〇はじめに

まんがタイムきららフォワードにて連載中の「花唄メモワール」は、大正時代の会津を舞台とした、魅力的なキャラクターと美しい風景描写が特徴の素晴らしい作品です。また、歴史学的観点から見ても、確かな歴史考証に基づいてストーリーが進行しており、誠に読み応えがあります。そこで、本作の歴史学的な魅力を深掘りすべく、歴史分野に関する解説を行っていきます。

尚、本記事はネタバレを含みますので是非原作をご一読した上でお読みください。

 

〇会津地方について

前述の通り、本作の舞台は現在の福島県会津若松市です。作中では「花山」という架空の地名で描かれています。

福島県は北海道、岩手県についで3番目に面積が大きく、地理的区分も大きく3つの区域に分かれます。太平洋に面した浜通り、県中部の中通り、そして県西部の会津地方です。福島県と一括りにされてはいますが上記3地方は気候や風土が結構異なり、太平洋側の浜通りは比較的温暖であるのに対して、会津地方はどちらかというと北陸地方に近い気候条件で、作中でも描かれている通り、冬は結構雪が降ります。歴史や風土を見ても、江戸時代に多くの藩が置かれていたこともあって地方によって三者三様です。筆者は浜通りのとある地域の郷土史研究会に所属していますが、研究対象として会津地方が取り上げられることはまずありません。

本作で描かれている歴史や文化はあくまでも会津地方に関するもので、福島県の他の地域のそれとは必ずしも一致しないということを最初に心得ておく必要があるかもしれません。

 

〇各話解説

ここからは各話ごとに解説が必要と判断した部分について解説を行っていきます。

 

【第一唄・第二唄】

・時代背景

主人公の梅が大正時代にタイムスリップするところから物語が始まります。作中で藤野が言っている通り、梅がタイムスリップしたのは大正12年師走、つまり1923年12月です。日本史的に見れば同年9月に関東大震災が発生し国の中枢が大混乱に陥っていたタイミングで、東京の治安は大いに悪化していました。この1923年12月というと治安の悪さは極みに達しており、摂政宮(後の昭和天皇)の暗殺未遂事件が起き、時の山本権兵衛内閣が総辞職に追い込まれるなど、誠に混沌とした時代です。作中では具体的には触れられていませんが、アイリスが一人花山温泉へ送られた理由はこれらの治安悪化が原因なのだろうと想像されます。

更に世界史的に見れば、1923年はアドルフ・ヒトラー率いるナチスがミュンヘン一揆を起こし、ヒトラーが逮捕された年です。このあとヒトラーが獄中で書き上げたのが有名な『我が闘争』です。また、この時期の5年前である1918年に第一次世界大戦が終わり、翌1919年にはベルサイユ体制が成立します。第二唄でアイリスが日本に来たのは4年前、つまり1919年と言っていますので、アイリスの父ジャン・ロベールは大戦の混乱がひと段落したタイミングで来日したということになります。このように歴史的な背景を見てみると、現実に則した物語構成になっていることがわかり、原作者一ノ瀬けい先生の作家としての手腕を感じることができます。また、第一次世界大戦中のフランスで幼少期を過ごし、来日後は関東大震災の惨禍に巻き込まれたと思われるアイリスの境遇を思うと、いくらでもコートレットを食べさせてあげたい気持ちになります。

このように、本作の時代は国内外問わずなかなかに混沌としています。本作は比較的平和に物語が進んでいきますが、このような歴史的背景がわかると、少し違った視点から本作を楽しめるかと思います。

 

【第四唄】

・匂ひおこせよ梅の花

第四唄のサブタイトル、かつ作中で巴枝が梅に言った「東風ふかば匂いおこせよ梅の花」について、一応解説します。

作中ではルビが振られていないので一応補足しておくと、東風は「こち」と読みます。意味はまあ漢字の通りです。

元ネタは平安時代の歌人菅原道真が読んだ「東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」という和歌です。道真は梅が好きで、自宅の庭に梅の木を植えていました。昌泰の変によって道真が大宰府へ左遷されることになった際、道真が庭の梅の木を惜しんで詠んだのがこの歌です。この梅の木が道真を慕って遥か大宰府の道真屋敷まで飛んでいったという伝説と共に有名な歌です。

