〇はじめに

まんがタイムきららフォワードにて連載中の「魔法使いロゼの佐渡ライフ」は、佐渡の歴史や文化を学ぶことができる素晴らしい作品です。この作品がきっかけで佐渡に興味を持った方も多いのではないでしょうか。そこで、本作をもっと楽しめるよう、且つ佐渡へ行った時にもっと理解が深まるよう、主に歴史分野を中心に解説を行っていきます。

なお、最初に断っておきますが、筆者は佐渡には行ったことがなく、現地で得た見聞などを記事にすることができない為、内容が多少稚拙になってしまうことを予めご了承下さい。

また、本記事はネタバレを含みますので是非原作をご一読した上でお読みください。

 

〇各話解説

早速、話数に沿って必要と判断した部分について解説を行っていきます。

 

【第2話】

・佐渡について

2話では佐渡にやってきたロゼが佐渡の全貌をほぼ把握する場面から始まります。この回は読者が佐渡(特に宿根木)の基本情報を理解する上で重要な回です。特に迷子になった美乃梨を上空から探すシーンは佐渡島の地理地形を克明の描写しており、誠に読み応えがあります。以下は佐渡島に関する基本的な解説ですので、この見開き丸々のページを見ながら読んで頂ければ幸いです。

佐渡島はざっくり大きく分けると3つの区画に分けることができます。佐渡島のほぼ北半分を占める大佐渡山地、ほぼ南半分を占める小佐渡山地、そして島の丁度真ん中の大佐渡と小佐渡に挟まれた国中平野です。2話の同シーンを見るとこの3つの区画がほぼ理解できるかと思います。本作は基本的には小木半島が舞台で、後述する佐渡金山編も地理的区分は大佐渡に属しますので、国中平野は未登場です。国中平野の東端には小木港に並ぶもう一つの佐渡の玄関口である両津港があります。この両津にほぼ接するようにして加茂湖という湖があります。海水が流入しており牡蠣の養殖も盛んな湖ですが、かつては淡水湖で鯉や鮒が生息していたと言われています。加茂という地名は全国的に多いですが、歴史学者の吉田東伍は加茂とは神の転訛であるとしています。佐渡に漂流してきた異民族の集団が神の水を飲んで死んだという話が日本書紀に出てきますが、この時異民族が居住していたのがまさにこの辺りであると言われており、古代の佐渡の人たちの信仰にゆかりのある場所なのかもしれません。

 

・おまけ

2話ではロゼが2日で日本語を習得するという異能ぶりを発揮していますが、佐渡はロゼ並の語学能力を持つ天才を輩出しています。幕末の医学者司馬凌海です。

司馬凌海は佐渡の真野出身で、15話から登場する吉岡麻衣と同郷です。司馬凌海は生涯で海外渡航歴は一度もなく、本と耳コピだけで英語、オランダ語、フランス語、ドイツ語、清国語、ロシア語を習得し、ラテン語の読み書きもできたと言われています。幕末の日本人で英語、オランダ語、フランス語、清国語を使える人はそこそこいましたが、ロシア語はせいぜい彼らと直接やりとりがあった蝦夷地のアイヌの一部が話せた可能性がある程度で、恐らく司馬はほぼ唯一のロシア語話者だったのではないでしょうか。またドイツ語についても幕末の日本ではドイツを専門にしていた幕臣の加藤弘之と司馬の2人だけだったと言われており、ラテン語に至っては司馬以外で使える日本人は一人もいなかったのではないでしょうか。ちなみに凌海という名前は文字通り海を凌ぐという意味で、凌ぐとは波などを押しわけるという意味がありますので、故郷の佐渡を想って名付けたと言われています。

 

 

【第3話】

・はんぎり

はんぎり回です。筆者も一度乗ってみたいです。筆者ははんぎりについては全くの無知で、少し調べてみましたが佐渡産の竹と杉だけで製作されているらしいです。佐渡は竹を多く産することで有名ですが、竹という植物は元来寒い地方にはなく、日本では北に行けば行くほど少なくなり、北海道などにはほぼ自生していないのではないでしょうか。佐渡は当然新潟より緯度が高く、一見すると新潟より寒そうですが、実は温暖な気候で竹以外にもみかんなどの温暖な環境で栽培される農作物も採れます。日本の北陸に比べ温暖な理由は対馬暖流にあります。対馬暖流は気候は勿論ですが、佐渡の文化を育む上でも重要な材料になっています。

