世の中には上っ面だけを繕い中身はまるで違うことが多々ある

 

その言葉が上っ面だけのものなのか、中身、実態、本質はどうなのかを知るには、その人の行動と客観的事実を見れば判明する。

 

 

 

誰かが言う、「国民の総意」とは、本当に「国民の総意」という意味だろうか?

自分たちと同じ考え方の国民の総意」なのでは?

 

 

 

誰かが、「国民の総意が必要」などと言っているが、事実上、国民の総意など不可能。

 

なので、民主主義においては選挙や国民投票、議会があり、多数決で物事を決める仕組みを取っている。

 

では、民主主義国日本における国民の総意はどうなのか?

 

NHKによる世論調査の結果はこれ

 

 

これを客観的事実と言う。「評価する」が多数となっており、民主主義における国民の総意は「評価する」ということになる。

 

今後長く日本の将来を担う世代ほど、「評価する」が多いこともわかる。

 

民主主義における「国民の総意」は既にこのように結果が出ているし、これに「世界の評価」もプラスして考える必要があろう。

 

 

 

ほら、国民の民意を認めようとしない者も実際に存在する。

7月19日のブログ記事 「参院選に不満な毎日新聞 結果は民意ではなく、自分たちの意に反する有権者は鈍感で低能だとバカにする」

 

 

自分たちと違う考え方の国民は鈍感で低能であり、そんな国民の票など民意ではない!と主張している。

 

このように主張する者の「国民の総意」とは、「自分たちと同じ考え方の国民の総意」なのだ。

 

 

 

誰かが言う、「人権を守れ!」、「命は大切!」とは、誰に対しても平等なものとして言っているのだろうか?

自分自身と自分たちと同じ考え方の人たちの人権を守れ!」、「自分自身と自分たちと同じ考え方の人たちの命は大切!」なのでは?

 

 

 

「人権を守れ!」などと言いながら、確たる証拠も無しに人を犯罪者扱いしていた連中がいますよね?

 

普段は「人権を守れ!」、「命は大切!」などと言うくせに、人の死を揶揄する新聞社もありますよね?

 

平気で人の死を笑う者、平気で人の死を願う者も存在する。

 

 

 

ほら、人権や命のことなど考えもせず、嫌いな人ならその人の死を揶揄する新聞社。

7月17日のブログ記事 「朝日川柳の件 主張のためならサンゴを傷つける朝日新聞、主張のためなら人権や命をも傷つけるか」

 

 

この新聞社にとっての人権や命は、誰に対しても平等なものではなく、嫌いな人物であればその人権や命などどうでもいいという思考の表れでしょ?

 

 

 

ほら、実際にこんな人物も存在し、こんな人物に応援してもらっている政党も存在する。

7月14日のブログ記事 「ぜんじろう氏 自分の嫌いな人の人権や命を軽視 この人の支持、応援する政党が権力を握ったら・・恐怖」

 

 

平気で人の死を笑えない笑い話にし、「麻生、安倍、森の飛行機が墜落(死ねば)。助かったのは日本国民」などと人の死を願うかのようなことも言えてしまう者がいるのですよ、実際に。

 

そして、その話を聞いて笑える人物が国会議員だったりもする

 

これらはすべて客観的事実。

 

 

 

誰かが言う、「みんな」とは、誰なのか?

 

誰かが言う、「たくさん」とは、数値でどれほどなのか?

 

この言葉も上っ面だけで受け取ると、安易に、「『みんな』から『たくさん』の批判が」と思い込んでしまう。

 

「国民の総意」と言いつつ、中身は「自分たちと同じ考え方の国民の総意」で、「人権を守れ!」、「命は大切!」と言いつつ、その人権や命は誰に対しても平等ではなく、「自分たちと同じ考え方の人たち限定のもの」という思考の連中が言う「みんな」や「たくさん」という言葉も、

 

結局は、「自分たちと同じ考え方の人たち『みんな』」だったり、「自分たちと同じ考え方のひとたちが『たくさん』」だったりする。

 

 

 

ほら、この人も、そんな主張にまんまと洗脳されたのか、自身もそのような思考なのか、こんなことを言っている。

7月17日のブログ記事 「『みんな』『たくさん』という表現は疑って受け取るべし! 企みにまんまと洗脳されているのでは?」

 

 

こうならないためにも、言葉を上っ面だけで受け取らないことが大切!

 

 

 

上っ面では聞こえが良くても、その中身、実態、本質はというと・・・本心か?と疑いたくなる人物や組織が存在することは確か。(上記の事例の通り)

 

そうであるか、そうでないかの証明は簡単。

 

言葉に煽られず、踊らされず、冷静に実際の行動や客観的事実を見ればいい。