第四唄は一度令和に戻った梅が藤野の運命を変える為に再び大正に戻る決意を固める回ですが、恐らく藤野の為に大正時代へ向かう梅と道真の元へ飛んだ梅の木を重ねているのでしょう。また、決意を固めるやすぐに行動しようとした梅に対して咄嗟に東風吹かばの歌を投げかける巴枝の教養と詩的センスにも脱帽する思いです。これらの事情を理解したうえで第四唄の最後で藤野と再会した梅が「へへっ 来ちゃった」と言っているのを見ると、道真の梅の木も同じくらいのテンション感で大宰府まで飛んだのかなと思えてきます。

 

【第六唄】

・虚言を言う事はなりませぬ

作中でイネが壊してしまった髪留めについて女将に打ち明けるシーンにて、女将がイネに言った言葉です。これは会津藩の武士の子供が幼少期に教わる「什の掟」と呼ばれるものの一節です。

会津藩の武家の子供は6歳になると地域の子供たちから成る「什(じゅう)」と呼ばれる組織に入ります。什に所属する子供は9歳が最年長で、最年長勢の中から選ばれた子が什長となり他の子供たちを教育するという、子供が自治権を持つことを特徴とする集団です。ここで教えられる掟が「○○はなりませぬ」という構文からなる7か条の教えで、女将がイネに諭した「虚言を言う事はなりませぬ」もその一つです。

ちなみに会津藩における什のような子供による教育機関は江戸時代以前の日本には西日本を中心に多く存在していました。呼び方は地域によって様々で、若衆宿、若衆組、若い衆組、若者組、若連、若組、若者連中、若勢、二才組などといった具合です。基本的には西日本の漁村に多い風習なのですが、藩の組織として採用している例としては会津藩の什以外には薩摩藩の郷中と呼ばれる組織が挙げられます。ただ、会津藩の什が6歳から9歳までの組織であるのに対して薩摩藩の郷中は今で言うと大体中学から高校生くらいの歳の子供の組織であるという点で異なっています。全国的に見るとむしろ郷中くらいの年齢によって組織されているケースが圧倒的に多く、会津藩の什は上記で列挙した集団に比べると少し特異かもしれません。什は藩校に入校する前段階として存在する組織ですので、その点も他の例とは異なります。

更にもう少しだけ突っ込んだことになりますが、上記のような子供による自治組織というのは東南アジアやポリネシアの島々などといった地域の風習で、中国や朝鮮には見られない風習です。前述の通り日本では西日本の漁村に多い風習であることから、日本人の先祖の一派はポリネシアから来たとする文化人類学的な仮説を提唱する学者が学術的な根拠としてしばしば多用します。

また、これらの風習は東日本にも無くはないですが、西日本に比べると圧倒的に少なく、まして漁村ですらない会津にこのような習慣があったというのは少し興味深い話ではあります。

 

【第八唄】

・会津藩士族

和奏の登場がきっかけで桐喜が過去を語るシーンにて、二人とも元藩の士族出身であることが明かされています。ここでいう士族とは旧幕時代に武士だった家のことです。また、元藩というのは、まあ十中八九会津藩のことと思われます。

会津は廃藩置県直後は若松県でしたが、作中のこの時期には既に福島県に編入されていましたので、桐喜や和奏の家は福島県士族という肩書になります。

福島県士族の中でも旧会津藩の士族について解説します。会津藩は薩長を主力とした官軍を相手に凄惨な籠城戦をやり、ついには降伏します。これがいわゆる会津戦争で詳細は後述しますが、この敗戦の結果、会津藩は藩主、藩士もろとも下北半島に転封させられます。転封というよりは殆ど配流に近く、戊辰戦争を通じて藩丸ごと配流といった例は会津藩しかありません。会津藩に与えられた土地は3万石と言われており、斗南藩と呼ばれます。

会津藩の碌高は23万石です。多めに見積もると、家臣を1人持つのには30石必要です。実際に幕末の会津藩に何人の武士がいたのかは知りませんが、単純計算で7700人くらいということになります(恐らく実際はもう少し少ないですが)。この7700人が元々の碌高の13%にすぎないたった3万石の土地を与えられても、到底生活できるものではありません。更に、3万石とは言いますが、実際の斗南藩は火山灰層の土地柄であることと極寒地帯であった為に米が獲れず、実収入は7000石程度だったと言われています。当時の斗南藩主は生後間もない松平容大でしたが、この幼い藩主の衣服には虱が湧くほどに生活環境は悪かったといいます。藩主一家でもこのような惨状ですので、他の藩士たちの生活は想像を絶するものがあります。例えば、のちに陸軍大将となる芝五郎はこの頃は10歳くらいだったと思いますが、食べ物が無くて草の根を食べ、寝床もないので氷点下20℃の極寒の中で筵を張って寝たと語っています。会津藩は藩士の家格の上下に大きな差が無いことが特徴ですが、その中でも芝家はいたって平均的な家格でしたので、ほかの藩士たちも大なり小なり似たような暮らしをしていたと想像されます。結局明治4年の廃藩置県後、藩主(藩知事)が東京に住むようになってからは多くの旧藩士族は会津に帰ります。

