あけましておめでとうございます。
(この後の自画自賛のオンパレードに御注意)
まもなく傘寿。
振り返ってみると、現在の我が姿は成るべくして成ったとしか言い様がない。
内山小学校時代はガリ版刷りの文集の係、とりわけ卒業文集は圧巻の出来映えであった。
今池中学でも文集を作り、旭丘高校の在学中は無理だったが、卒後30周年記念誌はクラス会誌の金字塔を打ち立て、さらに60周年記念ではCD版を。
アナログ時代の苦労を考えればP.C.で作るなんて、まるで天国である。
小学校時代、近所の馴染みのある棟梁が我が家の庭に作業場を造り、大工仕事を始めたので、学校から帰ると飽きることなくその作業を見守っていた。
米田良三氏との出合と その後の展開には、何といってもこの時の経験を抜きには語れない。
高校時代には考古学を目指そうかとも考えた一方、父親が家を建てる時、自宅の増築、仕事場(AB&JC)、現在の自宅の新築と、すべて自分で設計を行った実績が私にはある。
かつて米田氏に『源氏物語』にしろ『万葉集』にしろ特別に古文の特訓をやったのですか、と質問したことがあるが、受験勉強の時の知識だけとのことであった。
解釈において、国文学者ではとても考え付かない読みの深さに圧倒されることが毎々ある。
和歌の聖と呼ばれた柿本人麿が大工頭であり、奈良の帝(倭薈)とタッグを組んだ長谷寺建設の場面が『長谷寺考』に出てくるのだが、建築と広い意味での文学の才を兼ねそなえていたという点が米田氏とダブるのだと気付いた。
やはり史学、国文、単独では歴史の謎の究明は無理であろう。
『源氏物語』のなかで紅葉賀が観世音寺の落成式と解釈したのも建築家ならではと思う。
三瀬村の現地で行動を共にした時の氏の地形をとらえる態度は三次元的な正確さを追求する建築家としてのそれであり、玉鬘の歩いた道を指摘された時も説得力充分であったことを思い出す。
さて米田氏の原稿が出版社に受け入れられないなら、ということで2001年 編集を引き受け、2022年 計4冊が完成した。
既刊4冊の完成度はほぼ限界と考えるが、在庫が無くなった時点で次を考えよう。
以上は本業(AB&JCなど)の合間での出来事です。
AB&JC CLUB coming soon !?