愛知一中の創立は明治7年にまで遡るが、校舎建築として整ったのは南外堀町から西二葉町に引っ越した時である。
写真に見る丸窓と縦長のガラス窓が特徴であるが、市政資料館に展示してある模型を見るとバランスのよい全貌が胸に迫り、明治41年に完成させた先人達の情熱を感じることが出来る。
名物校長 日比野 寛 は新旧両校舎にまたがった時代に在職した。
その30年後、新出来町に丸窓・縦長ガラス窓の意匠を引き継いだ鉄筋校舎が新築され、語り草となる“民族大移動”的引越しが行われた。
引っ越し早々、ヒトラー・ユーゲントが訪れている。
第2次世界大戦の最中、幸い校舎は空爆を免れ、昭和23年新制旭丘高校がスタートする。
昭和33年、ベビーブームに伴う生徒増に伴い4階が増築されたが、止むを得ないこととは言え建築美学的には残念な対応であった。
1.17 阪神淡路地震テロを口実に校舎の建替えを望む一団が出現する一方、それに対抗して保存運動も起こった。
予定より遅れて現在の校舎は完成し、装飾的な意味しかないが今回も二つの丸窓と玄関回りのみであるが縦長の窓も作られた。
中庭側の外壁がモルタルであるのは、予算の問題であったかもしれないが、伝統を受け継ぐ校舎を自負するなら、表側と同様タイル張りにすべきであった。
すべての建物とは言わないが、その時代のベストを尽くし、後世に語り継がれる名建築を遺す努力を怠ってはならない。
名古屋は住人にとっても、旅行者にとっても魅力に乏しく、「“現在”以外 何も無い」のが致命的である。