康有為 | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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康有為

<康有為>


康有為(1858~1927年)は,中国の清朝末期から中華民国初期の思想家・政治家である。


清朝末期の19世紀半ば以降,中国は西洋列強の衝撃による激動を経験していくが,康有為は中国のそのような時代に広東省で官僚の家に生まれた。幼少の頃から聡明で,熱心に勉強し文章もつくったという。

彼はまず儒学を修めたが,それだけでは満足せずに道教や仏教をも学び,また20歳過ぎに香港や上海を訪れて西洋の情報に触れてヨーロッパの思想や制度に強い関心を抱くようになった。30歳の頃には,政治的な実践を重んじる公羊学を信奉するようになる。そして,1895年,清朝が日清戦争に敗れて下関条約を結んだ年に,彼は科挙に合格して官吏の道に入った。


康有為は,西洋列強の進出を受けて清朝が動揺していくなかで,強い危機感を抱くとともに政治改革の必要性を痛感し,そこで立憲君主制への体制変革を目指す変法運動を展開した。

彼は儒学の開祖である孔子は社会改革者であったとする斬新な儒学の解釈を打ち出し,これを理論的根拠として変法を提唱した。彼は北京や上海などで勉強会を創立し,梁啓超ら同志とともに雑誌や新聞を発行するなど,変法の宣伝活動を精力的に行った。

また,有為はすでに科挙受験の頃から皇帝への改革を請願する上申を繰り返し行っていたが,1898年,ついに皇帝側近の仲介もあって光緒帝に対して政見を直接説明する機会を与えられた。ここで彼の説得は光緒帝の心を動かし,皇帝によって戊戌の変法と呼ばれる画期的な政治改革が開始されることになった。


ところがこのような改革は西太后ら保守派の反発を招き,まもなく戊戌の政変が起こって光緒帝は幽閉され,変法派は逮捕され,変法運動はあえなく挫折する。康有為は危うく難を逃れて亡命し,その後も海外で清朝の維持を前提とした立憲君主政の樹立を目指して活動を続行するが,しだいに清朝を打倒して共和国を樹立することを狙う革命派の勢力が強くなっていった。1911年からの辛亥革命によって清朝が滅んで中華民国が成立すると彼は帰国し,なおも清朝の復活を訴えて運動を続けたもののもはや人々の支持を得られず,政治の表舞台から姿を消したまま1927年に死去した。

彼は独自の思想と魅力的な政策を打ち立ててそれを信じて活動を続けたが,初めは急進的であるとして受け入れられず,後には時代遅れとして顧みられなかった。こうして康有為は激動の時代のなかで時機を得られずに挫折することになったが,しかし,中国の将来についての一つの有力な可能性を力強く提示して歴史と記憶に残る政治家となった。