individualに反対し、個人personにくみしている」と述べて、ロジャーズを批判しているらしい。僕は、ロジャーズは初めからうまくいった経験に基づいて発言している人であり、思索の人ではないと思っている。ロジャーズの方法でうまくいく場合もあるだろうが、かえってまずい場合もあるだろうなと感じていた。極端なことを言えば、ロジャーズの傾聴、受容という手法は、援助者が人工知能でも十分に可能になってしまう。人工知能に癒される人間性とは何か。僕はロジャーズの人間観に虚ろなものをかぎ取ってしまわざるをえない。他にも、ドゥルーズ=ガタリを「ひきこもり系哲学者とじぶん探し系精神科医がユニットとして可能にした、奇跡のような創造性」(230頁)と喝破するあたり痛快に読ませていただいた。
○中井久夫『看護のための精神医学 第2版』医学書院、2004年
○中井久夫『こんなとき私はどうしてきたか』医学書院、2007年
○神田橋條治『精神科講義』創元社、2012年
診療の底流にある基本的な姿勢、発想の仕方、工夫の組み立て方は、おそらく医療者それぞれですこしづつ異なっているのだろう。しかし、すごい人の視座をトレースしておくことは自分のスタイルを見直すのに役立つかもしれない。などと、よこしまな気持ちで両先生の本を毎年すこしづつ読んでいる。いつものことだがハッとさせられてばかりで面白い。