 

 

【第4話】

・佐渡の人口

さざえ祭りの為にロゼが初めて宿根木の外に出る回ですが、祭りの賑わいを見たロゼが「佐渡ってこんなに人が住んでたんですね…」と言っています。試しに現在の佐渡市の人口を調べてみたら47000人とのことでした。近年の地方の過疎化により今でこそ5万人を割ってしまっていますが、かつての佐渡の繁栄はとてつもないものでした。江戸時代では、本土から来た金山の労働者などがいた為人口は増加しましたが、そもそも当時土着の農民だけで10万人いたと言われています。その理由は米の生産高が多い為です。

例えば新潟県や北海道は今でこそ米どころとして有名ですが、元来米は寒い地方では育たず、新潟や北海道で米が獲れるようになったのは明治以降です。それ以前の越後国(新潟県)は今ほど米が獲れず、古代の大和政権も米が獲れない越国(越後国の古代の呼称)をなかなか版図に入れようとしませんでした。大和政権は稲作を基盤に土地を支配する王朝であった為米が獲れない地域にはあまり関心が無かったようです。

一方佐渡はというと、古事記や日本書紀で既に登場し、越国以上に注目されていることを見ると、当時から稲作の適正地であったと考えられます。

 

 

【第7~10話】

・佐渡金山

金山編です。やはり佐渡と言えば金山でしょう。

佐渡で金が獲れることが初めて登場する文献は宇治拾遺物語であると言われていますが、宇治拾遺物語は鎌倉時代初期の成立と言われていますので、その歴史は意外と浅いです。

但し、これは金山ではなく砂金です。当時の技術で金を得る方法は精々砂金から抽出する程度です。石川県の金沢という地名も砂金が獲れたことが由来と言われていますが、当時能登国(石川県)は砂金や砂鉄が多く獲れ、これらを採取、加工する業者も多くいました。宇治拾遺物語ではその中の一人が佐渡で砂金が獲れる場所を見つけたという内容が記載されています。日本は古代から黄金文化はあまり盛んではなく、恐らくまともに金の工芸品を見たのは仏教が伝来した時かと思われます。仏教伝来後は仏像、仏具などに黄金が必要でしたが、その殆どを朝鮮半島から輸入しており、国内で金が獲れることは殆ど知られていませんでした。日本でも砂金の採集が行われるようになったのは、聖武天皇による東大寺の大仏建立の時で、この時聖武天皇の命で探鉱をしたのは百済からの渡来人です(百済王敬福という百済最後の王の末裔です)。結局この時奥州で砂金が獲れることがわかり、その後平安後期には平泉で大量の砂金が獲れ、奥州藤原氏の繁栄の基礎を築きました。

ただ、その後も日本における金の重要性は他国に比べるとかなり低く、金の需要が高まってくるのは鉄砲伝来後になってからです。当時日本もヨーロッパの大航海時代の煽りを受け、ポルトガルなどとの対外貿易が盛んに行われていました。堺の商人が日本の大名たちに鉄砲を売る際、対外貿易を見越して金による支払いを要求した為、大名たちも金を得る必要に迫られます。このような状況で佐渡の砂金に目を付けたのが越後の上杉景勝です。上杉謙信亡き後後継争いの末上杉氏を継いだ人物ですが、この人物が佐渡に軍勢を上陸させ、占領します。それまで佐渡は本間氏という勢力が支配していましたが、彼らが佐渡で金を獲っていた形跡はなく、佐渡で大規模に砂金の採集が行われたのは上杉氏の支配下になってからです。最も、豊臣秀吉の天下になると秀吉は上杉氏に対して佐渡の支配は認めたものの、獲れた金は全て秀吉に納めさせました。