桐喜や和奏の親以上の代は恐らく斗南藩時代を経験しているはずですので、彼女たちが大正の世で学校に通えているというのは誠に感慨深いものがあります。

 

 

【第十唄】

・吉野竹子

幼馴染の巴枝と瓜二つの女性吉野竹子に出会った梅が大いに驚くところから始まる第十唄ですが、竹子に驚いたのは梅だけではありません。筆者もまた物凄く驚きました。ただ、驚いたのは容姿についてではなく名前についてです。幕末、会津戦争において官軍と戦い壮絶な討死を遂げた会津藩の女性中野竹子に名前がそっくりだったからです。吉野竹子が中野竹子をモデルにしているかどうかはあまり詮索しても仕方がないので、とりあえず中野竹子について触れておきます。

中野竹子は会津藩士の娘として生まれ、会津戦争では婦女隊という女性のみからなる戦闘集団を組織し戦った人物です。戦乱期や革命期には度々英雄的な女性指導者が登場します。英仏百年戦争末期に登場したジャンヌ・ダルクはよく知られていますし、19世紀に起きたインドの大反乱ではハズラト・マハルやラクシュミー・バーイーなどの女性指導者が登場しています。ロシア革命の母と呼ばれたエカテリーナ・ブレシコブレシコフスカヤなどもこれに該当するかもしれません。日本においても、安土桃山時代に九州統一を企てる島津家の軍勢相手に籠城戦を戦い抜いた妙林尼がいます。

しかし、中野竹子は上記のような英雄的な女性指導者というよりは、多分に悲劇的な印象を受けます。会津戦争は白虎隊などで知られるように藩士の家族は女子供でも武器を取って戦ったまさに総力戦ともいうべき戦争でした。中野竹子のように戦場で討死した女性もいれば、若松城に籠城して戦った女性もいます。更には籠城に参加すると兵糧の無駄になってしまうといって、一家揃って自刃したという例もあります。会津戦争の詳細については後述しますが、この戦いの象徴的存在として中野竹子の名前が度々あがります。中野竹子が討死したのは20歳とか22歳とか言われていますので、もし彼女がこのような運命に合わなければ、本作のこの時期には75歳くらいで生きていたかもしれません。

 

【第十二唄】

・万博

絵ろうそく回です。ろうそく店の娘灯子が花山(会津)のろうそくについて語るシーンで、明治初期の万博へ出品されたと言っています。恥ずかしながら筆者は会津ろうそくについては無知ですので、代わりに万博について少し解説します。

19世紀はまさに万博の世紀と言っても過言ではなく、1851年のロンドン万博を皮切りに15回も開催されています。特に有名なのは1867年のパリ万博でしょう。

産業革命によって広がった産業に対する一種の信仰を政治経済思想として確立させたフランス人サン=シモンの理念を実現させようと、第二帝政下のフランスにおいて、ナポレオン3世とその右腕ミシェル・シュヴァリエによって企画され空前絶後の大成功を収めた万博です。1867年というと明治維新の前年で、この万博には江戸幕府に加え、薩摩藩なども参加していました。幕府の随員には会津藩士も含まれていましたが、作中で灯子が言及している万博はこの6年後に開催されるウィーン万博です。

ウィーンはオーストリア=ハンガリー帝国の首都ですが、前述したパリ万博の前年に起きた普墺戦争の結果1867年に成立するのがオーストリア=ハンガリー帝国ですので、よくもまあ6年で万博をやるまでになったなーと感心します。更にパリ万博を成功させた帝政フランスはわずか4年後に普仏戦争に敗れて帝政は崩壊してしまいますので、この時期のヨーロッパは誠にせわしないです。

明治維新によって成立した日本の新政府が初めて公式に参加したのがこのウィーン万博で、会津のろうそくはここに出品されます。ウィーン万博で紹介された日本文化は主にヨーロッパの美術に大きな影響を与え、ヨーロッパにおける日本ブームであるいわゆるジャポニスムのきっかけの一つとも言われています。

 

【第十三唄・第十四唄】

・若松城と会津戦争

第十三唄のラストで、花山城(若松城)の話によって梅が未来人であることが竹子にバレます。この時竹子が語っているのがこの項でも再三出てきた会津戦争です。これについて解説していきます。