この時点では佐渡から獲れる金は全て砂金でしたが、更に大量に金を得るには金鉱の形で産出される必要があります。金鉱を鉛と一緒に溶かすことで合金を生成し、この合金に空気を加えながら加熱することで酸化鉛が生成され、分離する形で金を生成するという灰吹法と呼ばれる生成法によって、金の産出量が飛躍的に増加します。こういった技術を早くから取り入れていたのが武田信玄で、武田氏滅亡後に徳川家康に仕えた元武田氏家臣の大久保長安という人物が佐渡金山開発に大きな功績を上げることになります。土木に長じた人物が多い武田氏家臣の中でも大久保長安は出色の人物で、京都の貴族が使用していた蒸し風呂の絵を見ただけで構造や仕組みを理解して自作し、これを聞いた家康に見いだされ、召し抱えられます。長安が佐渡奉行に任命されるのは関ヶ原の戦いの3年後で、丁度家康が江戸に幕府を開くのと同年ですので、本格的な佐渡金山の歴史は江戸幕府と共に成立したといっていいでしょう。ちなみに余談ですが、大久保長安は土屋姓を名乗っていた時期があり、紗菜と同じ苗字です。だからどうしたという話ですが、言いたかっただけです。

 

 

【第12話】

・柴田収蔵

ロゼが観光ガイドをする回で、正直筆者の知見が及ぶレベルを超えた情報が出てくるので、筆者の専門分野に絞って解説させて頂きます。尚、江戸時代の海運については13話の方にスポットが当てられている為、そちらで解説します。

ロゼのガイドの中で紹介されている称光寺についてです。作中でも語られている通り、佐渡の寺の多くが真言宗で、宿根木から見ると北東の相川街道沿いにある蓮華峰寺などは大同元年に空海が建立したとされている程です。最もこの時期に空海は唐から帰国した直後で大宰府に籠っていた上、この時はまだ無名の私度僧に過ぎない為、空海が佐渡で寺を建てるなどありえないことですが。

そんな空海伝説まである佐渡において称光寺の存在は異例というべきですが、筆者が注目したいのは称光寺ではなく称光寺に眠る柴田収蔵の方です。

柴田収蔵は宿根木の百姓出身の村医者で、柴田という苗字は世界地図を製作した功績で幕臣になった時に名乗った苗字です。文献によっては「新発田」と表記されている場合も多いですが、ここでは本作に記載されている通り「柴田」と記載することにします。

元々器用な人物で、趣味の篆刻を極める為に江戸に修行に行ったという経歴の持ち主です。篆刻に没頭しすぎて妻に浮気されるくらいの趣味人です。前述の通り佐渡は米が多く獲れて裕福な百姓が多く、その為学問や文化が発達したという歴史を持っています。このような条件だと柴田収蔵のように趣味の為に留学するような人も度々出てくるらしく、先ほど少し紹介した語学の天才司馬凌海の祖父は囲碁を極める為に江戸へ留学した経歴があるなど、江戸時代後期の佐渡では割とこういった趣味人が多くいたようです。

柴田収蔵は更に幕末の蘭学界の巨人とも言うべき伊東玄朴について蘭方医学を学びます。伊東玄朴はシーボルトの弟子ですので、柴田収蔵はシーボルトの孫弟子と言うことができます。更には彼の趣味は地理学に及び幕府の天文方の学者である山路諧孝に弟子入りして本格的に地理学を学びます。宿根木に戻った柴田収蔵は世界地図の製作を始めます。彼が製作した世界地図は中国明の時代のカトリック宣教師マテオ・リッチが製作した世界地図「坤輿万国全図」を参考に作られますが、マテオ・リッチの世界地図は日本列島がかなり不正確に描かれているなど曖昧な点も多く、彼はより正確な形で世界地図を製作します。

柴田収蔵が完成させた世界地図が江戸で出版されたのが黒船来航の1年前です。筆者も一度博物館で実物を見たことがありますが、ぱっと見現在の世界地図と遜色なく、これだけのものが宿根木で製作されたのかと思うと畏敬の念すら覚えます。この世界地図によって柴田収蔵は幕府に召し抱えられ、東京大学の前身とも言うべき蕃書調所の教授になります。

15話でも紹介されていますが、この世界地図にはロンドンやパリなどの世界の大都市と同じくらい大きな文字で「シュクネギ」と書かれており、柴田収蔵の人柄を感じることができます。ちなみに柴田収蔵は晩年にもう一度世界地図を製作していますが、佐渡に行ったことが無い筆者は15話に登場する長者ヶ橋のレプリカがどちらの地図なのかを把握できておりません。最初に作られた世界地図は太平洋を「寧海」と記載していますが、二度目に作られた世界地図では太平洋を「大東洋」と記載しています。寧海はマテオ・リッチが作った造語ですので、二度目の製作時はかなりオリジナル色を強めた形にしたのでしょう。

 

 

【13話】

・北前船

民俗博物館で紹介される北前船について解説します。ここで展示されている北前船は1858年に建造されたものの復元と紹介されています。1858年といえば前記柴田収蔵が亡くなる1年前ですが、北前船の歴史で見れば最晩年に位置します。この時期は既に国産で蒸気船が建造されており、蒸気船や西洋帆船の台頭により北前船はその役目を終えます。明治初期にもギリギリ現役の船もあったようですが、明治維新の丁度10年前の建造となると、やはり最晩年と言えるでしょう。

そもそも北前船というのは江戸幕府が船舶に対して大きな規制をかけたことで成立した、世界船舶史的にもかなり特殊な船です。普通帆船は複数の帆をそれぞれ機能させることで操船するのですが、江戸時代の船舶の大きな特徴は帆が一枚しか張られていないことにあります。

江戸幕府は幕府に対して反乱を起こす勢力を常に恐れ、あらゆる手段で諸藩の武力や経済力にデバフをかける努力をするのですが、その中の一つが船舶に対する規制です。将来幕府に反乱を起こす勢力が海から攻めてくることを考え、船舶の操船能力と大きさを法で規制してしまうのです。操船能力でいうと帆は一枚しか張ってはならないというもので、これでは船を走らせるのは困難である為、一枚の帆をひたすら大きくするしかありません。帆を大きくすると当然風の影響を受けすぎるケースがあり、帆柱も折れやすく、メタセンタ(ざっくり言うと船の重心のこと)が高くなり、転覆の危険性も増します。帆による操船が難しい為舵を大きいものにしてなんとか操船性を保ってはいますが、大きい舵は波浪によって破壊される危険性が高く、いずれにしても機能性と言う点において大きく劣っているのが江戸時代の船舶の特徴と言えるでしょう。このような船が使われていた為、江戸時代は海難事故が非常に多く、航海の際は極力沖には出ずに常に陸が見える辺りを航行していました。このやり方なら海が時化ったとき、すぐに近くの港に避難することができます。ちなみに安政条約で新潟港が外国に対して開港しますが、新潟港は周囲に山がなく、悪天候時に風を防げないという欠点がありました。近くを通る船が嵐を避けて新潟港に避難しようとしても、港内でも転覆する危険を孕んでいました。一方、新潟港からほど近い港である佐渡の小木港や両津港は嵐が来たときに港内の船舶を守れるだけの地形が備わっていました。風に弱い北前船が佐渡に寄港するようになった背景にはこのような事情もあります。

また、幕府が規制した船の大きさについてですが、具体的には五百石以上の大きさの船の建造を禁止していました。北前船のような商船だけは例外的に五百石を越えても黙認してもらえ、13話に登場する幸栄丸が千石なのはそういう事情によるものです。恐らく北前船で最も大きいクラスのものは千五百石船で、蝦夷地貿易や対露外交で活躍した江戸時代の船乗り高田屋嘉兵衛が所有、運用していた辰悦丸なども千五百石船です。