会津戦争の舞台にして、会津松平家23万石の城下町である会津若松は、その昔は黒川という地名でした。この黒川の地に若松城(鶴ヶ城とも呼ばれます)を築城したのは織田信長の婿、蒲生氏郷です。信長の婿であることに加え、聡明で武勇にも秀でていたことから豊臣秀吉に優遇され、伊勢松阪を貰い、その後当時黒川といった会津若松に封じられます。ちなみに伊勢松阪は現在の三重県松阪市で、黒川は現在の福島県会津若松市ですが、この「松阪」も「若松」も共に氏郷が命名した名前です。氏郷の故郷には「若松の森」と呼ばれる場所があり、そこから取ったと言われています。

その後会津若松の領主は何度か変わって、二代将軍徳川秀忠の子保科正之が会津藩主となり、やがて保科家が松平姓を名乗ることを許されることで会津松平家が成立します。この松平家の第九代当主松平容保が前記氏郷が築城した若松城に籠城して官軍と戦ったのが会津戦争です。

一般的には黒船来航から明治維新までの時期を幕末と呼びます。幕末の政治の中心は京都です。京都ではいわゆる尊王攘夷の志士たちが集い、大変治安が悪くなります。当時京都には朝廷を監視する目的で置かれた京都所司代と治安維持部隊としては京都町奉行が置かれていましたが、これらではとても治安を維持できないくらいになります。細かい事情は省きますが、京都の治安維持の目的で新たに創設された「京都守護職」という役職に就任したのが会津藩主松平容保でした。この時期、明治維新の6年前で容保は28歳という若さです。京都守護職の特徴は軍隊を擁しているという点です。江戸時代を通じて京都は幕府の命で参勤交代の大名行列も通れない場所でしたが、治安維持部隊として、容保は2000人の軍勢を率いて入京します。

容保入京の翌年、京都で倒幕活動を画策していた長州藩を駆逐すべく、薩摩藩と会津藩が秘密裏に同盟を結び、会津藩2000人の軍事力を背景にクーデターを起こします。この結果長州藩は没落し、翌年には池田屋事件、蛤御門の変と会津藩は長州藩を完膚なきまでに叩きのめします。池田屋事件もそうですが、新選組が会津藩のお抱えという扱いになってからは、京都の尊王攘夷派の浪士たちは問答無用で斬られ、蛤御門の変後には長州藩士も公然と斬られるようになります。当然長州藩士たちは会津藩を憎み、先のクーデターで会津藩の相棒だった薩摩藩も合わせて「薩賊会奸」と呼んで激しく憎悪します。

ところがまあ色々あって長州藩はその薩賊と手を組むことになり、本格的に倒幕の陰謀がうずめくようになります。このような状況で十五代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返還するという非常手段に出ます。いわゆる大政奉還ですが、実は大政が奉還されたのとまさに同じ日に薩摩藩は朝廷から倒幕の詔を得る手続きを済ませるのです。筆者の記憶が正しければ、わずか3時間ほど大政奉還の方が早かった為、薩長側からすれば直前で倒すべき幕府が消えてしまうのです。

徳川慶喜の見事な点は、政権を朝廷に返しただけで、全国三百諸侯と言われる大名の中で最大の領土、さらに東洋最強と言われた海軍も、依然として徳川家が握っていたという点です。薩長はそれらを全て朝廷に明け渡すよう迫ります。このような緊迫した状況で、ついに旧幕府と薩長は京都近郊の鳥羽、伏見で開戦します。この鳥羽伏見の戦いから翌年の箱館戦争までの一連の戦争を戊辰戦争と呼びます。

元々薩長は徳川慶喜を殺すことで革命を成し遂げようと考えていましたが、肝心の慶喜自身が朝敵(天皇の敵)になることを恐れて恭順という態度を取り続け、さっさと謹慎してしまいます。ターゲットである慶喜が降参してしまった為、薩長は代わりのターゲットとして会津藩を選びます。特に会津藩から散々な目にあわされ続けた長州藩としては、今こそ「会奸」への恨みを晴らす時だと思ったわけです。

このような背景で薩長を主力とした官軍が大挙若松城下に押し寄せ、竹子が言ったように日に2500発の砲弾を受け、女子供まで武器を取り戦うという、日本史上類を見ない凄惨な戦いが繰り広げられることになります。