この石という単位は作中でも解説はあるものの、イマイチピンとこないかと思いますので、少し解説を加えます。現在船舶の大きさを示す指標としてはトン数というものが使われています。トン数にも色々ありますが商船の分野では主に総トン数というものが使われています。トンと言っていますが重さではなく体積の単位で、帆船時代に船に積んだ樽の数をトントンと叩いて数えたことが始まりという俗説もあります。現在では国際的に定められたルールによって算出された係数を乗じることで総トン数の計算をします。よりイメージしやすい言い方をするならば、佐渡へ行く時の航路の一つである直江津-小木間を航行する佐渡汽船のカーフェリーこがね丸の総トン数が2483トンです。

一方幸栄丸は千石船です。紗菜の言う通り千石の米を積めるくらいの大きさということですが、この場合、1石≒1トン(総トン数)として近似することができます。従って幸栄丸の総トン数は約1000トンと概算できます。当時は最大クラスの船ではあったものの、現代のカーフェリーと比べると半分以下の大きさということになります。同時に、五百石以上の船の建造を禁止していた江戸幕府の規制がいかに厳しいものであったかもわかります。

 

・ジェットフォイル

同話ではジェットフォイルも登場します。ジェットフォイルで佐渡へ行く場合は新潟-両津間のみの航行である為宿根木へ行くには少し効率が悪いです。

ジェットフォイルは兎に角速いことが特徴で、佐渡汽船のHPによると最大速力は46ノットです。1ノット=1マイル/hで、1マイル=1.8529kmですので、約85km/hです。一般の貨物船が大体14ノット=26km/h、前述のカーフェリーこがね丸が19ノット=35km/h、旧日本海軍最速と言われた駆逐艦島風が40.9ノット=76km/hですので、どれだけ速いかが想像できるかと思います。

速さの秘密は船体が海面から浮遊することで水抵抗を極端に減らしていることにあります。船体抵抗は水抵抗と空気抵抗に大別されますが、割合的には水抵抗が大きく、水抵抗は水と船体との間に生じる摩擦抵抗、水の流れによって生じる渦抵抗、船の航行時に波が発生する時の損失である造波抵抗に分類されます。船体を水面から浮かすことで空気抵抗以外の船体抵抗を大きく削減できることがジェットフォイルの技術的魅力と言えます。

それではジェットフォイルは何故浮遊するのでしょうか。これは船体に翼がついているからです。ジェットフォイルの推進原理は単純で、ディーゼル発電機によって発電した電力で駆動したポンプで海水を吸い上げ、同時に船体後方に噴射することで推力を得て推進しています。走り出した直後は普通の船と同様海水に浸かっているのですが、ある程度速力が出てくると水中の翼の周囲に水の流れができます。翼は飛行機の翼と同じような構造になっており、翼の上面がカーブを描くような形になっています。カーブに沿った流体の流れは流線の間隔が狭くなることで流速が早くなります。水は非粘性、非圧縮流体の為ベルヌーイの定理が適用できます。ベルヌーイの定理はオイラーの運動方程式から導出された流体の単位体積あたりのエネルギー保存則で、流体の圧力と流速の関係を説明することができます。簡単に言うと流体は流速が速くなるほど圧力が下がり、遅くなるほど圧力が上がります。ジェットフォイルの翼は上面のみがカーブを描いている為、上面側を流れる水の速さは速くなり、圧力は低くなります。一方翼の下面は平らですので、流速は変わらず、圧力もそのままです。つまり翼の上面に対して下面にかかる圧力が相対的に高くなります。この圧力差によって翼に上向きの力がはたらき、船体が浮遊するという仕組みです。

今後本作でもし佐渡の外に出る回があれば、是非ジェットフォイルにスポットを当ててもらいたいなと個人的には期待しています。

 

 

【第20話】

・流刑地としての佐渡

佐渡は流刑地としての歴史が長く、記録として残っている最初の例は8世紀初頭まで遡ります。今回は紗菜とときこの会話で具体名が挙がった順徳天皇と日蓮について解説します。

まず順徳天皇は鎌倉幕府設立直後に朝廷が倒幕を企てた、いわゆる承久の乱の参画者の一人で、有名な後鳥羽上皇の息子です。乱後幕府によって佐渡へ配流されます。最も、順徳天皇は乱に先駆けて天皇の座を息子に譲位している為、配流時は上皇ですが、便宜上ここでは順徳天皇という呼び名で統一します。