会津藩が降伏してからは前述の通りですが、若松城については、1873年に発布されたいわゆる廃城令によって廃城と決まり、取り壊されます。ちなみに廃城令は陸軍の軍用財産として残す城と残さない城を分けた結果ですので、会津戦争で大破したことが直接的原因というわけではありません。尚、若松城の天守が再建されるのは第二次世界大戦後のことです。

 

【第十六唄】

・会津の領主について

第十五唄から登場したヴェロニカと出会うことで勉強に精を出すようになったアイリスが竹子の授業を真面目に聞くシーンがありましたので、この授業で扱っていると思われる会津の領主について解説します。

会津若松がかつては黒川という地名であったことは先述の通りですが、古くから黒川の地を領していたのは芦名氏という一族です。鎌倉時代から土着していたと言われており、室町時代まで長くこの地を支配していましたが、伊達政宗(伊達家十七代当主)によって滅ぼされます。

その後は伊達政宗の支配下に入りますが、豊臣秀吉のいわゆる奥州仕置によって黒川には新たに蒲生氏郷が入部します。氏郷は若松城を築くなど、会津若松の基礎を固めましたが、子の秀行の代で転封になり、代わりに上杉景勝が入部します。

景勝の先代上杉謙信は戦の前には陣中で大量の米を炊かせて士卒に食べさせるということをしました。この出陣前の米をお発ち飯といいますが、この風習は景勝の時代にも健在であったことから、当時会津若松では「侠(おとこ)見たけりゃ会津においで 会津若松お発ち飯」という俚謡が流行ったと言われています。

上杉景勝は徳川家康に対抗する為に若松城の修繕などをして家康を挑発しますが、家康が会津攻めを決意したことがそのまま関ヶ原の戦いに繋がっていきます。

関ヶ原の戦いで家康と敵対したことで、戦後上杉氏の所領から会津は削られます。そしてその後会津には再び蒲生氏が入部します。しかし蒲生氏の時代も長くは続かず、1627年に加藤嘉明が新たな会津藩主となります。加藤嘉明は築城の名手で、正岡子規が「春や昔 十五万石の 城下かな」と詠んだあの伊予松山城(愛媛県松山市)を築城した人です。しかしこの加藤家の治世も長くは続きません。

1643年、先ほどから散々こすってきた会津松平家の祖、保科正之が会津に入部します。前述の通り、正之は将軍徳川秀忠の子で、当時の将軍家光の弟にあたります。いわゆる庶子だったことから高遠藩主保科正光に預けられ、やがて養子になって高遠藩主となります。その後山形藩主を経て会津藩主となります。

正之は大変有能な藩主でしたが、彼が残した十五か条からなる家訓がそのまま会津藩の藩是となり、会津藩の優れた武勇と規律、更には学問水準の高さに繋がります。特に会津藩士は藩主よりも徳川家に忠誠を誓うべきであるという他藩では類を見ない教えは、前述した幕末の会津藩の立場と行動に直結することになります。そして正之の子正容の時に、徳川家の一族にのみ許される葵の御紋と松平姓を賜り、会津松平氏として幕末まで会津若松を領することになります。

 

〇まとめ

以上、「花唄メモワール」について解説をしてきました。大正時代を扱っている作品にもかかわらず、肝心の大正時代に関する解説が殆どできていないのは痛恨の極みで、自らの無力さを痛感しております。最も、本作は時代背景をかなり克明に活写していますので、基本的にはこんな記事を読まずとも十二分に楽しめる作品となっていますが。

それはともかく、このような素晴らしい作品を毎月届けて下さる原作者の一ノ瀬けい先生にこの場を借りて御礼申し上げます。今後の展開を固唾を飲んで見守っております。

また、今後のきららフォワードで掲載される最新話で解説できる内容があれば随時更新していきたいと思っています。

拙い記事ではありますが、この記事が「花唄メモワール」の今後の発展の一助となれば幸いです。

 

〇その他のきらら作品解説

他作品の歴史解説記事も書いていますのでよろしければ。

 

・「魔法使いロゼの佐渡ライフ」歴史解説記事↓

 

・「紡ぐ乙女と大正の月」歴史解説記事↓

 

 

 

〇きらら作品聖地巡礼レポート

聖地巡礼記事をよく書きます。恥ずかしながら会津は未だに行ったことがないので、行った時は記事書きます。

 

・「しあわせ鳥見んぐ」聖地巡礼レポ↓

 

・「星屑テレパス」聖地巡礼レポ↓

 

・「ぼっち・ざ・ろっく!」聖地巡礼レポ(よみうりランド)↓