配流時は25歳で在島21年後に絶食によって命を絶ったと言われています。

一方、日蓮は言うまでもなく日蓮宗の開祖ですが、彼は順徳天皇とは全く別の理由で佐渡へ流されます。

日蓮は『立正安国論』という著書で鎌倉幕府や他宗を痛烈に批判したことで一度伊豆に流罪になりますが、蒙古襲来が現実味を帯びてきたことで更に幕府批判を強め、危うく処刑されそうになりますが、紆余曲折を経て佐渡へ流罪となります。罪名は御成敗式目の第十二条「悪口咎事」の違反ということらしく、今風に言えば誹謗中傷みたいなものです。日蓮は佐渡には3年ほどいただけですが、この3年間に日蓮の後の活動を語る上で欠かせない多くの著作を残しています。

それに比べると前記順徳天皇は21年間の佐渡生活で、正直これといったことをしたわけではありません。順徳天皇は法体であった為、佐渡の人々は彼を僧侶だと思っており、正体を知る人はいなかったようです。佐渡における順徳天皇の直接的な痕跡は彼が葬られた真野に御陵がある程度ですが、間接的な痕跡として二宮神社という神社があります。

二宮神社は佐渡で出生した順徳天皇の次女忠子を祀った神社で、「にくう神社」と読みます。二宮(にくう)とは順徳天皇の次女忠子のことで、長女のことは一宮と呼んでいたようです。

「二宮神社」という文字を見ると多くの人が「にのみや神社」と読むと思います。また日本にある「二宮」と名の付く神社の殆どは普通「にのみや神社」と読みます。神社は各国ごとに格式がつけられており、上から順に一宮(いちのみや)、二宮(にのみや)、三宮(さんのみや)…と呼ばれます。このような呼び方の神社が全国に無数にあり、千葉県の上総一ノ宮や神奈川県の二宮、兵庫県の三宮など、地名になっているケースも多々あります。このような前提知識が多ければ多い程、自信を持って佐渡の二宮神社を「にのみや神社」と読んでしまいますが、全然そんなことはありません。

そんな二宮神社に祀られた順徳天皇の次女忠子ですが、正直何故神社が建てられたのかはよくわかりません。彼女が10歳の時に父の順徳天皇が崩御し、忠子自身も18歳ほどで亡くなっています。忠子自身がどのような人物であったかを伝えるものは何一つないですが、彼女が詠んだとされる和歌が一首だけ残っているほか、二宮神社には彼女の遺髪が祀られているらしく、これらが順徳天皇の存在を間接的に伝える数少ない要素といえます。

二宮神社の場所は同話で紗菜がときこに渡したドーナツが売っているという佐和田から歩こうと思えば歩ける距離ですので、個人的には作中で一瞬でも取り上げられたらいいなと思っています。

 

〇まとめ

以上、「魔法使いロゼの佐渡ライフ」について、歴史分野を中心に解説を行ってきました。筆者は未だに佐渡に行ったことがなく、解説の質としてはあまり高いものではありませんが、作品を読む時の参考にして頂ければ幸いです。

今後もきららフォワード掲載の最新話で解説できる内容があれば随時更新していきたいと思います。

また、拙い内容ではありますが、この記事を通してより多くの方に佐渡ライフの魅力が伝われば筆者にとってこの上ない幸福です。

 

〇その他のきらら作品解説

他作品についても、歴史解説を行っておりますのでよろしければ。

 

・「紡ぐ乙女と大正の月」歴史解説記事↓

 

・「花唄メモワール」歴史解説記事↓

 

 

〇きらら作品聖地巡礼レポート

普段は主に聖地巡礼記事を書いています。併せてご一読頂ければ幸いです。

佐渡もそのうち行きたいです。

 

・「しあわせ鳥見んぐ」聖地巡礼レポ↓

 

 

・「星屑テレパス」聖地巡礼レポ↓

 

 

・「ぼっち・ざ・ろっく!」聖地巡礼レポ(よみうりランド)↓